異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
いつからでしょうか。
みんながおかしくなったのは。
たぶん、兄が勇者に選ばれた、その日からだったのだと思います。
お兄様は、物語に出てくる勇者様のような人でした。
明るくて、強くて、誰にでも優しくて、私が転びそうになればすぐに手を差し伸べてくれる人でした。
庭で花冠を作っていると、下手くそだなと笑いながら、最後には一緒に作ってくれる人でした。
私にとってお兄様は、絵本の中の勇者様よりもずっと近くにいる、本物の勇者様でした。
だから、お兄様が勇者に選ばれた時、私は誇らしかったのです。
私のお兄様は、やっぱり特別な人だったのだと。誰かを守るために生まれてきた人だったのだと。
そう信じていました。
けれど、お兄様は王都へ行ってから、それほど時間が経たないうちに、二度と帰ってこなくなりました。
その日から、キャンウィング家は少しずつ変わっていきました。
お父様は、私たちと食卓を囲む時間が減りました。
以前は私の話を最後まで聞いてくれたのに、いつからか書類ばかりを見るようになりました。
私が声をかけても、返事はしてくれます。
けれど、その目は私ではなく、もっと遠くにある何かを見ているようでした。
お母様は、庭を眺める時間が増えました。
花を見ているのではありません。空を見ているのでもありません。
ただ、何も考えないように、何も思い出さないように、そこに座っているだけでした。
私は、何度も声をかけました。
お母様、今日は庭の花が綺麗です。
お父様が忙しそうです。
マリーが新しいお茶を淹れてくれました。
けれど、お母様は微笑むだけでした。
優しい笑みでした。でも、その奥に私はいませんでした。
マリーを除いて、誰も私を見ていないように感じていました。
そんな時、屋敷にやってきたのが、執事のミシェルでした。
彼は不思議な人でした。
いつも穏やかに笑っていて、必要な時には必ずそばにいてくれて、私が何も言わなくても欲しい言葉をくれました。
お父様が疲れている時は、仕事の流れを整えました。お母様が庭から戻れない時は、静かに毛布をかけました。
私が寂しい時は、何も聞かずに紅茶を淹れてくれました。
ミシェルが来てから、屋敷は少しだけ元に戻ったように見えました。
お父様は、また私の話を聞いてくれるようになりました。お母様も、時々私を見て笑ってくれるようになりました。
食卓に、少しだけ会話が戻りました。
だから私は、ミシェルに感謝していました。
壊れかけていた家族を、彼がつなぎ止めてくれたのだと思っていました。
それだけではありません。
私は、きっとミシェルに憧れていました。
いつも落ち着いていて、何でも知っていて、誰よりも大人で。
私が泣きそうな時、必ず一番優しい言葉をくれる人。
それが恋と呼べるものだったのかは、今でも分かりません。
けれど、幼い私にとって、ミシェルは確かに特別な人でした。
でも。
そんな幸せも、全部壊れてしまいました。
お母様の病。朝の来ない空。魔王の槍。お父様の死。そして、私の存在。
尊敬していたお父様は、私の目の前で民衆に殺されました。
私を守ってくれていたはずの人たちは、お父様を悪魔と呼びました。
この街を愛していたお父様を、許されない悪だと決めつけました。
お父様が倒れても、誰も手を差し伸べませんでした。
お母様は、今も目を覚ましません。お兄様は帰ってきません。お父様も、もういません。
そして私は、私がずっと恐れていたものだったようです。
人を苦しめる悪い魔族。
お伽話の中で勇者様に倒されるべき存在。
誰かの幸せを壊すために生まれてきたもの。
もし、そうなのだとしたら。
全部、私のせいなのでしょうか。
私がいたから、お父様は槍を使ったのでしょうか。
私がいたから、お母様は苦しんでいるのでしょうか。
私がいたから、民衆はお父様を殺したのでしょうか。
私がいなければ。
お兄様は帰ってきたのでしょうか。
お父様は笑っていたのでしょうか。
お母様は庭ではなく、私を見てくれたのでしょうか。
私がいなければ、幸せは続いていたのでしょうか。
誰か、教えてください。
私は、何なのですか。
私は、人間なのですか。
それとも、殺されるべき魔族なのですか。
◇
「エリシアお嬢様」
意識が朦朧とする中で顔を上げると、ミシェルがいました。
広場の端。
人々の声が少し遠く聞こえる場所。
レン様とサラ様は、まだ民衆を駅へ誘導しようとしていました。
マリーは私のそばで、血の流れる額を布で押さえてくれています。
そんな中、ミシェルだけが、いつも通りの穏やかな顔でそこに立っていました。
「ミシェル……」
その顔を見た瞬間、胸の奥にあった何かが緩みました。
この人なら、何か言ってくれる。
私を立たせる言葉をくれる。
昔から、そうでした。
私が寂しい時。私が泣きそうな時。私が何も分からなくなった時。
ミシェルは、いつも正しい言葉をくれました。
「ごめんなさい」
私は呟きました。
「私は、何もできませんでした」
「エリシアお嬢様」
ミシェルは優しく膝を折り、私と目線を合わせました。
「あなたは何も悪くないのです」
その言葉に、目の奥が熱くなりました。
「悪いのは、この状況を作り出した黒幕です。あなたは、ただ巻き込まれただけの被害者なのです」
「ミシェル……ありがとうございます」
その言葉は、あまりにも欲しかった言葉でした。
私は悪くない。私は被害者。私のせいではない。
そう言ってほしかった。
誰かに、そう決めてほしかった。
「ですが、お嬢様。このままでは、お身体がもちません」
ミシェルは懐から小さなカプセルを取り出しました。
透明な殻の中に、淡く濁った液体が入っている。
薬というには少し奇妙で、けれどミシェルが持っていると、不思議と疑う気持ちは起きませんでした。
「これは精神を落ち着かせる薬です。以前、奥様にもお出ししていたものと同じものです」
「お母様に……?」
「はい。今のお嬢様には、少し休息が必要です。お気持ちが落ち着けば、もう一度立ち上がれるでしょう」
流石の私でも分かります。
薬を飲んだからといって、心の傷が消えるわけではありません。
勇気が湧いてくるわけでもありません。
でも。
ミシェルは、私を励ましてくれているのだと思いました。
昔からそうでした。
彼は、私が立てなくなった時、いつも手を差し伸べてくれた。
なら、これもきっと同じ。私を立たせるための、小さな支えなのだと。
「ミシェル、心遣いに感謝します」
私はカプセルを受け取りました。
「お嬢様!」
マリーが少しだけ不安そうに声を上げました。
「大丈夫です、マリー」
私は微笑もうとしました。
うまく笑えたかは分かりません。
「ミシェルが、くれたものですから」
そして、カプセルを飲み込みました。
味はありませんでした。
苦くも、甘くも、冷たくも、熱くもない。
ただ、喉の奥を通った瞬間、胸の内側に妙な重さが落ちたような気がしました。
けれど、不思議と安心もしました。
私はまだ、誰かに助けてもらえる。
まだ、完全に一人になったわけではない。
そう思ったのです。
「もう一度、頑張ってみます」
私がそう言うと、ミシェルは静かに微笑みました。
「その前に、お嬢様」
「はい?」
「なぜ奥様が病に倒れたのか、知りたくはありませんか」
私は瞬きをしました。
「え……?」
耳が、言葉を拒んだような気がしました。
「あなた、知っているの?」
「ええ、もちろん」
ミシェルは穏やかに答えました。
「奥様が病に倒れたのは、私のせいですから」
何を言われたのか、すぐには理解できませんでした。
言葉は聞こえました。
意味も分かるはずでした。
けれど、それをミシェルの口から聞いたという事実を、私の心が受け入れませんでした。
「……何を、言っているの?」
「本来の計画では、奥様に私の術を受けてもらう予定でした。細菌を媒介にして、精神へ干渉する。そうして、我々にとって都合の良い子を産んでいただく」
「やめて」
「ですが、その前にお嬢様が生まれてしまった」
「やめてください」
「お嬢様は、我々の術を跳ね除けた。おそらく、あなたの中にあった勇者の性質が邪魔をしたのでしょう」
ミシェルの声は優しかった。
優しいまま、私の世界を壊していきました。
「その反動を受けたのは、奥様でした。あなたが跳ね除けたものを、奥様の身体が受けてしまった」
「嘘……」
「嘘ではありません」
「嘘です」
「なら、なぜ奥様は急に病に倒れたのでしょう」
言葉が出ませんでした。
「お嬢様。あなたが悪いのではありません」
ミシェルは、先ほどと同じように優しく言いました。
「ただ、あなたが存在したことで、奥様は壊れたのです」
胸の奥で、何かが軋みました。
「その後も、何度か試みました。盗賊。魔物。事故。直接手を下すのは避けましたが、お嬢様が消えてくだされば、計画はもっと簡単だった」
「……」
「ですが、そのたびに邪魔が入った。忌々しい勇者。雷窮のジャン。そして、あなたを守ろうとする領主」
ミシェルは小さくため息をつきました。
「おかげで、領主から槍を譲渡させるという面倒な手順まで必要になりました。それすら、あなたのお父様は最後に妨害した」
「お父様は……」
「ええ。あなたを守るために死にました」
ミシェルは微笑みました。
「悲しむでしょうね」
その声は、今まで聞いたどんな言葉よりも冷たかった。
「あなたを守るために死んだのに、結局、何も守れなかったと知ったら」
「やめて……」
「お嬢様。あなたが悪いのではありません」
また同じ言葉。
でも、今度は救いではありませんでした。
「ただ、あなたがいるから、こうなった」
「やめて、ミシェル」
「あなたがいなければ、奥様は壊れなかった」
「やめて」
「あなたがいなければ、領主は死ななかった」
「お願い」
「あなたがいなければ、マリーも苦しまなかった」
「ミシェル!」
私は叫ぼうとしました。
けれど、声はかすれました。
身体が重い。指先に力が入らない。視界が揺れる。
壁に寄りかからなければ、立っていられませんでした。
「ああ、本当に馬鹿なお嬢様ですね」
ミシェルの口調が変わりました。
優しさの形だけを残した、冷たい声でした。
「疑うことも知らない純粋無垢。あの厄介な領主と違って、あなたは隙だらけでした」
「どうして……」
涙が滲みます。
「どうして、そんなことを言うの……」
「お嬢様」
ミシェルは私を見下ろしました。
「私は、最初からあなたが大嫌いでした」
息が止まりました。
お父様の死よりも。民衆の石よりも。魔族と呼ばれたことよりも。
その言葉は、深く刺さりました。
ミシェルは、私を見てくれていると思っていました。
壊れかけていた家族を、つなぎ止めてくれた人だと思っていました。
私が寂しい時、そばにいてくれた人だと思っていました。
私に興味がないことくらい、本当は分かっていました。
彼にとって私は、守るべき主家の娘でしかない。
幼い私の憧れなど、届くはずもない。
それでも。
裏切り者だとは、思っていませんでした。
「ミシェル……」
「その顔です」
ミシェルは楽しそうに言いました。
「あなたのそういう顔が、見たかった」
「やめてください!」
マリーの声が響きました。
彼女は震えながらも、私の前に立ちました。
「ミシェル、あなた……お嬢様に何をしたのですか」
「マリー」
私は手を伸ばそうとしました。
「来ては、だめ……」
けれど、マリーは退きませんでした。
いつもそうでした。
私が泣いた時、マリーはそばにいてくれました。
私が寂しい時、マリーは話を聞いてくれました。
誰も私を見てくれないと思っていた時も、マリーだけは私を見てくれました。
そのマリーが、今も私の前に立っています。
「お嬢様から離れなさい」
マリーの声は震えていました。
戦える人ではありません。剣を持っているわけでもありません。
ミシェルに敵うはずがありません。
それでも、彼女は一歩も退きませんでした。
「あなたに命令する権利はありませんよ、マリー」
「あります」
マリーは言いました。
「私は、お嬢様の侍女です」
ミシェルが、少しだけ笑いました。
「そうですか」
次の瞬間、銀色の線が走りました。
あまりにも速く、あまりにも静かでした。
マリーの身体が揺れました。
「……お嬢、様」
彼女の口元から、赤いものがこぼれます。
私は叫ぼうとしました。けれど声が出ませんでした。
身体が動きません。
マリーが倒れます。私の方へ、ゆっくりと。
私は受け止めようとしました。
けれど腕に力が入らず、彼女の身体は私の足元に崩れ落ちました。
「マリー……?」
返事はありません。
彼女の手が、私の裾を掴んでいました。
最後まで、私を守ろうとしているみたいでした。
「あーあ」
ミシェルが、心底つまらなそうに言いました。
「お嬢様。また、あなたのせいで死んでしまいましたね」
何かが、切れました。
みんな、いなくなっていく。
私のせいで。
私がいるから。
私が、ここにいるから。
もう、何もいりません。
何も見たくありません。
何も聞きたくありません。
誰にも責められたくありません。
誰かを失いたくありません。
守れないなら。
信じてもらえないなら。
私がいるだけで誰かが壊れるなら。
全部。
全部、なくなってしまえばいい。
その瞬間、私の中で何かが目を覚ましました。
それは怒りではありませんでした。
悲しみでもありませんでした。
憎しみですらありませんでした。
もっと冷たく、もっと黒く、もっと底のないもの。
私の身体の奥から、邪気が溢れ出す。
血管を伝い、骨を軋ませ、心臓を黒く染めていく。
額の傷から流れた血が、黒い靄に触れて蒸発する。
空を覆っていた影すら、邪気に呑まれた。
広場のざわめきが止まる。
誰かが悲鳴を上げた。
ミシェルは、その光景を見て満足そうに微笑みました。
「作戦を遂行させるとしましょう」
彼は倒れたマリーを一瞥し、そして森の方へ視線を向けました。
「次は、あの者たちを消すとしましょう」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
いつもより、筆が乗っているように感じた方。私は決して、キャラを虐めたいわけではないです。何なら、ハッピーエンド大好きです。でもまあ、なぜかいつもより饒舌なのは不思議ですね。
それはさておき、彼は人を煽るのが大好きです。なぜなら、彼は優位にいるとついつい調子に乗ってしまいます。おちゃめだね。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。