異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
天使とは、人を救うものだと思っていた。
白い翼を広げ、光の輪を頭上に浮かべ、迷える者に手を差し伸べる。
絵本に出てくる天使とは、そういうものだった。
けれど、今、俺の目の前に立っているものは違った。
白い翼はある。
頭上には、まばゆい光の輪が浮かんでいる。
傷ついたはずの身体は癒え、黒い執事服の背からは、場違いなほど美しい羽が伸びていた。
だが、それは救いではなかった。
夜の森の中に降り立ったその姿は、あまりにも神々しかった。
だからこそ、気持ち悪かった。
ミシェルという男の中身を知ってしまった今、その白さは清らかさではなく、罪を覆い隠すための布のように見えた。
天使には、もう一つの意味がある。
愚かな人間に裁きを与えるもの。
神に背く者を討つもの。
世界の理を乱す者を焼き払うもの。
目の前のミシェルは、まさにそれだった。
「な、なんだよ……これ」
俺は呆然と呟いた。
声が震えていた。
情けないと思ったが、止められなかった。
ミシェルは、悪魔の方が似合う男だった。
人の心に入り込み、信頼を壊し、優しい言葉で相手を縛り、最後に一番深いところを踏みにじる。
そんな男が、なぜ天使の姿をしている。
どうして、こんなにも美しい姿をしていられる。
俺の戸惑いを見て、ミシェルは静かに微笑んだ。
「我々ノアーク教団は、神を殺すため、神の力を研究してきました」
その声は、相変わらず丁寧だった。
森の闇に浮かぶ白い姿。
頭上の輪が淡く輝き、羽の一枚一枚が光を返している。
「神の力。その最も分かりやすい形が、勇者です」
「勇者……」
「ええ。かつて勇者ゼインは、自らの力を七つに分け、遺物へ注ぎ込んだ。その遺物は、勇者の美徳を象徴する力を持つ。勇気、守護、叡智、不屈、自由、意志、そして希望」
ミシェルは、自慢するように手を持ち上げた。
その指には、光を帯びた指輪がはまっている。
「我々は、その遺物を研究し、再現することに成功したのですよ」
「それが……マギア」
「正確には模造品です。本物には遠く及びません。けれど、扱い方次第では十分に神の残滓を再現できる」
ミシェルは指輪を見せつけるように、ゆっくりとこちらへ向けた。
「このマギアの元となった力は、希望」
希望。
人を立ち上がらせるもの。
絶望の底でも、まだ先があると思わせるもの。
誰かを信じる力。明日を信じる力。
それを、ミシェルが持っている。
その事実だけで、胸の奥が気持ち悪くなった。
「このマギアがあれば、私は希望を支配できる」
指輪が光った。
次の瞬間、ミシェルの手の中に光が集まっていく。
白く、眩しく、神聖にすら見える光だった。
その光は細く伸び、刃の形を取り、やがて一本の剣となった。
光り輝く剣。
見た目だけなら、勇者が持つべき武器に見えた。
けれど、それを握っているのはミシェルだった。
「とはいえ、私一人の希望の想いでは、これが限界ですけどね」
ミシェルは軽く剣を振った。
その軌跡だけで、空気が裂ける。
「では、死になさい」
言葉と同時に、光の剣が振り下ろされた。
「っ!」
俺は反射的に横へ転がった。
身体は限界だった。
槍に魔想を吸われ、手足には力が入らない。
それでも、死にたくないという本能だけが身体を動かした。
光の剣が、俺のいた場所へ落ちる。
音は、ほとんどなかった。
けれど、地面が切れていた。
豆腐でも切るように、土が裂け、岩が割れ、根が断ち切られている。
剣が触れた場所だけが、最初からそこに何もなかったみたいに綺麗に断たれていた。
あれに当たれば死ぬ。
腕が飛ぶとか、腹を裂かれるとか、そういう次元ではない。
身体そのものが、何の抵抗もなく分かたれる。
理解した瞬間、恐怖が全身を支配した。
膝が震える。喉が乾く。
息がうまく吸えなくなる。
「ははははは」
ミシェルが笑った。
「所詮は子供。死闘をしたこともないのでしょう」
「うる、さい……」
言い返したつもりだった。
けれど、声は小さく、弱かった。
その時、ミシェルの頭上に、無数の矢が降り注いだ。
師匠だ。
いつの間にか木々の影へ移動していた師匠が、残った魔想を振り絞り、矢を放っていた。
だが、ミシェルは上を見ることすらしなかった。
光の剣を、ただ一振りする。
それだけで、降り注いだ矢はすべて消し飛んだ。
木の葉が舞う。
砕けた矢の残骸が、火の粉のように夜の中へ散っていく。
「まじかよ」
師匠の声が、森の奥から聞こえた。
「そいつは、さすがにズルすぎやしないか」
声は軽かった。
いつもの師匠らしい調子だった。
けれど、俺には分かった。
師匠はもう、限界に近い。
さっきの魔術で、魔想をほとんど使い果たしていた。
息は荒く、気配も乱れている。
普段なら絶対に悟らせないような疲労が、今は隠しきれていない。
ミシェルは、ゆっくりと森の一点へ視線を向けた。
「さて、元Sランク冒険者、雷窮のジャン」
白い翼が、わずかに揺れた。
「ここから、どう切り抜けるのですか」
師匠は答えなかった。森が沈黙する。
滝の音だけが、遠くから響いていた。
その音が、やけに大きく聞こえる。
「ついに追い詰めることができましたよ。あなたをね」
ミシェルの声は、満足そうだった。
追い詰めた。
そう言われて、俺は奥歯を噛んだ。
確かにそうだった。
俺たちは、追い詰められていた。
俺は槍を使った反動でまともに動けない。
師匠は魔想を使い果たし、ミシェルにはマギアという切り札がある。
街には魔物が迫っている。エリシアたちの状況も分からない。
どう考えても、詰んでいた。
それでも、師匠は笑った。
「ルークス!」
突然、師匠が俺の名前を叫んだ。
「な、なんだよ!」
「俺は、不甲斐ない師匠だっただろう」
その声は、妙に澄んでいた。
冗談のようで、冗談ではない。
軽口のようで、どこか遠くを見ている。
「修行らしい修行はしてねぇ。口は悪い。面倒くさがりだ。お前にまともなことを教えた覚えも少ねぇ」
「何、言ってんだよ……」
「それに、俺はこの男に勝てねぇ」
心臓が、嫌な音を立てた。
「師匠?」
「全盛期なら分からねぇ。いや、全盛期でも、勝てたかどうかは怪しいな」
師匠は、かかか、と笑った。
いつもの笑い方だった。
でも、今はそれが怖かった。
「やめろよ」
俺は小さく言った。
「そういうの、やめろよ」
師匠は俺の言葉を聞かなかった。
「だがな、ルーク」
木々の奥で、雷が小さく瞬いた。
「お前を守る約束は、必ず守る」
その瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「それが、俺に残された役割だ」
「ほう」
ミシェルが笑う。
「勝てないというのに、どう守るのですかね」
「簡単な話だ」
師匠の身体に、雷が走った。
青白い光が、森の闇を細く裂く。
義足の金具が光り、弓の縁が白く輝き、師匠の輪郭がぶれる。
「勝てない時は、逃げるのが定番だろ」
次の瞬間、師匠が消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
雷を纏った師匠が、一瞬で俺のそばまで来ていた。
「わっ――」
「掴まれよ」
そう言うより早く、師匠は俺の身体を抱きかかえた。
「うわああああああ!」
視界が流れる。
木々が線になる。地面が遠ざかる。
空気が顔に叩きつけられ、舌を噛みそうになる。
俺は反射的に師匠の服を掴んだ。
雷が森を駆け抜ける。
枝を避け、幹を蹴り、湿った土を弾き、師匠は滝の方へ向かって走った。
義足のはずの足が、まるで雷そのもののように地面を叩く。
背後では、ミシェルの気配が追ってきていた。
それでも師匠は止まらなかった。
すぐに、滝の音が大きくなる。
水が落ちる轟音。地面を震わせる低い響き。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
森が開けた。
目の前には、大きな滝があった。
黒い空の下、白い水だけが夜の中で浮かび上がっている。
滝つぼは暗く、底が見えない。
落ちれば、ただでは済まない。
それでも、ミシェルから逃げるには、この先しかなかった。
「な、何すんだよ師匠!」
俺は師匠の腕の中でもがいた。
「逃げたら、あいつが街に戻るだろ!」
師匠は俺を地面に下ろした。
何かを言おうとした俺の頭に、ふわりと何かがかぶせられる。
茶色のハットだった。
師匠がいつもかぶっていた、あの帽子。
「き、急になんだよ」
帽子は、少し大きかった。
俺の目元まで落ちてきて、視界の端を隠す。
煙草と森と、少しだけ雨の匂いがした。
「なあ、ルークス」
師匠は、俺を見ていた。
いつもの軽い笑みではない。
それでも、泣きそうな顔でもなかった。
どこかすっきりした顔だった。
「俺はいつも、生かされてきた」
「何を……」
「逃げて、逃げて、みっともなく生き延びてきた。死ぬべきだった場所で死ねず、守るべきものを守れず、それでも誰かに命を拾われてきた」
滝の音が、師匠の声に重なる。
「運命を託されてきたんだ。俺なんかに、ずっとな」
師匠は、帽子越しに俺の頭を撫でた。
大きな手だった。
乱暴で、雑で、けれど温かい手だった。
「ようやく分かったぜ。俺が何のために生き残ったのか」
「やめろ」
俺の声は震えていた。
「そういうこと言うなよ」
「お前のおかげでな」
「師匠!」
「その時が来たんだよ、ルークス」
その言葉を聞いた瞬間、全身が冷えた。
その時。
まるで、ずっと前から決まっていたみたいな言い方だった。
「冗談よせよ」
俺は師匠の腕を掴んだ。
「合図したら、二人で滝に飛び込むんだろ。そうだろ!」
師匠は笑った。
「さすがは俺の弟子だ。察しがいい」
「だったら――」
「だから、よく聞け」
師匠の視線が、俺の背後へ向いた。
白い光が近づいてくる。
ミシェルだ。
翼を広げたミシェルが、夜の森を滑るように現れた。
光の剣を手に、彼はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「まったく」
ミシェルは呆れたように言った。
「負けそうになると逃げるとは。だから、あなたは何も守れないのですよ」
「かかか」
師匠は笑った。
「そうかもな」
その声に、悔しさはなかった。
「だが、逃げてきたから俺は生き延びた。それは事実だ」
「滝に落ちたところで、私が見逃すとでも思っているのですか」
「いや」
師匠は首を振った。
「思わねぇよ」
そして、俺の肩に手を置いた。
「だが……囮がいれば別だろ」
「な……」
何を言っているのか、理解したくなかった。
「なに言ってんだよ」
俺は師匠の腕を掴む手に力を込めた。
「一緒に逃げるって言っただろ」
「言ったな」
「だったら!」
「悪いな、ルーク」
師匠の手が、俺の胸を押した。
「俺は、嘘つきなんだ」
「師匠――!」
「今がその時なんだ」
次の瞬間、俺の身体が宙へ投げ出された。
滝の音が、一気に近づく。
足元がなくなる。視界が傾く。
師匠の姿が遠ざかっていく。
帽子が目元に落ちて、視界が半分隠れた。
それでも、師匠の顔だけは見えた。
笑っていた。
いつもみたいに、腹立つくらい軽く。
馬鹿野郎。
一緒に逃げるって言っただろ。
何かっこつけてんだよ。俺を守るとか言って、勝手に決めるなよ。
俺はまだ、何も返せてない。何も教わりきってない。
あんたに勝ってもいない。
「師匠おおおおおおお!」
叫びは、滝の轟音に呑まれた。
水が背中に叩きつけられる。
冷たい。痛い。
息ができない。
俺の身体は、黒い滝つぼへ落ちていった。
◇
ミシェルは、静かに拍手を送った。
ぱち、ぱち、ぱち。
夜の森に、その乾いた音が妙に響いた。
「素晴らしい」
ミシェルは微笑んでいた。
「自己犠牲とはね。実に美しい。実に愚かだ」
「かかか」
ジャンは滝の前に立っていた。
背後には、ルークスが落ちていった滝。
前には、天使の姿をしたミシェル。
逃げ場はない。
けれど、ジャンの顔に恐怖はなかった。
「俺も最後くらい、善行ってやつをしておきたくてな」
「無駄ですよ」
ミシェルは光の剣を持ち上げた。
「あなたを殺し、すぐにあの子供も殺す」
「だろうな」
ジャンは、肩をすくめた。
「お前はそういう男だ」
不思議と、心は静かだった。
ジャンはずっと、自分の人生をろくでもないものだと思っていた。
何をやっても、うまくいかなかった。守るべきものを守れなかった。
逃げて、逃げて、みっともなく生き延びて、そのたびに誰かの死を背負った。
妻も。仕えるべき主も。
かつて共に戦った仲間も。
自分だけが生き残るたび、胸の奥に重りが増えていった。
レンには申し訳ないと思う。
あの馬鹿弟子にも、まだ教えたいことはあった。
サラにも、エリシアにも、ガードナーにも、街の連中にも、悪いことをしたと思う。
そして、ルークス。
嘘をついて悪かったな。
一緒に逃げるなんて、最初からできるわけがなかった。
あいつは賢いから、正直に言えばきっと止めただろう。
だから騙した。師匠失格だ。
だが、それでいい。
弟子を生かすためなら、師匠は少しくらい汚くていい。
ジャンは息を吐いた。
胸の奥に、雷が灯る。
今まで何度も、雷を矢に宿してきた。
何度も雷を腕に流し、足に流し、弓に流し、敵を射抜いてきた。
だが、今は違う。
雷が、外にあるのではない。自分の中にある。
血液の中を走る。骨の隙間で鳴る。
心臓の鼓動と重なり、魂そのものが青白く発光していく。
「ああ、そうだな」
ジャンは呟いた。
「お前には、全盛期の俺でも勝てたか分からねぇ」
ミシェルがわずかに目を細める。
「ですが?」
「だが、今の俺は――」
ジャンの全身に、雷が纏わりついた。
義足の金具が白く焼ける。指先が光へほどける。
血の匂いが、焦げた空気へ変わっていく。
弓と腕の境目が曖昧になり、肉体そのものが雷へ近づいていく。
「その時を迎えた」
最後の最後に、ようやく届いた。
誰かを倒すための魔術ではない。名声を得るための魔術でもない。
逃げ続けてきた男が、たった一人を逃がすために辿り着いた魔術の極地。
独想魔術。
己だけの願い。己だけの世界。己だけの終わり。
ジャンは笑った。
「全解――When My Life Fades」
その言葉と同時に、ジャンの肉体が青白い雷へとほどけていった。
血も。骨も。肉も。痛みも。後悔も。
生き残ってしまった罪悪感さえも。
すべてが、一筋の雷へ変わっていく。
「今の俺なら」
ジャンの声が、雷鳴に混じった。
「どこまでも行ける気がするぜ」
ミシェルの顔が、初めて明確に歪んだ。
「どこまでも面倒な男だ!」
二人がぶつかった。
その瞬間、夜の森が昼のように白く染まった。
雷が走る。
光の剣が振るわれる。
白い翼が裂け、青い雷が空を焼く。
木々が根元から吹き飛び、岩が砕け、滝の水が一瞬だけ逆流したように跳ね上がる。
戦いは長くはなかった。
けれど、その短い時間の中で、森の一部が消し飛んだ。
ジャンは速かった。速いという言葉では足りない。
彼はもう、人ではなかった。雷そのものだった。
ミシェルが光の剣を振るより早く、ジャンはその背後へ回る。
翼を裂き、腕を焼き、足を奪い、再生する暇さえ与えずに雷で叩き込む。
ミシェルのマギアが希望の光で傷を塞ごうとする。
だが、その再生ごと雷が焼いた。
「がああああああ!」
ミシェルが叫ぶ。
その声を聞きながら、ジャンはさらに加速した。
時間はない。
自分の肉体が、もう形を保てないことは分かっていた。
雷になるということは、人間であることを捨てるということだ。
一秒ごとに、命が削れる。一瞬ごとに、帰る場所が消えていく。
それでも、ジャンは止まらなかった。
ルークスが落ちた滝の方へ、ミシェルを行かせない。
キャンウィングへ戻らせない。
槍を、あいつの手に渡したままにしない。
それだけを考えていた。
最後の激突が起きた。
青い雷と、白い光が真正面からぶつかり合う。
音が消えた。
次の瞬間、衝撃が森を吹き飛ばした。
◇
マギアの制限時間と、ジャンの独想魔術の終わりは、ほとんど同時に訪れた。
白い光が薄れていく。
青い雷もまた、夜の闇へほどけていく。
焼け焦げた地面の中央で、ミシェルは膝をついていた。
全身に傷があった。
白い翼は片方が大きく裂け、光の輪は揺らぎ、執事服は見る影もなく焼け焦げている。
それでも、ミシェルは生きていた。
そして、その手にはロンギヌスの槍が握られていた。
「私の力をもってしても……」
ミシェルの声は震えていた。
「殺しきれない、だと……?」
ふざけるな。
そう吐き捨てるように、彼は地面を睨んだ。
ジャンの姿は、もうなかった。
ただ、夜の森に青白い火花がわずかに漂っていた。
それは蛍のように小さく、風に吹かれて消えていく。
ミシェルは、奥歯を噛みしめた。
「残りの力をあの子供に使えば、目的を果たせなくなる」
彼は滝の方を見た。
そこにルークスの姿はない。
黒い水音だけが、相変わらず響いている。
「命拾いしましたね、ルークス君」
ミシェルの影が、足元から広がっていく。
傷ついた天使の姿が、闇に沈む。
「ですが、次はありません」
そう言い残し、ミシェルは森の影へ消えた。
あとには、焼けた森と、折れた木々と、滝の音だけが残った。
そして、青白い雷の名残が一つ。
誰にも見られないまま、夜の中へ静かに溶けていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
その時、その時こそが彼が追い求めた瞬間。彼はその時に誰かのために動く。守られるわけでもない。自らの使命を果たすために動く。今までの彼ができなかった夢。それを果たすとき彼の独想魔術に必要なピースである自己犠牲が生まれる。そのため、ルークスと共闘しても完成せず、二人とも死にます。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。