異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件 作:berunarudo
俺は勇者だ。
洗礼の日、俺は勇者であると認められた。
その言葉を聞いた時、胸の奥が燃えるように熱くなった。
昔から、勇者に憧れていた。
絵本の中に出てくる勇者様。邪悪な魔族を倒し、世界を救い、弱き者に手を差し伸べ、どれだけ絶望的な状況でも決して諦めない存在。
俺も、そんなふうになりたかった。
強くて、真っすぐで、誰かに頼られて、誰かを守れる男に。
サラにかっこいいところを見せられる男に。
ルークスに負けないくらい、胸を張れる男に。
だけど、勇者になることと、勇者であり続けることは違った。
勇者だと言われた瞬間から、周りの目が変わった。
騎士たちは俺を見る。民衆は俺を見る。
サラも、エリシアも、俺を見る。
みんなが、俺なら何とかしてくれると信じている。
その視線が、こんなにも重いものだなんて知らなかった。
俺は勇者だ。
なのに、町を救えずにいた。
師匠とルークスに任された役目。
街に残り、サラやエリシアを守り、民衆を駅へ誘導する。
それが、俺に託された仕事だった。
ルークスは師匠と一緒に森へ向かった。ガードナーさんも街のために動いた。
エリシアは父親を失ったばかりなのに、領主の娘として立とうとしていた。
サラは傷ついた人を癒やし続けていた。
なのに俺は、ただ声を張り上げることしかできなかった。
「こっちだ! 駅の方へ逃げろ!」
何度も叫んだ。何度も人々を誘導した。
騎士たちと一緒に道を作り、押し合う民衆を落ち着かせようとした。
けれど、人はそう簡単には動かない。
誰かが泣く。誰かが怒鳴る。
誰かが転び、誰かがそれを踏みそうになる。
子どもの泣き声と、女の悲鳴と、騎士の怒号が混ざり合い、広場は一つの大きな混乱になっていた。
その中心で、俺は剣を握っていた。
勇者の剣ではない。ただの剣だ。
それでも、俺が握れば少しだけ光る。
勇者の痣が反応し、俺の身体の奥から熱が湧き上がる。
でも、それだけだった。
それだけでは、混乱する人々を救えなかった。
その時だった。
広場に満ちていた邪気が、膨れ上がった。
最初は、地面の下で何かが蠢いたような気がした。
石畳の隙間から、黒紫の靄が噴き出す。それは霧ではなかった。煙でもなかった。
触れたものの温度を奪い、光を濁らせ、そこにあるはずの影さえ飲み込んでいく、粘ついた悪意そのものだった。
広場の端に立つ建物が歪む。
街灯の光が、一つ、また一つと潰されるように消えていく。
逃げようとしていた民衆が足を止め、騎士たちが剣を構え、サラが息を呑む音が聞こえた。
空を覆っていた影すら、その邪気に呑まれていく。
まるで、夜よりも濃い闇が生まれようとしていた。
次の瞬間、空が軋んだ。
見上げると、黒い空に一本の亀裂が走っていた。
雷ではない。雲が裂けたのでもない。
空そのものが、内側から引き裂かれていた。
黒い裂け目の縁から、赤紫の光が漏れる。
ひび割れは音もなく広がり、まるで世界そのものが悲鳴を上げる前に、痛みを堪えているようだった。
そこから、何かが落ちてくる。
最初に見えたのは、巨大な爪だった。
次に、夜よりも黒い鱗。幾重にも重なった角。
大気を押し潰すほどの翼。
裂けた空の向こうから、巨大な邪竜が産み落とされるように姿を現した。
それは飛来したのではない。
世界の傷口から、災厄が生まれ落ちたのだ。
邪竜が顎を開いた。
赤く濁った眼が、広場を見下ろす。
黒紫の邪気がその身にまとわりつき、石畳が割れ、瓦礫が浮き上がり、周囲の建物が悲鳴を上げるように軋んだ。
誰も動けなかった。俺も、動けなかった。
こんなもの、絵本にも出てこない。
魔族。魔物。ドラゴン。
言葉なら知っている。
けれど、目の前にいるそれは、そういう名前で片づけていいものではなかった。
災害だった。
邪竜の口元に、黒紫の光が集まる。
「まずい!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、ブレスが広場へ向かって放たれた。
考えるより先に、身体が動いた。
守らなければ。それだけだった。
俺は剣を前に突き出し、勇者の痣へ意識を集中させた。
何をどうすればいいのかなんて分からない。
呪文もない。技の名前もない。
ただ、俺の後ろには民衆がいた。サラがいた。エリシアがいた。騎士たちがいた。
だから、守らなければならなかった。
「うおおおおおおお!」
剣から光が広がる。
金色の光が半透明の壁となり、俺たちの前に展開された。
ブレスがぶつかる。腕が軋む。
足元の石畳が砕け、膝が折れそうになる。
熱い。重い。怖い。
それでも、俺は剣を下ろさなかった。
光の壁がきしみ、黒紫のブレスが左右へ裂けていく。
周囲の建物の壁が焼け、広場の噴水が砕け、水が蒸発して白い煙を上げる。
やがて、ブレスが途切れた。
俺は肩で息をした。
守れた。そう思った。
けれど、戦いは終わらなかった。
邪竜が翼を広げる。その風圧だけで、人々が吹き飛ばされる。
騎士たちが盾を構えて前へ出た。
だが、爪が振るわれるたびに、一人、また一人と倒れていく。
「治癒を!」
サラの声が響いた。
彼女の手から白い光が広がり、倒れた騎士たちを包んでいく。
けれど、傷が深すぎた。聖魔術でも塞ぎきれない傷があった。
血が止まらない者もいた。目を開けたまま、動かなくなる者もいた。
サラの顔が青ざめていく。
それでも彼女は、手を止めなかった。
俺は邪竜へ斬りかかった。
何度も、何度も。
剣を振るう。光を叩きつける。
勇者の痣が熱を持つ。
けれど、届かない。
邪竜の鱗は硬く、剣は弾かれる。
光の斬撃は邪気に飲み込まれる。
足を狙っても、尾に弾き飛ばされる。
翼を狙っても、黒い靄が盾のように広がる。
勝てない。
その言葉が、何度も頭をよぎった。
なあ、ルークス。
俺はどうすればいい。
いつだって、お前は俺に正しい道を教えてくれた。
サラが嫌がっている時も、森へ行く時も、師匠に挑む時も。
俺が突っ走って、間違えそうになった時、お前は面倒くさそうな顔をしながらも止めてくれた。
でも、今ここにお前はいない。
俺が決めなきゃいけない。
俺が、勇者だから。
剣を握る手の力が、少しだけ弱くなった。
その一瞬を、邪竜は見逃さなかった。
巨大な尾が横から襲いかかる。
「ぐあっ!」
身体が吹き飛んだ。
地面に叩きつけられ、何度も転がる。
肺の中の空気が全部抜け、視界が白く弾けた。
遠くで誰かが俺の名前を呼んでいる。
声がぼやける。音が遠い。身体が動かない。
「レン!」
頬に温かい手が触れた。
「レン、しっかりしなさい!」
「さ……サラ……?」
目を開けると、サラがいた。
額には汗が浮かび、青い髪は乱れている。
服には血がついていた。
それが自分の血なのか、誰かを治療した時についたものなのか、分からなかった。
「俺は……どうなって……」
「ドラゴンに吹き飛ばされたのよ」
「あいつは……何なんだよ」
「分からないわ」
サラは、はっきりと言った。
「でも、やるしかないのよ」
「俺に……勝てるか?」
情けない声だった。
自分でも分かった。勇者が言う言葉ではない。
みんなを守るはずの男が、言っていい言葉ではない。
でも、口から出てしまった。
サラは俺を見つめた。
泣きそうな顔ではなかった。
怒っている顔でもなかった。
ただ、まっすぐだった。
「あんたは勇者でしょ」
その言葉が、胸に刺さった。
「勝てるかどうかじゃない」
サラは続けた。
「助けるんでしょ」
「助ける……」
「聞こえないの?」
サラが、邪竜を見た。
「あの子、まだあなたを呼んでる」
その瞬間だった。
小さな声が聞こえた。
広場の喧騒の中で。邪竜の咆哮の奥で。
崩れる建物の音と、人々の悲鳴の隙間から。
小さな、小さな声が聞こえた。
「……殺して」
息が止まった。
「私を殺して……お願い、勇者様……」
確かに聞こえた。
この声は。
「エリシア……?」
森で聞いた時と同じだった。
盗賊に襲われ、助けを求めていた声。
レン様は私の勇者様です、と笑っていた声。
領主の娘として立とうと、震えながらも前を向いていた声。
あの邪竜の中に、エリシアがいる。
殺してほしいと願いながら。
それでも、助けを求めている。
どうして。なぜ。何があった。
疑問はいくつも浮かんだ。
けれど、それよりも先に身体が動いた。
剣を持つ手に、力が戻る。
「任せろ」
俺は立ち上がった。
勇者の痣が熱を持つ。
腕に刻まれたその印が、俺の心臓と共鳴するように強く輝いた。
「俺は、お前を殺さない」
剣を構える。
「俺が、お前を救う」
地面を蹴った。邪竜の尾が迫る。
俺は跳躍して回避し、そのまま尾の上へ着地した。
鱗は黒く、滑りやすく、触れているだけで足の裏から邪気が染み込んでくるようだった。
それでも、走る。
尾から背へ。背から首へ。
邪竜の身体を駆け上がる。
黒い靄が何度も俺を振り落とそうとする。
翼が揺れ、身体が傾き、足元が崩れる。
それでも、止まらない。
頭部が見えた。
赤く濁った眼が、俺を睨む。
「聖破斬!」
剣に光を集め、頭へ向けて振り下ろす。
だが、光は邪気に飲み込まれた。
刃は頭の鱗に刺さったものの、深くは入らない。
次の瞬間、黒い衝撃が爆ぜ、俺の身体は吹き飛ばされた。
「くそっ!」
空中で体勢を立て直し、地面に剣を突き立てる。
石畳を削りながら、何とか着地した。
「刺さりきらなかった……」
「勇者殿!」
声をかけてきたのは、騎士団長だった。
鎧は傷だらけで、額から血を流している。
それでも、剣を握る手は震えていなかった。
「奴を倒せますか」
「分からない」
俺は正直に答えた。
勝てるなんて、簡単には言えなかった。
さっきまで本当に怖かった。
今でも怖い。
でも。
「でも、俺は必ず奴を救う」
騎士団長は、一瞬だけ俺を見た。
そして、頷いた。
「分かりました」
彼は剣を掲げた。
「おい、お前ら!」
周囲の騎士たちが、傷だらけの身体で顔を上げる。
「勇者殿を援護しろ! 我々では奴に致命傷を与えられん! だが、道を作ることはできる!」
「はい!」
騎士たちが動いた。
盾を構える者。槍を投げる者。負傷者を下がらせる者。
サラの治癒を受けた者が、歯を食いしばって再び立ち上がる。
俺一人ではなかった。
みんなが、戦っていた。
俺は勇者だ。
でも、勇者だけで世界を救うわけじゃない。
きっと、こういうことなのだ。
騎士たちが邪竜の注意を引く。
サラが倒れた者を癒やす。
俺はその隙を突いて、光の斬撃を叩き込む。
一度では足りない。
二度でも足りない。
何度も、何度も斬った。
騎士たちの数は徐々に減っていく。
俺の出力も落ちていく。
勇者の痣の熱が、痛みに変わっていく。
それでも、邪竜の邪気も確かに減っていた。
黒紫の靄が薄くなっている。鱗の隙間に、白い光が走っている。
中にいるエリシアの声が、少しずつ近くなっている気がした。
いける。
このままなら、届く。
「みんな、下がれ!」
俺は叫んだ。
剣を空へ向ける。
全身の力を、すべて剣へ流し込む。
勇者の痣が焼けるように熱い。
腕が裂けそうだ。胸の奥が痛い。
でも、止めない。
エリシアを救う。そう決めた。
剣から伸びる光が、空へ向かって鋭く伸びていく。
「聖……滅……」
邪竜が咆哮する。
俺は歯を食いしばり、剣を振り下ろした。
「斬!」
光が、広場を裂いた。
巨大な斬撃が邪竜の身体を貫く。
黒い鱗に亀裂が走り、邪気が光に焼かれ、邪竜の巨体が大きくのけぞった。
次の瞬間、邪竜の身体全体にヒビが入る。
黒い殻が砕けていく。
角が割れ、翼が崩れ、尾が霧のようにほどける。
邪気が悲鳴のような音を立てながら散っていった。
「やった……のか……?」
誰かが呟いた。
邪竜の身体が砕け、広場に煙が広がった。
俺は剣を支えにして、何とか立っていた。
膝が笑っている。腕が上がらない。
それでも、目を逸らせなかった。
煙が晴れていく。
その先に、エリシアがいた。
でも、俺の知っているエリシアとは違っていた。
幼い少女のような姿ではない。
背は伸び、顔立ちは大人びている。
金色だった髪は、雪のように白く変わっていた。
頭には二本の角。背中の辺りからは、大きな尾が伸びている。
絵本に出てくる、魔族の姿だった。
勇者が倒すべき敵。人々を苦しめる悪。
そう教えられてきたものの姿。
俺は一瞬、足を止めた。
でも、本当に一瞬だけだった。
角があった。尾があった。髪の色も変わっていた。
姿は、まるで魔族だった。
それでも、俺にはエリシアにしか見えなかった。
「エリシア!」
俺は駆け寄った。
倒れそうになった彼女の身体を抱きとめる。
想像していたよりも軽かった。
さっきまで邪竜だったなんて信じられないほど、彼女の身体は震えていた。
「大丈夫か、エリシア」
俺の声に、エリシアの瞼がゆっくりと開いた。
赤紫に濁った瞳。
けれど、その奥には確かに、あの時のエリシアがいた。
「申し訳……ございません……レン様……」
「いいんだ」
俺は彼女を強く抱えた。
「何があった」
「ミシェルが……裏切りました……」
エリシアの声は弱々しかった。
「私に……カプセルを……それから、マリーが……」
言葉が途切れる。
エリシアの目から涙がこぼれた。
「私のせいで……街が……」
「違う」
俺はすぐに言った。
「これはミシェルのせいだ」
エリシアに街の惨状を見せないよう、俺はそっと身体の向きを変えた。
広場はひどい有様だった。
石畳は割れ、建物は崩れ、騎士たちは傷つき、逃げ遅れた人々の泣き声が聞こえる。
全部を守れたわけではない。
それでも、エリシアにそれを背負わせたくなかった。
少なくとも今だけは。
その時、一つの影が広場に落ちた。
俺は顔を上げた。黒い影が揺れ、人の形を取る。
ミシェルだった。
「はぁ……」
ミシェルは、疲れたように息を吐いた。
だが、その顔には笑みがあった。
「あなたは、本当に期待通りに動いてくれる」
「ミシェル……!」
剣を握ろうとした。
だが、手に力が入らない。
さっきの一撃で、俺の身体は限界だった。
「勇者であるあなたなら、ドラゴンを倒せるはずだと思っていました」
「なにを……言ってる」
「おかげで、貴重なデータが取れました。魔族化した対象を、勇者の力でどこまで浄化できるのか。実に興味深い結果です」
「ふざけるな!」
俺は叫んだ。
「なぜ裏切った! 何が目的なんだ!」
「私だって、何度も同じ説明をするつもりはありませんよ」
「何度も……?」
嫌な予感がした。
ミシェルは、俺を見て笑った。
その笑みは、今まで見たどんな表情よりも不気味だった。
「ああ、失敬」
彼はわざとらしく首を傾げた。
「あなたのご友人にも、同じ説明をしましてね」
心臓が、嫌な音を立てた。
「ルークスと……師匠は……」
声がかすれた。
「どうなった」
ミシェルは、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「ジャン様は消えました」
世界から音が消えた。
「そして、ルークス君は滝へ落ちました」
ミシェルは優しく続ける。
「傷を負い、魔想を使い果たし、立つことも難しかった彼が、夜の滝つぼへ落ちた」
言葉が、ゆっくりと胸に刺さっていく。
「さて」
ミシェルは微笑んだ。
「あの状態で、生きていると思いますか?」
俺の手から、剣が滑り落ちた。
金属が石畳に当たる音が、やけに遠く聞こえた。
サラが何かを叫んでいた。
エリシアが俺の腕の中で震えていた。
騎士たちがミシェルへ剣を向けようとしていた。
街はまだ燃え、誰かが泣いていた。
でも、何も聞こえなかった。
ルークスが。師匠が。
俺に任せてくれた二人が。
勇者の痣から、光が消えていく。
胸の奥にあった熱が、静かに冷えていく。
俺は勇者だ。そのはずだった。
なのに、俺の中で勇者の光は、ゆっくりと眠っていった。
「くは」
暗闇の底で、誰かが笑った。
「ようやくか」
それは、俺の声ではなかった。
けれど、どこか俺の内側から響いているような声だった。
「代われ、小僧」
意識が沈む。深く、深く。
勇者の光が眠ったその奥で、別の何かが目を覚ました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
彼の精神は勇者になっていなかった。だが、今本当の意味で勇者になった。
しかし、この世界はそれで救えるほど甘くない。絶望は彼の中に眠る獅子を呼び覚ますことになる。
特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。