心の聞こえない被告人 ――ラテラーノ司法記録   作:釜石

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第1話:天使は悲しまない

ラテラーノの朝は、光より先に音で訪れる。

 

夜と朝の境目。大聖堂前広場――古くから市民が諸聖徒広場と呼ぶ場所――を囲む列柱の上には、まだ青黒い空が色濃く残っていた。列柱の間に立つ聖徒たちの石像は薄明の中で静かに翼を畳み、広場中央にそびえる古い法碑だけが、磨き上げられた側面に聖都の灯を細く映している。

 

やがて、大聖堂の鐘楼から最初の鐘が鳴った。

低く、重い音だった。

 

響きは大聖堂の正面階段を下り、楕円形の広場を横切って、まだ閉ざされた菓子店の硝子戸をかすかに震わせた。夜勤を終えたパン職人が窯の前で顔を上げ、広場の端に停車していたラテラーノ中庭公証人役場の黒い車両では、座席へ深く身を沈めていた執行人が目を閉じたまま片方の眉を動かす。

 

二つ目の鐘が鳴った。やがて三つ目の音が規則正しく続き、定められた間隔で響きが重なっていく。

眠りの浅い市民たちは、自分の目覚ましよりも正確なその音に合わせて寝返りを打つ。ラテラーノにおいて、鐘は祈りの始まりを告げるだけのものではない。市場の開場、第一庁輪番法廷の開廷、教区学校の始業、国外へ向かう公用車両の出発に至るまで、聖都の一日は鐘の音によって精巧に切り分けられていた。

 

六つ目の鐘が鳴り、その余韻が列柱の奥へと薄れていく。

しかし、次に来るはずの七つ目の音は、なかなか訪れなかった。

 

広場を横切っていた清掃車が速度を落とし、荷車へ菓子箱を積んでいた職人が怪訝そうに手を止める。鐘楼の沈黙は、時間にすればほんの数秒にすぎなかった。それでも、毎朝同じ時刻に同じ響きを聞いてきた市民の耳には、その空白が不自然なほど長く感じられた。

 

遅れて、ようやく七つ目の鐘が鳴った。

ひどく濁った音だった。本来なら高く澄むはずの小鐘が、内側に見えない亀裂を抱えているかのように歪に震えている。そして、その不吉な余韻へ重なるように、全く別の音が広場へ届いた。

 

乾いた破裂音。守護銃の発砲音だった。

 

***

 

ラテラーノ中庭公証人役場の法定執行人、リケーレ・コロンボは、その音を聞いた瞬間にはすでに目を開けていた。

眠っていたわけではない。七つ目の鐘を待ちながら目を休めていただけだと、本人は後に主張している。向かいの席に座っていた同僚は、六つ目の鐘まで彼が小さないびきをかいていた事実について、わざわざ公的記録へ残す価値はないと判断した。

 

リケーレは無言で車両の扉を開けた。

外の空気は冷たく、かすかに甘い。広場脇の工房では、もう砂糖を煮詰め始めているらしい。

 

ラテラーノにおいて、銃声そのものは決して珍しいものではない。

祭日になれば市民が祝砲を撃ち、婚礼の行列が広場を通れば、新郎側が一発、新婦側が二発撃って張り合うこともある。菓子店が新商品を売り出す日に、店主が宣伝代わりの空砲を鳴らし、驚いた向かいの店が対抗して一発返すようなことすらあった。

空へ撃ったつもりの弾丸で街灯を壊せば損害賠償の手続が始まり、祝砲の弾数を申請より一発多く撃てば始末書を書く。銃声はあくまで、管理された日常の一部だった。

 

だからこそ、どこで、いつ、誰が撃つかは厳密に定められている。

とりわけ大聖堂前広場と鐘楼周辺は、礼拝、法廷、公用車両の通行が重なる発砲制限区域に指定されていた。祭礼の祝砲であっても第五庁への事前申請が必要であり、許可された時刻、場所、銃数、使用者は、その日の当直執行人へあらかじめ通知される決まりになっている。

 

だが、今朝の予定表に発砲の申請は一件もなかった。

リケーレは腰の端末を取り出し、素早く画面を確認する。追加申請も、緊急訓練の予定もなく、教皇銃騎士団からの通行通知も届いていない。手元の画面が示す大聖堂前広場は、今も発砲の予定など存在しない、ただの静かな区域のままだった。

 

「鐘楼だな」

リケーレが短い言葉を吐き捨てる。

「祝砲では?」

同僚も慌てて車両を降りながら尋ねた。

「申請がない」

「飛び入りかもしれませんよ」

「この区域で飛び入りをやるような人間は、祝い事より先に公証人役場と顔を合わせることになる」

 

リケーレは鐘楼を見上げた。銃声の種類を聞き分けたわけではない。本来、鳴るはずのない場所で鳴ったからだ。しかも、直前に響いた七つ目の鐘は遅れ、ひどく濁っていた。二つの音は、それぞれ別の異常として片づけるにはあまりにも近すぎた。

 

「応援要請を」

広場を走り出しながら、リケーレは背後の同僚へ告げた。

「発砲一。場所は大聖堂鐘楼。救護班と、第一庁の記録官にも連絡してくれ」

「第一庁まで呼ぶんですか?」

「死者がいなければ、呼びすぎたと俺が始末書を書く。死者がいて呼ばなかったら、君と俺で別々の始末書を書くことになる」

「それは困りますね」

「だろう?」

 

走りながら、リケーレは腰の守護銃へ手を触れた。冷たい金属の感触が手袋越しに伝わってくる。

ラテラーノのサンクタにとって、守護銃は単なる武器ではない。所持者の氏名、免許、整備履歴、発射権限は公証人役場の記録と強固に結びつき、銃身内部に刻まれた源石回路は、登録された使用者のアーツ特性へ厳密に応答する。正当な権限を持たない者が、他人の守護銃を容易に扱うことはできない仕組みになっている。

少なくとも、公的な制度上はそのように説明されていた。そして、制度の説明と現場で起こる現実が必ずしも一致しないことを、リケーレは誰よりもよく知っていた。

 

鐘楼入口の前には、大聖堂鐘楼管理所の職員が二人、すがりつくように立っていた。一人は鍵束を握ったまま青ざめ、もう一人は固く閉ざされた青銅扉を何度も叩いている。

 

「中には何人いる?」

「ぎ、技師が一人です。セラフィーニ技師。それから、ロッシーニ公証官と……補助員の少年が一人」

「ロッシーニ公証官というのは?」

「最高署名院附属文書院の使徒公証官です。古い鐘楼記録の閲覧許可を持っておいででした」

「少年は?」

「少し前に階段を下りたと聞いています。ですが、外へ出たところは誰も見ていません」

 

リケーレは扉へ近づいた。青銅の表面には歴代教皇の紋章と、第一項から第十三項までの公民権を象徴する小さな印章が埋め込まれている。中央に据えられた公証錠は、通常であれば鐘楼管理所と公証人役場、双方の認証がなければ開かない。

だが、その朝、錠は内側から半ば破壊されていた。扉の隙間からは、焼けた金属と源石回路の焦げるような臭いが流れ出してきている。

 

「中で何が起きた?」

リケーレが問うと、鍵束を握った職員が震える声で答えた。

「銃声のあと、誰も応答しません。呼びかけても返事がなくて……それに、さっきまで確かに感じていたはずの気配が、急に消えたんです」

もう一人の職員がすがるように続ける。

「ロッシーニ公証官はご高齢です。倒れている可能性があります。それに、扉の内側から何かが重くぶつかったような音もしました」

 

リケーレは短く息を吐いた。

発砲制限区域における無申請の銃声。内部からの応答はなく、扉は内側から破損している。そして、奥には高齢の公証官が倒れている可能性が高い。これらを単なる事故として片付けるには、あまりにも最悪の条件が揃いすぎていた。

 

「予備審理官の令状を待ちますか」

追いついた同僚が尋ねる。

「待って、中の人間が死んでいたら報告書の言い訳が長くなる。第一項から第十三項までの公民権に基づく緊急救護を優先する」

「開扉の記録はどうします?」

「君が立会人だ。今の時刻を覚えておいてくれ。俺は扉を壊す方をやる」

 

言うが早いか、リケーレは肩を青銅扉へ叩きつけた。一度では開かない。二度目で蝶番が歪み、三度目の衝撃で、扉は重い音を立てて内側へと倒れ込んだ。

 

「七時十三分」

同僚が時計を見て言った。

「覚えておいてくれ。俺はもう忘れた」

「今聞いたばかりでしょう」

「だから君に頼んだんだ」

 

軽口で応じながら、リケーレは鐘楼へ足を踏み入れた。

内部は薄暗かった。螺旋階段の上から朝の光が細い帯となって落ち、壁際には修理用の工具箱、予備の鐘索、音響測定器が並んでいる。そのすべてが、目には見えない細かな振動を続けていた。

鐘はもう鳴っていない。それでも、塔の中には不穏な音の残骸が満ちていた。耳では捉えきれない低い振動が床石を這い、靴底から骨へと昇ってくる。リケーレは螺旋階段を駆け上がったが、一段上るごとに、胸の奥へ正体不明の不快な圧迫感が広がっていった。

 

最初は、銃声を聞いた直後の緊張だと思った。だが、すぐに違うと気づいた。

普段であれば、すぐ後ろを走る同僚の警戒心や、階下に残った職員たちの恐怖が、輪郭の曖昧な熱を伴って肌に触れてくるはずだった。サンクタ同士の共感は、言葉ほど明瞭なものではない。相手の思考そのものを読めるわけではなく、誰が何を考えているのかも正確には分からない。ただ、怒りや喜び、苦痛のような強い感情の波だけが、壁越しに聞こえる音楽のように伝わってくる。

 

今は、その「音楽」が完全に途絶えていた。

同僚はすぐ後ろにいる。足音も、荒い呼吸も聞こえている。それなのに、そこにいるはずの「人間」の感情だけがすっぽりと抜け落ちていた。

 

リケーレは思わず足を止めた。

「どうしました」

同僚の声が背中を叩く。声は聞こえ、言葉の意味も分かる。だが、その声の向こう側に人間が存在していないような、ひどく空虚な感覚があった。

 

「俺が今、面倒な仕事へ巻き込まれて機嫌を悪くしているのは分かるか?」

「いつものことでは?」

「ふざけないで質問に答えてくれ」

同僚の顔から、わずかに浮かんでいた冗談めいた表情が消え去った。

「……何も、感じません」

「俺もだ」

 

二人は無言で顔を見合わせた。

リケーレは聖都の外での任務を通じ、共感の届かない他種族の相手と話すことには慣れていた。サンクタではない者たちは、顔の表情や声のトーン、沈黙の長さから感情を読み取る。それは不便ではあっても、決して異常な事態ではない。

しかし、サンクタ同士の間から突然その繋がりが失われる感覚は、まるで足元にあるはずの床が突然透明になってしまったかのような、強烈な喪失感と恐怖を伴っていた。

 

その時、上階で何かが重く倒れる音が響いた。

「上だ!」

リケーレは感情のない空間を蹴り立てるように、再び螺旋階段を駆け上がった。

 

***

 

 

鐘楼最上階の扉は開け放たれていた。

朝日が窓から差し込み、巨大な鐘の輪郭を黒々と切り取っている。そして、その鐘の下には、一人のサンクタの老人が仰向けに倒れていた。

灰色の法衣の胸元が赤黒く染まり、周囲の床にはおびただしい数の書類が散らばっている。血を吸った紙面には、最高署名院附属文書院の印と、封印記録を示す紫色の紐が確認できた。

 

使徒公証官、マティアス・ロッシーニ。

リケーレは彼の顔を知っていた。公証人役場の記録講習で、何度か直に講義を受けたことがある。決して声を荒らげることはなく、若い執行人の稚拙な質問にも、必要以上と思えるほど丁寧に答えてくれる温和なサンクタの老人だった。講義の終わりに必ず硬い焼き菓子を配るため、内容より菓子の種類を覚えている不真面目な職員も多かった。

今、その穏やかだった口元はわずかに開いたまま、何も語ろうとはしなかった。

 

遺体から数歩離れた場所に、若いサンクタの女が立ち尽くしていた。

アウレリア・セラフィーニ。大聖堂鐘楼管理所の指定された技師服をまとい、胸元には第三庁が発行した鐘律技師資格章が鈍く光っている。美しい金色の髪には白い埃がこびりつき、額から流れた血が頬の脇で乾き始めていた。

 

彼女の右手には、一丁の守護銃が握られていた。

銃口からは、まだ細い煙が立ち上っている。だが、その握り方はひどく不自然だった。人差し指は引き金の外側にあり、掌の奥まで銃把が収まりきっていない。撃った直後に力が抜けた握りとも、武器の扱いに慣れていない者の持ち方とも違っていた。自分から拾い上げたというよりも、意識の混濁した人間の手へ第三者が銃を握らせ、その指が反射的に閉じただけのようにすら見える。

しかし、リケーレは己の推測を口には出さなかった。現場において、妙に納得できる筋書きほど目を曇らせる危険なものはない。

 

「武器を床へ置いてくれ」

リケーレは低く、だが鋭く命じた。

アウレリアがゆっくりと彼を見る。その表情には反抗の意志も、明確な驚きも浮かんでいなかった。投げかけられた言葉の意味が自分へ届くまでに、普段よりもはるかに長い時間を必要としているかのようだった。

「ゆっくりでいい。そいつが君の銃かどうかも、君が撃ったかどうかも、今は別の話だ。ただ手放せ」

 

言われて初めて、彼女は自分の手元へ視線を落とした。そして、自分が何を握っているのか今更気づいたかのように、小さく目を見開いた。

指から力が抜け、守護銃が床へ落ちる。硬い金属音が静まり返った鐘楼に響き渡った。リケーレの同僚がすかさず銃を蹴り離し、そのままロッシーニの遺体へと駆け寄る。

 

「……脈はありません」

「分かっていても確認する。救護班を上げろ。階段、出入口、鐘楼内の認証記録をすべて保全しろ。今からここへ入る人間は、全員の名前と時刻を記録に残させるんだ」

的確に指示を飛ばしながらも、リケーレはアウレリアから決して目を離さなかった。

 

彼女の光輪は消えていない。罅も入っておらず、明らかな断裂も見られない。光翼も通常どおり淡い光を帯びており、既知の堕天者に見られるような肉体的変化は一切確認できなかった。

それなのに、彼女からは何も感じられない。

共感が遮られているのは鐘楼全体を覆う異常現象だと、リケーレはすでに理解していた。だが、彼女が放つ不自然さはそれとは次元が違った。塔の空間から一時的に感情が消え失せているというレベルではない。「彼女」という存在の置かれた場所だけが、初めから世界の一部として組み込まれていなかったかのような、絶対的な空白を見せていた。

 

「何があった?」

リケーレは尋ねた。アウレリアは、足元で息絶えている男を見た。視線が胸の凄惨な傷口へ落ちる。

普通なら、その惨状を目にした瞬間に何かが伝わってくるはずだ。恐怖。悲嘆。罪悪感。あるいは、殺意を果たした安堵。しかし、彼女の内側からはさざ波一つ立たなかった。

 

「……分かりません」

アウレリアはぽつりと呟いた。

「覚えていないということか?」

「鐘を調整していました。そこへロッシーニ公証官がいらっしゃって、それから急に音が変わって……」

彼女は適切な言葉を探すように口を噤み、ゆっくりと自分の胸へ手を当てた。

「皆が、いなくなりました」

「ここには俺たちがいる」

「見えています」

アウレリアは透き通るような目でリケーレを見つめ返した。

「でも、聞こえません」

 

リケーレは返事をしなかった。彼女の言う「聞こえない」が、物理的な耳鳴りや難聴のことではないと十分に分かっていたからだ。

 

階下から、乱暴な複数の足音が近づいてくる。救護班と追加の執行人、それに第一庁の法定記録官が到着したのだろう。

間もなく、この場所で見つかったあらゆる事象は、一つ残らず文字へ変換され「記録」となる。遺体の位置、銃身の温度、弾痕、血痕。さらには散乱した文書、開かれた工具箱、倒れた譜面台から、現場へ足を踏み入れた者の氏名と時刻に至るまで。記録官が到着すれば、リケーレとアウレリアの発言すらも一語一句違わず調書へと移される。

 

ラテラーノにおいては、国家の前に事実を存在させるために絶対的な記録が必要だった。記録は、力を持つ者の都合で安易に出来事を書き換えさせないために存在する。と同時に、一度記された言葉の檻の外へ、人間を容易には逃がさないための縛りでもあった。

 

リケーレは床へ落ちた銃を一瞥した。

アウレリアの登録銃。発射直後。死者が一人。そして、所有者が現場に立ち尽くしている。

これらを記録へと落とし込めば、恐ろしいほどに簡潔で分かりやすい文章が出来上がる。簡潔な文章は、たいてい複雑な現場の真実よりも分かりやすい。だからこそ、危険なのだ。

 

「アウレリア・セラフィーニ」

リケーレは腰から拘束具を取り出した。

「君を本件の重要関係人として、緊急保護拘束する」

アウレリアは金属の輪へ目を落とした。

「私が、撃ったのですか」

「まだ決まっていない」

「この銃は、私のものです」

「銃の持ち主と、引き金を引いた人間が同じかどうかは、これから詳しく調べる」

 

リケーレは事務的な口調で、拘束の理由と彼女が持つ権利を告げた。

「現場で発射済みの登録銃を所持していたためだ。君には供述を拒否する権利がある。権利擁護官の立会いを求めることもできる。拘束を続ける場合は、第一庁の予備審理官が適法性を審査することになる」

「……拒否したら、何が起きたのか分からないままになります」

「話しても分からないことは山ほどある。今は、分からないことを分かったふりをして埋め合わせない方がいい」

 

リケーレは彼女の細い手首に拘束具を掛けた。アウレリアは一切抵抗しなかった。

彼女はもう一度、床へ倒れたマティアスを見下ろした。鐘楼の窓から差し込む朝日が、灰色の法衣へ広がった血だまりを鮮やかな赤へと染め上げている。

 

「この方を、知っています」

アウレリアが静かに言った。

「以前にも鐘の記録を取りにいらっしゃいました。甘い葡萄酒が苦手で、硬いお菓子を好む方でした」

その声は決して平坦ではなかった。わずかに震えを帯びており、紡がれる言葉と呼吸の間には不揃いな空白が混じっている。だが、その声の震えが果たして何を意味しているのか、リケーレには全く読み取れなかった。

共感が遮断されているから分からないのではない。本来、人間の奥底にある感情というものは、共感という便利な器官があっても完全には理解し得ないものなのだ。ラテラーノ人は、その当たり前の事実をあまりにも忘れやすかった。

 

「それなのに」

アウレリアは淡々と続けた。

「私は、この方が死んだことを悲しいと思っているのか、自分でも分からないのです」

 

鐘楼に駆けつけていた執行人たちは、誰一人としてその言葉に返事をしなかった。

直後、階段を上ってきた者たちの強烈な感情が、せきを切ったようにリケーレの胸へと流れ込んできた。鐘楼を覆っていた見えない異常が、急速に霧散し始めている。

 

驚愕、恐怖、嫌悪、警戒。そして、死者に対する痛切な悲しみ。

遮られていた無数の感情が濁流となって押し寄せ、息苦しいほどに塔の内部を満たしていった。後から到着した執行人の焦りが肌を刺し、救護員が死者を見た瞬間に抱いた落胆が伝わってくる。同僚が現状に安堵したことも、同時に起きた異常現象をひそかに恐れていることも、痛いほどに分かった。

 

それでも、中心に立つアウレリアからだけは、未だに何も伝わってこなかった。

彼女は大勢のサンクタに囲まれ、ひしめき合う感情の渦の中にいながら、ただ一人だけ絶対的な沈黙の中へと取り残されていた。

 

リケーレはその異様な光景を、己の推測を一切交えることなく記憶へ刻み込んだ。

後になって、記録官や法廷の誰かが「彼女は悲しまなかった」と無機質に書き記すかもしれない。だが、今リケーレの目の前にいるのは、決して悲しみが存在しない冷酷な女ではなかった。

自分の中に渦巻く悲しみを、他者にも、そして自分自身にすら確かめられなくなってしまった、ひどく孤独な女の姿だった。

 

***

 

 

その朝、大聖堂前広場では、遅れて鳴り響いた七つ目の鐘について多くの市民が噂を交わした。

単なる鐘の故障だと言う者がいた。不吉な凶兆だと囁き合う者もいた。

そして昼を迎える頃には、最高署名院附属文書院の使徒公証官が鐘楼で何者かに射殺され、傍らで発射済みの守護銃を持っていたのは「死者を悲しむことすらできないサンクタ」だったというショッキングな噂が、広場中を埋め尽くしていた。

 

昼過ぎ、広場に面した菓子店の一つが、翼を模した白い砂糖菓子へ黒い糖蜜を流しかけた新作を店頭へ並べようとした。公証人役場の職員が慌ててそれを止めたのは、決して死者への配慮や倫理観からではない。事件名がまだ正式に決まっておらず、新商品の名称表示が不正確だったという事務的な理由からである。

 

夕刻。公証人役場は事件に関する最初の公式記録を公布した。

そこには事件の発生時刻と場所、死亡したマティアス・ロッシーニの氏名、現場から押収された守護銃の登録番号、そして保護拘束されたアウレリア・セラフィーニの氏名が淡々と記載されていた。

末尾には第一庁法定記録官の署名とともに、次のような一文が添えられている。

 

『事件発生時、鐘楼内部において一時的な共感障害が確認された。原因は不明。

保護拘束されたアウレリア・セラフィーニについては、周辺の共感障害が消失した後も、共感反応を確認できず』

 

それは判決ではない。告発ですらなかった。法的な手続きに則れば、彼女は現時点において被告人ですらないのだ。その時点で確認された事実をただ無機質に並べた、最初の仮記録にすぎない。

しかしラテラーノという国家においては、公の記録として最初に記された言葉が、その後に語られるすべての言葉の形を決定づけてしまう。

 

誰かの愛情深い娘として。誇り高き鐘律技師として。あるいは、聖都で暮らす一人の善良な市民として。

彼女が持っていたはずの無数の名より先に、たった一つの異質な呼称が市民の間へと定着していった。

 

その日を境に、アウレリア・セラフィーニは人々からこう呼ばれるようになる。

 

――心の聞こえない被告人、と。

 

---

 

TIPS 01 教皇と「法」

 

 ラテラーノ教皇は国家元首であり、正式には「至高なる法の守護者、監督者並びに実行者たる教皇」と称される。

 

 各庁や法廷も日常的に法条を解釈するが、法の意味を一般的かつ最終的に確定し、新たな規則として示す権限は教皇に属する。

 

 もっとも、教皇がすべての事件を自分で裁くわけではない。最高位の者が何でも自分で処理する制度は、権威より先に睡眠時間を失うからである。

 

TIPS 02 教皇庁の七庁

 

 ラテラーノの中央政府である教皇庁には、第一庁から第七庁までが置かれている。

 

 第一庁は司法を担い、第二庁から第七庁は、それぞれ異なる分野で法を執行する。

 

 各庁は番号で呼ばれるが、序列を示すものではない。少なくとも、各庁の枢機卿はそう主張している。

 

TIPS 03 第一庁と輪番法廷

 

 第一庁は、刑事審理、拘束や捜索の許可、行政処分の審査などを担当する司法機関である。

 

 通常の審理は、複数の法官が事件ごとに合議体を組む輪番法廷で行われる。

 

 第五庁が人を拘束することはできる。しかし、その拘束を続けてよいか判断するのは第一庁である。

 

 執行する者と、それを正当と認める者を分けることは、ラテラーノでも重要な原則とされている。実際にきれいに分かれているかは、別の問題である。

 

TIPS 04 教皇庁最高署名院

 

 最高署名院は、第一庁の通常法廷では処理できない特別な問題を扱う最高司法機関である。

 

 枢機卿が関係する事件、複数庁の権限争い、重大な手続違反、司法制度そのものに対する訴えなどが持ち込まれる。

 

 名称は、かつて通常の法廷で解決できない請願書に、教皇の署名を求めた慣習に由来する。

 

 現在、最も多く署名するのは教皇ではなく書記官だが、名称を変更しようという提案は、署名院自身の審査で長年保留されている。

 

TIPS 05 公証人役場

 

 ラテラーノ中庭公証人役場は、公安と公証を所管する第五庁の下部機関である。

 

 契約や記録を扱うだけでなく、事件捜査、現場保全、救助、守護銃の管理、市民の権利と義務の執行も担当する。

 

 所属する執行人は、必要に応じて国外へも派遣される。

 

 名称こそ街角の事務所に似ているが、実態は銃と令状を携えて国境を越える国家執行機関である。

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