ラテラーノ中庭公証人役場の朝は、鐘より少し遅れて始まる。
もっとも、それは正面窓口のシャッターが上がり、契約書や身分証明書を抱えた市民が列を作り始める時間帯の話にすぎない。庁舎の地下にある通信室では、国外へ派遣された執行人の報告、国境で保護された公民の身分照会、守護銃の紛失届、死亡記録、契約違反の申立書が夜のうちから絶え間なく届き続けていた。夜勤の法定記録官たちは、それらの書類を一件ずつ分類して照合し、必要な印章を付して、朝番の官吏が読むことのできる形へと整える作業に追われている。
ラテラーノにおいて、出来事はただ起きただけでは公的な「事実」とはならない。
誰が何を見たのか。どの時刻に、どこで銃声を聞いたのか。誰の名義で登録された守護銃が発射され、誰が倒れ、誰が一番にその場へ踏み込んだのか。それらの事象すべてが定められた書式に収まり、記録官の署名と公証印を受けたとき、国家は初めてその出来事を自らが扱うべき事実として引き受ける。
ゆえに、この国で最も重いものは守護銃ではないと、公証人役場の職員たちはしばしば冗談めかして口にする。この国で最も重いもの、それは書類である、と。
リヴィオ・ベルナルディは今、その重さを右腕に抱えていた。
灰色の綴じ紐で束ねられた事件記録は、まだ仮綴じの段階であるにもかかわらず、すでに指二本分ほどの厚さに膨れ上がっている。表紙には被拘束者の氏名、事件の発生地点、初動を担当した執行人、押収された証拠品の点数が並び、その下の「捜査上の嫌疑」という欄には、生々しい赤いインクで『殺人』と記されていた。
その直下には、『登録守護銃使用の疑い』と補記されている。さらに、表紙とは別の医学的付記事項を示す欄には、細い文字で次の一文が添えられていた。
『事件現場における一時的共感障害。被拘束者のみ、障害消失後も共感反応を確認できず』
リヴィオは歩きながら、その一行を親指でそっと覆い隠した。
意味のない仕草だった。文字が消えるわけではない。記録官が適式に記載した以上、たとえ後になって刑事責任とは何の関係もないと判明したとしても、それは「最初の調書に記された観測事項」として未来永劫残り続けるのだ。
廊下の窓から、大聖堂前広場が見えた。
古くから諸聖徒広場と呼ばれてきたその場所には、すでに朝の光が差し込み、大聖堂の列柱が舗石の上へ長い影を落としている。広場中央の古い法碑を囲むように群衆が幾重にも集まり、祈りの言葉を唱える者、新聞を頭上へ掲げる者、拘束された技師への処罰を叫ぶ者、小型撮影機を肩へ載せた報道記録員、さらには騒ぎを見物するためだけに足を止めた学生や菓子職人が、まだ開店前の広場を埋め尽くしていた。
公証人役場が設けた規制柵には、『心なき者に守護銃を許すな』『沈黙は無実ではない』『共感なき者を聖都に置くな』といった手書きの標語が何枚も括りつけられている。黒々とした文字の周囲を、菓子包みの紙と祝祭用の金粉が風に舞って巻き上げられていた。怒号の向こう側では、広場の菓子店が平然と開店準備を続けている。
ラテラーノでは、民衆の憤りさえもどこか華やかだった。
「朝から、ずいぶん景気がよろしいようで」
背後から投げかけられた声に、リヴィオはすぐには振り返らなかった。耳にこびりつくような軽薄な調子と、湯気の立つ飲み物を片手に機密区画の前を平然と歩ける厚かましさの両方に、確かな覚えがあったからだ。
「抗議者の人数を数えるのも、第七庁の職務になったのですか」
前を向いたまま応じたリヴィオの横に、オレン・アルジオラスが歩み寄ってくる。
「本来は国外の不穏を数える仕事です。ですが、今朝ばかりは聖都の方がずっと分かりやすい」
紙杯を片手にしたオレンが、リヴィオと肩を並べて窓の外を見下ろした。
彼は第七庁の指揮を受けて諸国を巡る『万国トランスポーター』であり、外国政府との交渉、在外公民をめぐる紛争の調停、そして聖都へ持ち帰るべき情報の選別を本来の職務としている。しかし、外交官と呼ぶには守護銃を使う機会が多すぎたし、情報官と呼ぶには人前へ出ることを好みすぎる男だった。
リヴィオとはこれまでに、国外で死亡したラテラーノ公民の身分記録や、帰国を拒まれた非サンクタの家族をめぐる複雑な案件で何度か顔を合わせている。互いの立場が一致したことなど数えるほどしかなかったが、相手がどの程度まで平然と規則を曲げ、その結果生じた責任を他人に押しつける人物であるかについては、互いにひどく正確に理解し合っていた。
今朝のオレンは、濃紺の外套の胸元へ、第七庁の特任レガトゥスであることを示す臨時連絡章を鈍く光らせている。
「殺人事件に万国トランスポーターが首を突っ込むとは、ずいぶん遠くから回り込んできましたね」
「俺も好きでここへ来たわけではありませんよ。ロッシーニ公証官が鐘楼へ持ち込んだ封印記録のうち、三点に第七庁の旧機密印があった。ところが、最高署名院の持出簿に記された数と、実際に現場で回収された数が合わない」
オレンは紙杯を揺らしながら、リヴィオが右腕に抱える分厚い事件記録へ視線を落とした。
「第一庁は殺人を調べる。第五庁は現場と銃を調べる。そして第七庁は、なくなったものが単なる古紙なのか、それとも国境を越えて厄介な問題を引き起こす紙なのかを調べる。今朝の聖都における役割分担は、概ねそういうことになっています」
「……人が一人、死んでいるんですよ」
「ええ。だからこそ、こうして朝から駆けつけたんです。なくなったのがただの書類だけなら、昼食を済ませた後でもよかった」
その軽口には思わず腹が立ったが、オレンが死者の命を本気で軽く扱っているわけではないことを、リヴィオは経験上知っていた。この男は、事態が深刻であればあるほど意識的に軽い口調で話す癖がある。それが己の恐怖を隠すためなのか、他人に弱みを見せないための武装なのか、あるいは本人にすらその区別がついていないのかまでは分からなかった。
「それで、第七庁はアウレリア・セラフィーニを機密漏洩の被疑者として扱うつもりですか」
「現時点では扱いませんよ。彼女が文書の存在を知っていた証拠もなければ、持ち去った証拠もない。それに、拘束や尋問を決めるのは俺の仕事ではない」
「珍しく権限の境界を覚えているのですね」
リヴィオが皮肉を込めると、オレンは涼しい顔で肩をすくめた。
「忘れたことなど一度もありませんよ。もっとも、自ら越える必要があると判断したことなら、過去に何度かありますがね」
オレンは再び、窓の外の広場へ目を向けた。
熱を帯びた群衆の中心では、誰かがアウレリアの登録写真を拡大した紙へ火をつけようとし、規制柵のそばに立つ執行人から慌てて制止されているところだった。
「正午までには、広場の人数は倍になるでしょうね」
「第七庁の緻密な分析ですか」
「いいえ、ただの人間の予測です。こういう場合、こちらの方が官署の統計よりよほど外れにくい」
「予備審理すら始まっていな市民の登録写真が、なぜあのように広場へ出回っているのです」
「第三庁の鐘律技師資格簿に使われていた写真が、どこかから複写されたようですね。第七庁の機密ではないので、俺がここへ来た理由には含まれていませんが」
「実に便利な境界ですね」
「ええ。各庁は、自分の境界の内側においてのみ非常に勤勉ですから」
「そして、その境界の隙間に落ちた人間が、広場で勝手に有罪にされている」
「だからこそ、あなたが権利擁護官として呼ばれたのでしょう?」
オレンは残りのコーヒーを飲み干すように、紙杯へ口をつけた。
「そして俺は、その隙間から厄介な書類が一枚消え失せたから呼ばれた。今のところ、この事件について確実に言えるのは、せいぜいその程度のことです」
その表情からは、リヴィオの言葉に賛同しているのか、単に事態を面白がっているのか判然としない。
リヴィオには、もとよりサンクタ同士の「共感」が分からない。相手が何を感じているかを、言葉や表情以外の方法で確かめた経験は一度もなかった。ただ、オレンのような男を相手にしていると、そのことがさほど不利だとは思えなくなる。仮に共感できたとしても、この男なら伝わる感情と口にする言葉を意図的にずらし、相手を混乱させることなど造作もないだろう。
「あなたが担当の権利擁護官になったことを、本人はまだ知りませんよ」
オレンがふと言った。
「選ばれたわけではありません。当番名簿の順番です」
「昨夜の当番は別の方でした」
「辞退したのでしょう」
「急な発熱だそうです」
「便利な病気ですね」
「共感できるサンクタが、共感できなくなったサンクタを弁護することには、相当の精神的負担があるそうですよ」
オレンの口調は相変わらず軽いままだった。
リヴィオは足を止め、正面から彼を見据えた。
「今の発言を記録へ残しましょうか」
「どうぞ。私の発言は、たいてい後から問題になります」
「分かっていながら口にするのですか」
「分かっているから口にするのです。無自覚な偏見よりは、よほど訂正しやすいでしょう」
二人の前には、用途の異なる三つの扉が並んでいた。
左は公民向けの一般窓口、中央は第一庁の予備審理室と輪番法廷へ通じる連絡区画。そして右の扉は、拘束者の面会室と護送路へと続いている。右の扉だけは重厚な黒に塗られ、取っ手の脇には第一項から第十三項までの公民権を象徴する小さな銀印が埋め込まれていた。
その下には、古いラテラーノ語で短い文句が刻まれている。
『権利は、罪の前にある』
リヴィオは、その文句を嫌いではなかった。実際の運用が、いつも刻まれた言葉どおりであるとは限らない。それでも国家が自ら何を約束したのかを石に刻んでおくことには意味がある。権力者が忘れたふりをしにくくなるからだ。
黒い扉の前には、二人の執行人が立っていた。そのうち一人は、リケーレ・コロンボだった。
昨日、大聖堂鐘楼へ最初に入り、アウレリアの緊急保護拘束を行った法定執行人である。夜通し初動記録と現場引継書の作成に追われていたはずだが、制服には目立った乱れがなく、胸元には現場責任者を示す臨時の白章が留められている。ただし、眠気まで制服規定で隠すことはできなかったらしく、その目元には薄い疲労の影が張り付いていた。
「ベルナルディ権利擁護官」
リケーレは軽く頭を下げた。
「面会許可は下りています。正義促進官による本人確認が始まるまで、四十分ほどです」
「尋問ではなく、あくまで本人確認ですね」
「ええ。氏名、身分、供述意思の確認までです。本格的な質問は、第一庁の予備審理官が拘束継続の適法性を判断した後になります」
「第六庁の医療鑑定官は?」
「待機中です。教皇庁付きの教理顧問も来ています」
「どちらも初回面会には入れないでください」
リケーレが片方の眉をわずかに上げた。
「医療鑑定官は、セラフィーニ技師の供述能力を確認する必要があると言っていますが」
「供述能力の診察は必要でしょう。しかし、弁護人との秘密交通へ同席する理由にはなりません。診察は面会後に行わせます」
「教理顧問の方は、光輪と共感状態について本人へ直に確認したいそうです」
「それも後です。彼らが確認できるのは観測された状態と教理上の意見であって、本人が事件について何を話すかではありません」
「そう伝えておきます。喜びはしないでしょうがね」
「喜ばせる必要はありません」
「権利擁護官という仕事は、実に便利ですね。人を怒らせても職務だと言い張れる」
「執行人も似たようなものでしょう」
「俺たちは、怒らせた後に扉を蹴破るところまで仕事に含まれていますから」
リケーレは壁の認証盤へ手を置き、自らの守護銃の登録符を読み取らせた。黒い扉に埋め込まれた銀印のうち、生存と救護、身分記録、適正手続きに関係するものだけが淡く光り、内部の錠が重い音を立てて外れる。
ラテラーノの法は、しばしば祈祷文のような崇高な言葉で語られる。しかし、その日常的な姿は、権限ごとに開く扉や入室者の氏名を残す認証盤、時刻を一秒単位で刻む記録装置の中にこそあった。
リヴィオは、法の持つその無骨さを何よりも信頼していた。
扉が開くと、外の広場の熱気とは違う、別の季節に入ったかのような冷たい空気が流れ出してきた。
***
拘束区画には窓がなかった。
地下に造られているわけではなく、大聖堂前広場に面した庁舎一階の一部を厚い壁で区切っただけの区画である。それでも外光も群衆の声も一切届かず、天井から落ちる白い照明が朝と夜の区別を曖昧にしていた。
廊下の両側には小さな面会室が並び、扉には番号だけが記されている。収容されている者の氏名を掲示すれば、護送員や清掃員まで事件情報に触れることになるためだ。公証人役場は、公民について過剰と思えるほど多くのことを記録する一方で、その記録へ誰が触れられるかについては病的なほどに厳しい。
それでも情報は漏れる。秘密を守ろうとする制度より、秘密を知りたがる人間の欲望の方が、たいてい数では勝っているからだ。
「拘束の法的区分が、重要関係人の保護拘束から被疑者拘束へ変更されています」
先導して歩きながら、リケーレが報告した。
「いつです」
「今朝、第五時です。守護銃の初期鑑定が出た後に、正義促進官が変更を請求しました」
「初期鑑定の内容は?」
「押収された守護銃は、アウレリア・セラフィーニ名義の登録銃と確認されています。薬室と銃身に発射痕があり、現場で回収された薬莢と型式が一致した。右手からも発射残渣が検出されています」
「弾丸は?」
「遺体内部から一発回収されました。変形が激しいため、旋条痕の照合はまだ終わっていません」
「鐘楼内の着弾痕は」
「北側の金属製譜面台に、新しい損傷が一か所あります」
リヴィオは思わず足を緩めた。
「最初の現場概要には記載されていませんでしたね」
「概要では遺体、銃、救護、入退室記録の保全を優先しました。譜面台の損傷は、後続の鑑識班が詳細測定中に確認したものです」
「発砲が一回だったなら、遺体から弾丸が回収され、かつ譜面台にも着弾痕があるというのは不自然です」
「ええ。貫通、跳弾、あるいは俺たちが一発だと思い込んでいるだけかもしれません。今のところ、どれとも断定できません」
「遺体の傷は?」
「入口創は胸部。明確な射出口はなし。角度については司法医の正式な報告待ちです」
「発見時の被疑者の位置と、想定される射線は一致していますか」
「まだ照合中です。血痕、足跡、譜面台の変形、遺体の位置を総合的に重ねなければ分からない」
リケーレの返答は、必要な部分だけが正確だった。分からないことを分からないまま口にできる執行人は貴重である。多くの捜査担当者は、事実の間に空白を見つけると、安易な仮説で埋めたがる。その仮説が一度調書へ書き込まれれば、次に現場を見る者は、仮説の輪郭に沿うようにして都合のいい証拠を探し始めてしまうのだ。
「初動報告を書いたのは、あなたですね」
「俺です」
「共感反応が消失した、と記載した」
「塔に入った時点で、同行した執行人との共感が成立しませんでした。後続班が到着したころには塔内の異常は消えましたが、セラフィーニ技師からだけは、その後も何も感じられなかった。観測事項として必要だと判断しました」
「殺人事件の初動記録にですか?」
「環境異常と被拘束者の状態を分けて書いたつもりです」
「紙の上では分かれていても、新聞は分けて読まなかった」
「俺には新聞の見出しを決める権限がありませんよ」
「しかし、最初の記録で何をどの順番に書くかはあなたが決めた」
リケーレはすぐには答えなかった。廊下の無機質な照明が、彼の光輪を薄く透かしている。
「記載しなければ、後から隠したと非難されます」
「書くなとは言っていません。銃、死者、共感不能という三つが近接して記されれば、読む者は勝手に自分で因果関係を作るものだと言っているのです」
「では、どう書くべきだったと思います?」
「……分かりません」
リケーレが横目で彼を見た。リヴィオは腕に抱えた記録束を持ち直し、言葉を継ぐ。
「分からないからこそ、これから決める必要がある。あなた個人を責めているわけではありません。あなたは観測した事実を規則どおりに正確に書いた。問題は、その規則に従って書くだけで、大衆の偏見の形が完成してしまうことの方です」
「規則を変えるのは、俺の職務ではありません」
「私の職務でもありません」
「では、誰の仕事です?」
リヴィオは答えなかった。ラテラーノでは、法を一般的に解釈する者、個別事件へ適用する者、執行する者、記録する者が、それぞれ全く別の机に座っている。権限を分けることは必要だが、責任まで同じように細分化され、廊下を渡り歩いた末にどの机にも残らないことがしばしばあった。
面会室の前で、リケーレが足を止めた。
「昨夜から、彼女はほとんど眠っていません」
「眠れないのですか?」
「眠ろうとすると、自分に共感が戻っていないことをいちいち確かめてしまうそうです。食事は少量ですが、水は飲んでいます」
「家族との連絡は」
「母親から面会申請が出ていますが、予備審理前の接触制限で保留されています。権利擁護官を通じた書面なら許可できます」
「後で手配します」
リケーレは扉の取っ手へ手を掛ける前に、ふと低い声で言った。
「彼女は、何も感じていないわけではないと思います」
リヴィオは鋭く横目で彼を見た。
「分かるのですか」
「分かりません。ただ、発見時に俺が見た顔は、何も感じていない人間の顔には見えなかった」
「彼女が悲しんでいると善意で決めつけるのも、悲しんでいないと悪意で決めつけるのも同じことです」
「……そうかもしれませんね」
「分からないなら、分からないまま法廷で証言してください。それが一番彼女の役に立ちます」
リケーレは自嘲するように口元をわずかに歪めた。
「昨日から、そればかり言われていますよ。分からないことを分かったふりで埋めるな、とね」
「誰に?」
「俺自身にです」
鈍い音とともに、面会室の扉が開いた。
***
アウレリア・セラフィーニは、面会室の中央に置かれた机を挟んだ向こう側に座っていた。
拘束具はすでに外され、両手は机の上に力なく置かれている。指先だけが、一定ではない間隔でゆっくりと動いており、何かを数えているようにも、目に見えない鍵盤を弾いているようにも見えた。
鐘楼管理所の技師服から、灰色の簡素な拘束着へと着替えさせられている。頭上には光輪があり、背後には淡い光翼も浮かんでいる。外見だけを見れば、諸聖徒広場を歩く他のサンクタたちと何ら変わりはない。
そしてリヴィオには、最初から誰の心も聞こえない。彼にとって、目の前のサンクタが沈黙していることは何の異常でもなかった。
「リヴィオ・ベルナルディです」
彼は向かいの椅子へ腰を下ろし、分厚い事件記録を机の脇へ置いた。
「第一庁へ登録された権利擁護官として、あなたの弁護と、拘束中の権利保障を担当します」
アウレリアはしばらくの間、感情の読めない瞳で彼の顔を見つめていた。
「あなたは、サンクタではありませんね」
「書類を読む前に分かる程度には」
「私から何も伝わらなくても、困りませんか」
「普段から、誰の感情も伝わってきませんから」
机上で所在なげに動いていたアウレリアの指が止まり、ほんの少しだけ、彼女の肩から強張りが抜けたように見えた。
「では、私はあなたにとっては普通なのですか」
「いいえ」
リヴィオは即座に答えた。
「殺人の疑いで拘束されている鐘律技師は、普通とは言いにくいでしょう」
アウレリアは彼を見つめた後、かすかに息を吐いた。笑ったのかもしれないが、その表情の変化はすぐに消え失せた。
「最初に、あなたの権利を確認します」
「昨夜、執行人の方から説明を受けました」
「聞いたことと、今も正しく理解していることは別です。もう一度確認します」
リヴィオは事件記録を開かず、机の中央に置かれていた小型記録器を裏返した。赤い記録灯がスッと消える。
「これから行う弁護人との会話は、原則として公証記録へ入りません。あなたの許可なく、正義促進官、公証人役場の捜査担当、第六庁の医療鑑定官、教理顧問へ伝えることもありません。ただし、誰かの生命に差し迫った危険がある場合は例外です」
「公証人役場の中にいるのに、公証しないのですか」
「公証しない場所を守ることも、制度の一部です」
アウレリアは不思議そうに少し首を傾げた。
「この国では、多くのことが記録されます。しかし、考えていることまで最初からすべて国家へ提出しなければならないなら、市民は自分の弁護すらできなくなる。弁護人との秘密交通は、適正手続きに含まれる不可侵の権利です」
「適正手続き」
「国家があなたを有罪だと考えていても、その考えを証明する責任は国家の側にあります。あなたが自ら無実を証明しなければならないわけではありません」
「でも、銃は私のものです」
「所有と発砲は別です」
「手に痕跡が残っていたとも聞きました」
「発射残渣です。自分で撃った場合だけでなく、発射直後の銃を握った場合にも付着します」
「私は、その銃を持っていました」
「それも発見時における一つの事実です」
「ロッシーニ公証官は死んでいました」
「それも事実です」
「私は、悲しんでいませんでした」
リヴィオはそこで初めて、言葉を強く遮った。
「それは、まだ事実ではありません」
アウレリアの目がわずかに細くなる。
「皆がそう言っています」
「周囲のサンクタが確認できなかったのは、あなたの感情が発する波長です。あなた自身の内に悲しみがなかったことの証明ではない」
「同じではありませんか」
「違います」
「どう違うのです」
「鐘の音が聞こえなかったからといって、鐘が鳴っていなかったとは限らない」
アウレリアは動かなかった。換気装置が低い唸り音を立て、廊下の遠くで扉の閉まる音が響く。
「私は鐘の技師です」
「知っています」
「聞こえなかった鐘が本当に鳴っていたかどうかは、振動や打鐘装置の記録を調べれば分かります」
「人間にも、同じような測定方法があれば便利でしたね」
「ありません」
「だから法があるのです」
リヴィオは静かに言った。
「法は、人間の心を直接測る装置ではありません。測れないものを、測れないまま安易に断定せずに扱うための手続きです」
アウレリアは机の上に置かれた自分の手へ目を落とした。
「法廷では、皆が私を感じようとします」
「そうでしょうね」
「何も感じられなければ、恐れる」
「恐れる人間はいるでしょう」
「止められますか」
「完全には止められません。ただし、その恐怖を証拠として使わせないよう争うことはできます」
「勝てますか」
「分かりません」
アウレリアは小さく息を吐いた。
「皆、分からないと言いますね」
「分からないことを知っている人間から選ぶしかありません。確信に満ちた間違いよりは、よほど安全です」
彼女は一度目を閉じた。
「昨夜までは、誰かが嘘をついていると、少し分かりました」
「感情が分かることと、嘘が分かることは同じではないでしょう」
「完全には分かりません。でも、相手が怒っているか、怯えているか、悲しんでいるかは確かに伝わった。それが分かれば、言葉が足りなくても、そばにいることができました」
アウレリアはゆっくりと顔を上げた。
「今は、母が私を愛していると言っても、私に届くのは、その『言葉』だけです」
「言葉だけでは足りませんか」
「あなたには、足りていますか」
問い返され、リヴィオはすぐには答えられなかった。
非サンクタにとって、他人の心が言葉と表情の向こう側に隠されていることは当たり前の日常である。しかし、最初から持っていないことと、昨日まで当たり前に持っていたものを突然失うことは、決して同じではない。
「足りないことはあります」
彼は沈黙ののち、ようやく答えた。
「だから契約があり、証言があり、記録がある。人間は言葉だけでは互いを信じ切れないので、言葉を重ねて制度にしました」
「それが公証ですか」
「公証は、言葉を魔法のように真実へ変えるものではありません」
リヴィオは裏返した記録器へ視線を落とした。
「誰が、いつ、どのような言葉を述べたのかを、国家が記録として引き受けることです。間違った言葉が公証されることも当然ある。だから訂正手続きと上訴が必要になる」
「国家も間違えるのですね」
「頻繁に」
「そんなことを、公証人役場の中で言ってよいのですか」
「国家が間違えないなら、権利擁護官という職業は必要ありません」
アウレリアの口元が、今度は明確にわずかに動いた。共感がなくても、リヴィオにはそれが微かな笑みに近いものだと分かった。
「事件について話せますか」
「はい」
「思い出せる最後のことからお願いします」
アウレリアはしばらく沈黙した。机上の指先が再び動き始め、四度打って休み、三度打って、また止まる。
「第七鐘の調整をしていました」
「朝、遅れて鳴った鐘ですね」
「前日の試験打鐘から、主振動へ微かな濁りが混じっていました。鐘そのものではなく、下層の共鳴管に問題があると考えたのです」
「共鳴管とは?」
「鐘の響きを広場と大聖堂内へ均等に導くための古い設備です。現在は補助系統としてしか使われていませんが、完全には撤去されていません」
「一人で作業を?」
「臨時補助員のテオ・ヴィアンキがいました。途中で、ロッシーニ公証官が来ました」
「マティアス・ロッシーニが?」
「古い保守記録を閲覧したいと言っていました」
「どの時期の記録です」
「三十二年前の改修記録です」
リヴィオはそこで初めて事件記録を開いた。
被害者の携行品一覧には、紫色の紐で封じられた文書が三点と記録されている。しかし、最高署名院附属文書院から出された持出許可証では、携行文書は四点となっていた。内容欄は機密指定のため空白のままである。
「ロッシーニ公証官は、紫の紐で綴じた書類を持っていましたか」
「はい。何度も確かめるように大事に抱えていました」
「何を話しました」
「鐘楼の下に、記録から消えている設備が残っていると言っていました。撤去した記録も、現行設備へ引き継いだ記録もないのはおかしい、と」
「その設備を、あなたが以前に見たことは?」
「ありません。床板の下に隠されていました」
「誰が床板を開けたのです」
「私です」
「テオはその場に?」
「その前に、工具を取りに行くと言って階段を下りました」
「戻ってきましたか」
アウレリアの指がピタリと止まった。
「……分かりません」
「姿を見ていない?」
「その直後に、音が変わりました」
彼女は顔を上げた。
「鐘は鳴っていませんでした。それなのに、塔の中で何かが鳴り始めたんです。耳に聞こえる音ではなく、光輪の内側を直接揺らすような音でした」
「そのとき、共感が消えた?」
「消えたというより、強制的に切られたのだと思います」
リヴィオは彼女の言葉を訂正せず、そのまま受け止めた。それが技術的に正しい表現かは分からない。だが、本人が経験した感覚を、今の段階で別の語へ置き換える理由もなかった。
「ロッシーニ公証官は、どうしていましたか」
「何かを叫んでいました。声は聞こえましたが、彼が恐れているのか、怒っているのか分からなかった。人の声が、意味のある言葉ではなく、ただの物理的な音に戻ってしまったようでした」
「その後の記憶は?」
「床が揺れて、転倒し、頭を打ちました」
「銃声は覚えていますか」
「いいえ」
「次に覚えているのは?」
「執行人に、銃を置くよう言われたことです。そのとき、初めて自分の手に銃が握られていることに気づきました」
「自分で抜いた記憶も、拾い上げた記憶もない?」
「ありません」
「ロッシーニ公証官は、すでに倒れていた」
「はい」
「テオは?」
「いませんでした」
「あなたの守護銃は、普段どこに装着していますか」
「腰のホルスターです」
「作業中に外すことは?」
「鐘の内部へ入り込むときは外す場合がありますが、その日は外していません。少なくとも、外した記憶はありません」
「ロッシーニ公証官と口論しましたか」
アウレリアは怪訝そうに眉を寄せた。
「口論?」
「管理所の職員が、前日にあなたと彼が強い口調で話していたと証言しています」
「意見が違っただけです。ロッシーニ公証官は、古い設備の確認が終わるまで鐘楼を一週間閉鎖すべきだと言いました。私は大聖堂の祭礼が近く、代替系統を用意せずに止めるのは危険だと答えました」
「怒っていましたか」
「たぶん」
「たぶん?」
「そのときは、彼の苛立ちも強く伝わっていました。今になって思い返すと、どこまでが私の怒りで、どこまでが彼のものだったのか、自信がありません」
リヴィオは頁の端へ小さく印を付けた。
「共感による感情の混同ですね」
「法廷で使えますか」
「使うかどうかは、他の証拠を見てから決めます」
「私に有利な話ではないのですか」
「有利に見えるものを何でも無闇に提出するわけではありません。こちらが共感による感情認識の曖昧さを証拠として認めれば、正義促進官も、あなたが共感できないことを利用しようとします」
「では、本当のことでも捨てるのですか」
「本当かどうか確認できないものを、裁判に勝つためだけに真実と呼ばない、ということです」
アウレリアは不満そうに口を閉じた。
それでよい、とリヴィオは思った。権利擁護官は依頼人から好かれるためにいるのではない。依頼人が望む都合のいい物語を、国家へ信じさせるためにいるわけでもないのだ。
「もう一つ、確認します」
リヴィオは声のトーンをわずかに落とし、単刀直入に切り出した。
「あなたは、マティアス・ロッシーニを殺したいと思ったことがありますか」
アウレリアはすぐには答えなかった。冷たい照明の下で、彼女の透き通るような瞳が探るようにリヴィオを見つめ返す。
「ありません、と言えば信じてくれますか」
「私が信じるかどうかは問題ではありません。あなたがどう答えたかを、私は事実として記録し、記憶します」
リヴィオが事務的な態度を崩さずに応じると、彼女は小さく息を吐いた。
「……苦手でした」
「理由は?」
「あの方が悪い人だったからではありません。むしろ、言葉遣いや態度はいつも丁寧でした」
アウレリアは、それまで机上で所在なげに動かしていた指をピタリと止めた。過去の記憶を正確に引き出そうとするような、静かな仕草だった。
「でも、何かを隠していることははっきりと分かりました。鐘楼を止めてほしい、古い床を開けてほしい、設備の状態を記録してほしいと要求するのに、その理由を尋ねると、決まって『私には知る権限がない』と答えるんです」
「職務上の秘密だった可能性は?」
「そうだと思います。けれど、理由を知らされないまま鐘を止める処置を下せば、その判断に最終的な署名をするのは現場の私です。もし祭礼に支障が出ても、あるいは古い設備を傷めてしまっても、技術上の責任はすべて私一人に残される」
彼女は、当時の理不尽な苛立ちを反芻するようにわずかに眉を寄せた。
「事情は自分の中だけで抱え込んだまま、結果の責任だけをこちらへ押し渡してくる人でした。だから、好きではありませんでした」
「殺したいと思うほどですか?」
リヴィオが問いの核心へ引き戻すと、アウレリアは静かに首を横に振った。
「いいえ。ただ、私にも納得できるように、きちんと説明してほしかっただけです」
「守護銃を向けたいと思ったことは?」
「一度もありません」
きっぱりと言い切ったその声には、一切の迷いも濁りもなかった。
「サンクタが同族へ守護銃を向ける行為が、どのように扱われるかは理解していますね」
アウレリアの顔がこわばった。
ラテラーノにおいて、守護銃を別のサンクタへ意図的に向けることは、通常の傷害や殺人未遂だけでは語り切れない禁忌である。そこには堕天の可能性が伴い、法廷が宣告するより先に、光輪や光翼に決定的な変化が現れることがある。もっとも、何をもって〈法〉が違反と判断するのか、その完全な基準を人間が知っているわけではない。
「私は堕天していません」
アウレリアが強く言った。
「見れば分かります」
「それでも、皆は私が撃ったと言っています」
「堕天していないことは、あなたが撃っていないことの完全な証明にはなりません。意図がなかった場合、相手をサンクタと認識していなかった場合、あるいは人間が理解していない別の条件がある場合について、教廷は確定的な基準を持っていない」
「では、光輪は私の無実を証明してくれない」
「それだけでは証明になりません」
「何も証明してくれないのですね」
「法廷で役に立つ証拠は、一つだけでは何も証明しないことが多いのです」
廊下側の記録灯が点滅し、面会終了まで五分であることを知らせた。その直後、扉が二度ノックされる。
「ベルナルディ権利擁護官」
リケーレの声だった。
「第一庁の予備審理官が到着しました」
リヴィオは事件記録を閉じた。
「これから、拘束を続けることが適法かどうかを判断する予備審理があります」
「裁判ではないのですか」
「まだ有罪か無罪かを決める段階ではありません。逃亡する危険、証拠を失わせる危険、他人へ危害を加える具体的な危険があるかを確認し、そのために拘束を続ける必要があるかを判断します」
「拘束は解かれますか」
「簡単ではありません。死者が一人いて、あなたの登録銃が発射され、記憶の欠落があり、現場にいたもう一人の人物が所在不明です」
「広場の人たちも、私を出すなと言っています」
「世論に法的効力はありません」
「でも、効くのでしょう」
先ほど自分がオレンへ言った言葉を、そっくり別の声で返された。リヴィオは立ち上がった。
「効かせないために、手続きがあります」
「手続きで止められなかったら?」
「上級の審理へ不服を申し立てます」
「それでも駄目なら?」
「判断がどう作られたのかを、記録へ残します」
アウレリアは不思議そうに彼を見上げた。
「記録するだけですか」
「負けた者が次の法廷へ持っていけるものは、前の法廷で何が起きたかを示す記録だけです。正しい判断も、間違った判断も、記録がなければ引き継げません」
扉へ向かいかけたリヴィオは、そこで振り返った。
「一つだけ、今決めてください。予備審理で事件について話すか、本人確認以外は黙るかです」
「話した方がよいのでは?」
「通常なら、記憶が曖昧な段階では黙ることを勧めます。今述べた内容と、後で思い出した内容に違いがあれば、その違い自体を利用される可能性がある」
「黙れば、悲しんでいないと思われます」
「話しても、そう思いたい者は勝手に思います」
「では、私は何のために話すのです」
リヴィオは少し考えてから答えた。
「法定記録官に、あなた自身の言葉が存在したことを残すためです」
「信じてもらうためではなく?」
「信じてもらうことだけを目的に話せば、人は信じられそうな言葉を選び始めます。覚えていることだけを話し、分からないことは分からないと言ってください」
アウレリアは目を伏せた。
「……話します」
「理由を聞いても?」
「最初の記録には、私から何も感じられないと書かれました」
彼女は顔を上げ、ゆっくりと言った。
「次の記録には、私にも言葉があると書いてほしい」
***
第一庁の予備審理室は、通常の輪番法廷よりはるかに狭く、圧迫感があった。
傍聴席も、高い天井も、壮麗な聖徒像も、色硝子もない。室内にあるのは半円形の無骨な机と数脚の椅子、法定記録官の記録台、そして壁へ深く刻まれた公民権の条文だけである。
それは単なる装飾のためではない。国家が公民の身体を拘束し続けるか判断する際、審理官が自らの権限より先に、公民の権利を目にするためだった。
座席配置は、法が定める権限の形をそのまま空間へ写し取ったかのようだった。
中央の席には予備審理官が座り、その左側に正義促進官ベアトリーチェ・ノヴァ、右側に権利擁護官であるリヴィオが着席する。正面には被拘束者であるアウレリアのための席が置かれ、少し離れた記録台には第一庁の法定記録官が息を潜めるように控えている。第五庁から護送担当として派遣されたリケーレは、出入り口の扉の横に直立していた。なお、第六庁の医療鑑定官と教皇庁付きの教理顧問は、必要が生じた場合に限って呼び入れられることになっており、現在は分厚い扉の向こう側で待機している。
中央に座る予備審理官は、サンクタだった。
淡い光輪が頭上に静かに浮かび、背後には薄く広がる光翼が見える。年齢を判別しにくい整った顔立ちと、一切の感情を表に出さない視線は、個人としての印象を意図的に削ぎ落としたかのようだった。彼の役割は、訴追側か弁護側か、誰かの側に立つことではない。国家が公民の自由を制限する理由が、法に照らして適正であるかを冷徹に判断することにある。そのため、彼が放つ光輪の輝きもまた、信仰の象徴というよりは、無機質な制度の一部としてそこへ組み込まれているように見えた。
そして、左席に座るベアトリーチェ・ノヴァもまたサンクタである。
第一庁正義促進官室に属する気鋭の司法官。彼女の光輪は予備審理官のものよりわずかに強い光を放ち、背後の光翼は行儀よく折り畳まれたまま静止していたが、その存在感は室内にあっても際立っていた。サンクタは共感によって他者の感情を直接感じ取ることができる種族だが、彼女の表情はそれに頼らずとも自立した理性を保てるほどに、完璧に整えられている。
正義促進官という役職は、単に被疑者を有罪に追いやることそのものを職務とする者ではない。犯罪の嫌疑があれば国家を代表して証拠を示し、拘束や訴追の必要性を毅然と主張する一方で、その証拠が適法に収集されたか、あるいは被疑者に有利な事実が不当に隠されていないかを確認する重い責任も負っている。少なくとも、第一庁が自ら定めた職務規程にはそのように記されていた。
そしてベアトリーチェは、その規程を自分の都合よく読み飛ばす種類の司法官ではなかった。
黒い法衣の襟元には、正義促進官を示す銀章が冷たく光っている。淡い色の髪は首の後ろで簡潔にまとめられ、机上の書類は事件の時系列、証拠の種類、開示区分ごとに、寸分の乱れもなく整理されていた。その穏やかで知的な横顔だけを見れば、広場で一人の公民を「怪物」と呼んで罵る群衆の熱狂とは無縁の存在に見える。
だが、だからといって彼女が寛大なわけではないことを、リヴィオは嫌というほど知っていた。
二人は以前にも、国外で死亡したサンクタの身分記録や、守護銃を不当に押収された公民の拘束をめぐって、何度か法廷の反対側へ座っている。ベアトリーチェは決して感情的な非難を口にせず、相手の人格を攻撃するような下品な真似もしなかった。だが、証拠によって必要だと一度判断した処分については、相手が誰であろうと一歩も譲ることはなかった。
同時に、国家側の記録に致命的な欠落があれば、それを弁護側のリヴィオより先に自ら指摘し、是正する潔さも持ち合わせている。
リヴィオにとって、彼女は決して無条件に信用できる味方ではない。しかし、信用できない理由を、明確な「証拠」という形で示せば正面から対話が成立する、予測可能で誠実な敵ではあった。
ベアトリーチェは、今ここにいるアウレリアをすでに有罪だと決めつけているわけではない。彼女が厳しい顔でこの席に座っているのは、発射済みの守護銃、胸を撃たれて死亡した使徒公証官、所在不明となっている関係人、そして失われた可能性のある機密文書という歴然たる異常事態を前にして、国家が何もしないことなど許されないと考えているからに他ならなかった。
リヴィオと彼女の間に横たわる決定的な違いは、「真実を重んじるかどうか」ではない。
真実へと至るまでの不確かな期間、国家が一人の市民から自由を奪い、拘束し続けてもよいと考えるかどうか。その一点に尽きるのだった。
予備審理官が入室すると、全員が起立した。法定記録官が厳かに日時と事件番号を読み上げる。
「テラ暦一〇九八年、聖カエキリア月第十四日、第六時二十七分。第一庁予備審理室第二において、被拘束者アウレリア・セラフィーニの拘束適法性審査を開始します」
記録器の赤い灯が点いた。その瞬間から、室内で発せられた言葉はすべて、国家が保存する言葉となる。
予備審理官がアウレリアへ目を向けた。
「氏名を述べてください」
「アウレリア・セラフィーニ」
「公民登録は?」
「ステファン区、第二公民簿、登録番号七四一二」
「職務と資格」
「大聖堂鐘楼管理所所属。第三庁認定、二等鐘律技師です」
「守護銃登録の有無」
一瞬、アウレリアの唇が震えるように止まった。
「……あります」
「登録銃は、昨日、大聖堂鐘楼で押収された銃と同一ですか」
「外見は同じでした」
ベアトリーチェが書類からスッと顔を上げた。
「同一の銃であると認めないのですか」
リヴィオは即座に立ち上がった。
「異議を申し立てます。被拘束者は銃器鑑定人ではありません。外観による確認を超えた同一性判断を求める質問です」
予備審理官は短く頷いた。
「異議を認めます。記録官は、被拘束者が『外形上同一と認めた』と記載してください」
細い源石筆が、記録板の上を滑る乾いた音が響く。
ベアトリーチェは表情を変えず、淡々と質問を続けた。
「事件発生時刻に、あなたは鐘楼最上階にいましたか」
「はい」
「被害者マティアス・ロッシーニと同じ場所に?」
「途中までは、同じ場所にいました」
「事件後、被害者は死亡していた」
「はい」
「あなたは、発射直後とみられる守護銃を手にしていた」
「はい」
「右手から発射残渣が確認されている」
「そう聞いています」
「前日、被害者との意見対立を複数の職員に目撃されている」
「設備の停止期間について、意見が違いました」
「そして現在、あなたの感情は、他のサンクタから感知できない」
「正義促進官」
リヴィオは再び立ち上がった。
「その確認が、拘束継続のどの要件に関係するのか、明示を求めます」
ベアトリーチェが冷ややかな視線を向ける。
「被拘束者の現在の精神状態と、供述能力を確認するためです」
「供述能力の判断は医療鑑定官の職分です。他者が感情を感知できないことを、そのまま精神状態の異常と呼ぶのは不適切でしょう」
「私は、通常の状態と異なる事実を指摘しています」
「通常と異なることは、逃亡、証拠隠滅、再犯の危険を意味するのですか」
「同じだとは述べていません」
「それなら、拘束理由の評価からは除外すべきです」
予備審理官が片手を上げて制した。
「双方、審理の範囲に戻ってください。正義促進官は、共感不能の状態が、逃亡、証拠隠滅、他害の具体的危険へつながることを示す客観的資料を有していますか」
「現時点では、ありません」
「では、その状態は身元および健康に関する観測事項としてのみ記録し、拘束継続の理由には用いないものとします」
法定記録官の筆が動いた。リヴィオは席へ戻る。
アウレリアの拘束が解かれたわけでも、殺人の疑いが消えたわけでもない。それでも、「共感できない」という事実が「危険である」という判断へそのまま接続されることを一度は止めた。法は、ときにその程度の速度でしか進まない。鐘の間隔を測るように、一つの言葉と次の言葉の間を慎重に確かめながら進むほかないのだ。
ベアトリーチェは次の書類を開いた。
「正義促進官室は、被拘束者が事件現場の設備と押収銃について専門的知識を有していること、被害者が所持していた文書のうち一点が未回収であること、現場にいた臨時補助員テオ・ヴィアンキの所在が確認できないことから、七日間の暫定拘束を請求します」
「七日間は法定上限です」
リヴィオが反論する。
「必要とする具体的理由ではなく、上限を請求する理由を示してください」
「被害者は、最高署名院附属文書院の使徒公証官であり、機密指定された文書を持ち出していました。その一点が現場にありません」
「欠落文書の内容は、弁護側へ開示されますか」
「現在、第七庁と最高署名院の文書管理担当が機密区分を確認中です」
「内容を開示せず、その存在だけを拘束理由として用いるのですか」
「文書が一件不足しているという事実は、開示しています」
「何が失われたのかも分からず、事件との関係も分からないものについて、被拘束者が隠した可能性だけを主張している」
「持出許可証に記載された点数と、現場で回収された点数が一致していません」
「不足は一点?」
「一点です」
「題名は?」
「現時点では開示できません」
「作成時期は?」
「開示できません」
「所管庁は?」
「同様です」
リヴィオは自らの記録束をパタンと閉じた。
「それでは、存在を反証することも、事件との関連性を争うこともできません」
「拘束審査は、本案の刑事審理ではありません」
「だからこそ、国家は公民の自由を制限するための最小限の根拠を示す必要があるのです」
予備審理官が二人を制した。
「正義促進官。欠落文書が被拘束者、または所在不明のテオ・ヴィアンキによって持ち去られた可能性を示す具体的資料はありますか」
「鐘楼入口の認証記録では、事件前に正規の認証を用いて入った者は、被害者、被拘束者、テオ・ヴィアンキの三名です」
「第三者が侵入した可能性は?」
「初動時、鐘楼の公証錠に異常が確認されています。ただし、外側の破損は救護進入時に生じたものです。内側の認証回路については現在解析中です」
リケーレが扉のそばで、わずかに視線を動かした。
初動時、錠は『内側から半ば壊れていた』。外側の扉を破壊したのはリケーレだが、内部回路の異常まで彼が作ったわけではない。リヴィオはその反応を見逃さなかったが、今は何も言わなかった。
「弁護側の意見を」
予備審理官に促され、リヴィオは立ち上がった。
「被拘束者は逃亡せず、現場で執行人の指示に従っています。聖都市内に住居、職務、家族があり、国外へ移動する許可もありません。登録守護銃は押収され、鐘楼は第五庁によって封鎖されているため、設備へ接触することも不可能です。必要であれば、自宅待機、通信制限、毎日の出頭、テオ・ヴィアンキとの接触禁止によって十分に対応できます」
「欠落文書の所在は?」
「被拘束者は、その文書の題名も内容も知りませんでした」
ベアトリーチェが冷たく言い放つ。
「それは本人の供述にすぎません」
「本人供述を信用できないという理由で拘束するなら、国家側は反対の事実を示す必要があります。共感が成立しないから確認できない、という理由は使えません」
「ベルナルディ権利擁護官」
予備審理官の声が一段低くなる。
「相手方の主張を先回りした皮肉も、記録へ残ります」
「残してください」
法定記録官の筆先が一瞬止まり、それから律儀に動き始めた。
予備審理官は目を伏せ、机上へ並べられた書類を順に確認した。やがて顔を上げ、厳かに判定を読み上げる。
「被拘束者アウレリア・セラフィーニについて、現時点で逃亡の具体的危険は低いと認めます。一方、事件現場に関する専門知識を有し、被害者の携行文書に不足があり、所在不明の関係人が存在することから、短期間の証拠保全上の必要性は認められます」
アウレリアの手が、膝の上で固く握りしめられた。
「正義促進官による七日間の請求は過剰です。三日間の暫定拘束を許可します。正義促進官室は四十八時間以内に、欠落文書が実在したこと、その事件との関連性、および被拘束者が現在その文書へ接触できる具体的可能性を、機密審査官立会いの下で弁護側へ開示してください。必要な範囲の開示が行われない場合、欠落文書に関する事情を、拘束継続の根拠として用いることを禁じます」
木槌は鳴らされなかった。
ラテラーノの審理では、判断を成立させるための劇的な音を必要としない。法定記録官が文面を読み返し、予備審理官が署名を行い、公証印が押される。それだけで、一人の自由は三日間、国家の管理下へ置かれるのだ。印章から淡い光が広がり、記録板の文字を固定した。
アウレリアは、その様子を黙って見つめていた。
「これで、決まったのですか」
彼女の掠れた声に、リヴィオは頷いた。
「三日間です」
「三日も拘束されるんですか。長いですね」
「一週間よりはましでしょう」
「一週間より短いからといって、自由でいるよりましにはなりませんよ」
リヴィオは返す言葉を持たなかった。
審理室の外では、諸聖徒広場の群衆がさらに増え続けている。厚い壁を通して叫び声までは聞こえないが、何百人もの足が舗石を踏み鳴らす振動が、庁舎の床へかすかに伝わってきた。一人ずつなら意味を持たない小さな震動が重なり合い、建物全体を揺らしている。それは、鐘楼に残っていた低い残響とよく似ていた。
予備審理室を出る直前、ベアトリーチェがリヴィオを呼び止めた。
「ベルナルディ権利擁護官」
「何です」
「共感が成立しないことを、刑事責任の証拠として扱うべきではない、というあなたの主張は理解します」
「賛成ではないのですね」
「現段階では。ただし、あなたも審理では被拘束者の言葉を使うでしょう。言葉もまた、人を欺くものです」
「承知しています」
「感情だけを疑い、言葉を信じるのであれば、それは公平ではありません」
「私は、言葉もそのままでは信じません」
ベアトリーチェが顔を上げた。
「では、何を信じるのです」
「誰が、いつ、どの状況で述べたかが記録された言葉。物理的な痕跡。互いに一致する証言と、むしろ一致しない記録。それらを並べ、訂正し、最後まで残ったものを見ます」
「それを真実と呼ぶのですか」
「法廷で真実と呼べるものは、せいぜいその程度でしょう」
ベアトリーチェはしばらく彼を見つめた。
「慎ましい信仰ですね」
「法は宗教ではありません」
「ラテラーノで、それをおっしゃいますか」
彼女は書類を抱え、ヒールの音を響かせて先に審理室を出た。
リヴィオは一人、壁へ刻まれた公民権の条文を見上げた。
生存し、救護を受ける権利。国家の記録に正しく登録される権利。契約を履行される権利。適正な手続きによって審理される権利。そして、国家から見捨てられない権利。
文字はどれも整っており、人が読む前から正しい顔をして並んでいる。しかし法の価値は、正しい言葉を所有することにあるのではない。その言葉を、聖都で最も恐れられ、最も嫌われている者にも適用できるかどうかにあるのだ。
扉の向こうで、アウレリアの拘束具が冷たく閉じる音がした。
広場では、彼女を有罪とする声が増え続けている。そして、公証人役場から第一庁、さらに最高署名院へ続く記録の回廊のどこかでは、死んだ使徒公証官が持ち出したはずの一枚の文書が、存在するとも失われたとも確定されないまま、国家の重い沈黙の中へと置かれていた。
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TIPS 01 予備審理
予備審理は、被疑者が有罪か無罪かを決める裁判ではなく、逃亡、証拠隠滅、再度の危害といった具体的な危険を検討し、正式な審理まで拘束を続ける必要があるかを判断するための手続きである。
事件が重大であることや、広場に大勢の抗議者がいることだけでは、本来、拘束を正当化する理由にはならない。国家が公民の自由を奪う場合には、必要性を示し、より穏当な手段では目的を達成できない理由を説明しなければならない。
もっとも、世論に法的効力がないことと、法官が世論を耳にしないことは、同じではない。
TIPS 02 守護銃と登録制度
サンクタの守護銃は単なる武器ではなく、所持者の身分、免許、整備履歴、携行資格などと結びつけて公証人役場で管理されている。銃の登録記録や使用痕跡は事件捜査において重要な意味を持つが、登録名義と実際の発砲者が必ず一致するとは限らない。
他人の守護銃を扱うことは容易ではないものの、絶対に不可能というわけでもなく、銃を手にしていた事実だけで、その人物が引き金を引いたと断定することはできない。銃身の痕跡、発射残渣、射線、弾丸、目撃証言などを組み合わせ、初めて発砲の状況が検討される。
守護銃は所有者を記録してくれるが、事件の真相までは証言してくれない。
TIPS 03 正義促進官と権利擁護官
正義促進官は犯罪を立証し、適正な法執行を求める司法官であるが、その職務は被疑者を有罪にすることだけではない。捜査に重大な違法があり、証拠が不足し、あるいは別の人物の関与が明らかになった場合には、訴追を見直すことも正義促進官の責任に含まれる。
権利擁護官は、拘束された者や訴追された者の権利を守り、国家が自ら定めた手続きを守っているかを確認する。依頼人の言うことをすべて真実として主張する役割ではなく、国家が証明していないことを、証明済みとして扱わせないための法律家である。
両者が同じ結論へ到達することはあるが、どちらの理屈で到達したかについては、たいてい最後まで争いが残る。
TIPS 04 教皇庁最高署名院
教皇庁最高署名院は、通常の刑事事件を最初から審理する法廷ではなく、複数の庁にまたがる権限争い、重大な手続違反、司法機関そのものが関係する事件、確定判断に対する例外的な救済などを扱う最高司法機関である。
第一庁の輪番法廷が「事件について何が起きたか」を裁く機関だとすれば、最高署名院は「その事件を裁く制度が正しく働いていたか」を審査する機関に近い。
名称は、かつて通常の手続きでは処理できない請願書を教皇の署名へ回した慣習に由来するとされる。現在では教皇本人より書記官の方がはるかに多く署名しているが、名称変更の請願は長年、署名院の審査中である。
TIPS 05 共感不能と刑事責任
あるサンクタから感情を感じ取れないことは、その人物に感情が存在しないことを意味しない。また、悲しみが伝わらないことは、死者を悲しんでいない証明にもならず、共感不能の状態そのものを殺意、虚偽、危険性の根拠として扱うことはできない。
刑事責任を判断するためには、何を行ったのか、その結果を予見できたのか、どのような意図があったのかを、供述と客観的な証拠によって検討する必要がある。光輪や共感の反応は観測事項にはなり得ても、それだけで有罪を導く判決文にはならない。
少なくとも、そうあるべきだというのが、権利擁護官たちの主張である。