第一庁の予備審理が終わるころには、諸聖徒広場を照らす陽は大聖堂の正面を離れ、列柱廊の内側へと斜めに差し込んでいた。
朝には青白く冷えて見えた石畳が、今は蜜を薄く塗ったような温かな色を帯びている。広場を埋め尽くしていた群衆の一部は昼食のために散ったものの、その空いた場所には、教区学校の授業を終えた学生や午後の礼拝を目当てに訪れた巡礼者が入り込み、結果として抗議の人数はほとんど減っていなかった。
彼らが掲げる標語は朝よりもさらに増え、内容もいっそう断定的になっている。
『心のない被告人を裁け』
『守護銃を返すな』
『法の沈黙を許すな』
アウレリア・セラフィーニは、正式にはまだ被告人ではない。予備審理で決められたのはわずか三日間の暫定拘束だけであり、第一庁輪番法廷へ公訴が提起されたわけでも、正義促進官室が起訴状を作成したわけでもなかった。
それでも広場の人々は、すでに確定した判決を読み終えた者の声で彼女を呼んでいる。
標語板を掲げた抗議者たちは、昼になると示し合わせたように列を離れ、広場脇の菓子店でジェラートと飲み物を買ってから、何事もなかったかのように元の場所へ戻っていった。店主は政治的中立を標榜しながらも、抗議者向けの大箱、報道記録員向けの携行箱、長時間の警備に立つ執行人向けの塩分を強くしたスイーツの詰合せを、それぞれ異なる値段で手際よく売っている。
ラテラーノでは、正義を叫ぶにも十分な糖分が必要だった。
リヴィオは、第五庁庁舎の二階を走る連絡回廊から、その喧騒を見下ろしていた。
窓の向こうでは無数の光輪が陽を受け、遠目にはまるで金貨が宙へ投げ上げられているように見える。その一つ一つの下に、怒っている者、怯えている者、あるいは好奇心だけで立っている者がいるはずだったが、非サンクタであるリヴィオには、それらを外見から推し量るほかなかった。
広場に集まったサンクタたちは、互いの感情を直接感じ取っている。
怒りは別の怒りへ触れ、恐怖は理由の異なる恐怖を呼び寄せ、やがて誰が最初に何を恐れたのかすら分からなくなっていく。共感は「理解」のために与えられたものだと教区学校では教えられるが、大勢が一か所へ集まれば、それは個人と個人を結ぶ力というより、広場全体を吹き抜ける風に似ていた。
風は、一人ずつの事情など尋ねない。熱の高い場所から低い場所へ流れ、抗議文も新聞も、菓子包みの紙も区別せずに巻き上げるだけだ。
「証拠閲覧の準備ができました」
背後から声をかけられ、リヴィオは窓から離れた。
ベアトリーチェ・ノヴァが、回廊の奥にある認証扉の前に立っている。予備審理で着ていた黒い法衣は脱ぎ、濃い灰色の執務服へ着替えていたが、襟元には正義促進官を示す銀章が冷たく残されていた。
「第一庁へ戻らなくてよいのですか」
「証拠はまだ第五庁の保全下にあります。公訴を担当する側が、保管官署から開示を受けるのも職務ですから」
「その開示を、あなた自身が管理するのですか?」
「管理するのは第五庁の証拠保全官です。私は正義促進官として開示対象を示し、あなたは権利擁護官として不足を指摘する。そして、第一庁の記録官が双方の動きを記録します」
ベアトリーチェは無表情のまま、認証盤へ指を置いた。
第一庁は、拘束や捜索の適法性を審査し、事件が起訴されれば法廷で事実と責任を判断する。しかし、発射現場へ入り、証拠を回収し、鑑定施設へ運び、保管庫を厳重に管理するのは、第五庁である公証人役場の仕事だった。
裁く者と証拠を集める者を分けることは、国家が自ら作った物語を自ら正しいと宣言しないために、絶対に必要な制度とされている。
もっとも、両者が同じ連絡回廊を使い、同じ食堂で昼食を取り、急ぎの書類を互いの机へ直接運ぶことまでは禁じられていなかった。
「欠落文書については?」
リヴィオが尋ねると、ベアトリーチェは認証の電子音が鳴り終わるのを待ってから答えた。
「最高署名院附属文書院が持出記録を確認しています。回収文書のうち一点には第七庁の旧機密指定が残っているため、そちらからも立会人が来ます」
「予備審理官は、四十八時間以内に開示範囲を確定するよう命じました」
「命令から、まだ一時間も経っていませんよ」
「国家は期限を命じられると、最初に残り時間を計算するのですね」
「権利擁護官は期限を得ると、最初に一時間を消費済みとして数え始める」
重い音とともに、認証扉の錠が外れた。
「始めましょう。文句を言うにも、まず中身を見る必要があります」
***
証拠閲覧室は、第五庁庁舎の中でも外壁から遠く離れた場所に設けられていた。
廊下を二度曲がり、認証扉を三枚通過した先にあり、窓は一つもない。紙や布が陽光で退色するのを避けるためでもあったが、外で続く抗議の叫びや祝砲の音が、証拠を見る者の判断へ無意識に入り込まないようにするための配慮でもあった。
完全な防音というわけではない。扉が閉じれば広場の声は聞こえなくなるものの、近くの回廊を重い保管箱が通れば、床を伝うわずかな震動は届く。国家は外界を完全に遮断できるとは考えておらず、ただ、何が判断へ影響したのかを把握しやすくしようとしていた。
室内には、紙、封蝋、金属、そして古い布の匂いが淀むように混じっている。中央の長い机には灰色の保全箱が三つ置かれ、蓋の上には事件番号とともに、発見者、引渡者、保管担当者、開封立会人の署名欄が細かく並んでいた。
証拠は、ただ「現場で見つかった」というだけでは法廷へ持ち込めない。誰が、どの場所で、どのような状態の物を発見し、何時に誰へ渡し、その後どの保管庫へ収めたのか。その連続が完全に証明されて初めて、物は事件と結びついた「証拠」として扱われる。
ラテラーノでは、それを『保全鎖』と呼ぶ。
鎖の輪を一つでも欠けば、物そのものが本物であったとしても、途中で何者かに交換されていないことや、状態を変えられていないことを証明できなくなる。後から署名を補うことはできるが、後から補われたという事実もまた、消すことのできない記録として残ってしまうのだ。
机の端には、第一庁の法定記録官ニコラ・デ・ルチアが静かに座っていた。
濃褐色の髪の間から、同じ色調の細い耳羽がこめかみを覆い、耳の後ろへと滑らかに流れている。頭上に光輪はなく、背後に光翼も浮かんでいない。広場や法廷でサンクタばかりを見慣れた者の目には、彼女の周囲だけ光が一つ少ないようにも見えたが、本人はその空白を意識する様子もなく、机上の記録板へ視線を落としていた。
年若いリーベリであり、胸元には氏名票とともに、第一庁法定記録官を示す細い銀鎖を掛けている。羽毛の先まで乱れなく整えられた姿と、必要な文書だけを手の届く順番へ置く慎重な所作からは、法学院を出て間もない若さよりも、記録を一行でも曖昧にすることへの強迫的な警戒の方が強く感じられた。
ニコラは、リヴィオとベアトリーチェの入室時刻、認証に用いられた権限、保全箱の封印番号を、すでに手元へ記録し終えている。二人が言葉を交わしている間にも、源石筆の先は迷わず動き、発言だけでなく、誰がどの証拠へ触れ、どの頁で手を止めたかまで、後から確認できる形へと整えていった。
彼女がこの場にいるのは、単に証拠の内容を書き写すためだけではない。
捜査側がどの情報を、いつ弁護側へ開示したのか。弁護側が何を質問し、追加の鑑定や記録を求めたのか。その要求に対し、正義促進官と第五庁の保全担当者がどのように応じたのか。それらも後の審理で争点となり得るため、証拠を見る者たちの動きそのものが記録されるのだ。
サンクタ同士の共感が満ちる法廷にあっても、ニコラが頼るのは不確かな感情ではなかった。誰が不安を覚えたかではなく、誰が何を述べたか。誰が誠実に見えたかではなく、どの言葉が記録へ残されたか。
法は事件を記録するだけでなく、事件を扱う国家の動きも記録しなければならない。その役目を担う彼女の前では、光輪の沈黙も、声に出されない疑念も、記載すべき事実にはならなかった。
「本日、通常開示の対象となるのは、押収守護銃、現場写真、初期弾道報告、保守用音響記録、被害者の携行品一覧です」
ベアトリーチェは抑揚のない声で一覧を読み上げた。
「封印文書は一般証拠から分離され、別の保全下にあります。そちらは通常開示が終了した後、第七庁の立会人を加えて扱います」
「欠落している文書の題名は?」
「現時点では開示範囲が確定していません」
「その回答も記録してください」
リヴィオが言うと、ニコラの源石筆が静かに動いた。
ベアトリーチェは最初の箱へ手を置き、事務的な声で封印番号を読み上げてから重い蓋を開いた。
透明な保全袋に収められていたのは、一丁の守護銃。アウレリア・セラフィーニの登録銃だった。
銀白色の銃身には、細い蔓草と小さな鐘を組み合わせた美しい彫刻が施されている。銃把は長年の使用によって角の艶を失っていたが、銃身そのものに大きな損傷はない。しかし、銃口の内側には、エッチング弾を発射した際に生じたばかりの淡い結晶状の曇りが残っていた。
「登録番号と所有者は完全に一致しています。最終整備は三か月前。そして事件当日、この銃から一発が発射されたことも確認されています」
ベアトリーチェが守護銃の鑑定書を開いた。
「被害者の体内から摘出された弾体は、間違いなくこの銃身を通過したものです」
「発射した人物は分かりますか」
「分かりません」
ベアトリーチェの答えは簡潔だった。
「守護銃の回路には、直前の作動記録が残ります。ただし本件では、発射時の記録が大きく乱れていました。アウレリアの銃であることと、一度発射されたことまでは確認できますが、誰が回路を操作したかを特定できる状態ではありません」
「つまり、所有者本人が撃ったという明確な記録ではない」
「そうです」
「予備審理では、そこの部分が十分に区別されていなかった」
「あの時点で判明していたのは、彼女の登録銃が使用され、発見時にも彼女がそれを所持していたという事実だけです」
「自ら所持していたのではなく、誰かに持たされていた可能性は?」
「可能性はあります」
ベアトリーチェは、現場に踏み込んだリケーレの胸部映像から切り出された一枚の静止画を示した。
写真の中で、アウレリアの指は引き金から外れ、銃把を支える位置もひどく不安定だった。自分で発射した直後に銃を保持していたというより、意識の薄濁った手へ、後から第三者がそっと置いたようにも見える。
「ただし、写真だけで断定はできません」
「銃の底にある傷は?」
「落下痕です」
「発見時に彼女が落とした際のものですか」
「リケーレの映像では、その時に床へ当たったのは銃把の側面でした。底部の傷は、それ以前についたものと考えられています」
「事件中、すでに一度落ちていた」
「その可能性があります」
アウレリアが意識を失った際に銃を落とし、別の者が拾ったのだとすれば、発見時の所持だけを根拠に彼女を発射者と決めることはできない。
守護銃が記録していたのは、それが誰の所有物であり、いつ作動したかという事実までだった。誰が、どのような意図で引き金を引いたのかは、別の証拠によって確かめなければならない。
ベアトリーチェは二つ目の箱を開いた。
鐘楼の現場写真と、音響記録の複写が収められている。写真は撮影時刻の順に並べられていた。
最初の一枚には、朝日が差し込む鐘楼最上階で血を流して倒れているマティアスと、数歩離れた場所に立ち尽くすアウレリアが写っている。リケーレの胸部記録器から切り出した画像であるため、画面の端には、彼がアウレリアへ向けて伸ばした腕の一部が入り込んでいた。
次の写真では、守護銃が床に落ちている。
さらに後の写真では、遺体の周囲に測定標識が置かれ、血痕の輪郭、足跡、倒れた譜面台、床板と制御柱の損傷が番号によって整理されていた。鐘楼の床は、黒と白の石を組み合わせた古い幾何学模様で覆われている。その上を、血だけが規則的な模様を無視して無惨に広がっていた。
人間がどれほど精密な法を作ろうとも、血は法文など読まない。
「被害者の位置は、鐘の中心より北側へ寄っています」
リヴィオは複数の写真を机上に並べた。
「アウレリアが発見されたのは南側。距離は?」
「六・四メートルです」
「傷口の角度は?」
ベアトリーチェが初期弾道報告を差し出した。
入口創は胸部右上。弾道は前方から後方へ進みながら、わずかに下降し、変形した弾体は背部側の肋骨付近で停止している。
「発見位置から撃ったなら、床の高低差を考慮しても角度が合わない」
「司法医と守護銃鑑定官も、発見位置からの直接射撃には疑問があるとしています。ただし、発射後に移動した可能性を除外できないため、現場の再現が必要です」
「金属製譜面台の損傷は?」
次の写真には、鐘楼北側へ倒れた譜面台が写っていた。脚部の装飾には新しい裂け目があり、金属が鋭く外側へめくれている。裂け目の周辺には、弾体から剥がれた微細な金属片が付着していた。
「弾体は先に譜面台へ当たり、そこで向きを変えた」
「その可能性が高いとされています」
「跳弾なら、発射位置は譜面台の南西側です」
リヴィオは写真の上に指を置き、想定される弾道の線をなぞった。南西から譜面台へ進み、金属へ当たって北寄りに偏向し、マティアスの胸へ入る。その線は、アウレリアが発見された位置とは明らかに一致しない。
「撃った後に移動した可能性は残ります」
ベアトリーチェが言った。
「意識を失っていたという、彼女の供述が誤っているならですが」
「感情を読めないから、供述を疑うのですか?」
「物理的な証拠と一致しない可能性があるから疑うのです。共感の有無は関係ありません」
「まだ、一致しないと確定したわけでもない」
「だからこそ、捜査を続けています」
ニコラの筆だけが、二人の間に落ちたピンと張り詰めた沈黙を縫うように動いていた。
「音響記録を」
リヴィオが求めると、ベアトリーチェは薄い記録板を机の中央へ置いた。
鐘楼の保守装置は、鐘の共鳴状態を確認するため、一定の周波数帯を常時記録している。会話を明瞭に録音するための装置ではないが、鐘、設備の破損、守護銃の発射のような大きな物理的変化は、振動の波形として残る。
画面には、濁った鐘の波形に続いて、鋭い二つの山が立っていた。
「二つ、ありますね」
「間隔は〇・六秒です」
「二回の発射?」
「二つ目は、押収された守護銃の発射と一致します。しかし、一つ目は異なる波形です」
「制御柱の損傷は?」
リヴィオは番号の付された写真を引き寄せた。鐘の制御柱の下部に新しい穿孔があり、その奥には、押収守護銃の弾体とは明らかに異なる小型の弾体が深く食い込んでいた。
「一つ目の波形と関係している可能性があります」
「つまり、最初に別の銃が制御柱へ撃たれ、その〇・六秒後にアウレリアの守護銃が発射された」
「現段階では、有力な仮説です」
「テオ・ヴィアンキは所在不明」
「それだけで、彼が撃ったとは言えません」
リヴィオは記録板に残る二つの波形の山をじっと見つめた。
最初の発射から、わずか〇・六秒後。
床へ落ちた銃を探し、拾い上げ、照準を合わせるにはあまりにも短すぎる時間だ。だが、最初の銃声より前から誰かがアウレリアの守護銃を手に構えていたなら、反射的に撃ち返すことはできる。
問題は、その銃がいつ床へ落ち、誰が拾い上げたのかだった。
***
ベアトリーチェは三つ目の箱を開いた。
収められていたのは、マティアス・ロッシーニが身につけていた品々だった。細い縁の眼鏡、使徒公証官の印章、古い懐中時計、葡萄糖を固めた硬い菓子、小型の認証端末。どれも一つずつ透明な保全袋へ分けられ、発見位置と回収時刻を記した札が几帳面に添えられている。
リヴィオは携行品一覧へ目を通した。
「被害者自身の守護銃は?」
「現場にはありませんでした」
「紛失しているのですか」
「いいえ。彼の登録銃は、最高署名院附属文書院の個人保管庫にあります。事件当日の朝にも封印状態が確認され、その後に出庫された記録はありません」
「使徒公証官が、守護銃を持たずに鐘楼へ来た?」
「ロッシーニ公証官は、通常の記録調査では守護銃を携行していなかったようです。」
リヴィオは、最初の箱に収められたアウレリアの守護銃へ視線を移した。
「最初の発射が起きたとき、彼の手元には自分の銃がなかった」
「それは確認できます」
「では、アウレリアの銃へ触れた痕跡は?」
ベアトリーチェは、マティアスが着ていた法衣の写真を示した。
「右袖の縁に新しい裂け目があります。そして、押収守護銃の紐留めの輪にも、同じ色の繊維が挟まっていました」
写真を拡大すると、袖口の縁が数本だけ引きつれ、縫い込まれた細い銀糸が途切れていた。対して、守護銃の銃把下部にある底部の環状金具には、その銀糸と濃い布の繊維が複雑に絡みついている。
「ロッシーニが床の銃を拾った際に、袖を引っ掛けた?」
「その可能性があります。少なくとも、事件の前後に彼の袖がこの銃へ接触したことは間違いない」
「銃把の接触痕は?」
「表面は、意図的に拭われています」
ベアトリーチェは次の写真を示した。
銃把の平らな面には、布で一方向へ強く擦ったような跡が残っていた。一方で、指が入り込む溝の奥や金具の裏側といった拭きにくい場所には、細かな繊維と皮脂が残されている。
「アウレリアの手も?」
「右手の掌が拭われた形跡はありません。ロッシーニ公証官の右手にはあります」
遺体の掌には、手首側から指先へ向かって走る細かな擦過痕が残っていた。
「誰かが、ロッシーニの手と銃を拭いた」
「その可能性があります」
「彼が発射者だと分からないように偽装するために?」
「その可能性はあります。ただし、拭き方は証拠の除去としては不完全です」
「不完全?」
「金具の裏や指溝に皮脂が残っています。痕跡を消すことが目的なら、そこまで処理しなければ意味がありません。それより、掌と銃把の接触面に付着した粉塵や油を、急いで取り除こうとしたように見えます」
発見時の配置は、決して銃撃の瞬間をそのまま保存したものではなかった。
銃は一度落ち、誰かに拾われ、マティアスの袖へ触れ、その後で表面を念入りに拭われている。そして最後には、意識の薄いアウレリアの手へと戻った可能性が高かった。
たとえ守護銃の回路が発射者の名を記録し損ねていたとしても、物の動きは別の形で必ず記録される。
擦れた金属、切れた糸、拭われた表面。
人間が必死に消そうとしたものほど、その周囲に不自然な『空白』を残すことがあるのだ。
「この鑑定結果が予備審理前に出ていれば、拘束判断は変わっていましたか」
リヴィオが尋ねた。
「私が答えることではありません」
「正義促進官としての意見を聞いています」
「アウレリアが発射したという推定は弱くなったでしょう。しかし、現場で死亡者が発見され、テオ・ヴィアンキが行方不明で、事件後に証拠が動かされた疑いもある。彼女自身を保護し、供述と身体状態を確認する必要まで消えるわけではありません」
「保護という言葉で、拘束を言い換えるのですか?」
「拘束が本人の利益にもなる場合があることと、拘束であることを隠すことは別です」
ベアトリーチェは携行品箱の蓋をパタンと閉じた。
「通常証拠の開示は、ここまでです」
その時、閲覧室の扉が三度、規則的な間隔で叩かれた。
ニコラが時刻を記録し、第五庁の証拠保全官へ確認を送る。認証が成立すると扉が重い音を立てて開き、長身のサンクタが、細長い保全箱を伴って入室した。
午前中、予備審理室へ向かう回廊で顔を合わせた男だった。オレン・アルジオラス。
あの時は第五庁の臨時通行証だけを見せ、事件記録の一部に第七庁の照会が掛かっていると告げただけだったが、今は淡い色の外套の胸元に、第七庁万国トランスポーターの職章と、機密記録の開示に立ち会うための認証章を並べて留めている。
「今度は通りすがりではなさそうですね」
リヴィオが皮肉を言うと、オレンは悪びれる様子もなく応じた。
「午前中も通りすがりではなかったですよ。君が、呼ばれてもいない場所で勝手に質問を始めただけだ」
「質問されたくない者は、権限章を隠すものです」
「見せなければ、もっとしつこく質問するだろう」
オレンは、机上に開かれた保全箱と、記録を続けるニコラへ視線を移した。
「先ほどは詳しく説明できなかったが、改めて名乗っておく。第七庁万国トランスポーター、オレン・アルジオラス。今回は外交任務ではなく、旧機密記録の確認と開示立会いを命じられている」
「殺人事件の捜査にも参加するおつもりで?」
「しない」
オレンは即座に答えた。
「現場と守護銃を調べるのは第五庁、拘束と訴追を扱うのは第一庁だ。俺にはアウレリア・セラフィーニを尋問する権限も、拘束条件へ口を出す権限もない」
「自分からそこまで否定すると、かえって疑わしく聞こえますが」
「否定しなければ、第七庁が殺人事件を奪いに来たと君が記録官に書かせるだろうからな」
ニコラの源石筆が、一瞬だけ止まった。
「書くのは私です」
彼女は顔を上げずに淡々と言った。
「そして、事実でなければ書きません」
オレンはわずかに眉を上げた。
「第一庁は、随分とよい記録官を連れている」
「分類は審理の後にしてください」
リヴィオが遮ると、オレンは小さく肩をすくめた。
「第七庁が確認するのは、回収された文書に残る旧機密指定と、欠落した文書が国外関係者または国家保全へ影響する性質のものかどうかだ」
「欠落文書が、第七庁の記録だと分かっているのですか」
「分かっていない。だから確認しに来たんだ」
オレンの後ろから、第五庁の証拠保全官が細長い箱を机へ載せた。
「最高署名院附属文書院の持出許可証では、ロッシーニ公証官が鐘楼へ持ち込んだ封緘単位は四点。現場で回収されたのは三点だ。三点のうち一つに、現在の第七庁へ承継された旧機密指定がある」
「残りの二点は?」
「第三庁の旧設備記録と、第六庁へ移管された観測記録。だが、三十二年前の記録は、現在の庁別分類で作られていない。文書の表紙だけを見て、どの庁のものか決めることはできない」
「欠落した一点の題名は?」
「持出許可証では、個別の題名が秘匿されています。最高署名院の訴願手続に付随する文書であることまでは確認できるが、本文の開示範囲は署名院が判断する」
「第七庁の機密ではない?」
「それも、まだ断定できない。添付資料に旧第七庁記録が含まれている可能性はあるからな」
リヴィオは細長い箱へ目を向けた。
「開けられるものは?」
「二点です。旧機密指定の残る一点は、表紙、封印番号、保全経路のみ。内容は第七庁だけの判断で隠せないが、解除するにも記録の確認が要る」
「確認に何日かかります」
「君が怒らずに待てる日数よりは長いだろうね」
「では、急いでください」
「それは命令ですか」
「分類はお任せします」
オレンが保全箱の認証盤へ指を置き、ベアトリーチェと第五庁保全官が順に確認を加えた。最後にニコラが、三者の認証時刻を記録する。
箱の中には、紫色の紐で封じられた文書が三点、互いに触れないよう慎重に固定されていた。
一冊目の表紙には、古い書式で題名が記されている。
『鐘楼共鳴管第三次改修に関する技術監査』
二冊目には、
『典礼音響設備の異常と光輪反応に関する予備観測』
とあった。
三冊目の表紙には題名がなく、旧式の機密番号と、第七庁へ承継されたことを示す新しい管理票だけが貼られている。
ベアトリーチェは、閲覧可能な二冊の封印へ解除印を当てた。紫の紐を切らず、封緘を開いた時刻と閲覧者を記録した後で外していく。封印文書は、誰にも見られない文書ではない。誰が、いつ、どの権限で見たのかを、国家が忘れないようにされた文書である。
どちらも三十二年前に作成されたものだった。技術用語と古い分類記号が多く、全体を理解するには第三庁の音響設備技師と、第六庁の医療専門官の協力が必要になる。それでも専門家ではないリヴィオにも、同じ語が何度も現れていることは分かった。
『共鳴偏位』
『感応遅延』
『集団反応の減衰』
「この『集団反応』という語は、共感を指している?」
「当時の医学・教理合同研究で用いられていた分類語です」
ベアトリーチェが注記を示した。
「減衰が観測されている」
「微弱で、短時間のものです。原因も確定されていません」
「鐘楼で起きた現象と、同じ種類である可能性は?」
「専門鑑定が必要です」
「三十二年前から、鐘楼設備と共感障害の関連は疑われていた」
「関連の可能性が記録されていた、というところまでです。人為的に再現できたことや、恒久的な障害を起こしたことまでは、この二点から読み取れません」
リヴィオは二冊の文書と、開示されない三冊目を見比べた。
「開示されない文書には、実験結果がありますか」
「内容については答えられない」
オレンが言った。
「知らないのですか。それとも知っていて答えない?」
「その質問に答えれば、知らない場合にも、知っている場合にも、機密の有無を示すことになる」
「便利な沈黙ですね」
「機密実務は、そういう不便を便利に使う仕事だ」
沈黙は否定ではない。しかし沈黙にも種類があり、法廷に長くいる者は、答えを知らない沈黙と、知っていて答えない沈黙を区別したくなるものだ。だが、その区別が正しい保証はない。だからこそ、安易な推測を記録に変えてはならなかった。
「ロッシーニ公証官は、これらの文書を適法に持ち出していたのですか」
「最高署名院から、複数庁の記録を照合するための特別委任状が出ています」
ベアトリーチェが答えた。
「使徒公証官として閲覧と一時移管を行う権限はありました。鐘楼設備との照合が必要であることも、委任状に記載されています」
「では、問題はない?」
「一点について、第二庁の継承記録と第七庁の保管記録が一致していない」
オレンが三冊目の管理票を指した。
「この文書の旧保管官署は三十二年前に廃止されている。内容は第七庁へ承継されたが、持出しを許可する権限が、どの官署へ移ったのかが明確ではない」
「現物は第七庁が保管していた」
「現物を保管していることと、法的な処分権限を持つことは同じではない。保管は第七庁、旧職務の継承は第二庁、訴願手続のための一時移管は最高署名院。三者の記録が違うんだ」
「使徒公証官の印章があっても、すべての扉が開くわけではない」
「当然です」
ベアトリーチェが言った。
「使徒公証官は教皇の代理人ではありません。文書を集め、認証し、法廷へ届ける権限を持つのであって、各庁の機密指定や保管権限を自由に消せるわけではない」
「ロッシーニは、その境界を越えた?」
「……それを調べています」
ベアトリーチェの声に、ごくわずかな硬さが混じった。
リヴィオは書類から顔を上げた。
「ロッシーニ使徒公証官と面識があったのですか」
「法学院で、証拠法の講義を受けました」
「どんな教師でした?」
「学生が曖昧な答えをすると、表現だけを変えて同じ質問を三度繰り返す人でした」
「好かれていた?」
「好かれることを職務にしていませんでした」
「あなたと似ていますね」
ニコラが筆を止めずに、ほんの少しだけ口元を緩めた。
オレンは三冊目の封印を見下ろしていた。
「一つ、確かなことがある」
「何です」
「この文書の機密指定は、廃止時に整理されていない。旧官署の管理番号が、現在の第七庁記録にも残り、第二庁の継承台帳にも残っている」
「同じ権限が、二つの官署で生きている?」
「少なくとも記録上はな。そして、どちらも自分が正式な継承先だと証明できていない」
「死んだ官署の秘密だけが生き残った」
リヴィオが言うと、オレンは否定しなかった。
「秘密は、内容より長生きすることがある」
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TIPS 01 証拠保全鎖
事件現場で回収された物は、発見されたという事実だけでは法廷の証拠にならない。誰が、どこで、どのような状態で発見し、何時に誰へ引き渡し、どの保管庫へ収めたのか。その経路が途切れず記録されて初めて、事件と結びついた証拠として扱われる。
ラテラーノでは、この記録の連続を「保全鎖」と呼ぶ。
保全鎖に欠落があれば、物そのものが本物であっても、途中で交換、加工、変造された可能性を否定できなくなる。後から署名や説明を追加することはできるが、後から補われたという事実そのものを消すことはできない。
証拠閲覧の場にも記録官が立ち会い、誰が、いつ、何を見て、どのような疑問を述べたかを記録する。法が記録しなければならないのは、事件の内容だけではなく、事件を扱った国家の行動でもある。
TIPS 02 守護銃の発射鑑定
守護銃は、一般的な火薬の燃焼によって弾体を発射する武器ではない。サンクタが銃身とエッチング弾に組み込まれた回路へアーツを通し、一つの術式として制御することで作動する。
発射後の銃身には、直前に作動したことを示す回路の変化や、弾体が通過した痕跡が残る。そのため、ある弾体がどの銃から発射されたか、銃が何回作動したかについては、守護銃鑑定によって確認できる場合がある。
しかし、守護銃が長時間にわたり発射者個人のアーツ反応を保存するわけではない。
TIPS 03 通常証拠と機密文書
機密指定を受けた文書が事件現場で回収された場合でも、一般の携行品と同じ箱へ入れ、その場で自由に閲覧することはできない。
現場を担当する第五庁は、文書の外形、封印番号、発見位置を記録したうえで、所管官署や文書院へ引き渡す。内容を開示できる範囲は、捜査上の必要だけではなく、文書の機密指定、個人情報、他庁の権限、継続中の訴願手続などを考慮して決められる。
ただし、「機密である」という理由だけで、被疑者に有利な情報を刑事手続から隠してよいわけではない。機密を保つ必要と、市民が自分に向けられた証拠へ反論する権利が衝突した場合には、第一庁や最高署名院が開示方法を判断する。
全文を見せる代わりに、題名、作成時期、保管経路、事件に関係する部分だけを開示することもある。