祓いの巫女
「そこにいるのはもしや、天狗様ですか?」
その日、齢七歳となる
ここは空気も薄い山の上に建つ神社だが、天狗を見るのは初めてだった。いや、実際にはそれは天狗ではなく、真っ赤な天狗面をつけた青年なのだが、それにしても江戸の世が終わろうとしている昨今、そのような面をつけて神社を訪れる奇人など、そうそういるものではない。
落ち葉を掃くための箒を小さな手に握ったまま。社の鳥居を見上げて立っていた天狗の元へと、花枝はとてとてと駆け寄っていく。幼いその体躯とともに、紅白の巫女装束がばさばさと揺れる。
見れば天狗は、まるで水面を漂うような水色の瑞雲を映した羽織を身につけ、腰には刀を佩いていた。
普通の子供の感覚ならば腰に刀を佩いた天狗男など警戒すべき対象だが、花枝は普通の子供ではなかった。恐れを知らず、警戒心よりも好奇心が強い。
そしてその天狗は――幼子から声をかけられ、戸惑っていた。
「天狗様?」
「いや、儂は――」
「天狗様も、最近多くいらっしゃる『きさつたい』の方ですよね?『きさつたい』には、天狗がおいでなのですか?」
「いや、儂は人間だ。ほら、これはただの面だよ」
「わあ、ほんとだ。優しそうなお顔!
「む……」
彼は天狗なれど、天狗ではない。
少しだけその天狗面をずらして幼子に優しげな素顔を見せると、彼はすぐにその面で素顔を隠してしまう。
その素顔は天狗でこそなかったけれど、天狗の面をつけた奇妙な人物であることには変わりないので、花枝は好奇心を宿らせた瞳のままその天狗の前に立ち、ジッと見上げる。
その青年の名は鱗滝左近次。花枝の言う『きさつたい』における最強の剣士のひとり、当代の水柱その人だ。
「しかし、儂が『鬼殺隊』だと……どうして、そう思うのかね?」
「だって、もう何人もの『きさつたい』の方がいらしたんですよ。皆様、わたしの『力』のことばかり気にしているのですが、背中にものすごく暗い『呪い』を背負っていてわかりやすいんです」
幼子は無遠慮に天狗の後ろへとまわると、ぽんぽんと。
まるで埃を落とすかのように、ぐっと手を伸ばして何度か天狗の背を叩く。
「特に、天狗様は……離れて見てもそこに居ることがわかるくらい、多くの呪いを背負っておりますよ? ほら、少し祓った程度では全然足りません」
「呪い……か」
鱗滝は、小さくそう、呟いた。
彼は天狗の面で顔を隠している。幼い巫女を見つめるその表情は、天狗の形相に隠れ、わからない。
先ほどちらりと見せた優しい素顔で微笑んでいるのかもしれない。少女の語った異様な話に眉を潜めているのかもしれない。あるいは、この幼子の持つ『力』を観察すべく、鋭い視線を向けているのかもしれない。
「儂は、鱗滝左近次という。きみの名を教えてもらえるだろうか」
「うふふ、鱗滝さまですね! わたしは花枝。御霊矢花枝と申します。この神社の巫女なんです! ……あっ、そうだ!」
そこまで話してから、花枝はぱっと思い出したように鱗滝の前に移動して、きちんと背を伸ばす。
先ほどまでの無遠慮な態度はなかったことにして、恭しく頭を下げた。
「鱗滝さま、ようお参りくださいました。ここは御霊矢神社にございます」
「……うむ」
七歳の御霊矢花枝と、若き日の鱗滝左近次。
この二人の出会いこそが、はるか先、数十年後の未来に希望をもたらす。
大きな、大きな転機となるのだった。
◇ ◇ ◇
ときは慶応四年。
のちに『戊辰戦争』と呼ばれる新政府軍と幕府軍の激しい争いが勃発し、日本という国が大きく変動することになる、その年のことだ。
とある霧深い山の上に、その御霊矢神社はあった。
はるか過去には、禍々しいものを浄化する力をもった『祓いの巫女』が生まれたという由緒正しき神社である。だが、間もなく明治を迎えるこの時代にはすでに、それも忘れ去られたお伽噺となっていた。
――けれど、今。その『祓いの巫女』が再誕したという噂が出まわっていた。
曰く、原因不明の不調をその巫女が治してくださった。
曰く、その巫女に手当をしていただいてからは、身のまわりから理不尽な不運が消え去った。
曰く、先祖代々伝わっていた触れば祟ると言われていた呪具を、巫女が鎮めてくださった。
曰く。曰く。曰く。
鱗滝がこの御霊矢神社を訪れたのは、その噂の真偽を確認するためであった。
昨年頃から巷で伝えられ、広まりつつある噂。呪いを断つ『祓いの巫女』。
残念なことに、似たような噂や売り文句を吹聴する神社仏閣などは、星の数ほどあるのが現実である。なので今回もまた、一部のものが大袈裟に吹聴しているだけだろう、と。鬼殺隊に属する鬼狩りたちも、当初はそう考えていた。
しかし、年があけてもなおその噂は止まず、むしろその噂は具体性を伴い、遠方まで広まりつつあった。
仮にその噂が真実で、巫女が真に『呪詛を断つ力』を持つのならば。それは、鬼殺隊の当主たる産屋敷一族には欠かせない力となる。
そして、あの日。
水柱たる鱗滝左近次は噂の真偽を確認すべく、産屋敷家の許可を得て。
ひとりこの山頂の神社を訪れ、そして、巫女と出会ったのだ。
「――もっとも、儂がくるより先に、すでに何人かの隊士が独断で花枝を見に訪れていたようだがな」
「きさつたいの皆様、わたしのことを気にする割に自分のことを話したがらないと思ったら、当主様に黙ってこちらまでいらしてたんですね」
鱗滝と花枝の二人は、境内の片隅に置かれた縁台に並んで腰を下ろしていた。鱗滝の腰元には、刀――日輪刀が佩かれているが、幼い花枝はそれを恐れる様子はみじんもない。
刀を恐れるどころか、鱗滝が麓の街から持ち寄った草団子を頬張り、にこにこ笑顔である。
二人が邂逅したあの日以降、鱗滝は頻繁にこの神社を訪れては、こうして花枝と語り合うようになっていた。
鱗滝は、いましがた花枝に話したように、花枝の持つ『浄化』の力を見定める目的で。
花枝は花枝で、鱗滝が訪れる度に持ってくる手土産と、花枝の知らない世間の話――もっとも、鱗滝が語るのは一般的な世間とは限らないのだが――が楽しみで。
そんな互いの思惑もありはしたが、今では歳の離れた兄妹のように親しげに言葉を交わしている。
鱗滝は花枝の両親とも時折何か難しい話をしているようだが、花枝としてはお土産の甘味があればそれでよかった。難しい話は大人だけで話し合えばいいのだ。
「でも、わたしが背中にある呪いを祓っても、皆様にはそれが見えないのですよね。わたしは嘘などついてないんですけど」
「ああ、それは申し訳ない。だが、儂らにはその……呪い、というものが見えないのだよ」
花枝は、その小さな口で一つ目の草団子をぺろりと食べてから、鱗滝に向き直る。
すでに慣れたもので、花枝は鱗滝の背中をぽんぽんと無遠慮に叩きながら説明をしていく。
「前にもお話しましたけど、鱗滝さまは……ううん、『きさつたい』の方々は、みんなご自分を呪っているんです」
「自分を?」
「後悔したりとか、自分を許さなかったりとか、ええと、ええと……なんだかそういう悲しいものが沢山溢れてて、自分で自分を呪っているんです!」
鱗滝は、人一倍に嗅覚が強い。
いや、それはもはや、嗅覚と呼ぶには異質過ぎるものかもしれない。鱗滝は、相手の感情の臭いすら読み取れるのだ。
そして、この幼い巫女が、少なくとも嘘などついていないということが、彼には分かる。分かってしまう。
「儂は、それらの『悲しいもの』を背負いすぎていたかね」
「はい! だから、ほら! ポンポンって! 優しくて、責任感の人一倍強い鱗滝さまが、自分を呪わなくてもいいように。後悔をきちんと綺麗に流せるように、わたしが呪いを消してあげますね!」
「む……」
「この背中は大勢の人たちを助けてきた背中ですから。大切に、大切にしましょうね」
花枝は何度もその小さな手で、鱗滝の背中をはたく。
ぽんぽん。
ぽんぽん。
「もし、わたしが危ない目にあっていたら、鱗滝さまは助けに来てくださいますか?」
「ああ、もちろんだ。約束しよう」
ぽんぽん。
ぽんぽん。
それはとても、優しく、か弱い手のひらだった。
鱗滝は、己がこのような幼い巫女――草団子を頬張り柔らかい笑顔を浮かべている花枝と、真の意味で対等な時間を過ごせるような男だとは思っていない。
この手は、すでに数え切れないほどの鬼の血で汚れている。
この背は、戦いの中で犠牲となった隊士たちが残していった、怨嗟、悔恨、嘆き。それらを背負い続けている。
だからこそ、それらを『呪い』と吐き捨てて、小さな手で祓おうとする幼子に対して。いったいどのような対応を見せればいいのかがわからなかった。
だが、鱗滝は気づいていた。
花枝と出会ってから、その背が軽くなっていることに。
「はい、ようやく綺麗に祓えました! これでしばらくは、今まで以上に元気になりますよね!」
「全て祓った……のか? すまない、儂にはなにも……いや、しかし……」
決して、犠牲になったものたちを忘れたわけではない。鬼となった人々の無念を軽んじているわけではない。
それでもなお鱗滝は今、『自分を許してもいいのではないか』と、思えるようになっていた。
「鱗滝さまがご自分を呪っているうちは、その呪いは消えることはありません。でも、溜まったらまた、わたしのところに来てくれればいいですよ」
「……ああ。そう、だな」
呪詛を断つ力。
それは大それた儀式でもなんでもなく、ただ単に、花枝が鱗滝の背中をぽんぽんと触っただけである。
しかし、しかし。
花枝の力に時間をかけて触れてきた鱗滝には確信できた。その力は、真である、と。
言葉での説明は難しい。けれど、花枝の手には間違いなく、呪縛を祓う何かが備わっている。
そしてそれは、産屋敷の一族にとって――非常に、大きな意味を持つ。
「また、キミに会いに来よう。次は、産屋敷家の使いとして、な」
「うふふ、そのときはまた、街のお土産をお願いしますね! この神社ではお団子なんて、なかなか食べられませんから」
「きみのお父上に怒られない程度に、だがな」
「わあ、それは厳しいですね」
花枝は、産屋敷の使いとして彼がやってくるということが、どういうことかを未だよくわかっていない節がある。彼女はただ無邪気に、鱗滝の再訪を楽しみにしている。
だが、今はそれでいいだろうと、鱗滝は思う。
赤い天狗面の下で、柔らかく、その瞳を細めながら。
◇ ◇ ◇
花枝の力について急ぎ産屋敷当主へと伝えるべく、鱗滝左近次がその地を離れたのは、この日の夕刻のことだった。
しかし、鱗滝はそのことを、後の人生で悔やみ続けることになる。自身を呪い続けることになる。
あの夜、自分があの山から離れていなければ。
あの夜、花枝の元にもっと速く、駆け付けられたならば。
――わたしが危ない目にあっていたら、鱗滝さまが助けに来てくださいますか?
――ああ、もちろんだ。約束しよう。
しかし、全てはもう、手遅れだった。
鱗滝左近次のもとに『御霊矢神社が焼け落ちた』という報が伝えられたのは。
その日の満月が、すでに天の中央へと昇った頃である。