炎
煉獄。
西洋の宗教について書かれた書物によれば、それは「地獄に墜ちるほどの罪はないけれど、天国にも入れない魂が、『浄化の苦罰』で罪を清められる世界」という意味の言葉だ。
いつの日か。
隠れ里に新たに作られることになる『図書室』で。
仄かに苦い思い出と共に、
◆ ◆ ◆
――明治十五年。
花枝がこの藤襲山に来てから、十五年目となった。
隠れ里は順調に開拓が進んでおり、最近では畑で農作物を育てるだけではなく、小川から水をひいた池で魚を養殖し、花畑では養蜂の知識を得て蜂蜜や蜜蝋も採れるようになった。これには花枝もにっこりだ。
塩や味噌は未だ藤の花の下に置かれる支給品に頼ってはいるものの、当初の何もなかった頃と比べれば花枝たちの生活は大きな進化を見せていた。
それでも。
定期的に開催される『最終選別』は変わらない。
藤の檻の中で。弱い鬼たちと未熟な若者たちが殺し合い、双方ともがそこで命を落としていく。
花枝たちはこの年もまた、鬼にやられてもまだ息のある者がいれば助け、亡くなった者の所持品からは里で有用そうなものを見繕うという習慣を続けていた。
「チッ、今回の選別にも子狐はいなさそうだな」
「手鬼は本当、鱗滝さんの弟子をいじめるのが好きですよね。たまには最終選別を通過させてあげてもいいじゃないですか」
「断る。少なくとも、手加減してる俺にすら敵わない連中が隊士になったところで早死にするだけだろうがよ」
今回の選別には、どうやら子狐――すなわち、鱗滝左近次が作った狐面をつけた若者は参加していないようである。
子狐を見つければ一目散に戦いを挑みに行く手鬼だが、子狐がいないと知ったとたんにやる気が失せてしまったらしく、共に散策中の花枝は相変わらずの苦笑いだ。
「いくら手加減をしているからって、最終選別の段階で手鬼に勝てる隊士なんてそんな――」
手鬼と雑談を交わしながら、藤襲山の上層をぐるりと一周するように歩いていた花枝だったけれど、ふと。
森の中を巡っていた風とは明らかに違う、異質な空気の流れに気がついて、足をとめた。
「あ? どうした巫女鬼」
「しっ。風見鬼さんの伝言だと思いますが、様子がおかしいです」
口に指をたて、手鬼を制し、風の音に耳を傾ける。
風見鬼の伝言。それは彼女の操るそよ風に声を乗せて遠方と会話する能力だ。だが、今日の風は何かが違っていた。いつもの繊細なそよ風ではなく、風見鬼にしては雑な、力任せの風なのだ。
そしてやはり、直後に届いた風見鬼の言葉は、緊急事態を告げていた。
『巫女鬼様……大変よ。隠れ里に、とてつもなく強い隊士が――』
「くそっ! 急ぐぞ巫女鬼っ!」
判断が早い。
手鬼は風見鬼の言葉の途中で既に動き始めていた。瞬時に腕を増やし、のんきな顔で風見鬼の言葉を聞いていた花枝を軽々と担ぎ上げる。
「わ、わあ! わあ!」
「テメェは黙ってしがみ付いてろ!!」
手鬼は何が起きているのかをよく理解出来ていない花枝を黙らせる。悠長に花枝の言葉を聞いたりはしない。とにかく彼は、
◇ ◇ ◇
鳥居を貫くほどの勢いで駆け抜けて、手鬼と、彼に荷物として運ばれたままの花枝が隠れ里へと入っていくと、そこには――。
「む、ようやくあやかしの長が来たか!」
拝殿の手前で仁王立ちをするようにして、日輪刀を携えた一人の少年が待ち構えていた。
それは、非常に目をひく外見の少年だった。まるで炎の化身かと言うような、黄と赤の明るい髪。瞳の色も明るく、そして少年だというのにとてつもない眼力を秘めている。
花枝がちらりと周囲を見遣れば、百合鬼や筆鬼を初めとした里の住民たちは全員無事に揃っており、少年から十分な距離をとり、いつでも戦えるように低く構えているのが見える。
手鬼は無造作に花枝を地面へと降ろすと、殺意のこもった視線を少年へと向けている。
だが、炎の色の少年は手鬼の視線など意にも介さず、真っ直ぐすぎる視線で花枝を見つめていた。そのあまりの眼力に、花枝は無意識に後ずさる。
「その姿、どこからどう見ても巫女だな! やはりあやかしを引き連れた巫女がいるという噂は真実だったか! 素晴らしいな!」
「……は? え、あの、あやかしってなんですか?」
「俺は是非とも、キミと話がしたい! だがどうやらここに住むあやかしたちは皆、俺のことを警戒しているようでな。どうしたものかと思っていたところだ!」
「あの、話ならまさに今、してるような、していないような……」
花枝と少年は、一応は交互に言葉を発している。だが、それだけだ。まったくと言っていいほどに、会話が成り立っていない。
花枝は先ほどから、少年の言葉を理解出来ないままにおろおろとした声を漏らしているだけである。そもそもこの少年には、花枝とまっとうな会話をするつもりがあるのかどうかすら怪しいものだった。
「おい……テメェ。ギンギラ野郎、巫女鬼を怖がらせるんじゃねえよ」
だが、そんな少年に真っ直ぐに立ち塞がるものがいる。それは当然、花枝の横で先ほどから相手を射貫くような殺気を放っている手鬼である。
この十五年で口の悪さが板についてしまった手鬼が、ずいと前に出て。少年の視線の圧から花枝を庇うように立つ。
なお、花枝は別に怖がってはいないのだが、それを言うと手鬼が怖いので黙っておくことにした。
「ここは鬼狩りが無遠慮に踏み荒らしていい場所じゃねえんだ。半殺しにされて山に放り出されるか、今すぐ自分の足で出て行くか、どちらかを選びな」
「なんと、この場所にも血気盛んなあやかしもいるのだな。俺はそこの巫女と話をしたいので帰るわけにはいかんのだが、しかし――」
この少年は、あくまで今回の『最終選別』の参加者だ。
けれど、花枝ですらわかる。今まで見てきたどの試験参加者よりも、目の前に居る少年は、圧倒的に。
強い。
「――力比べをすると言うのならば、是非もなし!!」
ドン、という音が聞こえた気がした。
炎の髪色の少年が日輪刀を構える。花枝の耳に、彼の呼吸音が聞こえる。それは、今まで見てきた試験参加者の子供たちなどとは比較にならぬほどの、力強い『炎』の呼吸だ。
少年の身からは、灼熱の炎がそこに渦巻いているかのような錯覚をおこすほどの、強烈な闘気が立ち上っている。
「だ、駄目ですよ手鬼! 彼は並の隊士じゃないです! それに、ここに入れたということは彼は悪い人ではありません!」
「チッ、わあってるよ! 殺しやしねえから安心しな! 巫女鬼は離れてろ、近づくんじゃねえぞ!」
「いい気合いだ! ならば、こちらも頸は斬らんと約束しよう! 手合わせ開始の合図は巫女どの、頼むぞ!」
「俺もちょうど、本気を出せばどれだけやれるのか試してみたかったところだ。やろうぜ、ギンギラ野郎!」
相手の闘気にあてられたのか、手鬼もすでにこれ以上ないほどに気を昂ぶらせていた。その顔はとても楽しげである。
花枝はおろおろと、離れた場所でこれを見ている住民達に視線を向けるが、誰一人として花枝と視線を合わせようとしない。悲しいことに、里の住民たちは皆して薄情者だ。
「じゃ、じゃあ……は、はじめ!」
仕方なしに。
花枝は少年から指名された通り、精一杯の合図を口にする羽目になるのだった。
◇ ◇ ◇
そこから先は、花枝にとってはわけのわからない、未知の領域だった。
地面が割れ、大気が破裂し、燃え盛る炎のような闘気が周囲を満たす。
とてもではないが、人間の子供程度の身体能力しか備わっていない花枝にはついていけず、そもそも目視することすら難しい、馬鹿みたいな戦いだった。
「炎の呼吸――壱ノ型、不知火!」
ドン、という破裂音と共に、少年の姿がかき消える。
気付けば手鬼の肩が斜めに斬り裂かれ、いくつかの腕が根元から切断された。
「アアァァァ!! クソがぁぁぁ!!!!」
手鬼も負けてはいない。
手鬼が気合いの雄叫びを入れると同時に、彼は――膨れあがった。
「わ、わあ!? 手鬼!? え、えええぇ?! なんですかそれっ!? 痛くないんですか!?」
花枝には何が起きているのかまったく理解できなかった。なにせ、少年の姿だった手鬼がまさに今、花枝の目の前で。みるみるうちに緑色の肌をした巨大な異形姿へと変貌し始めたのだから。
花枝の驚きの声があたりに響くが、戦っている当人たちにはまったく聞こえていないようだ。
「ほほう、それがキミの本気か! だが、標的がでかくなった!! 弐ノ型、昇り炎天!!」
巨大な異形へと変化した手鬼に向かい、炎の髪の少年が日輪刀を振るう。凄まじい闘気とともに、まるで炎が舞い上がったかのような幻覚が花枝の瞳に映る。
下から舞い上がる炎――いや、日輪刀による斬撃が、緑の巨人となった手鬼の腕を何本も同時に切断し、吹き飛ばした。
恐らくは、頚を落とそうと思えばいまの技で手鬼の頚は落ちていたはずだ。彼は本当に「手合わせ」のつもりのようだ。
「アアアァァァ! これなら避けられねぇだろうがあアアア!!」
しかし手鬼も負けてはいない。巨大な怪物姿の手鬼は、更に身体の至る所から腕を生やし始めた。かと思えば、まるで爆発したかの如き勢いで増えた巨腕が四方から一気に少年に襲いかかり、避けきれなかった少年が勢いよく地面を転がっていく。
既に二人の周囲の石畳は吹き飛び、土の地面が顔を出していた。皆で建てた半鐘の櫓も戦いの余波で大きく傾いている。
神社の建物自体に被害が出ていないのは、彼らなりに一応配慮をしているのか、はたまたただの偶然か。花枝にはもう、わからない。
「な、なんですかこれ!? 手鬼が膨らんだり、炎の幻が見えたり、一瞬で吹き飛んだり、わたしは今、何を見せつけられているんですか!?」
「み、巫女鬼様、こっちです! 解説とかしなくていいですから、とにかくもっと離れましょう! あんなのに巻き込まれたら身体が粉々になりますよっ!」
「ひ、ひえええ……」
気付けば、左の眼窩から百合の花を咲かせている鬼――百合鬼が花枝のすぐ側にいた。どうやら、この怪物同士の戦いの舞台となっている境内を横切ってまで、彼女は花枝を助けに来てくれたようだ。
さすがは百合鬼、この里の古株である。いざと言うときの勇気がすごい。
花枝は百合鬼に連れられ、とにかく戦う化け物たちから距離をとる。
いま、間違いなく花枝が言えることといえば。緑の異形となった手鬼も、炎の型を使う少年も。どちらも花枝の目では追いきれないほどの、無茶苦茶な強さだということだけである。
◇ ◇ ◇
「はぁ……はぁ……素晴らしい戦いだったぞ、手鬼! 俺もまだまだだな! またやろう!」
「げふっ……テメェこそ、やるじゃねえか……ギンギラ野郎」
「ははは……ギンギラではないぞ。俺は、煉獄槇寿郎と言う」
「ケッ……随分と物々しい名前じゃねえか」
いったいどれほどの時間、この二人は戦っていたのだろうか。もしかしたら時間としては短かったのかもしれないが、花枝からしたら途方もなく長く、激しい戦いに感じられた。
石畳が敷き詰められていたはずの地面は土塊まみれの荒れ地と化している。そして、戦いに巻き込まれてしまった半鐘台は跡形もなくなってしまった。鐘代わりに吊るされていた穴あき鍋はもう原型を留めていないので、新しい鐘を探さねばならない。
「ふふ……ふふふ、手鬼に槇寿郎、でしたか。お二人とも随分と楽しそうで、なによりですね」
「む! さすがはあやかしたちの長! なかなかの覇気だな!」
「げ、巫女鬼……! いや、これはだな……」
花枝は、散々暴れて周囲を破壊した上で、最後は爽やかな感じで仲良くなり、並んで大の字になっている二人に向けて。
もしかしたら、生まれてから初めてかもしれない『殺意のこもった笑顔』を向けたのだった。
◇ ◇ ◇
御霊矢花枝という少女の人生にとって、最初の大きな分岐点となった人物は、間違いなく鱗滝左近次だった。
そして、今この場にいる少年――煉獄槇寿郎。
彼との出会いもまた、花枝の人生における大きな分岐点へと繋がるのだが。
花枝はまだ、それを知らない。