ちゃぽん。
社家屋敷から木々を抜けた先に、湯気のたつ空間があった。
そこに設けられた、地面より一段低く作られた石窯からは、ぱちぱちと薪が焼ける音が響き、もくもくとした煙が黄昏の空へと高く上っていく。
石窯に隣接する形で掘られているのは、同じく石造りの『湯船』だ。石窯で熱された岩盤が、湯船へ流し込まれた川の水を温めていく。
そう。これは、隠れ里に新しく作られた施設――『露天風呂』である。
「わあ、すごい。露天風呂だなんて、わたし生まれて初めて入りますよ」
完成したばかりの露天風呂に最初に入るのはもちろん、この隠れ里の長である
花枝は槇寿郎から送られた巫女服を横の竹籠に畳み入れ、まずはかけ湯をして、そしてゆるりと岩の上から湯船に入っていく。
「巫女鬼様は身体が小さいんですから、足を滑らせて湯船で溺れないようにしてくださいねっ! あ、私が抱き留めておきましょうか?」
「あはは、子供じゃないんですから大丈夫ですよ、百合鬼」
「塗れた岩は……鬼をも滑らせる。油断すれば、痛い目を見るものよ」
そして、いまここにいるのは花枝だけではない。百合鬼、風見鬼の女性二人も花枝と共に露天風呂にやってきている。
彼女らも山に入ってきた当時の衣服ではなく、最近は槇寿郎から送られた衣服に身を包んでいるのだが、それを竹籠に畳んで入れていき、順番に湯船へと入っていく。
「どうですか? 巫女鬼様。お湯にはちゃんと浸かれていますか?」
「ええ。むしろ身体が小さい分だけ、のびのびできて快適です」
「揺らめくその姿は……水面に揺れる、水草のよう……」
湯船に浸かった花枝は、水中で四肢を脱力させ、まるで水草のようにゆらゆらと揺れている。これは湯船で身体を伸ばしても余裕のある七歳児の体躯だからこそ出来る、子供遊びだ。
もっとも、花枝の精神としては江戸の世に生まれてからもう三十年以上は経っているので、決してその内面が未だに子供のままというわけではない。
単に、大人げないだけである。
「風が、喜んでいるわ。ここは……草津の湯? それとも有馬の湯かしら?」
「残念っ、ここは
「わあ、悲しい現実」
残念ながら、ここは世に聞くような名湯ではない。というか、そもそもここは温泉ではない。
けれど、この世に生まれて初めての、気の置けない仲間たちと共にはいる露天風呂は、三人の鬼が冗談を言いながらはしゃぐには十分な体験だ。
女三人よらば姦しいという言葉があるが、それは人間でも鬼でも変わらないのだということを、花枝はこの日改めて学んだ。
『ガァ! ガァ! 露天風呂ハドウダ! 熱クナイカァ!』
「ええ、ちょうどいいですよ。ヤタガラスも入りませんか?」
『湯、ニガテ! ガァ! ガァ!』
途中、男子禁制の現在の露天風呂にヤタガラスが乱入してくることもあったけれど、女子三人にお湯をかけられそうになったヤタガラスは、あわてて逃げ去っていった。
この日から、花枝の日々の楽しみに『露天風呂』が追加されることとなる。
◇ ◇ ◇
「ふう。とてもいいお湯でした。湯上がりの蜂蜜水は癖になりますね。あとでお代わりしようかな」
「蜂蜜は貴重なんだから、あんまりばかすか飲むんじゃねえぞ、巫女鬼」
花枝はすでに着慣れた、胸から下が真っ赤に染まった白襦袢姿で社家屋敷へと戻る。この衣装は鬼となっていつしか、花枝の力としていつでも再現できるようになっていた。
槇寿郎が持ってきてくれた巫女服は良いものではあるのだが、定期的に洗わねばならないのが難点だ。今頃は百合鬼たちが、自分の着物と共に川の水で洗濯中だろう。
ちょうど出くわした手鬼が、蜂蜜を溶かし入れた水を木彫りの器に入れて持ってきてくれたので、花枝はそれをこくこくと飲み干した。初めは何もなかった社家屋敷も、今では様々な生活道具が揃い、なかなかに充実している。
「手鬼もあとで入ってくるといいですよ。屋外での湯浴みというのは、なんだか開放的で気分が晴れ渡りますから」
「そうだな。モグラ鬼が入って抜け毛だらけになる前に、俺も入ってみるとするか」
社家屋敷には内風呂があるため、花枝たちも三十年近く風呂に入らなかったわけではない。ただ、人間ほどの新陳代謝のなくなった鬼の身では、さほど風呂の必要性が薄れてきたのは確かだった。
しかし今回改めて露天風呂に浸かったことで、不老の身であろうともこのような娯楽は必要なのだなと、花枝は改めてこれからのことを考え直していた。
一方、手鬼はこの日、
「それで、手鬼。今日の最終選別は何か収穫はありましたか?」
「いんや。まだ開始されたばかりだからな。今回は子狐もいねえから、後半まで俺は様子見だ」
すでに何十回も見てきた最終選別が、この日もまた開始されていた。
花枝たちは、最終選別で命の危機にある参加者を見つけた場合のみ、手助けをする方針をとっている。
だが、さすがに初日から命の危機に陥るほどの参加者はいない。大体、命の危機を迎えるのは精神が削れてきた三日目以降である。
稀に、人間を数多く食って強くなりすぎた鬼が現れるが、そういうものは手鬼が見つけ次第「気に食わない」という名目でボコボコにして、朝日が差し込む場所に捨てている。
なので、最終選別の参加者たちが、試験に見合わぬ過剰な力の鬼によって初日から命を散らすことはない。
手鬼個人としても、己の執着している狐の子供たちは今回は参加していなかったので、今回の最終選別にはさほど興味がなさそうだ。
「相変わらず、手鬼は狐いじめが好きなんですね」
「フフフフ……そろそろだ。さすがの鱗滝の野郎も、俺に対応できるだけの弟子を育てている頃合いだろ。それを俺が叩きのめしてやるのが楽しみで仕方がねえぜ」
なんだか気持ち悪い顔で笑う手鬼。相変わらず、鱗滝に妙な方向で執着している兄貴分である。
花枝はそんな手鬼を見上げながら、心のなかでぼんやりと思う。手鬼はもしかしたら、鱗滝一門が好きで好きで仕方がないのではないか、と。
手鬼が聞いたら本気でボコボコにされるので、さすがの花枝もそれを口にはしなかった。
ここから遠い、とある山の中で。
これから数年後、手鬼を満足させるだけの素質を持った一人の少女が保護され、鱗滝の元で厳しい修行に励みはじめることなど。
花枝や手鬼はまだ、知る由もない。
◆ ◆ ◆
――明治二十九年。
露天風呂に入り、畑仕事をし、絵や彫刻に興じ。
あるいは、住民同士で手合わせを繰り返し、新たな施設を考えて、皆で里を開拓し。
そのような日々が続くなかで。その日、未だ現役として活動している炎柱、槇寿郎がやってきた。
「わあ。お久しぶりですね、槇寿郎。ぼーっとして、どうしたんですか?」
「ああ、巫女鬼か」
「……槇寿郎?」
その日の槇寿郎は、いつもと違っていた。
常ならば、鳥居から入ってすぐに大声で己の来訪を宣言する男なのだが、今回は不思議と彼は静かで――そして、どことなく影を背負っていた。
花枝は無言で、槇寿郎の背中をぽんぽんと叩く。そこにうすらと纏わり付いていた、黒い想いを霧散させていく。
「実は……俺は今日、産屋敷家の使いとしてここに来たのだ」
「は? 産屋敷家の使い……ですか?」
何事かと、花枝と槇寿郎の様子を見ていた住民たちも集まってくる。彼らもまた、大声で挨拶をしてこない槇寿郎に違和感を覚えたようだ。
槇寿郎は、住民たちが集まるのを少し待ってから、真っ直ぐにその圧のある瞳を花枝に向けて、言葉を口にする。
「ああ。先日……産屋敷家当主――いや、今や先代となった96代当主が、自害した」
「……は?」
「その先代当主から『御霊矢花枝』に宛てた封書を預かっている。巫女鬼――御霊矢花枝。キミ宛てだ」
花枝は呆然としつつも、小さな手でその封書を受け取った。
御霊矢花枝。それはもちろんこの里の長である巫女鬼の本名であり、住民たちもそれは知っていた。
けれど、この封書が産屋敷家の当主からとなると、話は変わってくる。
いったいいつから、ここに花枝がいると把握していたのか。どうして今になって手紙などを書いたのか。
そして、その当主が自害したとは、一体どういうことなのか。
槇寿郎は真っ直ぐな瞳で、封を手にした花枝を見つめている。
封はしっかりと赤い蝋で封じられている。蝋には花枝も見たことのない家紋が象られているが、これが産屋敷家の家紋なのだろう。
皆の見守る中、花枝は静かにその封を開けた。中には、一枚の便箋が折り込まれているだけだった。
それは確かに、96代当主――心の弱さ故、自害という道を選んでしまった一人の男からの。花枝に宛てた、一通の手紙だった。
黄昏の光を浴びながら。花枝は、先代当主からの手紙に目を通す。
その場にいるものたちは、静かにその姿を見つめる。
花枝の幼い手が小さく震えて、そして――くしゃりと、その便箋を握り潰す。
花枝はうつむき、その表情は誰からも見えない。
黄昏の世界に、静寂が満ちる。
「巫女鬼様、いったい何が書かれていたんですかー?」
静寂を破ったのは、百合鬼のそんな呑気な声だった。
周囲の者たちは百合鬼の空気の読めなさ加減に目を見開いて驚くが、しかしそれはそれとして、花枝の返答を聞き逃すまいと耳を傾ける。
「ふふ、実にくだらない手紙ですよ……本当に、本当に……度し難い、手紙です」
俯いたまま語る花枝の声は、震えている。
くしゃりと手紙を握り潰した花枝の手に、ぎりぎりと力が込められているのがわかる。
「巫女鬼様……?」
「わたしへの感謝と、謝罪でした。最終選別で、多くの命を救ってくれてありがとう、と。そして、わたしたちを自由にできなかったことに対する、謝罪です……!」
花枝は。
その小さな手で、その便箋を、その封筒を握り潰し。びりりと破り、破り、破り。最後にただの紙片となったそれを、投げ捨てた。
怒りのままに。
激情のままに。
「こんなもの! 読む価値もなかった……!」
「お、おい! 巫女鬼!」
花枝は手紙を投げ捨てると、そのまま駆け出していく。
彼女が駆け出した方向は、この隠れ里の出入り口である鳥居の方角だ。花枝は、藤襲山へと駆け出したのだ。
慌てて手鬼が花枝を追いかけ、槇寿郎や他の住民たちもまた、すぐにその後を追う。
すでに、外の世界の日は暮れかかっていた。
空は紫色に染まり、夕陽は山の陰に沈みつつあった。
「どうしてあなたが逃げた、産屋敷っ!!」
花枝は、夕闇の影から、空に向かって叫んでいた。
否。花枝は、この場所にいるわけもない、産屋敷の先代当主へと向けて。
心のままに、魂のままに、声をあげていた。
「隊士たちは、いまも命をかけて戦ってるのに! 鬼にされた人たちは、いまも望まぬ罪を背負わされているのに! みんな、呪いの中で戦い続けているのに……っ!!」
花枝の濁った瞳から涙が溢れだす。
途方もない怒りで、花枝の幼い顔が歪む。ぎりりと、鋭い牙がなる。
「それなのに、あなただけが死んで楽になるな! 逃げるな! 産屋敷っ!! 卑怯者、卑怯者ぉぉおっ!!」
藤襲山に、小さな巫女の、振り絞るような大声が木霊する。
これは、この地で何十年もの間、鬼と子供を殺しあわせる『最終選別』という名の地獄を見てきた巫女鬼の。
これは、家族を喪い、自身も鬼と化し、人としての心を殺し。それでもなお、鬼殺隊を赦そうとしていた、御霊矢花枝の。
様々な嘆きを、怒りを、慟哭を孕んだ。紛れもない、彼女の魂の叫びだった。