――明治三十五年。
「ねえ筆鬼。明治の世の読本というものは、どうしてこう暗い物語が多いのでしょうね」
ここは社家屋敷の一室に新しく授けられた『図書室』だ。
以前より、藤の花の下に置かれた書籍や読み物の類、そして槇寿郎が持ってきたいくつもの本をまとめるために使用していた部屋だったが、それを隣室と繋げて大部屋へと改装したのがこの部屋だ。
今では卓と座布団を並べ、正式な読書のための『図書室』となっている。
と、いうのも。
実はこの数年で、この隠れ里には一気に『本』が増えたのだ。
96代当主が自害し、
勿論、物資が直接届けられるわけではない。藤の花の下にひとつの小さな社が建てられ、あくまで『山の神への供え物』という体で、様々なものがそこに供えられるようになったのだ。
一気に増えた本も、そこに供えられたものである。
花枝たちからしてみれば、鬼が生きることを許さない鬼殺隊は決して自分たちの味方と呼べる組織ではないし、これ以上積極的に肩入れするつもりもない。
だが、それはそれとして。「貰えるものは貰っておこう」という方向で、住民たちの意見はまとまっていた。
「ふぉふぉ。西洋文化の影響なのでしょう。今の世の人々は、悲劇や悲恋にこそ浪漫を感じているのでしょうな」
「むう……悲しいのは嫌ですね。これなら、槇寿郎が貸し出してくれた過去の炎柱の日記を読み進めた方がいくらか楽しげがありますよ」
「それはそれで、如何なものかと思いますが……」
花枝は『舞姫』を棚に戻し、前に槇寿郎が「鬼殺隊の歴史を知りたければ読むといい!」と貸し出してくれた古い炎柱の日記帳に手を伸ばす――が。
それは、図書室にあるまじき騒音によって中断された。
どすどすと社家屋敷の廊下を走る音が近づいてきたかと思えば、木戸がガラリと乱暴に開かれる。
そして、響きわたる大声。
「巫女鬼、来い! 最終選別だ! 今まで見てきた中で一番素質のある、とびきりの子狐だ!!」
「わあ。お行儀が悪い人がきましたね」
「手鬼よ、屋敷内を走るな、図書室では大声を出すなと、あれほど教えたというのに――」
大声の主は、なにやら興奮気味の手鬼である。
手鬼は筆鬼の小言に晒されながらも、ずかずかと室内に入ると、幾つも生やした複腕でガシリと花枝を持ち上げる。
「先生、すまん、反省文はあとで書くから、巫女鬼を連れていくぞ!」
「わあ。有無を言わさぬ誘拐事件じゃないですか」
筆鬼にだけ言葉を返し、手鬼はそのまま花枝をがっしりと肩に抱えて外へと駆けだしていく。誘拐というよりは、まるで米俵の運び出し風景だ。
そして当然のように。
荷物――ではなく、花枝本人の意思などは、完全に無視されているのだった。
◇ ◇ ◇
黄昏の隠れ里から出ると、
月光の下で向かい合っているのは、背中から大量の複腕が生えている不気味な姿の少年――手鬼と、花の模様の描かれた狐面をつけた一人の少女だ。少女の年の頃は十二、三程だろうが、どこか眠たげにも見えるその眼差しが、彼女をより幼く見せている。
花枝はその二人の対峙を、すぐ近くの一番高い木の上から見下ろしていた。これは花枝が自分で上ったのではなく、「ここで見とけ」と手鬼に置いていかれただけである。
いきなり連れてきた挙げ句に木の上に放置とはひどい話だなと、花枝は頬を膨らませる。
「よお、鱗滝の子狐。真の『最終選別』の時間だぜ」
「鱗滝さんを知っているの……?! どうして、鬼がっ!」
今の手鬼は少年姿だが、その異様に多い腕はあからさまに人外のものである。
狐面の少女は日輪刀を構え、油断せずに手鬼を睨み付けていたが、かけられた言葉には反応を見せた。
「ははは、ありがたい。俺らの話はまだ何も聞いていないってわけかよ、いいじゃねえか。ぶちのめし甲斐があるぜ!」
手鬼の言うとおり、どうやらこの少女はまだ、この山に現れる『あやかし』について知らされていない様子であった。
以前の試験では、狐面の少年が『あやかし』について知っており、殺されないのだという甘えがあったのだ。それに憤慨した手鬼によって、最終的には半殺しとも言うべき状態で最終選別の場から放り出されたわけだが。
しかし少なくとも、今回の少女にはそのような油断や甘えはなさそうだ。
「わからないけど! ヒュゥゥゥゥ……漆ノ型・雫波紋突き!」
「ほう、なかなかの疾さじゃねえか! だが、痛くも痒くもねぇな!」
花枝がそのようなことを考えている間に、手鬼と少女の戦いは始まった。
上から離れて見ているからこそどうにか動きを追えるけれど、少女の動きは非常に速かった。
漆ノ型・雫波紋突きは水の呼吸の型でも最速の技だ。初手で彼女はそれを手鬼の喉に向けて打ち込むが、残念ながら手鬼のいくつかの複腕を貫いただけで、その矛先は逸らされる。
その反撃として、地面から突如として現れたいくつもの腕が少女に強烈な平手を見舞い、少女はごろごろと地面を転がっていく。
それでも彼女は、日輪刀を手放さなかった。
それに気づいた手鬼の口元に、愉快げな笑みが浮かぶ。
「うぐっ! まだ、まだまだァ!! 参ノ型・流流舞い! 玖ノ型・水流飛沫!!」
それからの少女の反撃は、先の攻防を上回るほどの速度だった。上から見下ろしていた花枝ですら、その動きの半分以上は見逃していた。
体勢を低くした流流舞いで左右から襲い来る腕の数々を切り払い。そのまま流れるように水流飛沫に変換して、森の木々を足場にし、縦横無尽に襲い来る腕の数々を切り払っていく。
(あれは……日の呼吸……!)
花枝は目にも留まらぬ少女の動きを見て、ゴクリと唾を飲み込む。日の呼吸とは、過去の炎柱の日記で覚えた、なんだかとても強い呼吸の名前だ。
もちろん、少女が使っているのは1から10まで水の呼吸であり、花枝は適当に言っているだけである。
そして、花枝の思考が逸れている間に、眼下の戦いはさらなる領域へと踏み込んでいた。
具体的には、手鬼が『本気』を出し始めた。
「フフフフ、フフフフ……! いいな、お前のその疾さ! 俺も本気を出せるかもしれねぇなあ!」
手鬼が力を込めると、その体がみるみるうちに巨大化していく。
花枝はさすがに見慣れてしまったが、これは手鬼が槇寿郎と手合わせをするときに見せる姿だ。
ただ大きくなるだけではない。堅さ、速さ、力。その全てが大きく向上し、かの炎柱が認めるほどの強さを秘めた、手鬼の本気の力だ。
「な!? ど、どうして
少女は唐突に膨れ上がった手鬼の威圧感にたたらを踏むが、しかし。
強く、日輪刀を握りしめて。少女は吠えた。
「あなたは、その力を得るためにどれほどの人間を食べたっ!!」
「アァ? そうだな、ざっと……五十ってところか」
「……!!」
嘘である。
手鬼がこの山で初めて食べた相手は花枝であり、それ以降は手鬼は人間はおろか、共食いすらしていない。なんなら、この日の手鬼が食べたのは大根の蜂蜜漬けだ。
だが、そんな事実を知る由もない少女の顔面は蒼白だ。
当たり前だ。普通に考えれば、人間を五十人も食った異形の鬼に、まだ隊士ですらない子供たちが敵うわけがないのだから。
「テメェの兄弟子たちは食いそこなっちまったがなあ。狐面の連中は、逃げ足だけは一人前だったぜ」
そんな顔面蒼白な少女を、緑の巨大な異形となった手鬼はとてもいい笑顔で見下ろし、挑発を続けている。
木の上では、花枝がずっとしらけた視線を投げつけているのだが、手鬼はノリノリだ。
「フフフフフ……鱗滝の奴は、隊士にもなれねぇ弟子たちの、逃げ足だけは一人前に育てたようだなァァァ!!!」
「あ、兄弟子たちを、鱗滝さんを……侮辱するなぁっ!!」
少女が手鬼に斬りかかる。
けれど悲しいかな、非力な少女の刀は手鬼の複腕ひとつ斬り裂けず、弾かれる。
「その点、他の育手は愚かだよなあ。山にわざわざ、俺らの食料を届けてくれるんだからよぉ!! テメェも美味そうだぜ、子狐ェェ!!」
手鬼が高笑いをして、少女に向けていくつかの腕を伸ばす。
頭上から見ている花枝から見ると、それはかなり力を抜いた拳であることがわかるが、少女からは緑色をした悪鬼の猛攻に見えていることだろう。
少女はそれでもどうにか足を動かし続けた。縦横無尽に振り抜かれる手鬼の拳を避け、受け流し、満身創痍ながらも立ち向かうことを止めない。
「手足をひとつずつ千切られるガキどもの絶叫は、実に心地よかったぜ! フフフフ、フハハハハ!! 逃げないのか? テメェも、兄弟子のように逃げてもいいんだぜ!!!」
「う、うわああああ!!!」
少女は、逃げなかった。
がくがくと震えた手で日輪刀を構え、高笑いを続ける手鬼の頸をめがけて刃を振りかぶる。
だが、花枝にもわかる。あの少女はもう、負けだ。
すぐさま、手鬼の声が響き渡る。
「判断がぬるい!!」
「ぎゃっ……!?」
少女は、逃げるべきだったのだ。
圧倒的な強者から逃げることは、決して恥ではない。鬼の情報を他の隊士に伝え、繋げること。
それこそが、延々と繋いできた鬼殺隊の――人間の、戦い方なのだから。
少女は結局、怒りの感情で冷静な判断力を失い。
そして手鬼の巨大な平手打ちで綺麗に弾き飛ばされて。そのまま意識を手放すのだった。
◇ ◇ ◇
「手鬼! 最後はやり過ぎです! あなたの本気の姿なんて、最終選別にきた女の子の力でどうにか出来るわけないじゃないですか!」
「合格だ」
「いやいや、『合格だ』じゃないですよ! あなた馬鹿なんですか?!」
木から下りた花枝は、真っ先に手鬼を説教した。
彼が狐面の少年少女を修行と称していたぶるのを趣味にしていることは知っているけれど、それはあくまで少年鬼の姿だから成り立つのだ。
緑の異形姿になった手鬼が相手では、あまりに実力に差がありすぎて、修行になどなりはしない。若くしてそれに対抗できた槇寿郎がおかしいだけなのだ。
「やりすぎなんですよ! このままじゃこの子、最終選別の終わりを待たずにここで死んじゃいますよ!」
「わかった、わかった。わかってるから怒鳴るな。里で最終日まで面倒見る。巫女鬼もそれならいいだろ」
怒ってぽこぽこと叩いてくる花枝に辟易したのか、はたまた手鬼も内心では「ヤベぇ、やりすぎちまった……」と冷や汗をかいているのか。答えは両方だ。
どちらにせよ、手鬼は左肩に花枝、右肩に狐面の少女を抱えて。
夜の森を抜け、御霊矢神社へと帰って行くのだった。
◆ ◆ ◆
それから数日の時が過ぎる。
当然ながら、目覚めた少女は泣きわめき、話の通じない状態だった。もっとも、暴れぬよう手足を縛られた状態で鬼だらけの屋敷に連れて行かれたのだから、さもありなんといったところだろう。
花枝の浄化で落ち着かせ、百合鬼の薬草で治療を施し、温かい食事と甘い蜂蜜水を提供し、図書室で過去の炎柱の日記を見せ、炎柱こと煉獄槇寿郎が置いたままにしている私物を紹介し、やりすぎた手鬼に反省文を書かせる姿を見せて、露天風呂で女子だけの入浴会を開催し、着物の模様を見せあい女子たちでキャッキャと楽しみ、風呂上がりに互いに按摩で体をもみほぐし合ったりしているうちに、どうにか少女も里の住民たちへの理解を示してくれた。
今回少女が心を閉ざしていたのはだいたい手鬼が悪いので、里の住民たちが全員少女に同情的だったのも大きいだろう。
四日後。最終選別の最終日には、少女はそれなりに里の住民たちと打ち解けていた。
「あの、巫女鬼様。それに皆さん。今日までありがとうございました」
「いえ、いいんですよ。そもそもあなたにひどい手傷を負わせたのは手鬼ですし」
「あはは、それはそうですけど……」
鳥居の前には、里の住民が総出で少女を見送るために並んでいた。
少女は住民一人ひとりに笑顔で挨拶をしていき、最後に手鬼に声をかける。その表情はあまり、にこやかとは言えない。
「……手鬼」
「ンだよ、そう睨むなよ。子狐」
ばつの悪い顔で視線をそらせる手鬼に、少女は視線を逸らさずに、はっきりと言葉を述べた。
「私は隊士になって、柱に選ばれるくらいに強くなります! そして次こそは、本気の手鬼に勝ちますから、その時は……覚悟していてくださいね!」
その優しげな瞳は、熱く燃えていた。
少女は聞いたのだ。過去に彼女同様に最終選別に訪れた若き日の炎柱が、ここで本気の手鬼と対等にやり合ったという話を。
もっとも、手鬼もあれから幾度となく槇寿郎と手合わせを繰り返し、当時よりもかなり強くなっているのだが、それはそれ、これはこれ。少女が自分の弱さを認識し、越えるべき目標を見つけたのだから、わざわざそのような野暮な指摘をするものはいない。
「フフフフ……いいじゃねえか。そのときにゃまた俺がテメェを返り討ちにして、鱗滝の目を曇らせてやるぜ」
数秒ほど、手鬼と少女は見つめ合う。
両者ともそれ以上は何も言うことはなく、互いに不敵な笑みを浮かべていた。
「……では、皆様。ありがとうございました。この里のことは忘れません!」
「ええ。また会いましょう、真菰」
少女――真菰は最後に一度、深々とお辞儀をすると、そのまま藤襲山へ繋がる鳥居を抜けていく。
花枝たちは、この里を訪れた二人目の客人が鳥居の向こうに消えるまで、静かに見送っているのだった。
そうしてこの日。
鱗滝左近次の弟子で初となる鬼殺隊士が誕生した。
次話更新は8月3日(月)23時予定となります