その儀式は、窓がなく壁に囲まれた、
部屋の四隅に燭台を置き、器に入れた酒と塩を扉の側に設置する。
唯一の扉の前に陣取っているのは、日輪刀を腰に佩いた姿の炎柱、煉獄槇寿郎。
室内の中央に座っているのは杏寿郎、小芭内の二人の子供たちと、小芭内の肩に乗った一匹の白い蛇だ。
そして、彼らの後ろでは更に幼い容姿の少女――花枝が、儀式の準備を進めている。
「槇寿郎は扉の前を守り、何ものも通さぬようにしてください。それと、そことそこに、酒とお塩を」
「うむ、承知した!」
花枝は白赤の巫女服を身に纏い、いつになく真面目な顔で、テキパキと指示を出していく。槇寿郎は鬼殺隊では炎柱という最上位の立場だが、今回はあくまで花枝の助手に徹していた。
そして、部屋の中心にいるのは二人の少年たちだ。
「杏寿郎は、小芭内と手を繋いであげてください! 小芭内はわたしを信じてくださいね! 絶対、大丈夫ですからね!」
「はい、伯母上! 小芭内、伯母上が大丈夫だというのだ! お前はきっと、救われる!」
「……っ」
はきはきと力強い返事を返すのは、今年で九つとなる煉獄家の長男、煉獄杏寿郎だ。
その外見は父である槇寿郎にそっくりであり、炎を思わせる黄色と赤の毛色も、相手を射貫くような圧をもつ瞳も、どれもが驚くほどに父親譲りである。
ちなみに、最初の挨拶で花枝が「わたしのことは槇寿郎の姉だと思ってください」などと言ったものだから、花枝の呼び名が「伯母上」で定着してしまっている。
そして、もう一人。身体中にまだ包帯を巻いている、黒髪の少年。肩に白い蛇を乗せてずっと俯いている彼こそが、今回の中心人物となる伊黒小芭内だった。
◇ ◇ ◇
この日の朝、槇寿郎の計らいで小芭内と花枝は対面を果たした。
最初、小芭内は花枝を恐れ、逃げだそうとしていた。鬼に恐ろしい目に遭わされていた少年の前に、鬼の角が生えた少女が現れたのだから、彼が錯乱するのも無理はないことだろう。
そこはどうにか槇寿郎が小芭内をつかまえて、花枝の得意な『浄化』の力で一時的に彼を落ち着かせはしたものの、その際、花枝が見た小芭内の身に纏わり付いた呪いは――本物だった。
花枝が見たもの。それは、小芭内に群がろうとする数十人もの女たちの、腐った手だ。
一族の女たちは、はたして知ってか知らずか『呪術』として間違いなく、彼女らの死のきっかけとなった脱走者――小芭内を、呪っていた。
そしてその醜い呪いは、御霊矢花枝の怒りに火を付けた。
花枝はすぐに槇寿郎と瑠火に指示を出し、この日の午前から祓いの儀式を決行することにした。もちろん、場所は日の差し込まない花枝の部屋だ。
死してなお、ひとりの少年を理不尽に呪い続けるものたちの姿。
花枝の目にはそれが、酷く悍ましく、汚らしく、そして惨めなものとして、はっきりと映っていた。
◇ ◇ ◇
そして現在、花枝たちは儀式開始に至る。
小芭内の横では、年齢の近い杏寿郎が元気に声をあげながら、力強く小芭内の手を握りしめている。
花枝はそんな二人の背後に立ち、真剣な眼差しを室内へと巡らせていた。
即興の準備であったので、ここには儀式に使えるような祭具は何一つない。神楽鈴も、大幣すら準備できてはいない。
けれど、花枝はそれでも問題なかった。花枝自身が『浄化』を司る祭具のようなものなのだから。
「掛けまくも畏き、天矢速神。厳霊姫命の御前に申し奉る――」
室内に、花枝の幼い声が響き渡る。
花枝の記憶のなかでは四十年前に覚えた祝詞は、しかし、今でも意外なほどにすらすらと花枝の口から流れ出る。
祝詞が続くにつれて、室内の空気が軋み始める。ぴしり、ぴしりと、床が、天井が、柱が。室内の全てが音を立て始める。気温が下がり、呼吸が苦しくなっていく。
そして、それは現れた。
揺らめく燭台の明かりの中で、小芭内の足元から、粘つくような黒い闇が昇り始めた。
それは呪いを目視できる花枝のみならず、小芭内、そして槇寿郎と杏寿郎の二人の目にもはっきりと映っていた。
「な、なんだこれは! 鬼か!?」
槇寿郎が慌てて腰の日輪刀に手を伸ばそうとするが、しかし祝詞を唱え続ける花枝に気付き、どうにか手を離してその場に座り直す。
これは鬼殺とはまったく違う戦いなのだと自分に言い聞かせ、ただ真っ直ぐに、室内で行われている儀式を――もはや言葉では説明もつきそうにない謎の現象を、静かに見守っていた。
小芭内の周囲の影が次第に濃くなり、人間の腕を形取っていく。
女の腕だ。影でできた女の腕は、一つ、二つと、小芭内の身に纏わり付いていく。
『あ……ぁぁあああ……!!』
『小芭内……お前の……お前のせいでぇええ……!!』
室内に、小芭内を呪う声が響く。上からも、下からも。
何人もの女たちが、小芭内を道連れにしようと声をあげ、小芭内を引きずり込もうとする。
「う、うわぁぁああ! 嫌だ、嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だぁぁああああ!!」
「大丈夫だ小芭内! 伯母上を信じろ!」
暴れようとする小芭内を、杏寿郎が全力で応援し、羽交い締めにする。
その結果として杏寿郎にも黒い腕が絡みつくが、しかし杏寿郎は強い心を持っていた。
弱っている小芭内を、何があろうと離さない。どのような怪現象があったとしても、花枝を信じ抜く。
そんな少年の眼差しを受け、花枝は祝詞を読み上げながら、小芭内の背中にその小さな手を、優しくあてた。
「穢れを断ち、禍を祓い、御霊の光もて、この身、この地を清め給え!」
途端。まるで花枝の声が合図だったかのように、室内に血と腐肉の匂いのする突風が爆発的に溢れ出し、吹きすさぶ。
槇寿郎はその淀んだ風が外へ逃げるのを防ぐべく、力の限り扉を押さえ込む。彼の目は、しっかりと部屋の中心――花枝と『呪い』の戦いを、捉えていた。
『があああああぁぁぁぁぁ!!!! 小芭内ぃぃぃぃい!!!』
もはやその声は人間の女の声などではなく、ひび割れ、ざらついた音と化していた。
風のなかでは、小芭内を中心にどす黒い瘴気が膨れ上がる。小芭内を呪い殺そうと、捻り殺そうと、地獄に引きずり込もうと、腐り墜ちた女たちの手が伸びてくる。
だが、花枝がそれを決して許さない。
「伸びてくる手なんて、この数十年で嫌と言うほど見慣れています!」
花枝は、黒い手がその身に纏わり付こうと、一切怯むことなく。小芭内に手を添えたまま、もう片方の手を天井へと、上へと向けた。
小さな七歳の手が真っ直ぐに掲げられ――やがて、黄昏色の光を湛え始める。
『があああ!! やめろおおおぉぉぉぉ!!!』
「手が光り出したぞ! さすがは伯母上!」
「うぐ……あ、暖かい……光が……」
それは、まさに劇的な変化だった。
花枝の手が、橙色の黄昏を思わせる光を放つ。その光は小芭内を、杏寿郎を優しく包み込み。
そして、彼らの身に纏わり付いていた影の腕が、まるで崩れるように、溶けるように。さらりと、光に呑まれて消えていく。
『ああ、ああ……私の……こ……』
最後に聞こえたのは、女の声だった。
それはどこか、諦めたかのような、嘆くような。あるいは、安堵したかのような。
力ない、静かな声だった。
◇ ◇ ◇
花枝は、静けさの戻ってきた室内で。
泣きじゃくり、未だ震えている小芭内の顔を、その胸で抱きしめていた。
「よく一人でこれまで、戦い続けてきましたね。とてもすごいです。あなたはとても偉い子ですよ、小芭内」
「お、俺は……俺は……ずっと……」
残念ながら、花枝の身体は子供のそれであるため、大人の女性のような余裕のある抱擁は難しい。
けれど、それでも。小芭内は花枝の胸の中で、自分が赦されたのだと、生きていてもいいのだと。
絶対的な安心感を感じていた。
「何があったのかはわからないが、小芭内! 良かったな! わっしょい! わっしょい! ほら小芭内、わっしょい! わっしょい!」
「……あ……わ、わっしょ……」
一方、小芭内の静かな安心感をぶち壊しにかかるのは、この儀式の間ずっと小芭内を守ってくれていた杏寿郎だ。
年齢的には小芭内の方がやや上なはずだが、杏寿郎はグイグイいく。それはもう、見ていて小芭内が不憫に思えるほどに。
「あの、杏寿郎? 小芭内も疲れているでしょうから、もう少し静かにして、落ち着かせてあげましょう?」
「はい、伯母上!!」
「はぁ。なんだか、子供の頃の槇寿郎をより元気にしたような子ですね」
伝えた言葉の意味がわかっているのかいないのか、元気にはきはきと話す杏寿郎。
花枝はそんな杏寿郎の姿をみて、初めて里を訪れた日の槇寿郎を思い出していた。いきなり戦いはじめた槇寿郎と手鬼によって、石畳と半鐘台を滅茶苦茶にされた日が懐かしい。
そして、そんな子供たちをほっとしたように眺めている人物こそが、まさに、槇寿郎その人である。槇寿郎自身、杏寿郎が己の若い頃と似ている自覚はあるのか、花枝の呟きには優しげな苦笑を浮かべていた。
そして、儀式は無事に終わったのだけれど。
ここで再び、花枝を除いた一同は驚くこととなる。
◇ ◇ ◇
コンコン、と。扉を叩く音が響く。
それは槇寿郎の背後――この部屋の出入り口の扉である。
一瞬だけ身構えた槇寿郎だが、しかし扉の向こうから聞こえた声に安堵し、そして、混乱した。
「槇寿郎様、お夜食の準備が出来ました。話し声が聞こえますが、もう大丈夫なのでしょうか?」
「ああ、儀式は問題なく……あ、いや、まて。今なんと言った? 夜食と言ったのか? まだ昼過ぎだろう、瑠火は何を言っている?」
「なにを言っておられますか。すでに日は沈んでおります」
扉の向こうから聞こえたのは、当然ながら彼の妻、煉獄瑠火の声だ。
すわ悪霊が自分を騙そうとしているのかとも考えたが、小芭内を延々と撫でていた花枝は、瑠火の声を聞いてぱっと嬉しそうな表情を見せている。
ならば少なくとも、この声は本物の瑠火のものなのだろうと槇寿郎は判断し、ゆるりと扉を開けていく。
そこに立っていたのは幻でも、悪霊の変化した姿でもなく、間違いなく彼の妻である煉獄瑠火だった。その足元におぼつかない様子でしがみ付いているのは、今年で三歳となる槇寿郎の次男、千寿郎だ。
しかし、扉を開けた槇寿郎は自分の目を疑った。
なぜならば――。
「これは、どういうことだ……?」
つい先ほどまでは昼過ぎだったというのに。瑠火たちの背後、廊下から見える外の風景は、すでに暗くなっていた。
「わあ。どうやら儀式の最中、少しばかり時間の進み具合が変わってしまっていたようですね。言われてみると、お腹が空いてきた気がします」
「そういうものか、すごいな!」
受け入れるのが早い。
花枝の説明にもならない説明に、槇寿郎は納得する。このような異常事態への順応性も、炎柱として戦い続ける中で磨かれてきたものなのかもしれない。
「杏寿郎、花枝と小芭内を支えてやってくれ。夜食だが、小芭内は……どうする」
「……俺は」
花枝はさほど疲れてはいないのだが、しかし杏寿郎に手を差し伸べられたので、大人しく彼の手を受け入れた。
一方、皆の注目を受けているのは、小芭内だ。
彼はその顔に刻まれた傷跡が原因で、自身が食事している姿を誰かにみせるのを極端に嫌がっていた――が。
「俺も……一緒に食べて、いいですか」
「ええ、もちろんですよ、小芭内。わたしも瑠火さんのお料理は、皆でいただきたいですからね!」
なぜか、客人である花枝が、まっさきに返事をするのだった。
◇ ◇ ◇
日が沈みさえすれば、花枝はこの屋敷の中を自由に歩けるようになる。
身長の近い杏寿郎が花枝の手をとり、ずんずんと屋敷の廊下を歩いていく。
廊下にはすでに、花枝が初めて嗅ぐ香りが漂っていた。美味しそうな香りであるのは間違いないが、なんだか様々なものが混ざり合うような、非常に不可思議な香りである。
そして、目的地に到着した花枝の前に現れたのは、この場の全員が囲めるほどの大きな食卓と。
その中央に鎮座した、茶色く艶やかで、とろみのついた液体の入った、大きな鍋であった。
「わあ。見たことのない料理。お味噌……ではなさそうですね」
「そうだな、さすがに花枝は見たことがないか。これは西洋の料理、カレーというものだ!」
「こ、これがカレー……っ!」
槇寿郎が、どことなく自慢げに説明する。
カレー。その名前は花枝も知っている。図書室にあったいくつかの読み本の中には、西洋の料理について語られた書籍や、花枝の知らない料理が出てくる物語も多くあったのだ。
最近読んだ本の中には、西洋の『妖精』という存在と出会った日本人の少女が、共に好物である『カレーの材料』を探し求める冒険物語もあったほどだ。
だが、百聞は一見にしかず。知識として知っていても、いざ本物の香りを感じ、実物を目で見ると、やはり驚きの方が大きかった。
そして花枝は次に、その鍋の横に置かれた丸い筒状のものに視線を向ける。
「で、では、そちらの物体は? それは食べ物ではなく、金属の筒ですよね?」
「伯母上、これは桃の缶詰です! これを缶切りという道具を使いこじ開けると、シラップ漬けの桃が入っているんです!」
「わあ。しらっぷ漬け。なるほどなるほど、アレですね、いいですね」
「……」
花枝は、まだ九歳の杏寿郎を相手に知ったかぶりをした。
桃はさすがに知っている。花枝が人間として生きていた江戸時代でも、桃は一般的にもよく知られた果物だった。
だが『しらっぷ』が何なのかよくわからなかった。
そんな、知ったかぶりをしている花枝の姿を。
花枝に助けられた少年、伊黒小芭内と。その肩に巻き付き、ずっと寄り添っている白蛇――鏑丸だけが。
シラップについて教えてあげるべきか、知ったかぶりに合わせてあげるべきか。そんな残念な葛藤と共に、ジッと見つめているのだった。
なお。
瑠火が作ってくれた桃カレーは、花枝が今まで食べてきた料理の中でも、最上位を狙えるほどに美味しかったという。