藤襲山の巫女鬼 きめつ隠れ里噺   作:chikuwabu

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炎の中の鬼

 その夜。

 

 神社の裏手にある社家屋敷の一室にて。『煙の匂い』で花枝が目を覚ますと、暗闇であるべきそこは――炎に照らされていた。

 屋敷はまさに今、轟々と燃えていた。

 花枝(かえ)の寝室は広く、まだ部屋の中央にまで炎は届いていない。すぐに部屋を飛び出て中庭に出れば、炎に巻かれることはないはずだ。

 炎に照らされながら、花枝は慌てて布団から上半身を起こした。

 

「けほっ、けほっ」

 

 煙を吸い込んでしまい、反射的に咳が出る。

 すでに寝室の梁にはちろちろと炎が走り始めている。部屋の天井は既に煙で白く薄れている。

 夜になれば焚かれていた藤の香などは、既にこの巨大な炎に呑み込まれ、かき消えている。

 

 しかし、これだけ炎が上がっているというのに、誰の声も聞こえない。

 いや――それどころか、パチパチと柱が焼ける匂いと共に、微かに血生臭い匂いが漂っていた。

 すぐ近くの部屋に眠っているはずの両親は、離れで過ごしていたはずの使用人たちは、一体どうしているのだろうか。咳き込みながらもぼんやりと、花枝の頭にそのような疑問がかかる。

 あまりの現実感のなさ故か、それとも既に脳の酸素が低下していたのか、花枝の脳裏には恐怖や焦りは未だ訪れてはいなかった。

 

 だが。

 

 すぐに花枝の視線は、一点で止まる。

 花枝の眠っていた寝室の端。

 そこには、煙の中で、炎に照らされて。漆黒の着物に身を包んだ死神のような男が一人、真っ直ぐに立ち。

 その血のような赤い瞳で、花枝を見つめていた。

 

「答えろ。貴様が、呪いが視えるという巫女だな?」

 

「けほっ、けほっ! あ……あなたは……けほっ」

 

「答えろと言っている」

 

 男が言いながら無造作に右腕を振り上げる。すると、まるで爆薬のような衝撃が室内に駆け巡り、男の右手側の壁が吹き飛んだ。花枝もまたその衝撃にあてられ、床を転げる。花枝の意識が飛びかけるなか、衝撃は屋敷の通路の壁すら貫通し、そこから一気に外の風が吹き抜けていった。

 わけのわからないままに煙を吸い込み、そして男に吹き飛ばされた花枝は、しかし掴んだままだった布団をその身に寄せて上体を起こす。ひどく身体中を打ち付けた痛みに呻き声が漏れる。

 

 今のは決して男の癇癪でもなければ、煙に苦しむ花枝に空気を与えようという優しさでもない。単に、会話の邪魔になる『煙』をこの場から排除しただけだ。

 しかし花枝は慌てて、吹き込んできた風を全て吸い込むかのように、大きく呼吸をする。

 呼吸をせねば死んでしまう。殺されてしまう。それは、幼い身体でも理解できる本能のようなものだった。

 

「くっ……はぁ……はぁ……」

 

 脳に酸素が行き渡っても、花枝の心に現実感は戻ってこない。否、目の前の男の纏う禍々しい空気そのものが、とうに花枝の現実感を麻痺させていた。

 

「あなたが……『きさつたい』の方々が戦っている、悪者なのですね?」

 

「……貴様には何が見える? この私の姿に、別なものが視えているのか?」

 

 花枝の問いかけに答えはない。男は会話をする気はないらしい。

 一見すると静かな男の声には、明らかに苛つきが隠れている。周囲の炎の色を反射する赤い瞳には、これ以上問答を繰り返すようなら容易く花枝を屠る意図が感じられた。

 だから花枝は、目の前に視える光景、そのままを答えてみせた。

 

「……真っ黒い、天をつくほどの呪いが、あなたを覆い隠しています。まるで、あなたは――この世の地獄です」

 

「くく……悪くない。この私、鬼舞辻無惨こそがこの世の地獄というのは、なかなかどうして面白い物言いだ」

 

 どうやら、花枝の発言は男――鬼舞辻無惨の感性を喜ばせたようだ。

 口元に残酷な笑みを浮かべた無惨が、一歩、一歩と。布団にしがみ付き震えている花枝に近づいていく。

 周囲の柱に火が回り、風に舞う火の粉が男と花枝の空間を彩っている。

 

「だが」

 

「うぐっ、かふっ」

 

 無惨は、布団を掴んだまま固く身構えていた花枝の首を無造作に掴み、持ち上げる。

 小さな七歳の花枝の身体は高く持ち上げられ、呼吸も出来ずに苦しげに悶えるだけだ。無惨の手を引き離そうと幼い手で抵抗するが、無惨には虫けらが足掻いているようにしか見えはしない。

 花枝の頬が涙で濡れ、口からは泡にまみれた涎がこぼれ落ちる。

 

「貴様のその不可思議な力が産屋敷に渡ることは、気分が悪い。貴様の一族は、念のためにここで根絶やしにしておこう」

 

「あがっ……」

 

 みしり、と音がする。花枝の首を握る手の力が増していく。だが、殺しはしない。

 無惨は、花枝の『呪いを見る力』そのものには一目置いていた。だからこそ彼は、部下に任せずに己自身でここまでやってきたのだ。

 無惨の背後で、炎に焼かれた壁が崩れ落ちる。

 崩れた壁の向こうでは、誰も生きているもののいなくなった御霊矢(みたまや)神社が、天へ届くほどの紅蓮の焔に包まれていた。

 

「呪いが視える鬼……というものも面白そうだ。せいぜい、人を食らって成長してみせよ」

 

「う……ろこ……だき……さま……」

 

 朦朧とした意識の中で、最後に。

 助けを求め、その名を呟いた。けれど、助けは来ない。

 花枝の薄れ逝く視界の中には、鬼舞辻無惨の冷酷な赤い瞳が輝いていた。

 しかし、それを理解するまでもなく。直後、胸元に奔った灼熱のような痛みとともに、花枝の意識は遠のいていく。

 

「もっとも。間もなく訪れる鬼狩りどもに貴様が打ち勝てたら、の話だがな」

 

 胸に空いた孔から大量の血を流したまま、びくんびくんと痙攣し続ける幼子の身体を、無惨は無造作に焔の中に放ると、そのまま踵を返し。

 どこからか響いた琵琶の音と共に、その場から姿を消した。

 

 あとに残された夜空は、無惨の残した漆黒の呪いと、天へと昇る紅蓮の焔に彩られていた。

 

 

 そして。この夜。

 御霊矢花枝という少女は――人間としての生を喪った。

 

 

  ◇  ◇  ◇

 

 

 水柱である鱗滝左近次を筆頭に何人かの隊士や隠が、未だ炎に包まれている御霊矢神社に辿り着いたのは、すでに寅の刻を過ぎた頃だった。

 炎と煙に紛れ、辺りに漂うのは濃厚な血の匂いだ。

 恐らく、炎から逃れた人間たちは、出くわしてしまったのだろう。人の血肉をむさぼる存在、『鬼』に。

 

 空は東から徐々に紫色へと変化し始めており、まもなく朝日がこの地を照らす。鬼の脅威はすぐにでも立ち去るはずである。

 しかし、鎹鴉の報を受けた隊士達がいかに最速でこの地へと駆け付けたとしても、土地そのものが空気が薄くなるほどの標高である。彼らが麓からここへ来るために使った時間の経過は、ここに住んでいた者たちの無事を祈るには、あまりに絶望的なものだった。

 

 だが――。

 

「水柱! 巫女が、巫女がいました! 巫女が、巫女があっ!!」

 

 それは、彼ら全員が望んでいた吉報である。

 ここにいる隊士達の大半は、知っていたのだ。直に見ているのだ。ここに生まれ育った幼き巫女、御霊矢花枝の力を。呪いを浄化する姿を。

 残酷な現実を言うならば。

 もし仮に、この社にいた人々の命を掬い上げられなかったとしても、全員が鬼に食い殺され、あるいは炎に巻かれて命を失っていたとしても。祓いの巫女である御霊矢花枝さえ無事でいてくれたならば、鬼殺隊としては勝利なのだ。

 

「すぐに保護しろ! あの巫女は、お館様の血筋を守るために必要だ!」

 

「炎と鬼から守れ! こっちだ!」

 

 巫女を見つけたという隊士の声を聞き届け、焼け跡や周囲の森を探っていた隊士たちが集まり、幾つもの叫びが飛び交う。

 そしてその中心には、天狗面をつけた水柱、鱗滝左近次の姿もあった。

 すぐに鱗滝の元へと、その背に幼い巫女の身体を背負った隠がやってきた。周囲を隊士達が囲むようにして、隠と水柱が対面する。

 しかし、その隠の顔色は――絶望に染まっていた。

 

「水柱……巫女が……巫女は……」

 

 彼に背負われた巫女は、ぴくりとも動かない。

 白い襦袢の胸元は赤黒く染まり、巫女が無事でないことは明白だった。

 すわ、すでに死んでいるのかと。周囲の隊士達に絶望が伝染したとき。鱗滝が、ぴくりと鼻をならす。

 

「この匂いは……」

 

「み、巫女の額に、つ、角が……生えて……」

 

 隠は、ガクガクと震える手で、鱗滝の前に幼い巫女の身体を寝かせる。

 その姿は本当に、大人しく眠っているような姿で、今にも目覚めそうに見えた。けれど、隠は――そして隊士たちは、見てしまう。気づいてしまう。

 御霊矢花枝の額に、小さな、人間には決してあり得ない突起物が生えかけているのを。

 

「……離れよ」

 

 鱗滝が日輪刀の柄に手をかける。周囲の隊士たちも、水柱に倣うように、日輪刀を構える。

 けれど、けれど。

 彼らの中には、殺気などというものは存在していなかった。

 

「あ、あぁ……そんな……そんな……だって、だって! こんな、こんな寝顔で……!」

 

 隠は、一歩、二歩と後ろに後ずさり、そしてその場に尻餅をつくようによろけて。叫びと共に、両手で己の顔に手をあてる。

 鬼殺隊としては、鬼の前で目を塞ぐなど決してあってはならないことだ。けれど、その場にいる隊士は誰も、その隠を責めることはなかった。

 彼らは、助けに来たのだ。助け出したかったのだ。

 まだ七歳で、人の罪など知りもせぬ幼子を。鬼殺隊の希望という立場に祭り上げられてもなお、無邪気に笑っていた花枝を。

 

「隠は下がれ。花枝はもう、助からん」

 

「そんな……そんな……ああ……」

 

 表情を見せぬ天狗面が、花枝の前に立つ。

 隊士の一人が、涙を隠そうともしない隠の腕をとり、花枝の前から引き剥がした。

 鬼となっても、花枝は眠り続けている。彼女は当然ながら、まだ人間の一人も喰っていないはずだ。

 日輪刀を構えた隊士にとって、一人の人間も食わずにただ眠り続けるだけの鬼など、決して大きな脅威を感じる相手ではない。恐らくは、水柱が出なくとも、この場にいる隊士ならばその頸を落とすことなど容易いことだ。

 ただ、ただ。

 彼らの心を、途方もない絶望が蝕むだけだ。

 

「儂が……頸を斬ろう」

 

 鱗滝が、静かに宣言する。はたして天狗面の中にはどのような表情が隠れているのか。それは、誰にもわからなかった。

 鬼殺隊の水柱として、彼は静かに己の日輪刀を構え、水のように流れる呼吸に集中していく。『伍ノ型 干天の慈雨』。それは水の呼吸に伝わる、鬼に痛みを与えぬための慈悲深い型だ。

 誰も声を上げず、まだ燃え残った炎がパチパチと音をたてる。

 

 そして、鱗滝が日輪刀をゆるりと、振り上げたそのとき――。

 

 

 

『伝令、伝令ィ! 巫女ハ、保護セヨ! 保護セヨ!』

 

 

 それは、一羽の鎹鴉だった。

 

 

『ガァ! ガァーッ! 藤ノ山ヘ! 藤ノ山ヘ連レテ行ケ! 巫女ノ頸ハ、斬ッテハナラヌ!!』

 

 

 鎹鴉の声を聞いた鱗滝は、刀を振るう腕を止めた。眠り続ける花枝の首筋に、うっすらと刃が触れて紅い血が滲みでる。

 花枝の頸から滲み出る赤い血を。鱗滝は、ジッと、何も言わないままに、見つめていた。

 藤ノ山、つまりは藤襲山。鬼殺隊の新人隊士を選び取るための、いわゆる『最終選別』の場となる山だ。そこに連れていかれるということは、鬼となった花枝はその山に閉じ込められ、これから先の新人隊士たちの選別の糧となる。つまりは、そういうことである。

 

「誰か、この『鬼』を入れる籠を用意せよ」

 

「は、はい……っ」

 

 鱗滝に声をかけられた隊士が、花枝を入れる――いや、鬼をとらえ、閉じ込めるための籠を用意するために動き出す。

 彼らはただ黙々と、『鬼』の回収作業を進めていく。

 この指令は、朗報と呼ぶべきものなのか。それとも、絶望に悲劇を上塗りしているだけなのか。

 今はまだ、その答えを知る者はいない。

 

 

「……花枝……」

 

 はたしてそこにあったのは、いったい如何ほどの感情か。

 小さく、何かを呟いた鱗滝の心は。その顔を覆う天狗の面によって、永遠に、隠し通されるのだった。

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