この屋敷に花枝がやってきてから数日が経った。
初日こそ玄関先まで花枝たちを出迎えてくれた瑠火だが、実際にはもう彼女の身は病に冒されており、自由に振る舞うことも難しくなっている。
死相。
瑠火にまとわりつく呪いにも似たそれを、花枝ははっきりと読み取っていた。
煉獄瑠火の命はもう、長くはない。
◇ ◇ ◇
「杏寿郎ったらまだ庭で修行をしているんですか? すでに外は暗くなっていますよね?」
花枝は、布団から身を起こしている瑠火の横に寄り添い、その背に手を当て『浄化』を施していた。
この力は決して、人間を蝕む悪病を治癒できるような力ではない。
けれど、病に纏わる負の念を浄化し、体内の気脈を整えることで、多少なりとも瑠火を楽にすることはできた。
だから、花枝が訪れている間は、瑠火は柔らかい表情を見せることが多くなった。
花枝は瑠火に浄化を施しながら、ふと問いかけた。
この日はすでに日は落ちている。だというのに、煉獄家の庭の修行場からは、さきほどからずっと、まだ幼さの残る杏寿郎のかけ声が聞こえてくるのだ。
「ええ。どうやら小芭内も鬼殺隊を目指すことにしたらしいのですが」
「小芭内が?」
「ええ。それを聞いた杏寿郎が張り切ってしまいまして。今は庭に松明を焚き、剣術の基礎を何度も何度も反復させているようですよ」
「わあ、さっそく厳しい訓練ですね」
伊黒小芭内。彼はつい先日、花枝が『呪い』から解放した少年である。
花枝としては、彼にはこのまま鬼から離れた平穏な暮らしをして欲しかったが、しかし残念ながら、どうしても、鬼に対する憎しみの種火だけは消すことができなかった。
ならばせめて、
それはそれとして、杏寿郎はまだ子供だというのにとにかく精力的だ。
「杏寿郎を見ていると、元気が有り余っているところなどは、若い頃の槇寿郎そっくりですね」
「あら、やはりそうなのですか?」
「ええ。槇寿郎が初めて里にやってきた日なんかは、いきなり手鬼と力試しを始めてしまい、石畳がぼろぼろになっちゃいましたから。今でもわたしは根に持っていますよ」
「まあ、そんな話は初めて伺いました。槇寿郎様ったら」
花枝は未だにあの日の衝撃を忘れてはいない。
彼はいきなり里にやってきて、ろくに会話も成り立たず、そして手鬼と二人で大暴れを始めたのだ。あのとき破壊された石畳はいまでも石が割れているので、忘れたくても忘れようがない。
「瑠火さんには、そういう子供っぽいところは内緒にしてたんですかね。もっとも、手鬼と意気投合して周囲に被害を出すのは、槇寿郎が大きくなってからもあまり変わりませんけど……」
「ふふ、槇寿郎様はいつまでも少年のような輝きを持った人ですから。そんなところも、愛おしいところです」
「わあ、相思相愛」
「ええ。……槇寿郎様と出会い、煉獄家に迎えられたことは、私の人生において一番の幸せなのです」
そんな会話を楽しみながらも、花枝は瑠火の背に手を当て、ぽんぽん、ぽんぽんと優しくさすり続ける。
花枝は、瑠火を非常に好ましく思っていた。
大切な弟分が愛した妻であるのはもちろんだが、幼くして母を亡くした花枝を、この数日、瑠火は優しく受け入れてくれたのだ。
この家で。
花枝は数十年ぶりに、母の手料理というものを食べた。
花枝は数十年ぶりに、母の眼差しというものを思いだした。
この数日で間違いなく、花枝は瑠火に母の姿を重ね、心を寄せていた。
瑠火もまた、花枝の手に身を預けながら。まるで幼い娘が出来たような、温かい気持ちを味わっていた。
槇寿郎との間には、杏寿郎と千寿郎という二人の子宝に恵まれたけれど、残念ながら娘には恵まれなかったのだ。
もう、残された時間のない瑠火にとって。花枝という少女はまるで、初めての娘のように感じられた。
しばし、互いにそのような感情を隠しながら、互いの記憶にある槇寿郎の思い出話を語り合う。
それは、命が残り少ない母と、永遠の命を持つ娘との。とても不思議で優しく、切ない時間だった。
◇ ◇ ◇
どれほどそうしていただろうか。気づけば外から聞こえていた杏寿郎の声も聞こえなくなっている。杏寿郎が体力の限界を迎えたとは思えないので、小芭内が限界を迎えたのだろうと花枝は憶測する。
きっと今頃は千寿郎も交え、三人で内風呂にでも入り汗を流しているのだろう。
しばし、室内に沈黙が訪れる。
花枝はそこで。大きく深呼吸をすると、真剣な目で、瑠火の瞳をのぞき見た。
「瑠火さん。今から語ることは他言無用にお願いします」
「……はい」
瑠火も、花枝が何かを話そうとしていたことはすでに察していたのだろう。
先ほどまでの穏やかな母の顔ではなく、煉獄家の者として。背筋を伸ばし、真っ直ぐな視線を花枝へと返す。
「瑠火さん。わたしの『浄化』の力は、あなたの病を治療することまではできません」
「はい。重々承知しております」
「けれど。ひとつだけ。ひとつだけ――方法があります……」
花枝は言葉を途切らせて、一度、ふぅ、と息を吐く。あやかしの長と呼ばれても、四十年以上生きてきたとしても、迷いはある。
今まで、鬼を仲間に引き込んだことはある。死にかけた鎹鴉を仲間にしたこともある。
けれど、それ以上はしてこなかった。
だが、まっすぐに花枝を見つめ続ける瑠火の眼差しに気づき、花枝も心を決めた。
花枝に『母親』というものを思い出させてくれた彼女にはもう、時間がないのだ。未来がないのだ。彼女の未来を照らせるとしたら、このやり方だけなのだ。
「これはもしかしたら、あなたという人間の魂を汚すことになるかもしれません。ですが――」
花枝は、己の懐に手を入れた。
そこから取り出したのは、橙色の果実だ。明治の時代ではすでに『蜜柑』と呼ばれるようになっているそれは、しかし多くの人々が想像するそれとは大きく異なるものである。
この果実は、花枝たちの住む隠れ里――黄昏の世界にて収穫された、花枝の力の結晶だ。
花枝はその小さな実を、そっと、瑠火の手に握らせる。
「わたしはこれを、あなたに譲ります」
「この実は……」
瑠火が、言葉を言い淀んだ。
その実の存在は、鬼殺隊では極秘事項として扱われている。槇寿郎の妻である瑠火であろうとも、その存在を知らなかった。
けれど、花枝の言葉を聞けば、うっすらと察することはできる。
そこまで話したところで、花枝は顔を廊下側の襖へと向けて、声をかけた。
「ねえ、槇寿郎も。そこに隠れていないで、こっちに来て下さい」
しばしの静寂を挟んで、襖が静かに開く。
そこにいたのは槇寿郎だ。彼はずっと、今の会話を廊下から聞いていたのだ。
「……花枝には敵わんな」
「槇寿郎様……」
槇寿郎がそこにいたことについて、花枝は何も言わない。
瑠火と槇寿郎はしばし無言で見つめあった後、槇寿郎は襖を閉じ、瑠火の傍らに腰を下ろす。
そして、花枝に代わってその『実』について、己の妻へと語り始めた。
「これは『トキジクの実』というものだ。花枝の眷属である手鬼や百合鬼といった者たちは、この実を食すことで鬼の呪縛から脱却し『あやかし』となった」
彼の語ったそれは少しだけ事実と違うが、花枝はそれを気にすることなく、無言で彼の言葉の続きを待つ。
「そして――死にかけの鎹鴉にこの実を食わせたところ、鎹鴉は死ぬことなく、『あやかし』の鴉となった」
ヤタガラス。三本脚の、異形の鎹鴉。
今回、煉獄家へと同行してくれた彼は、日の光以外では死ぬことのない、不老不死の鎹鴉である。初日こそすぐにいなくなってしまったが、次の日には夜間に煉獄家の屋根裏へと戻ってきていた。
一度だけ庭へと降りてきた際に、瑠火とヤタガラスの顔合わせは成されているため、瑠火も知っているはずだ。
「つまり、これを私が食べれば……」
「ええ。あなたはわたしたちと同様の、不老不死の存在になります」
花枝が、頷いてみせる。
花枝はこの屋敷に来てからずっと、瑠火という女性を見続けてきた。
そして、瑠火ならば仲間に引き入れても良いと思った。いや、むしろ――瑠火とともに暮らせるようになることを、心の中では期待していた。
隠れ里の炊事場で、瑠火と肩を並べる自分を想像した。里のもの達とともに食卓を囲み、笑い合う瑠火の姿を想像した。
本来ならば花枝とて、人間を鬼にすることは許されざるべき行為だと理解している。けれど、それと同時に。命の尽きる瑠火にトキジクの実を与えることは、『救い』なのだと信じていた。
この実を食べれば、瑠火は人間ではなくなってしまうけれど。それはきっと幸せなことなのだと、自分に言い聞かせていた。
だって、そうすれば。
瑠火は槇寿郎や杏寿郎をいつまでも見守ることができて、花枝もまた瑠火とともに、いつまでも一緒に過ごせるようになるのだから。
だというのに。
花枝はトキジクの実について語りながら。気づけば、瑠火の目を見られなくなっていた。
◇ ◇ ◇
「正直に言おう。俺は……瑠火にその『トキジクの実』を食べてほしいと思っている」
淡々と、槇寿郎は心の内を語っていた。
そこには、血を吐くような想いが詰まっていた。
「俺は……俺は、鬼狩りとして『日の呼吸』にはたどり着けなかった。仕えた主すら、支え続けることは出来なかった。どれだけ鬼狩りを重ねても、巫女鬼たちを自由にすることは叶わなかった」
それは、煉獄槇寿郎という男の真実だ。
明治の世で鬼殺隊最強の男と呼ばれようと、日の呼吸の剣士には届かない。
この命をもってして支えると誓った先代当主は、自害という最期を迎えてしまった。
そして――柱としてどれだけ鬼を狩ろうと、目の前にいる幼い巫女ひとりを藤の牢から助けられない。
彼の中では、彼はずっと。何一つ、成し遂げられていなかった。
「その上で、瑠火までもがいなくなることなど……俺には、耐えられん……」
槇寿郎の脳裏には、瑠火と紡いできた様々な時間が蘇っていた。
鬼狩りという道に理解を示してくれた。
いつでも槇寿郎を支えてくれた。
ときに笑いあい、ときにすれ違うこともあったけれど、二人の子供にも恵まれ、槇寿郎と共に歩んできてくれた。
瑠火は間違いなく、槇寿郎の人生の中で。一番の宝物だったのだ。
「『あやかし』でもいい。共に過ごせなくなろうとも構わん! 頼む……俺は、俺は……瑠火に生きていてほしいのだ……」
槇寿郎は過去に、花枝が人間を鬼にすることがあれば、頸を斬らなければならない。そう語っていた。
けれど、彼はその信念をいま、曲げた。
「槇寿郎様……」
俯いた槇寿郎は、まるで泣きじゃくる子供のように見えた。
瑠火は少しだけ目を閉じてから。どこか嬉しそうな、そして悲しそうな、そんな表情で。槇寿郎を引き寄せて。
そっと、槇寿郎の背にもう一方の手をのばし。ぽんぽん、ぽんぽんと優しく叩く。
それはまるで、花枝が浄化の力を施すときと同じ仕草で、そこには限りない愛情があった。
「……瑠火さん。わたしたちの里は、あなたをいつでも迎え入れますよ」
「花枝様……」
槇寿郎は深くは語らなかったが、あやかしとなってしまえば、この家に住み続けることは難しい。
だから花枝は、瑠火を里に迎え入れるのだ。槇寿郎はいつでも会いに来られるし、杏寿郎や千寿郎も鬼殺隊士になれば、藤襲山にやって来られるはずなのだから。
けれど、花枝の期待とは裏腹に。花枝の心は、軋んでいく。
「花枝様。少し、考える時間をいただけますか」
「……はい。じっくりと、考えてください。これはとても大切なことですから、一朝一夕で決めるようなことではありません」
花枝はそれだけ伝えると、立ち上がり。
槇寿郎と瑠火を残し、その部屋をあとにした。
瑠火が槇寿郎へと向けていた、今にも泣き出しそうな微笑みを、記憶に焼き付けながら。
◇ ◇ ◇
空は暗く、月のない星空が広がっている。
花枝は煉獄家の庭で、夜の風にあたっていた。
「ねえ、ヤタガラス。時に非ずと書いて、トキジク。その名の通り、わたしたちは人とは違う時間を生きているんですよね」
『ガァ』
「ねえ、ヤタガラス。人とは違うわたしが、人と同じ幸せを望んでしまうのは、いけないことですか?」
『ガァ……』
「わたしの願ったことは――許されぬことだったのですか?」
『……』
いつもは饒舌なヤタガラスは、何も答えてはくれない。
花枝が見つめると、彼は気まずそうに視線を逸らす。花枝は苦笑を浮かべて、頭上に広がる星空を見上げる。
「ねえ、ヤタガラス。きっと瑠火さんは、永遠の命を選ぶことはないのでしょうね」
『……』
あのときの瑠火の顔を思い出す。
花枝の望んだものと、瑠火の望んだもの。
それはきっと、違うものだった。
「瑠火さんは最期まで……この家の妻として、母として、生きていくことを選ぶのでしょうね。そんな顔をしていましたよ」
暗く淀み、数え切れないほどに、様々なことを諦めてきた瞳は。今もなお、闇を濃くしていく。
それでも花枝は、遠く輝く美しい星々を見つめている。
「不思議ですね。悲しいはずなのに、涙が流れないんです。やっぱりわたしはもう、人の心のない鬼なのでしょうね」
『ガァ……巫女鬼……』
「わたし、なんだか今は無性に、里のみんなに会いたいです……」
星空の下で呟いた、その言葉は。
明治の世を覆う夜の闇に、そっと、溶けていった。