杏寿郎は花枝が眠っている午前中には、日本政府が定めた『小学校』へと通っていた。花枝はもっぱら、日が暮れたあとに杏寿郎から小学校についての話を聞くのが楽しみだった。
育った環境が環境だけに学校には通っていない小芭内は、その間ほとんど黙っていた。だが、彼もそれなりに楽しんでいたに違いないと、花枝は確信している。
時には、夜中に泣き出してしまった幼い千寿郎を、瑠火に代わってあやし続けた夜もあった。
人生で初めての子守は、なかなか貴重な経験として花枝の記憶に残っている。
炎柱である槇寿郎はさすがに多忙であり、半月のうち大半は家を留守にしていたが、その間も花枝は瑠火の元に通い続けていた。
トキジクの実についての決断は先延ばしのままだったが、花枝も瑠火も、あえてそのことは話題に出すことはしなかった。
その間、隠れ里にも大きな変化はなかったらしい。ヤタガラスが何度か、遠く
残念ながら、始めのうちに考えていたような人里の観光に出る機会には恵まれなかったが、日課のように瑠火の部屋を訪ね、杏寿郎たちの話を聞いて過ごす日々は、花枝にはとても新鮮で、忘れがたい時間だった。
だが、そんな日々にも終わりが訪れる。
◇ ◇ ◇
「炎柱、煉獄槇寿郎さま。お館様の命により、
彼女らが煉獄家の門を叩いたのは、その日の太陽が沈んだ頃だった。
「お館様の命……だと?」
出迎えた槇寿郎は表情を硬くする。彼がこの地に花枝を招いたのは、完全なる独断だ。当然、現当主である耀哉にも伝えてはいなかった。
けれどどうやら、今回も。産屋敷家はこの状況を把握し、ここまで静観していたようだ。槇寿郎の心には一つのざわめきが訪れるが、しかし彼はすぐに思い直し、目の前の隊士に視線を向けた。
先頭で炎柱に頭をさげているのは、どこか眠たげな雰囲気のある優しげな瞳をした、まだ少女と呼んでも差し支えのない可愛らしさを残す女性隊士だ。
槇寿郎はその隊士を知っていた。若くして甲にまで昇格したという、水の呼吸の使い手だ。
彼女の背後には、顔を布で隠した数人の隠が控えている。顔を隠した彼らであるが、その全員が共通した呼吸をしていることに槇寿郎は気がついた。
「水の呼吸……なるほどな。全員が元水柱、鱗滝左近次殿の一門か。手鬼が言っていた『狐の子』たちだな」
「はい。後ろに控える隠も全員が私の兄弟子であり、最終選別にて巫女鬼様や手鬼と出会ったものたちです」
廊下の向こうからその姿をのぞき見ていた花枝が、はっと息を飲む。
先頭に立つ女性隊士は、真菰。数年前の最終選別にて手鬼から合格をもぎ取り、選別の最終日まで隠れ里で共に過ごした狐の子である。
その背後に立つ隠たちは顔こそ隠してはいたけれど、しかしそちらも花枝にはすぐにわかった。彼らは、それまでの最終選別で手鬼に痛めつけられ、不合格とされてきた狐の子たちである。
花枝は隠れるのをやめて姿を現し、とてとてと小走りで駆けてくると、槇寿郎の横に並ぶ。
「真菰! それに皆さん、ずいぶんと成長しましたね。全員、もう大人じゃないですか」
「み、巫女鬼様っ! その節は、お世話になりましたっ!」
「えっ?! ちょ、ちょっと、そんな畏まらなくてもいいですからね?!」
炎柱を前に畏まっていた真菰たちだが、花枝の姿を見たとたんに全員がそろってその場に屈み平伏するものだから、槇寿郎は軽く驚き、後ろで見ていた杏寿郎や小芭内も目を丸くしていた。
だが、いきなり平伏されてしまった花枝こそが一番驚いていたのは、言うまでもない。
◇ ◇ ◇
「伯母上、帰ってしまわれるのですか」
「……帰るのか」
杏寿郎と小芭内が花枝の前に立つ。杏寿郎にしがみつくようにして、まだ小さな千寿郎もこくこくと頷いている。彼もまた、父の姉を名乗る少女との別れを惜しんでくれているようだ。
「ええ、どうやら迎えが来てしまったようです。いつかは帰らねばなりませんでしたし」
「俺は、伯母上はずっとここにいてくれるものだと思っていました! だから、とてもつらい!」
「わあ、正直者ですね」
花枝にとって、自分を伯母上と慕ってくれる存在は、恐らく後にも先にもこの杏寿郎だけだろう。
もし、鬼舞辻無惨に襲われずに自分が人間として生きていたならば。血を分けた姉である
花枝はすぐに浮かび上がった妄想を振り払い、三人の子供たちと一人ずつ、別れの抱擁を交わしていく。
そして。
「槇寿郎。トキジクの実の処遇はあなた方の判断に委ねますね」
「……ああ、わかった」
炎柱たる煉獄槇寿郎。
当主自らが迎えの者を寄越したということは、花枝――巫女鬼の連れ出しは、もとより当主の知るところだったのだ。そして、これ以上花枝の滞在が長引くようならば、産屋敷家は槇寿郎を庇いきれなくなるぞという、当主からの最終通告でもあるのだろう。
花枝と槇寿郎の間には、言葉にならぬ、もやもやとした疑念が残る。だが、どちらもそこには言及しない。
どのみち『帰還を断る』という選択肢など、この場には残されていないのだから。
「どうぞまた、里にいらしてくださいね。きっとみんな、喜びますから」
「ああ、そうだな。また手鬼と手合わせをするのが楽しみだ」
「では、わたしは行きますね。お元気で」
槇寿郎は、長年交流が続いてきた相手だ。
なので、彼の屋敷を出ることにはなったものの、特に槇寿郎との別れに思うところはない。
またしばらくすれば、彼のほうから藤襲山を訪れるだろうから。
少なくとも、今の花枝はそう考えていた。
そして――。
「花枝様」
「瑠火さん……」
トキジクの実については、瑠火と槇寿郎に委ねている。
けれど、花枝は見てしまった。瑠火の、母として、妻としての覚悟を決めた表情を。だからもう、トキジクについて口にすることはない。
瑠火と会えるのはこれが最後になるのだという予感を、花枝は諦念とともに受け入れていた。
本音を言うならば。もっと永く、瑠火の側にいたかった。瑠火の側はとても温かかった。彼女がまもなく迎えることになる『その日』まで、ずっと側にいたかった。
けれど、花枝がこれ以上ここに居たならば、間違いなく槇寿郎たちの立場が危うくなってしまうのだろう。それは花枝の望むことではない。花枝は、瑠火を悲しませたくはなかった。
だから花枝はまた、望みを諦めた。花枝の淀んだ瞳は、更に闇を深くする。
「花枝様。短い間でしたが、私は、あなたのことを本当の娘のように感じておりました」
「わたしも、瑠火さんのことを二人目のお母さんのように感じていました。瑠火さん、大好きですよ」
「ええ。私も。ずっと、大好きですよ、花枝様」
互いに、母を求めて、娘を感じて。
けれど決して同じ時間を生きられない二人はここで、抱擁を交わしあう。
そしてそれが、花枝の感じた。
煉獄瑠火の、最後のぬくもりだった。
◆ ◆ ◆
「皆さん、あれからどうなったか心配していましたが、元気そうでなによりです」
夜の道を延々と駆けていく。
とは言っても、花枝はすっぽりと籠に入れられており、それを背負った隠がひたすら走っているだけだ。
花枝は籠の隙間から目だけを覗かせて、そこから見える随行者たちに声をかける。
それに真っ先に返したのは、一番近くを駆けていた隠の男性だ。
「はい。巫女鬼様のお陰です。私たちは手鬼に実力不足を指摘され剣士を諦めましたが、真菰は次代の水柱候補なのですよ」
「わあ、すごい」
花枝は心のままに、感嘆の声を口にする。
真菰の成長もすごいが、手鬼にボコボコにされた被害者の彼らが、手鬼に対し全然怒っていないことがすごいなと思った。手鬼は彼らにかなり理不尽な暴力を振るっていたというのに、世の中は不思議なことが多い。
だが、彼らが手鬼にボコボコにされた話を蒸し返してもいいことはなさそうなので、花枝は話題の矛先を真菰へと向けた。
あの日、花模様の可愛らしい狐面をつけた子供だった真菰は、可愛らしさはそのままに、今や立派な女性へと変貌しつつあった。
そのトロンとした眼差し故のあどけなさこそ残るものの、その佇まいは手鬼に敗れたあの日とはまったく違い、自信に満ちている。
「真菰とは、もう三年ぶりになりますか。あの頃からかなりの素質はあると思っていましたが、次代の水柱候補だなんて、本当にすごいですね」
「ええ、鱗滝さんにも、そして手鬼にも、約束しましたから。でも……最近鱗滝さんが保護した子供たちが、私より才能があふれた子なんですよね。うかうかしていられないです」
「そうなんですか? それは手鬼が期待しそうですね。なんだかんだで、強い狐の子が来るのがとても嬉しいみたいですから」
真菰はこの三年で、ぐんぐんと階級をあげていった。
花枝はその話を聞いても、すごいとは思うが、まさかとは思わない。なにせ、狐の子をいたぶるのを趣味としていた手鬼が『合格』を言い渡した子なのだから。
一方、真菰と花枝のそのやりとりを聞き、なんとも言えぬ複雑そうな空気を醸し出したのは、その場に随伴する隠たちである。
「強い狐の子、ですか……」
「俺たち、みんな力不足で手鬼をがっかりさせてましたから、なんだか申し訳ないです」
「せめて俺も、手鬼を喜ばせる程度には強ければ……なんて、今でも少し思ってしまいますね」
隠たちの交わす会話には、花枝も苦笑するしかない。
彼らは手鬼を愛ある鬼教官かなにかと勘違いしているのかもしれない。いや、狐の子たちにとっては文字通りの鬼教官だったのは間違いないが、そこに愛があったかどうかは甚だ疑わしい。
もっとも、彼らのなかで手鬼が神聖化されたとしても、花枝としては面白いだけなので訂正はしない。
それどころか花枝は、彼らが泣いてわめき散らすような予言を口にした。
「手鬼のことです。もしかしたらこのまま里に入ったら、『狐ども、俺に成長を見せてみろ』とか言い出して、全員を相手に乱取りを始めるかもしれませんよ」
「あはは、巫女鬼様、俺たちはもう剣士ではないのですから。縁起でもないことを言わないでくださいよ」
「ふふふ、手鬼はそんなこと気にしませんよ」
「あはは、はは……ご冗談を……ははは」
「ふふふ」
夜中の道を駆け抜けながら、狐の子たちと冗談も交えて談笑をする。それは花枝にとって、思いのほか楽しい旅路だった。
きっと彼らも、花枝の心情を慮った上で、雑談に興じてくれていたのかもしれない。
煉獄家の門の下。まるで本当の母娘の別れのように抱擁し合う瑠火と花枝の姿を、彼らはその目で見ていたのだから――。
なお。
藤襲山に到着し、そのまま花枝によって隠れ里まで案内された一行――特に、隠たちは。
手鬼の「狐ども、俺に成長を見せてみろ」なる言葉で、ちょっとした地獄を見ることになるのだが。
それはまた、別のお話である。
◆ ◆ ◆
「ねえ、手鬼。わたしは本当に、瑠火さんを慕っていたんですよ」
死屍累々となっていた隠たちが、自分だけは手鬼に追いすがることができて上機嫌の真菰に連れられ、全員無事に鳥居の向こうに消えるのを見送った日の夜。
花枝は久しぶりに、手鬼と二人で月に照らされた藤襲山を散策していた。
何人かの鬼の気配を感じはしたものの、鬼たちとて馬鹿ではない。無駄に周囲に覇気をまき散らす手鬼に近づくものなどいない。
「あの方は、わたしに『お母さん』を思い出させてくれたんです」
「そうかよ。俺は会ったことねえから、わかんねえな」
花枝は、淀みきった瞳で。諦めきった瞳で。
あの日、煉獄家から見上げたものと同じ星空を見上げている。
「わたしは本当に、あの方と暮らしたかったんですよ」
「そうかよ。さっさと忘れちまえ」
「そうですね。忘れないと、いけませんね」
どれだけ諦めても。どれだけ見捨てても、それでも幸せを望んでしまう自分の心に。
花枝は最後に少しだけ、瞼を閉じて。心を閉ざして。両の瞳を淀ませて。
きちんと、別れを告げて。
そしてまた、手鬼と共に。たった二人で、藤襲山の森の中で手を繋ぎ。
永遠に変わらぬ黄昏の日々へと、戻っていくのだった。
次話は、明日8日(土)に短めの閑話を公開予定です。