迷い蝶
花枝は、小さな赤ん坊を抱いていた。
否。正しくは、花枝は夢の中で見知らぬ女性になり、布でくるまれた赤ん坊を優しく抱き上げていた。
『母ちゃん、夕餉の支度なら俺がやろうか?』
『あら……。なら、お願いしようかしら』
『任せてよ、俺は長男だから!』
六、七歳くらいの少年が、夢の中の女性に話しかけてくる。
どうやら、この女性は多くの子供を産み育てているようだ。夢の景色には、長男を名乗る少年の他にも、それより少し小さな女の子と男の子の姿がぼんやりと見えた。
夢の主である女性が抱いているのは、女の子だ。つまり、この赤ん坊は次女なのだろう。
女性は赤ん坊に顔を近づけて。
そっと、やさしくその子に、呼びかける。
『元気に育つのよ――』
ボコッ。
急に、頭に拳骨を落とされたような痛みが襲い、夢の景色が遠のいていく。
ズキズキした痛みに呼び起こされるように瞳を開くと、視界に映ったのは、もう四十年近く見てきたバッテンの瞳を持つ兄貴分だった。
「おい巫女鬼、テメェなにこんなところで居眠りしてやがる」
「わあ、もう少しで赤ん坊の名前が聞き取れたのに。あとなんか、頭が痛いんですけど」
「なに意味のわからねえことをほざいてやがる。炭焼き小屋で寝るんじゃねえよ、邪魔だっつーの」
「ねえ手鬼、なんか頭が痛いんですけど」
「アァ? 気のせいだろ」
胡蝶の夢。
それは、花枝が図書室で読んだ本に書かれていた話だ。
夢の中でだけ、別のなにかになっているのか。それとも今の自分こそが、夢の存在なのか。
森の入り口に作られた簡素な炭焼き小屋で目覚めた花枝は。痛む頭をさすりながら、ふと、そんなことを思う。
もちろん今ここに居る花枝こそが本物で、先程の景色は夢でしかないのはわかっている。
それでも、先程見ていた夢の景色もまた、真実なのではないかと。あの幸せそうな親子が、どこかに本当に暮らしているのではないかと。
花枝には、そんな気がしてならないのだった。
◆ ◆ ◆
――明治三十九年。
花枝が煉獄家から帰還してから、すでに半年以上が過ぎていた。
その間、隠れ里では花枝の要望で洋風の食事が増え、足りないスパイスを香りの強い山椒で補った『カレーもどき』が全員の胃袋を鷲づかみする事件などもあったけれど。
概ね、隠れ里には大きな変わりはなく、平穏な日々が過ぎていた。
そしてこの日。
すでに花枝たちにとっては何十回目になるのかも覚えていないが、藤襲山では再び『最終選別』が開催されていた。
「今回の最終選別にも、真菰が言っていた『すごい素質の子供』はいなさそうですね。残念です」
「鱗滝の野郎、のろのろしやがって。素質がある弟子なら半年で仕上げろつーんだよ」
「わあ、理不尽」
慣れたもので、日が暮れた藤襲山の高い木の上で、花枝と手鬼は今回の参加者たちの動向を観察していた。
もちろんこの木から見える範囲など山の広さからすれば大したものではなく、全ての参加者が把握できるわけではない。とはいえ拙い剣士が鬼と戦い始めたら、何かしらの声や物音が響き渡るものだ。音もなく鬼を狩るほどの実力者など、最終選別にはそうそう現れないのだから。
だから、どこかからか音が聞こえたならば、花枝たちは音の方向へ移動する。それを繰り返すことによって、花枝たちは多くの参加者たちの姿を確認できていた。
「じゃ、帰るか? さすがにまだ見習いどもも死にかけるこたぁねえだろ」
「そうですね――って、あれ?」
なんにせよ、最終選別で重傷者が出るのは主に後半である。
前半は試験参加者の子供たちもほぼ全員がぴんぴんしているが、後半ともなれば体力や気力も大きく削り取られており、間違いを起こしやすいのだ。
そんなわけで、今のところは出る幕がない花枝たちは、この日は大人しく里へ戻ろうと踵を返す。
――が。そこで花枝はふと、不自然な吹き方をするそよ風に気がついた。
この風は、風見鬼の異能による風である。
どことなくこの状況に既視感を感じた花枝がその場で立ち止まり耳を澄ませば、それはやはり風見鬼からの伝言だった。
『二人とも。隠れ里に、花の蜜のありかを求めて……可憐なる蝶が一羽、迷い込んできたわ……』
それは花枝の予想通り、風見鬼からの伝言である。いつかのように荒々しい風ではなく、静かに詩を読むようなそよ風だ。
とはいえ、それを花枝たちに風を使って伝えてくるということは、里に何かがあったということなのだろう。
花の蜜。可憐なる蝶。風見鬼らしさが炸裂した伝言内容に、手鬼と花枝は互いに顔を見合わせる。
「こんな夜中に蝶……なぁ。おおかた、鳥居を潜ってでっけえ蛾でも入り込んできたんじゃねえか?」
「手鬼。今のは蝶や蛾のお話じゃありません。『蝶々を思わせる可憐な女の子が迷い込んできたため、一緒に蜂蜜水を飲んでいます』という言葉ですよ。風見鬼の翻訳ならわたしに任せてください」
「ンだよそりゃ。いくらなんでもその解釈は無理矢理すぎんだろ」
◇ ◇ ◇
花枝の解釈は百点満点で正解だった。
「わあ、可憐な女の子が、蜂蜜水を飲んでますね」
「マジかよ……」
鳥居を潜り神社へ向かうと、ちょうど正面に見える拝殿前の石段に、見知らぬ人間の少女が座っていた。当然その少女は最終選別の参加者であり、手元には日輪刀が見える。
その左右には彼女を挟むように百合鬼と風見鬼が座っている。少女の日輪刀が届く距離だというのに、百合鬼たちは呑気に笑顔を見せていた。
お揃いの器を手にしているが、あれはきっと蜂蜜水が入っているのだと花枝にはすぐにわかった。
鬼と人間とはいえ、女子が三人並んでいるところに男の鬼たちは入りにくいのだろう。他の鬼たちは離れたところからチラチラと石段に視線を向けている。
しかし、これは一体どういう状況なのかと花枝と手鬼が足早にそちらに近づくと、石段に座った少女も花枝たちに気付いたようだ。
彼女はすぐに立ち上がり、花枝へと頭を下げた。長い黒髪がさらりと揺れており、髪をとめるために左右につけた蝶々の形の髪飾りが非常に目をひいた。
その姿はまさに良家のお嬢様然としており、なるほど確かに『可憐なる蝶』だなと、花枝は納得する。
「こんにちは、胡蝶カナエと申します、可愛らしい巫女様。私のことはカナエ、とお呼びください」
「あ、はい。わたしは巫女鬼と呼ばれています。よろしくお願いします、カナエ」
丁寧に挨拶をしてきたので、花枝もまた反射的に、丁寧に挨拶を返してしまう。
花枝の後ろでは、あまりの相手の毒気のなさに、手鬼もまた拍子抜けした表情を見せている。
「巫女鬼様、この子すごいですよ! 鳥居を見かけたので参拝をしようと思って潜ったら、偶然ここにきちゃったらしいです!」
「聞けば、『あやかし』の噂すら知らなかったという……まさに、一羽の迷い蝶よ」
「へぇー? じゃあ本当に偶然ここに入ってきたんですか? そんなこと、本当にあるんですねえ」
「私も、鳥居を潜った先に別な空間が広がっているのには驚きました。更に、皆様のように人と分かり合える鬼たちが住んでいるだなんて……」
カナエは度胸が据わっているのか、それとも順応性が高いのか、まるで慣れ親しんだ友人と過ごすかのように穏やかで、にこにこと笑っている。
いや、その表情はただの笑みではない。まるで、感動に打ち震えているようにも見えた。
「わあ。なんだかとても嬉しそうな表情」
「ええ、今はとても、皆様にお会いできて嬉しいんです」
「なるほど?」
隠れ里の明神鳥居を発見できたという話からもわかるように、彼女の背には呪いの黒い影はない。少なくとも、彼女はこれまで他者から恨みを買ってこなかった『善良』な人間であることには間違いなさそうだ。
だが、花枝はさすがにもう知っている。
鬼殺隊士とは、その大多数が後悔や怨恨で動く集団なのだ。
社会通念も無視して鬼殺に励み続ける、言い方は悪いが彼らはちょっとした『異常者の集まり』なのだ。いまの世で日本刀を持ち歩くのが普通でないことくらい、本や新聞を読んでいれば花枝とて理解できるのだから。
だからこそ、わかる。
槇寿郎しかり、目の前の少女しかり。憎しみや後悔に後押しをされたわけでもないのに、まともな精神のまま最終選別まで来てしまう人間というのは、殊更、どこかがおかしい人間だ。
「あ、巫女鬼様。カナエちゃんはちょっと――いや、もの凄く変わってるんですよ」
そんな花枝の視線に気付いたのは百合鬼だ。彼女は少しだけ声色をさげて、花枝が外に出ている間のことを語りはじめた。
どうやら花枝たちが藤襲山から戻るまでの間に、百合鬼と風見鬼は彼女から色々と話を聞き出していたのだそうだ。
そこでわかったことだが。
花枝の予想通り、彼女――胡蝶カナエは、鬼殺隊としては明らかに異端で、危うい精神性の持ち主だった。
◇ ◇ ◇
「鬼を哀れむ、ときたか。この女、頭に花でも咲いてやがるな」
手鬼の発言は、実にまっとうな感想だった。
というのも、この胡蝶カナエは家族を鬼に殺されたにもかかわらず、それでもなお鬼を哀れみ、「鬼ともいつかはわかり合えるのではないか」と考えていたのである。手鬼曰く『頭に花が咲いている女』である。
目の前では本当に頭に百合の花が咲いている百合鬼が「ん?」と首を傾げているが、手鬼は無視して言葉を続けた。
「テメェの言う『人とわかり合える鬼』つーのは現に俺たちがそうだ。否定はしねえ。他に可能性がないとも言いきれねえ」
手鬼が淡々と語りはじめたので、花枝は横でうんうんと頷き始めた。
相手が狐の面をつけていないからだろうか、今日の手鬼は比較的冷静で穏やかだ。
「だがよ、それでも外の世界の人喰い鬼どもは、人間を餌としか見てねえんだ。そいつら相手に甘い顔なんざ見せてたら、テメェが守るべき連中もろとも死ぬだけだぜ」
「はい。それは先ほど、百合鬼さんと風見鬼さんからも、厳しく言い聞かせられました」
カナエは少しばかりしゅんとした様子で肩を落としている。どうやら百合鬼たちにも相当きつく言われたようだ。反論しようにも、実際に人喰い鬼だった者たちの言葉なので、否定のしようもない。
花枝も横で頷いている。実際に『あやかし』という存在がいる以上、カナエの夢は決してありえない話ではない。
ただ、その考えは間違いなく、カナエ自身を危険に晒すのだ。みすみす鬼に甘い顔をしてこの少女が殺される未来をおびき寄せるくらいなら、今のうちに矯正するに限る。
「カナエ。夢を見るのは素晴らしいことですけど、現実をおろそかにしたら駄目ですよ?」
「はい、以降は軽い気持ちの夢などは語らず、しっかりと熟考していきます」
最後にしれっとそれっぽいことを述べただけの花枝の言葉にカナエも頷いている。
もっとも。カナエの反省は『ぼんやりとした夢』を語ることをやめ、今後は『実現までの道筋』を熟考するという意味での反省だ。むしろ『あやかし』という可能性を見て、彼女の夢はより強固なものになったと言えるだろう。
もちろん、そんな内面までは花枝の知る由もないことだが。
なんにしても。これで花枝たちは納得したので、この話題はひとまずお終いとなった。
今頃、鳥居の向こうは真夜中だ。朝日が昇るまでまだまだ時間はあるだろう。
花枝はとりあえず、三人が座っている石段に自分もちょこんと並んで腰を下ろす。
カナエはせっかくの客人なので、自分も蜂蜜水でも飲みながら色々と話を聞こうかなと考えていた。
だが、そんなまったりとした空気に一石を投じる鬼がいた。
「……で? どうすんだ?」
「はい? どうするもなにも、せっかくのお客様なんですから、お話を聞かせてもらいましょうよ。選別の最終日までは日数も残っておりますし、ご飯や露天風呂も紹介したいですね」
「チッ。テメェも頭に花が咲いてやがるな」
わかりやすいほどの舌打ちとともに、花枝までもが頭に花を咲かせた一味に認定された。
仲間扱いされて百合鬼はどことなく嬉しそうだが、手鬼は無視して言葉を続ける。
「俺が言ってんのは、こいつが最終選別を乗り切れるだけの力量があるのかどうかって話だ。運良く入ってきたこの女を構うのはいいが、こいつが最終選別を合格できねえような雑魚だったら、最終日まで保護するなんてのは俺が許さねえ。まずは力試しだ」
「わあ、手鬼は意外と最終選別のこと気にしていたんですね」
「子狐をいじめる以外のこともちゃんと考えているんですねー」
「手鬼は……存外、最終選別に対しては顔に似合わず……真面目なのよね……」
「テメェら、ぶん殴るぞ」
過去には槇寿郎、真菰といった面々を最終選別の最終日まで迎え入れた実績のある隠れ里だが、彼らはどちらも手鬼と戦い、その実力を示した子供たちだ。
一方、ここにいるカナエはあくまで偶然この里を訪れただけの立場なので、その実力は未だに示されてはいない。
なので、ここに残りたければ実力を示せと、手鬼はそう言いたいわけだ。花枝などは運も実力として扱ってもいいのではないかと考えているのだが、手鬼はそこのところは妥協できないようだ。
「わかりました。私も、覚悟を持って最終選別に臨んだ身です。是非、力試しをさせてください」
意外にも、カナエ本人は手鬼の発言に乗り気だった。
蜂蜜水を飲んでいた女の子らしい笑顔から一転、すっくと立ち上がり腰の日輪刀に手を伸ばす彼女は、すでにいっぱしの鬼殺隊士に見えた。
だが、花枝は蜂蜜水を飲みながら、考える。
「でも、さすがにこんな女の子を手鬼のアレと戦わせるのは可哀想ですし……」
「アレとか言うんじゃねえよ」
数年前、緑色の異形となった手鬼は、調子に乗って真菰相手に「やりすぎた」ことがある。
真菰は最終的に無事だったからいいようなものの、カナエをあの異形といきなり戦わせるのは不安が残る。
なので、花枝は周囲をぐるりと見回した。手鬼が何か言っているが無視だ。
するとすぐ横に、蜂蜜水の底に溶け残っていた蜂蜜を熱心に指先で掬い上げ、ペロペロ舐めている百合鬼がいた。
「うん。百合鬼、あなたに決めました。今回はあなたがカナエと手合わせをしてください」
「え、えー? 私がやるんですか?」
まさか自分が名指しされるとは思っていなかったのか。
百合鬼の左目に咲いた百合の花が、驚きで見開いた右目とともに、ぱっと大きく花開くのだった。