『ガァ! ガァ! 槇寿郎ノ現状ヲ確認!!』
槇寿郎がこの里に訪れなくなってから二年。
それが一年ならば柱の役目が忙しいのだろうと気にしなかったのだが、二年となればさすがに
そこで、無理を言ってヤタガラスに遠くまで飛んでもらい、槇寿郎の現状を確認してもらった花枝たちだったが――。
「そうですか。槇寿郎は、炎柱を引退していたのですか」
「……チッ」
トキジクの木の枝に留まったヤタガラスの報告によれば、槇寿郎は、すでに炎柱を引退していた。
花枝はその報告に顔を暗くしてうつむき、手鬼は少しの沈黙の後、苛立ちを露わにする。
ヤタガラスによれば、怪我や病気ではないらしい。ならば、心が折れてしまったのだろう。
若い頃は何も背負うものがなかった槇寿郎の背中。そこには年月とともに、黒い呪いが積み重なっていたことに、花枝は気づいていた。
先代当主の自害。志半ばに散っていく仲間たち。
そしてきっと、その心の呪いが決定的になったであろう出来事――煉獄瑠火の死を知っている花枝は、なんとも言えぬもやもやを心に浮かべる。
だが、続くヤタガラスの言葉に、そんな気分も吹き飛んだ。
『アイツ、タマニ一人デ、鬼狩リニ出テイル!!』
「え?」
「ア?」
花枝と手鬼が同時に声を発し、枝に留まるヤタガラスを見上げる。
それまで沈んでいた花枝も、苛ついていた手鬼も、二人とも理解が追いつかずにぽかん顔だ。
『鬼狩リハ、辞メテイナイ』
「え、え? 槇寿郎って、炎柱を引退したのに鬼狩りを続けているんですか?!」
「あの野郎、何考えてんだ?」
『気ガ狂ッタノカモシレン!』
「わあ、悲しいですね」
ヤタガラスの容赦のない発言に少しだけ苦笑を浮かべつつ。
それでも、昔から弟のように見てきた槇寿郎が、今も無事に生きているのならばと。花枝は心の中で安堵して。
横に立つ手鬼は「やるじゃねえか、槇寿郎」などと勝手に納得し、どこか嬉しげな笑みを浮かべているのだった。
◆ ◆ ◆
――明治四十年。
この日、社家屋敷の炊事場からほど近い土地に、里の住民が集まっていた。
この日は新しく完成した施設の初稼働の日だ。
新しく生まれた施設。
長い月日をかけ、皆で一つずつ切り出していった岩を設計図通りに組み立てていき、ようやく完成したそれは。
優に、その中に花枝が五、六人は入れそうな、とても大きな『大窯』だった。
「……いい感じだ……」
窯を見上げている包帯まみれの鬼は、蟲鬼。この里の住民としてはまだ新入りと呼べる鬼だが、様々な蟲を使役することで色々な作業を手伝える有能な人物である。
この窯を作る上では蟲の力はさほど使わなかったものの、明治の時代を生きてきた彼の知識そのものが今回は大いに役に立った。
「ゲッ。田中ァ、そっちはどうだァ? ゲッピ!」
同じく、頭に皿を乗せて『ゲッピ』と謎の音を発しているのは河童鬼。その名の通り、彼は見た目も能力もほとんど河童だ。頭には着脱できない皿もついている。彼は普段から社家屋敷でなく、池の中に寝泊まりしているくらいには河童である。
水に関わる彼の力も窯作りに大きく関わるものではなかったが、明治時代の知識は非常に参考になった。
「あ、こっちはいい感じですよ」
そして、ここからすぐ覗ける炊事場の中で、包丁鬼とともに白いもちもちしたものを捏ねているのは、同じく里の住民としてはまだ新参と言える田中鬼。
名前からして普通の名前の彼は、普通の男性に普通の角を生やした程度の、普通の鬼だ。
彼は明治の街の食事処で働いていたらしく、あやかしとなってからは包丁鬼とともに様々な食事を提供してくれている。
そして、今回の大窯のお披露目では、彼の知識が中心となっていた。
そう。
この日は、田中鬼が詳しく知っていた『パン』をこの大窯で焼き上げ、皆で食べることになっているのだ。
「それにしても、カナエに教えてもらうまでは、『パン』という食べ物が本当にそこまで広まっているとは思いませんでしたね」
「だなァ。本で書いてるのは見たが、大袈裟な作り話かなんかだと思ってたぜ」
パン。それは、江戸の世に生まれた花枝と手鬼には、読み物由来の知識こそあるものの、実感としてはほぼ馴染みのないものだった。
もしかしたら江戸時代でも大きな街の住民ならばその名称を耳にしていたのかもしれないが、残念ながら花枝はずっと山育ちであり、手鬼も平凡な村育ちだ。
だが、昨年。
この地を訪れた胡蝶カナエとの話でたまたま食生活の話題があがり、そこでカナエに聞いたのだ。
今の世では、都市部ではパンを専門で作る店もあり、地域によってはパンは身近なものなのだ、と。
特に、中にあんこを入れた『あんぱん』というものが、庶民にも人気のある代表的パンなのだそうだ。
「ふぉっふぉ、こういうものを見ていると、時代の変化を感じますな」
「私も、鬼になる直前にヨコハマでパンのお店ができたという噂を聞いたくらいでしたねえ」
そしてそれは、この里の古株である筆鬼と百合鬼も同様だった。
百合鬼は江戸の街で暮らしていた比較的ハイカラな街娘だったはずだが、それでも生きてきた時代的に、パンという食べ物の噂を聞いたことがある程度である。
一方、後から加入した明治時代の鬼たちは、生地を捏ねる田中鬼に向けてどこか懐かしげな視線を送っていた。
すでに外の世界は明治四十年。江戸時代の古参たちと違い、明治の世で育った鬼たちにとっては『パン』というものは比較的身近なものだったのかもしれない。
江戸時代に生きてきた花枝たちは。
パンの話題で盛り上がる仲間たちの姿を眺めながら、もう自分たちが生きてきた世界が残っていないことを感じ取り。
少しだけ、もの悲しさを覚えるのだった。
◇ ◇ ◇
「田中鬼さん。これが『パン』になるのですか? なんだか大福餅みたいですね」
「あ、巫女鬼様。ええと、確かにもちもちしてて大福みたいですけど、これは生地なので、ええと……」
花枝は炊事場に入り、小麦粉からつくった生地をこねたり放置したりしている田中鬼に声をかけてみた。
パンどころか、生前はまだ七歳で日常の料理風景もあまり見てこなかった花枝にとって、田中鬼のこねていたパン生地が、なんだかとても楽しそうなものに見えたのだ。
こっそり指先でつついてみると、もっちりと柔らかく、花枝の脳裏に浮かんだのは大福餅であった。
「焼ケバ……饅頭ノ皮ミタイニ……ナルゾ」
「わあ、お饅頭の皮ですか! 懐かしいですね。わたしもあんこを包んだ皮は好きでしたが、結局あまり食べる機会はありませんでしたね……」
見かねた包丁鬼が、花枝にも想像がつくたとえで教えてくれた。包丁鬼は人間の頃から和食の料理人だったが、もちろんパンを知らないわけではない。
包丁鬼の説明で、花枝もようやくわかってきた。つまりは、饅頭の皮こそがパンなのだと理解する。
それが正しいかどうかはさておき、花枝は納得顔で、うんうんと頷いている。
「俺は……巫女鬼様には、あんぱんを食べさせてあげたい……」
「ゲッピ! あれはうめぇもんだ!」
饅頭と聞き一瞬だけ笑顔を見せた花枝の姿を目にして、ぼそりと呟いたのは包帯だらけの蟲鬼だ。その声が届いたのか、河童鬼も同意する。
あんぱんは、明治の初期に開発されて以降、日本中に広まったパンのひとつだ。むしろ、明治の時代に鬼となった彼らにとっては、パンといえばあんぱんのイメージが強いのかもしれない。
後にこの二人の提案が切っ掛けとなり。隠れ里でとれる緑豆と蜂蜜を使用した独自の餡からなる『あんぱん』が開発され、花枝の新たな好物となるのだが、それはまた別の話である。
◇ ◇ ◇
「あとはこれをこうやって窯に入れて、焼き上げるだけです」
田中鬼の説明に、里の住民たちの心は浮き足立っていた。
火のついた大窯の中では、薪がぱちぱちと音をたてて燃えている。
パンを並べた鉄板こそは、産屋敷家に依頼し山の神への奉納として用意してもらったものだが、それ以外は全てこの里の皆で作り上げたものである。
鉄板を窯の中に入れる際には、里の住民たちも非常に盛り上がっていた。やはり、新しい試みというものは心が躍るものなのだ。
「焼キ上ガルノヲ……ユックリ、待ツ」
包丁鬼の言葉に、花枝はうんうんと頷いた。
パンを焼く間、何人かの住民は自分の持ち場へと戻っていってしまったが、花枝はずっと大窯の前で待っていた。
窯の口からは、赤く燃え盛る炎が見える。
炎を眺めながら、花枝は槇寿郎のことを思い出す。
炎の呼吸とともに生きた彼は、鬼殺隊から離れた今もまだ、鬼狩りを続けているらしい。
花枝の心の中には一種の安堵感と共に、槇寿郎の使う、激しくも強い炎の型の幻影がよぎる。
「でけぇ窯だなァ。これなら鳥も丸ごと焼けるんじゃねえか?」
『ガァ! ガァ! ナンデコッチヲ見テルンダ! 見ルナ!!』
そんな花枝の想いとはまったく関係なく、今も周囲では手鬼とヤタガラスが騒ぎ出している。
あと数十秒もすれば、筆鬼が手鬼への説教を開始し、ヤタガラスは逃げ出して、風見鬼が謎の詩を読み始めるに違いない。
花枝は、そんな里の住民たちの姿を眺めて。
パンが焼けるのを待ちながら、心の底からの微笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆
「ねえ、風見鬼。今頃……槇寿郎は、どこでどうしているでしょうか」
境内に建てられた半鐘台の上で。
花枝は、少しばかり硬く、けれど中はふんわりとしていて、ところどころが黒く焦げ付いた物体――パンにかじり付きながら、横に座る風見鬼に話しかけていた。
花枝が食べているのは、パンに野菜や肉を挟んだものである。外ではサンドイッチと呼ばれているものらしく、このように屋外で食べるのに適した料理だ。
「彼ならば……きっと、どこか遠くの地で……今も、熱い風を吹かせているんじゃないかしら……」
新しく山の神宛てに奉納されていた本から顔をあげて、風見鬼はぼんやりとした瞳を花枝に向ける。
外の世界の風を読みとれる風見鬼と言えど、さすがにその範囲は
どこで何をしているのかもわからない槇寿郎の動向までは、読みとれない。
「ふふ、そうですね。どこかできっと、うまい、うまい、って騒いでるんでしょうね」
気づけば、外の世界にも花枝の知り合いと呼べる相手は増えている。
煉獄槇寿郎に始まり、杏寿郎に小芭内。
狐の子たちは知り合いというほど親密になったわけではないけれど、その中でも真菰は数日とはいえ寝食をともにした。
少し前には胡蝶カナエとも約束を交わした。百合鬼は彼女ととても仲良くなっていたので、またいつか、二人を再会させてあげたいと思う。
それと、カナエには『パン』を教えてもらったお礼もしなければいけない。
「ねえ、風見鬼。外の世界は変わりましたが、私たちも……少しずつ、変わるべきときが近づいてきたのでしょうか」
「ええ。運命は……優しくもあり、厳しくもある。それでも私は、巫女鬼様の幸福な未来を……いつも、祈っているわ」
「わあ、意味はわからないけど、ありがとうございます」
花枝は、これから先のこの隠れ里の未来を想いつつ。そして風見鬼の詩に疑問符を浮かべつつ。
新たな食べ物、サンドイッチをぱくぱくと頬張りつつ。ときおり野菜を足元にこぼして、風見鬼にお叱りをうけながら。
明治四十年にしてようやく、新たな時代の味を噛み締めたのだった。