否。正しくは、花枝は夢の中で見知らぬ女性になり、布でくるまれた赤ん坊を優しく抱き上げていた。
これは以前も見たことのある夢だと、花枝はその景色を眺めながらぼんやりと気がついた。
けれど、前と違うのは、抱き上げている赤ん坊が男の子だということだ。
『おっか、だっこ』
『ほら、駄目だよ花子、お母さんは茂をだっこしてるから、お姉ちゃんがだっこしてあげるね』
『あうー』
目の前では、前の夢のときよりも成長した娘たちが楽しげに笑っている。
前に見たときに赤ん坊だった子供は、花子という名前だそうだ。
姉妹二人で楽しげに笑っている姿は、まるで。
幼き日の自分と姉の莢子の、在りし日の姿に見えたのだった。
ボコッ。
「巫女鬼。テメェはなんで炭焼き小屋で寝るんだよ」
「わあ。なんだかいい夢を見ていたのに。あとなんか、頭が痛いんですけど」
「アァ? 気のせいだろ」
そこにいるのが、本当に自分の肉親なのではないかとすら感じてしまうような、暖かな夢。
この炭焼き小屋で眠っていれば、またこの不思議な夢を見られるような気がして。
花枝は定期的に炭焼き小屋で眠りこけ、その度に拳骨をくらっていた。
◆ ◆ ◆
――明治四十一年。
死者ゼロ人。全員合格。
この年に行われた鬼殺隊の最終選別は、まれにみる、異常な試験だった。
「手鬼、巫女鬼様、少し待って。今回の最終選別……なにか、様子がおかしいわ……」
「アァ? どういうこった、風見鬼」
選別開始から二日目の夜。
今回の試験参加者たちの様子を見るため、手鬼が花枝とともに
風見鬼は風を使い藤襲山の様子を把握できるが、その彼女からの忠告だ。
手鬼たちもすわ異常事態かと足をとめ、風見鬼の言葉を待つ。
「この二日間。鬼たちが……かなりの速さで、命を刈り取られているわ。もうほとんど残っていないわね」
「わあ。それはすごいですね」
「……熾烈な剣士。そう、それは――魂を刈り取る『死神』の来訪よ」
「ひえ」
死神。
鬼となった花枝だが、それでも一応、目に見えぬ存在に対する畏怖の心は失っていない。
風見鬼の独自の比喩だとはわかっていても、さすがに『死神』などと言われてしまえば二の足を踏むし、ごくりと生唾を飲み込みもする。
だが、隣に立つ手鬼はというと、むしろ今の言葉でやる気を出している。
「ケッ。つまりは、かなりの使い手が参加してるってことだろ。逆に腕が鳴るじゃねえか。行こうぜ、巫女鬼」
「え、嫌ですけど」
「……」
花枝を連れて行こうとして、手鬼は秒で断られた。
つい先ほどまで繋いでいた手も、あっさりと手放された。
しばしの沈黙がその場に訪れる。
が、花枝がため息とともに口を開き、沈黙に別れを告げる。
「いや、だって……わたしはそんなのに出会いたくはありませんもん。危険じゃないですか」
「そうね。巫女鬼様は……びっくりするほどに弱くて貧弱だから……死地へと、行くべきではないわ」
「あの、風見鬼?」
花枝に同意を示したのは風見鬼だ。
さらりと目の前で『びっくりするほど弱くて貧弱』呼ばわりされたことには花枝もびっくりだが、しかし事実なので否定しようがない。少々腑に落ちない気もするが、それだけだ。
一方、手鬼は風見鬼の言葉を聞き、腕を組み、考え込むこと数秒。
「……まあ、確かに。こいつは鬼の皮を被ったどうしようもねえ雑魚だしな。今回は俺だけで見てくるぜ」
「あの、手鬼?」
さらりと目の前で『鬼の皮を被ったどうしようもねえ雑魚』呼ばわりされたことには花枝もびっくりだが、しかし事実なので否定しようがない。
ただ、ただ。腑に落ちない気持ちでいっぱいになるのだった。
◇ ◇ ◇
「フフフ……フフフフフ! フハハッハハハ!!!」
花枝と風見鬼を里に残し、手鬼が単独で藤襲山へと出向いてから、それは数刻ほど後の出来事である。
月光に照らされた藤襲山には、緑色の巨大な異形と化した手鬼の笑い声が響きわたっていた。
そして、異形と化した手鬼に対峙するのは、片頬に大きな傷跡を持つ少年だ。彼の頭には、同じく片頬に大きな傷跡を刻んだ狐面がつけられている。
狐面の子供。それは間違いなく、鱗滝左近次の弟子である証だ。
「おいおい、死神とかいうからどんな奴かと思って来てみれば、狐の子かよ!」
「くそっ、粗方片付けたと思ったら、こんな化け物が残ってたとはな……」
彼こそは今回の最終選別にて、藤襲山の鬼をほぼ全滅させた『死神』だ。
手鬼はにたにたと笑いながら、少年を観察する。使う呼吸は当然水の呼吸。刀を構えたその姿は、同年代の試験参加者とは比にならぬほどの覇気をまとっている。
山にいたほぼ全ての鬼を屠ったことからもわかるように、その強さは本物だ。
ならばこそ。
手鬼は今回は始めから本気の異形姿を見せつけ、少年の力を見定めるために行動した。
「フフフフ、その殺気、ゾクゾクするぜ! いつぞやの小娘と違って、おしゃべりの必要はなさそうだなァ!!」
「……呼吸……水の呼吸……!!」
互いに会話は成り立っていない。
もとより、少年は鬼の言葉に耳を貸すつもりなどなかった。ただ、目の前で何かをわめいている鬼の隙を探すために、全身の神経を集中させていた。
狐面の少年は、炎のように熾烈であり、水のように冷静だった。
だからこそ、少年にはわかってしまう。その事実が、ビリビリと肌で感じとれてしまう。
その異形は明らかに格上であり、今の自分ではまともに戦っても勝ち目がない、と。
「……義勇……」
「アァ?」
「あとは、任せたぞ……」
少年の呟きに手鬼が聞き返すが、極限まで集中している彼には手鬼の声など聞こえない。
彼は親友のためにも、ここで引くわけにはいかなかった。ここでこの鬼を食い止めねば、親友だけでなく、いまこの山にいる多くの子供たちの命が喪われてしまう。
だからこそ、己の全てを込めて、命を投げ捨てる覚悟で。彼は巨大な異形に立ち向かった。
少年は、ギリリと、唇が切れるほどに食いしばる。だが、決して刀を握る手に不要な力を込めることはない。
心を熱く燃やし。しかし水のように静かに。
彼は、己の身をただ一振りの、研ぎ澄まされた鋼と化していく。
木の葉が一つ、地面に舞い落ちた瞬間。
少年の脚が、地面を蹴った。
それは、水面の煌めきのような、わずか一瞬の交差だった。
水流の幻影を伴い、少年のもつ日輪刀が軌跡を描く。手鬼は不敵な笑みを浮かべ、その軌跡を邪魔するように複腕を振るう。
だが、少年の斬撃の方が速く、その刃は流れるような動きで異形の頸へと向かっていく。
わずか一瞬の攻防を制し、異形の頸を守る腕に、日輪刀の刃が届く。
刹那。
月光を反射した日輪刀は。
甲高い音とともに――折れた。
時間が止まったかのようだった。
少年は刀を振り抜く動作のなかで、鬼を斬り裂くはずだった己の刀を見る。その刃は半ばから折れ、月光の軌跡を残し、宙を漂っている。
信じられない。刹那の時間のなかで、少年の目は、ただ、そう語っていた。
今の一撃は、これまでの全てを込めた、魂の刃だったのだ。
今の一撃は、いまの自分にできる、最高の一閃だったのだ。
だと言うのに――。
「あ……」
全てが遅延したような圧縮された時間の中で。少年は、己の死を覚悟した。
生を諦めたわけではない。死を受け入れたわけではない。けれど、彼自身が一流の剣士としての素質を持つからこそ、この隙が致命的であることがわかってしまう。
世界の時間が動き出すより先に、この刹那の合間に、彼の脳は理解してしまったのだ。この鬼は間違いなく、次の瞬間に自分を殺す。
そして、全力の斬撃による慣性が働いている自分の身体は、それを避けられない。
(義勇……鱗滝さん……)
彼の脳裏に、走馬灯として様々な思い出がよみがえる。
いまも藤襲山で生きているはずの親友の姿が浮かぶ。
己の生還を待ち望む、鱗滝の姿が浮かぶ。水柱となった姉弟子の姿が浮かぶ。
けれど、けれど。
「……」
「……」
けれど。
世界の時間が動き出したというのに。
何も、起こらなかった。
「……」
己と対峙していた異形の鬼は、先ほどまでの邪悪な笑みではなく、無表情で。折れた日輪刀の刃を指で摘まみとり、それをただ静かに見つめていた。その仕草はどことなく、残念がっているようにも見えた。
異形の鬼こそ、本当に時間が止まったままなのではないかというほどに、ピクリとも動かない。
だが、時間にして数秒だろうか。はるかに長く感じられた数秒の後、ようやく鬼が、口を開く。
「……少し待て、代わりの刀を持ってくる。いいか、動くなよ。絶対だぞ」
そう言うと、巨大な鬼はくるりと背を向ける。
そしてもう一度だけ、少年を振り返り、言った。
「ああ、ほかの鬼が来たときだけ全力で逃げろ、テメェは武器がねぇんだからな」
「は?」
少年の脳内は、真っ白になる。
目の前にいる鬼は、恐らく人を何十人も食ったであろう凶悪な鬼なはずだ。
それが今、なんと言った?
「お、おい……鬼、鬼! どこへ行く!!」
夜の山の中に。
少年の、状況を理解し切れぬ叫び声だけが響き渡った。
◇ ◇ ◇
「――ってなわけでよ、たしか槇寿郎が置いてった訓練用の刀があったろ。あれを取りに来た」
「わあ。意外な展開」
折れた日輪刀の刃を持ったままの手鬼は、隠れ里で待っていた花枝と風見鬼に先ほどまでのことを報告していた。
そして、ちょうど境内を歩いていた田中鬼に声をかけ、槇寿郎が残していったはずの模擬刀を取りに行かせる。訓練でも自由に頸を狙った攻撃が出来るようにと彼が用意した、鬼を殺す力のない普通の刀だ。
「狐の子は……山を駆け回っているわね。他の参加者たちの集まる場所から逆方向……彼は、日輪刀を探し回っているのかしら……?」
「チッ、動くなっつったのに、聞き分けのねえガキだぜ。追いかけるのが面倒くせぇな」
「そりゃ、鬼に言われてじっと待っていたらただの馬鹿じゃないですか」
風見鬼が風で読みとったところ、件の少年は即座に山を移動し始めているらしい。
他の参加者と逆方向に移動しているのは、彼らを巻き込みたくないのか、あるいは単に、他の参加者たちの居場所が分からず走り回っているだけか。
あの山では確かに、鬼に敗北し亡くなった者たちの遺品である日輪刀が見つかる場合がある。もちろん、そうそう都合良くそんなものは見つかることはないが、何もしないよりは――といったところだろうか。
なんにせよ、手鬼はこの状態でもまだ、その子狐を追いかけて決着をつけるつもりのようだ。
花枝と風見鬼は顔を見合わせて、子狐に対する手鬼の執着の強さに、小さく肩をすくめるのだった。
◆ ◆ ◆
「では、改めて手鬼とあなた……ええと、お名前は?」
「……錆兎だ。あんたは、まさか……」
「あら、わたしのことを知っているのですか? 鱗滝さんから聞いたのですか?」
「違う。水柱――俺の姉弟子が、あんたそっくりの像を鱗滝さんに見せているところに居合わせたんだ。とても大切な『あやかし』の像だと言っていた。鱗滝さんは、何も言わなかったけれど……」
「わあ、姉弟子って真菰のことですよね? 真菰はとうとう水柱になったんですか? わたしの像を見せびらかすのはどうかと思いますけど、感慨深いですね」
「……そうね。真菰は巫女鬼様を、まるで月夜の女神を崇めるように、慕っているもの。像を持ち歩くのは、仕方のないことよ……」
「やはり真菰さんのことも知っているのか……」
藤襲山には、普段の少年姿に戻っている手鬼と、その横には花枝、そして花枝の護衛としてついてきた風見鬼の姿があった。
残念ながら、風見鬼の索敵能力の前では、狐面の少年がどれだけ山を駆け回ろうと意味はなかったようだ。
一方、少年は森の奥から現れた奇妙な三人組に対し、警戒と困惑の狭間のような表情を浮かべている。いや、その視線は主に、花枝へと向いていた。
彼は姉弟子――真菰から花枝について少なからず聞いていた。それは決して憎むべき『鬼』ではなく、愛すべき『あやかし』なのだと聞いていた。
そのときは、水柱という立場でも、やはり女性はそういったお伽噺を好むものなのだなと、錆兎は軽く流していたのだが。
その『あやかし』が目の前に現れては、話が変わってくる。
「なあ、お前は『あやかし』なのか! 水柱や鱗滝さんをどうして知っている!」
「ええと、話すと長くなるんですが……」
「テメェら! 呑気に全員でくっちゃべってんじゃねえよ! こいつの像も、真菰の話も、今はどうでもいいだろうが、さっさと始めるぞ!」
「もう、手鬼はせっかちですね」
いつまでも終わらない会話に業を煮やした手鬼が、横から声をあげる。見ればすでにぐんぐんとその身体を巨大化させていき、緑の巨大な異形姿となっている。
それを見た花枝は「仕方ないなあ」と言わんばかりの調子で、錆兎に一振りの刀を差し出した。錆兎は困惑のままに、その刀を受け取り、刃を確認する。
「その刀は日輪刀ではありませんから、好きなだけ手鬼の頸を狙ってくださいね。わたしたちは離れて見ていますから、好きに戦ってください」
「いや、待てよ! 説明をしてくれ! 最終選別ってのは、人喰い鬼を倒せばいいんじゃないのか?! 普通の刀じゃこいつは――」
「アァァ!! うだうだ五月蠅ェ! テメェはいいから刀を構えやがれってんだよ! 本気を見せて見ろよ、狐の子!」
意味が分からないのも仕方ないだろう。
目の前には、師と姉弟子の二人と関係がありそうな巫女がいる。その口振りからも、彼女らが知り合いなのは明らかだ。
その横では、見知らぬ少年鬼がみるみる膨れ上がり、先ほど自分を追いつめた緑色の異形へと変貌している。
挙げ句、日輪刀ではない普通の刀を渡され、その異形と戦えと言われているのだ。
もちろん、日輪刀でない刀でいくら斬ったところで、鬼は殺せない。
「まあ、意味が分からない状況なのはわかりますけど。とりあえずそこの手鬼と戦ってください」
花枝は風見鬼に抱き上げられ、そのまま高い木の上まで上っていってしまう。
木の上から、置きみやげのように、花枝の声が錆兎へと向けられた。
「鱗滝さんと真菰に誓って、あとで説明しますから! だから、がんばってくださいねー!」
「……くそっ、鱗滝さん、真菰さん! 俺はなにも聞かされてないぞ!」
錆兎は、さっぱり状況が理解できないままに。
目の前でやる気を出している手鬼を相手に、通常の刀を構え。
今度こそ全力で、気絶するまで戦う羽目になるのだった。