藤襲山。それは鬼殺隊士の誰もが知る山の名である。
山の中腹までは鬼が忌避するという藤の花が一年中咲き乱れる特殊な土地であり、そこには鬼殺隊士によって生け捕りにされた鬼たちが閉じ込められている。そしてそこは、鬼殺隊への加入試験、いわゆる『最終選別』の舞台となる場所だ。
この藤の花の檻に放り込まれた鬼たちに、自由などというものはない。
ただ、鬼殺隊の糧として。最終選別に挑む未熟な剣士たちと戦うことを強いられた哀れな存在だ。
そんな山にこの日、一人の少女――いや、一体の鬼、
籠が日差しの中に置かれた。太陽の光に弱い鬼は、日が暮れる時間までこの籠に隠れ、日の入りを待ち外へと出て行くことになる。
もっとも、いまこの籠の中にいる鬼となった花枝は未だ眠り続けており、夜になれば出てくる保証もないのだが。
籠を持ち込んだ隊士が山を下りた後には、この山には人間はいなくなる。いるのは自然の生物たちか、この山に放たれている鬼たちのみだった。
「この匂い……この匂いは……ああ、アアァァァァアア!!」
そして。
花枝の籠から発する匂い――眠り続ける花枝にかけられた、水面を漂うような瑞雲柄の羽織に染み着いた鱗滝左近次の匂いに反応した鬼が。
いま、花枝の籠へと迫りつつあった。
「鱗滝、鱗滝、鱗滝いィィィ!!」
見た目はまだ若く、花枝より少し上の少年のような姿の鬼だった。
彼はいまよりも少し先に、花枝と同じく鱗滝左近次の手でとらえられた鬼である。
人の里に住む純朴な少年だった彼は鬼となって、血を分けた己の兄を食ったのだ。しかし、そこを新たに水柱となったばかりの鱗滝に手も足も出ないままに生け捕りにされ、惨めにこの山へと閉じこめられた。
彼の記憶にはまだはっきりと、自分をとらえた天狗面の男の姿、声、そしてその匂いが残っていた。
だから彼は、確信した。
あの籠に入れられた鬼は、鱗滝左近次にとって特別な存在なのだ、と。
鱗滝にとっての『特別な存在』がどうして鬼として藤襲山に入れられたのかなど、この鬼にとってはどうでもいいことだった。すでに彼の脳内には、鱗滝への煮えたぎる復讐心しかないのだ。
彼は森の中から、籠に向けて倒木の一部を力の限り投げつけた。
すると籠は勢いをつけて弾け飛び、その中に入っていた小さな鬼は、すぐ近くの木陰へと転がり出る。
「はははははっ! ガキだ! さては鱗滝のガキか!」
それが正しいかどうかなど、どうでもよかった。
そこにいたのは、白い襦袢の胸から下が真っ赤に染まり、まるで巫女装束のように見える幼い子供の鬼だった。
彼女にはまるで寄り添うように、最後の手向けのように。鱗滝左近次の羽織がそっと、肩からかけられていた。
間違いなく、間違いなく、間違いなく。
これは、鱗滝左近次にとっての、大切なものなのだと。
彼は確信とともに、木陰から木陰へとまわって、その小さな少女の身体へと飛びついた。
「食らってやる、お前が大切にしているものは俺が全て、食らってやる……!! このガキの鬼も、全部だ鱗滝いィィっ!!」
彼は、降り注ぐ木漏れ日も恐れずに。厭わずに。
眠る巫女の首筋にその牙を突き立て、その血肉にかじり付いた。
淀んだ憎しみのままに、花枝の肉を噛み千切り、その溢れ出る血を飲み込んだ。
だが――。
「ぐふっ……え……? なんだ、これ……」
少年の口からこみ上げてきたのは、歓喜の声でも、悦楽の笑いでもない。
「あっ、あ……あっ、あァァァァアア!!」
一瞬の疑問の後。身体の内から突然にこみ上げてきたのは、焼け付くような痛みだった。
己の魂を体内から無理矢理焼き尽くされ、肉体そのものを力ずくで変異されているような。そんな、地獄のような苦しみだった。
少年の鬼は喉をかきむしりながら、地面をのたうち回りながら。その中で、僅かに思い出した。
これは――人間だった自分が鬼の血を注がれたとき。そのときと同種の苦しみだ。あの時の、全てが終わってしまった夜と同じ痛みだ。
「うぁあアアっ! 俺は……俺は……嫌だ、助けて……兄ちゃん……ああ、嫌だぁぁぁあああ!!」
まだ、木漏れ日が降り注ぐ森の中には。
少年鬼の苦しみの声だけが、ずっと、響きわたっていた。
◆ ◆ ◆
『花枝、花枝……』
『起きなさい、花枝』
どこかで、声がする。
花枝はぼんやりとその声を聞いていた。ここは真っ暗で、上も下もない、不思議な空間だった。
『さあ、そろそろ起きる頃だよ、花枝』
『そうよ。いつまでも寝ていて駄目よ』
「お父様に、お母様……? でも、わたしは……」
真っ暗な中で、花枝はようやく気づく。
この優しい声は、間違いなく己の両親の声だ。けれど周囲は暗く、何も見えない。
いや、それどころか花枝は自分の身体すら認識できていない。ただただ、誰もいない、自分すらいない、何もない不思議な場所に自分はいるのだと思った。
けれど、花枝は徐々に思い出す。
遠い記憶のように、ゆっくりと、炎の景色が脳裏に蘇る。
炎と煙の中。血の匂い。地獄のような呪いを纏った、赤い瞳の男。
そうだ、あの男の手で、自分はもう――。
そこまで思考が及んだとき、再び優しい声が届く。
今度はすぐ近くで、まるで自分を抱擁するように、不思議な温かさを伴いながら。
『……花枝。きみはこれから先にきっと、多くの苦難を見つめることになるだろう』
『でも、私たちは、あなたが何者になろうと……ずっと、ずっと愛しているわ』
それだけ言い残すと、温かさが静かに、ゆっくりと。花枝の元から遠のいていく。
愛しい両親の温もりが、永遠に消えてしまう。
「待って、お父様! お母様! 嫌だ、嫌だよっ! わたしも、わたしも連れて行って……!! おいていかないで!!」
何もない世界で。
花枝は精一杯の声をあげた。そこにあるかもわからない手を必死に闇へと伸ばした。
『花枝。きみにはもっと大きな、途方もない未来があるんだ』
『私たちはずっと、ずっと、見守っていますよ。愛しい花枝』
最後に聞こえた声とともに。
世界の涯に、一つの小さな光が生まれた。決してそれは、白くまばゆい光ではない。黎明のように、黄昏のように、穏やかで優しい光だ。
そして花枝の意識は、吸い込まれるように。
その光の中へと墜ちていった。
◆ ◆ ◆
「う……こ、ここは……?」
ぽちゃん、ぽちゃんと、水滴が垂れる音がする。
花枝が目を開くと、視界に映ったのは土と岩、そして水滴を垂らし続ける木の根だった。
もちろん、この場所に見覚えなどない。
「よう、ガキ。テメェ、ようやく起きたのかよ」
「あ……」
そこにいたのは、見知らぬ少年だった。
どうやらここは、自然の中に作られた洞窟――というよりは、無理矢理掘った穴か何かなのだろう。
小さな花枝が横たわり、その横で少年が窮屈そうにあぐらをかいているが、それだけでいっぱいだ。
視線をあげればすぐそこに穴の出入り口はあるが、外はどこかの森の中らしい。日差しの入り込まない鬱蒼とした場所だけれど、時間はまだ昼間のようだ。
花枝はむくりと起き上がる。
土の上に寝かされていたけれど、背中に痛みなどはない。それどころか、身体中のどこにも痛みはなく、怪我なども一切なさそうだった。
「わあ……」
続いて少年をみる。
一見するとどこの里にもいそうな身なりの少年だが、その容貌は正常な人間のものではなかった。
まず、人相がものすごく悪い。
眉毛がなく、額には血管が浮き出ており、両の目は驚くほどにつり上がっている。そしてどういうわけか、その瞳は線の交差した、いわゆるバッテンのような形をしていた。明らかに人間の瞳ではない。
そしてなにより、彼の首には『手』が巻き付いていた。花枝にはさっぱり意味がわからないが、どこから生えているのかも定かではない幾つかの腕が、ぐるりと彼の首に巻き付いている。
一見すれば新手の防寒具に見えないこともないが、花枝はこんな気持ち悪い防寒具は見たことがないし、もし勧められてもつけたくはない。
数秒ほど、彼の姿を見てぽかんとしてしまったけれど。
しかし、これが噂に聞いた『鬼』なのかと、花枝は意外とすんなり受け入れることができた。
不思議な姿の彼に興味はある。けれど驚きも恐怖もない。もしかしたら、今の自分は感情のどこかが欠落しているのかもしれないなと、花枝は幼いながらにぼんやりと考えた。
「ええと……おはようございます。『鬼』の方ですよね?」
「あぁ? テメェだって鬼だろうが。自分の額に手を当てて見やがれ」
「えー……? わあ、本当だ」
起きあがって自分の額に手を当ててみると、そこには確かにちょこんとした突起物が存在していた。
慌てて首元に手をあててみるが、彼のような悪趣味な防寒具はついていないので、花枝は内心安心した。
もしかしたら自分の瞳も、目の前の彼のようにバッテンになっているのだろうかという疑問は残る。実際には今の花枝の瞳は、どんより濁ってはいるものの、人と同じ丸くぱっちりとした瞳である。もっとも、残念ながらここにはそれを確認するための姿見など存在しない。
そして改めて。
花枝は目の前の鬼の少年に向き直ると、再び質問を重ねていく。
「あの、ここがどこかはわかりませんけど、あなたがわたしをここまで運んでくれたんですか?」
「まあな」
「ありがとうございます。お名前はなんと呼べばいいですか?」
「……好きに呼べ」
「ええと、では。なんだか手が沢山生えて首にぐるぐる巻きになっていますし、首元に手がいっぱいの鬼さんと呼びますね」
「いや長ぇだろ! 名前としてもおかしいだろうがよ! そんなら『手鬼』でいいわ! さん、もいらねえよ」
「わあ、すごい反応。では改めて……手鬼、ですね。わたしは……」
花枝の素なのかふざけているのかわからない言動に、目の前の『首元に手がいっぱいの鬼』改め『手鬼』は、わかりやすくこめかみに血管を浮かべているが、しかしまだ彼は冷静だった。
名前を名乗ろうとして言いよどんだ花枝に先んじて、手鬼は一方的に、花枝に新たな名をつけてくれた。
「巫女鬼。お前は巫女鬼でいいだろ。巫女服みたいな格好してるしな」
「あれれ、本当だ。ふふっ」
手鬼に言われて花枝が自分の姿を見てみると、真っ白な襦袢の胸元から下が真っ赤に染まっていて、本当に巫女服のようになっていた。
この赤い色は花枝の血の色なのだろう。空気に触れても黒くならずに鮮やかな赤を保っているのは、鬼の血のなせる業か、はたまた他に原因があるのだろうか。
しかしなんにせよ、名前である。
花枝はここで自身の名をすぐに名乗れなかった。鬼となった自分が、神社の名を背負った『御霊矢花枝』を名乗ってよいものかと、一瞬とはいえ迷いが生じてしまったのだ。
そんな花枝の心情を察したらしい手鬼がつけてくれた呼び名が『巫女鬼』だ。
本職としての巫女だった自分がまさか、血に塗れた襦袢が巫女服っぽいというだけの理由で『巫女鬼』と名付けられたことが面白く、花枝はひとり笑ってしまった。
「で、聞かせろ。巫女鬼」
「あ、はい。なんでしょう」
「テメェは、何者だ? なんでテメェを食った俺は、人間を食わなくても苦しまなくなった? どうして俺は、藤の花が平気になった? それに……お前を食ってから増した力は、一体なんなんだ?」
怒濤の質問責めに、花枝はただただ、ぽかん顔だった。
いきなり「何者だ」と問われても、自分は御霊矢花枝である。いや、鬼となった今では、自分こそが御霊矢花枝であると断言していいのかどうかわからないが。
けれど、目の前の手鬼が聞きたいことの本質は、そういうことではないのだろうなと。花枝も、なんとなくは理解できる。
「巫女鬼。お前は本当に、鬼なのか?」
そんなこと聞かれても、困る。
それが、七歳にしてなんだかわからないものに変異してしまった花枝の、正直な感想だった。