――明治四十三年。
「うわあああああ!! カナエちゃぁぁん!! 会いたかったようおうおう!!」
その日の朝。御霊矢神社の境内には、百合鬼の絶叫のような喜びの声が響き渡っていた。
◇ ◇ ◇
「お久しぶりです、百合鬼さん。それに皆さん」
鳥居の前で、百合鬼の絶叫攻撃を受けた少女。それは、数年前の最終選別以来となる胡蝶カナエだった。
たまたま風見鬼が風読みで彼女の来訪に気づいたため、百合鬼をはじめとした『あやかし』たちは、鳥居の前でカナエの来訪を待ちかまえていたのである。
鳥居をくぐった途端に百合鬼からの体当たりじみた抱擁を受け、続けて耳元で絶叫されたカナエにとっては災難だろうが、しかし気にした様子はなさそうだ。
むしろ、どこか嬉しげに百合鬼の手を両手で包み込むようにして微笑みあっていた。以前ここを訪れたときはカナエのほうが小さかったけれど、今はもう、カナエと百合鬼は同じ目線になっている。
「ったく、いきなり叫ぶな百合鬼、耳の膜が破れるだろうが!」
「静寂は……いつも、驚きで破かれるものよ……」
「ふふ、皆さんなんだかんだで来客があると嬉しそうですね」
嬉しげにはしゃぐ百合鬼に苦笑を浮かべながら、
周囲を見れば、百合鬼の絶叫に引き寄せられた住民たちが集まってきていた。特に彫刻鬼が熱心な視線を向けているが、おそらく創作意欲が刺激されているのだろう。
「いらっしゃい、カナエ。お待ちしていましたよ」
「はい。巫女鬼様」
花枝の目から見た、数年ぶりの胡蝶カナエ。
彼女は相変わらず、まるで全てを赦す菩薩のような、穏やかな微笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇
十数年ほど前に、作業の合間の休憩所として、花畑を見渡せる位置に建てられた東屋。
この日、東屋にはカナエを中心として、花枝、百合鬼、風見鬼の女性陣が集まり、包丁鬼特製の『あやかしカレー』を食べながら雑談に興じていた。
元々はいつもの社家屋敷の一室で食事でもしながら話を聞こうかと花枝も考えていたのだが、「せっかく女子が揃っているのだから」と、この東屋での昼食会を百合鬼が提案してきたのだ。
「これは包丁鬼が独自に作ってくれたカレーなんですよ。さすがに人里で食べられるようなカレーの材料をそろえるのは難しかったので、薬草や山椒を配合しているんです」
まさか隠れ里でカレーが出てくるとは思わなかったのだろう、皿に入れられたカレーライスを見て驚くカナエ。
それに対し、花枝は少しばかりどやっとした顔で説明を聞かせていた。
「巫女鬼様! これってなんだか、明治の女子って感じがしませんか?」
「辛さと、そよ風……それは、明治の女子の証……」
「わあ、明治の女の子たちって屋外でカレーを食べるものなんですか? いいですね、いいですね」
はたしてこれが明治の女子っぽい形式なのかはわからないが、花畑を臨みながらの食事というのは存外悪くないものだなと、花枝も新鮮な気分を味わっていた。
カレーと蜂蜜水、それに付け合わせで出てきた果物の盛り合わせ。包丁鬼と田中鬼が運んできてくれた料理の数々に、女子たちは気分をあげていく。
その場の話題はしばらく、やれ街の人たちはどんなパンを食べているだの、最近の洋服はどのようなものだのと、女子らしい話が主だった。
恐らくは本題である鬼殺隊の話はほとんど出てこない。時間がいくらでもある『あやかし』たちは、話を急がないところがあるのだ。
が、山椒のたっぷり入ったカレーで皆の頬が火照りはじめた頃に、花枝がようやくその本題に触れた。
「むぐむぐ。それで、カナエ。噂は聞いていますが、本当に『柱』になったのですね」
ちらりと、カナエが来ている蝶の羽のような模様の立派な羽織。それと彼女の日輪刀に視線を向ける。
鞘にこそ入っているけれど、おそらくその刀身には『悪鬼滅殺』なる物騒な文字が彫られているはずだ。
「はい。この度、鬼殺隊『百合柱』に就任いたしました。百合鬼さんとの修行で編み出した『百合の呼吸』の柱なんです」
「うわあ! 巫女鬼様、私ってば柱になりましたよ! 鬼殺隊の!」
「落ち着いてください百合鬼。柱になったのはカナエであって、あなたじゃありません」
「百合の柱……それは、あやかしと鬼殺を取り持つ奇跡と、なり得るのかしら」
百合の呼吸の百合柱。
以前ここを訪れたときは、カナエは花の呼吸を使っていたはずなので、あれから本当にカナエは呼吸を進化させたようだ。
先ほど、カレーを待つ間に少しだけその型を見せてもらったが、花の呼吸の基礎はそのままに、しかし間違いなく百合鬼の術を思わせる要素が組み合わされており、実に見事なものだった。
「今はまだ『あやかし』のことは隊士たちには伏せられていますが、いつかは『この型は百合鬼さんと共に開発したものです』と、皆に広めたいなって思っています」
カナエは、百合鬼をじっと見つめている。
最終選別の頃と比べて、カナエは背も伸び、大人の女性に近づいている。
あの頃は百合鬼と並ぶと姉妹のように見えた二人だけれど、今ではまるで同年代の友人同士のようだ。
「えっへへ、なんだか照れちゃいますね。私も、鬼になった甲斐がありましたよ」
「百合鬼、さすがにそれはどうかと思いますよ……?」
さすがに「鬼になった甲斐があった」発言には花枝も反応に困ってしまう。鬼になど、ならない方がよかったに決まっているのだから。
見ればカナエも反応に困ったようで、少しだけ視線が泳いでいた。
◇ ◇ ◇
「それで、カナエ。用件はやはり、アレですか?」
「……アレ。それは、運命の実。あやかしを生みし、伝説の果実……」
空になったカレーの皿を田中鬼が片づけていくのを見送り。花枝は細長く削った串で盛りつけられた果物をつつきながら、カナエに問いかける。
『アレ』とはもちろん、風見鬼が詠み上げたとおり、運命の実――すなわち、トキジクの実のことだ。
なお、今は畑の横にいくつかの果樹のまとまった果樹園が作られているが、この里には蜜柑はない。
トキジクの実と見分けがつかなくなると面倒臭い、というのがその理由だ。
「はい。是非ともトキジクの実を譲り受けたく思っています。決して悪しきようには使用しないと誓います。また、これは産屋敷家当主、耀哉様にも許可を頂いています」
「……わかりました。産屋敷家の当主が何を考えているのかはわかりませんが、カナエのことは信じます。約束ですしね」
「やったねカナエちゃん! でも、トキジクの実で何をするの? 食べるの?」
「い、いえ、そういうわけではなく――」
カナエの話はこうだった。
まず、ひとつ目。
医療機関である『蝶屋敷』にて、トキジクの成分を研究する。これはなによりも重要で、絶対条件とのことだ。
そこからもし、呪いを浄化できる何かしらの要素を抽出できたなら。それが『薬』として量産可能だったなら。
鬼そのものを浄化するにしろ、血鬼術で呪われた隊士を救うにしろ。それはこれから先、鬼と戦ううえで大きな武器となるはずだ。
続いてふたつ目。
この
人を多く食った鬼というのは危険な存在だが、柱ともなればそれくらいはどうにか対処できるのだろう。カナエは事も無げに説明していく。
結果がどう転ぶかわからないが、しかしその実験結果そのものには花枝も大いに興味があった。
「もちろん、調べたい要素だけならば他にもいくらでもあるのですが……」
しかし、カナエの説明によれば、今回の目的はあくまで先に出した二つに絞られるらしい。
特に、薬に転用できるかどうかは、今後の鬼殺隊のあり方に大きく影響を及ぼすことだろう、というのがカナエの説明だった。
また、この活動はまだ他の柱たちには知らされていない秘密裏の研究だが、例外として水柱の真菰には全て伝えられており、協力を約束してくれているそうだ。
「――と、いうわけです」
「なるほど、なるほど。あなたと真菰が、一緒にトキジクの実をあれこれするのですね。わかりました」
本当にわかっているのか? と、風見鬼と百合鬼が視線で問いかけてくるが、花枝は彼女らを無視した。絶対に視線を合わせない。
一方、カナエは真面目に話を続けている。
「もし鬼の呪いを抑制できる薬が作れたなら、鬼になりたての方々が罪を重ねる前に、人として救う手立てにもなるのではないかと思っています」
普段はにこやかな微笑みの似合うカナエも、こと医療に関わる話のときは、実に真剣な面持ちだ。
特に、後半には専門的な医療用語なども混ざり、話は少々難解だった。
「医療の礎……とうとう、人々は『あやかし』の謎すら……解き明かそうと言うのね……」
「へぇ。カナエちゃん、若いのに頭いいんだねえ。巫女鬼様、いまの話どれくらいわかりました?」
「わたしはかなり、ものすごくわかりましたよ?」
「嘘はだめですよ」
「わあ。ばれてる」
花枝は理解したふりをしたものの、風見鬼たちの疑念通り本当はよくわかってはいなかった。とはいえ、それでも漠然とカナエの言いたいことくらいは想像がつくものだ。
カナエにトキジクの実を預ければ、きっと大勢の役にたててくれる。今はそれだけ理解していれば、間違いはないのだから。
そんな風に、最後は少しばかり冗談を交えて空気が和らいだりもしたけれど。
最後は、あやかしの長たる花枝の判断で。
鬼殺隊の柱であるカナエへと、トキジクの実を授けることが決定したのだった。
◇ ◇ ◇
残念ながら、柱となったばかりのカナエはここに長居が許されるほどの余裕はなく、次の日の朝には再び出征のときがやってきた。
花枝は巾着に四つのトキジクの実を封じ、カナエに手渡す。まさか四つもあるとは思わなかったのか、カナエは目を丸くした。
「巫女鬼様、本当に四つもよろしいのですか?」
「あなたに三つ、真菰に一つです。真菰がいらないようなら、あなたが貰ってくれていいですよ」
巾着のトキジクを見て驚くカナエに、花枝は更に事情を説明していく。
「あと実は、錆兎のお陰というか錆兎のせいというか、いろいろあって今はトキジクの実を使用できないんですよ」
「錆兎……さん?」
「ああ、実はですね。カナエの次の年に行われた最終選別で――」
花枝が語ったのは、錆兎という狐の子が藤襲山にいた鬼を全滅させてしまったという話である。
最終選別に一度に訪れる子供の数は、凡そ二十人前後に及ぶが、当然ながら鬼舞辻無惨は彼らを鍛えるために弱い鬼を量産してくれる訳ではない。
なので隊士たちは選別を確かなものにするためにも、いつどこに現れるやもしれない生まれたての鬼を手早く発見し、最低でも数十体は生け捕りにしてここまで運び込まなければいけないのだ。その労力を想像するだけでも、なかなかに過酷な任務なことが察せられる。
最終選別そのものの悪趣味すぎる仕組みはさておき、藤襲山の鬼の数がとても十全とは言えない現状、花枝たちもいたずらに鬼を減らすような行為を控えているのだ。
――と、いうようなことを。花枝は掻い摘まんで説明していった。
「私の次の最終選別で、そんなことがあったんですね」
「そうなんですよ。錆兎はカナエと同年代だと思いますが、少し前から元炎柱の煉獄槇寿郎の元で修行をしている子なんです」
「ああ……なるほど。でしたら、錆兎さんの名前は知りませんでしたが、お噂はかねがね」
「え、噂になってるんですか」
「はい。あれは――」
聞けばどうやら、錆兎と槇寿郎の二人は、鬼殺隊の役目に縛られず自由に動く謎の存在『はぐれ鬼狩り』として隊士たちに知られているのだそうだ。
はぐれどころか、錆兎はれっきとした鬼殺隊の隊士なはずなのだが、錆兎は随分と厄介なことに巻き込まれているようだ。
槇寿郎を紹介したのは自分だということを忘れて、花枝は錆兎の前途が心配になった。
なんにせよ、今は錆兎ではなくカナエの見送りだ。
ちょうど百合鬼がカナエに話しかけたそうだったので、花枝はあとのことを百合鬼に任せて、自分は下がる。
「ねえ、カナエちゃん。私いま、新しい術を作ってるんだけど、次にきたときには見てもらっていいかな?」
「はいっ。百合鬼さんの術はとても華やかで、とても好きですよ。是非、私にも見せてくださいね」
「おっしゃ! カナエちゃんが応援してくれるなら頑張るよ!」
カナエとともに、なんだか新たな術の開発話で盛り上がる百合鬼を眺めながら。
人間と『あやかし』の距離はもう、これほどに近くなっているのだなあ、と。
花枝はなんとなく、嬉しい気持ちになるのだった。
◆ ◆ ◆
カナエにトキジクの実を預けてから、穏やかに月日は過ぎていく。
あれから百合鬼はカナエとの約束通りに、新たな術の開発に精を出していた。
花枝はそんな百合鬼の姿を眺めながら、何の気なしに、不思議に思っていたことを問いかける。
「百合鬼、一つ聞いてもいいですか?」
「はい?」
「その術って、あなたに危険が伴いますし、人間ひとりにしか発動できませんよね? それはもしかして、カナエのために?」
「ええ、まあ、そうなんですけど……」
とたん、百合鬼は恥ずかしそうに、そしてばつが悪そうに、少しだけ視線を泳がせる。
そして、周囲に他の仲間がいないことを確認すると、花枝の横に腰を下ろす。
「私、カナエちゃんは他人には思えないんですよね」
「そう言えば、前もそう言ってましたよね」
「……あの子は、どことなく、死んだ恋人に顔だちが似ているんです」
「わあ、それは……」
死んだ恋人。
それはすなわち、百合鬼――江戸の街に生きていた、ユリエという名の一人の娘が鬼となり、食い殺してしまった人。
そして、彼女が将来を約束していたという、その相手のことだろう。
その恋人が亡くなったとしても、その一族までもが亡くなったわけではない。
恋人の兄弟姉妹がいたのならば、きっとその縁者はいまも、日本のどこかで暮らしているはずだ。
「普通に考えれば他人の空似なんだと思います。胡蝶なんて名字でもなかったし、あんな穏やかな人柄でもなかったし、かなり短気な人でしたしね。だけど……」
少しだけ、百合鬼の声が震える。
「カナエちゃんが、あの人と同じ血を引いているかもしれないって……そう、想像しちゃったら、いてもたってもいられなくなっちゃったんです」
黄昏の空を見上げる彼女の残った右目に、微かに光るものが見えた気がした。
「次こそは、守りたくて、あの人がいた証として、カナエちゃんには生きていて欲しくて……」
「そう、なんですね」
花枝は、百合鬼とともに黄昏の空を見上げる。この何十年、永遠に変わらぬ色をした、刻のとまった空だ。
花枝は思う。
もしあの日、自分の家族が殺されていなかったのなら――。
もし自分にも、血の繋がった誰かがいてくれたなら――。
自分はこの身を捧げてでも、その誰かを守り通そうとするのだろうか。
そんな、あり得ない話に想像を巡らせながら。
穏やかに、静かに、永遠の時間は過ぎていく。