「あああぁぁぁああ!! なんで、何で……こんなことを……!!」
とある屋敷の一室に、一人の男の絶叫が響き渡った。
それは、耳にするのも悍ましい、怨嗟のこもった、絶望の絶叫だ。
「鬼狩りども、全員殺してやる! 俺はお前たちを殺してやる! お前たちを殺して、俺は、俺は――」
声の主は、鬼だった。
鬼は憎々しげに、目の前に立つ鬼狩りたちを睨み付けて。恨みをぶつけて。
そして。
干天に降り注ぐ恵みの雨の如き、優しい刃によって、その頸を断たれ。
燃え盛る憎悪と共に。底のない悲しみと共に。静かに、消えていった――。
◆ ◆ ◆
「そういえば巫女鬼様。この記述はすでに読まれておりますかな?」
「どうしました、筆鬼。それは……過去の炎柱の日記ですか?」
明治四十三年。胡蝶カナエにトキジクの実を授けてから、半年ほどの月日が過ぎた。
この日、
筆鬼が手にしていたのは、十五年ほど前に槇寿郎が「鬼殺隊の歴史を知りたければ読むといい!」といって貸し出してくれたものだった。
「ずっとここに置いたままでしたね。失念してました」
この日記は煉獄家にとっては非常に大切なものなはずだが、結局は彼はこの本を持ち帰ることなく、年月だけが過ぎていった。
花枝も一時期はちょっとした読み物として読んでいたのだが、さすがに何度も読むものではなく、その表紙を目にしたのも数年ぶりかもしれない。
「きちんと槇寿郎に返さないといけませんし、今度ヤタガラスにでも頼んで、煉獄家に送り返しましょうか」
「いや、今の槇寿郎にはこの日記は毒でしょうから、やめた方が無難でしょうな。それより、この部分を……」
「どこですか? ああ、縁壱が鬼殺隊を追い出されてしまったあたりですか」
筆鬼のしわの多い指が、本が傷まぬようそっと紙を捲っていく。
過去の炎柱の日記。一度は花枝も一通り読んだ日記だが、なにぶんかなり昔に書かれた日記帳であり、お世辞にも読みやすいものではない。
花枝は筆鬼の横に並び、その日記の文章に目を通していく。
筆鬼が示したのは、日の呼吸の剣士――継国縁壱が鬼殺隊を追放された際の出来事について、当時の炎柱が書き残した部分である。
当時の炎柱曰く、縁壱は鬼舞辻無惨を倒しきれず、無惨のしもべである珠世という鬼を意図的に逃がした。
そして――極めつけは彼の兄が鬼となり、当時の産屋敷家当主を殺害したことの罪を背負い、鬼狩りを追放されたという。
だが、筆鬼が指し示した頁。そこに走り書きのように書かれていたのは、当時の炎柱が聞いた、縁壱の証言だ。
「『鬼舞辻無惨の呪いから逃れた珠世は、理性があり、敵ではないと判断した』……ですか」
「これが真ならば、儂らよりもずっと前の時代に。鬼舞辻無惨の呪いを解いた鬼が存在した、というわけですなあ」
「そんなことがあったのですね。前に読んだときは全く気づきませんでしたよ」
この日記を書き残した過去の炎柱には実に申し訳ないことだが、花枝はこの日記を『伝記物語』のような軽い気持ちで読んでいた。故に、読み辛い細部は読み飛ばしていたのだ。
だが、改めて読むと、その読み飛ばした部分こそが非常に重要な情報に思えた。
「珠世さんは、どのような方だったのでしょうね」
鬼舞辻無惨の呪縛から逃れた鬼、珠世。
彼女は果たして、花枝たちと同じく人を食わない『あやかし』となれたのか。それとも、無惨との繋がりが断たれただけで、以降もその身は人喰い鬼のままだったのか。
この日記だけでは真相は謎のままだ。
けれど、もし、もしその『珠世』が、数百年たった今でも生き続けているならば――。
そこまで花枝が考えたところで、ガラリと扉が開かれる音が室内に響いた。
「おい、巫女鬼。風見鬼が呼んでるぜ、どうやら胡蝶カナエのやつが山を上ってきてるらしい」
「え、そうなんですか?!」
胡蝶カナエという名を聞いて、花枝の頭のなかにあったもやもやは全て吹き飛んだ。今は数百年前の鬼について考えるよりも、胡蝶カナエを迎え入れることのほうが重要なのだ。
花枝は手にしていた日記帳を丁寧に閉じると、そっと筆鬼に返す。
「カナエは半年ぶりくらいですか。トキジクの実について何か判明したのかもしれませんね。すぐに行きましょう」
「ふぉふぉ、相変わらず巫女鬼様は忙しい立場ですなあ」
本を揃え、花枝たちの後ろ姿を見つめる筆鬼の笑い声を背にして。
花枝は社家屋敷の廊下を、ズンズンと早歩きで歩いていくのだった。
◇ ◇ ◇
「カナエ。お久しぶりです」
「巫女鬼様! それに百合鬼さん!」
花枝が鳥居の外――
藤襲山の鬼を無駄に殺さないための処置だろう。彼女の腰元には藤の香が炊かれている。なので、彼女に近づく鬼は花枝たち『あやかし』だけである。
花枝たちの顔を見たら、少しだけ憂いを秘めたカナエの表情がぱっと明るくなる。
「あれ? カナエったら、背中に呪いがこびりついてますよ」
「巫女鬼様は、本当に呪いが視えるんですね。実は、トキジクの実についてわかったことがあります」
花枝が話しかけると、カナエはその場で立ち止まり、真剣な表情を見せる。
だが、そんなカナエの手をとって、今は前を向くように促したのは百合鬼だ。
「カナエちゃん、ここじゃなくて、今は里に入ろう? 温かいものを作ってもらうからね」
「あ、それは……そうですね。では百合鬼さん……お願いします」
どうやらカナエはかなり疲れているようで、百合鬼の顔をぼんやりと見ては、何故か悲しげに眉をひそめている。
花枝と百合鬼は顔を見合わせて、これは隠れ里で癒してやらねばならないなと、二人して頷きあうのだった。
◇ ◇ ◇
隠れ里の景色は黄昏時だが、外の世界はとうに日の暮れた夜である。
なので、今から食べるのは深夜の夜食だ。
社家屋敷ではカナエの体調に注意を払い、臓腑に優しい粥を中心に添えた食事が卓上に並べられていた。
せっかくなのでと花枝も食事をともにし、ずずずと粥をすすりながら、静かに語りはじめたカナエの言葉に耳を傾けている。
その内容はもちろん、この半年間で得られたトキジクの実での『実験結果』である。
「結論から言えば――人間を多く食い、力をつけた鬼にはそのままでは効果がありませんでした」
「わあ、残念。でも、『そのままでは』とは?」
「はい。実は――」
カナエの説明はこうだった。
まず、鬼の実験の前に。『薬の制作』について。
それはいま、トキジクの果汁を抽出後になんらかの機械にかけたりして、あれこれと分析や研究を行っている最中らしい。
そちらは聞いたところで花枝にはよくわからない内容な上、すぐに結果に繋がるような研究でもないため、カナエもあまり詳細に語りはしなかった。
問題は『人を多く食った鬼に、トキジクの実を食わせた場合』の結果である。
カナエは水柱である真菰の協力を得て、かなり多くの人間を食ってきたであろう鬼を生け捕りにし、その口からトキジクの実を無理矢理に摂取させた。
その鬼はしばらく抵抗した末に眠りに落ちたが、しかし半日後には目覚め、再び人喰い鬼として暴れ出したという。
最終的には普段の鬼殺と同様に日輪刀でその頸を切断し、鬼の討伐となった。
鬼は消えたが、実験としては失敗だ。
人を多く食ってきた鬼の場合、トキジクの実の浄化の力が、鬼舞辻無惨の強い呪縛に押し負けてしまうのだろうというのが、カナエたちの考えだった。
恐らくそれは正解だろうと、花枝も頷いてみせる。
「次に、もう一人。そちらも多くの人を食い、力をつけた鬼でした。彼は――」
カナエと真菰は、次は力をつけた鬼を、頸を斬ることなく斬り刻み、大量の血を流させた上でトキジクの実を摂取させる実験をしたらしい。
カナエは説明をしながらも瞳を伏せていたが、花枝は別段、それが残酷な実験だとは思わなかった。
そもそも鬼というのは人間よりは痛みに鈍く、日輪刀で頸さえ斬られなければいつかは回復する存在なのだから。
けれど。
それは結果として。本当の意味で残酷な結末を迎えた。
「実験は成功だったんです。三日間眠り続けたあと、その鬼は目を覚まし――理性と記憶を取り戻しました」
花枝は黙ってその続きを待つ。
すぐ近くでは手鬼や百合鬼が、ぎゅっとその拳を握り閉める気配がした。花枝にはわからずとも、『その経験』を持つ手鬼たちはもう、この後の結末を予感していた。
「そして、彼は――『なぜ殺してくれなかった』と。『どうして思い出させた』と……喚き、狂いました」
カナエが、ぽつり、ぽつりと語った言葉に、花枝は小さく息を飲む。
そして、理解する。
鬼はカナエの望み通りに『あやかし』と化した。人としての理性を取り戻すことができた。人を喰らいたいという本能が消えた。
だからこそ、だからこそ。
その彼は、地獄のような絶望に堕とされたのだ。
大切な人たちを殺した記憶。多くの人々を殺した記憶。人々の嘆きを糧に、嗤いながらそれを貪り喰ってきた数々の記憶。
それらを取り戻した人間は、生前がまともであればあるほどに絶望に焼かれ、正気ではいられない。
花枝は、カナエの背中に手をあててぽんぽんと優しくたたき続ける。
カナエの背中にゆらりと揺らめく、黒い影。これは彼女の後悔と、悲しみだ。
実験と称して、救いと信じて、彼女はひとりの『人間』を絶望に突き落とし、狂わせてしまったのだから。
「彼は、人間に危険を及ぼす『鬼』として、真菰さんが頸を落としてくださいました。私のせいで、真菰さんの手まで、汚して……しまって……」
「そう、ですか。真菰が……」
「……巫女鬼様、百合鬼さん。私、私は……ただ、救いたくて……あの人を……」
「いいんだよ、カナエちゃん。今は、何も言わなくていいからね」
花枝は、うつむくカナエの背中を優しく抱き寄せ、その背をぽんぽん、ぽんぽんとたたき続ける。
百合鬼も、カナエの手を握りしめて、ただ静かに寄り添っている。
周囲で聞いていた住民たちは、何も言わず、そっと、その場を離れていく。
粥は、もう冷め切っている。
室内には。
今だけ、巫女鬼と百合鬼の前でだけ、ひとりの少女に戻ったカナエの。
嗚咽の声だけが、響き続けていた。
◆ ◆ ◆
「ねえ、カナエちゃん。前に話したこと、覚えてる?」
「もしかして、百合鬼さんの新しい術ですか?」
次の日の朝。
柱であるカナエはこの里に長居をしていられる立場ではない。
半年前と同じく、この隠れ里で花枝たちとともに眠り、起きたらすぐに出発せねばならなかった。
そこで、別れる前に百合鬼がカナエを呼び止める。
「うん。私の新しい術を、カナエちゃんに披露したいと思ってね!」
「え? でも、ここでですか? それはいったいどのような?」
「言葉じゃ説明し辛いんだけど、直に見てみればわかるかな。カナエちゃんが、私を信じてくれるなら。受け入れてほしいなって……」
一晩かけて百合鬼が寄り添い、花枝がずっとカナエの後悔を浄化し続けることによって、カナエの心の傷はこれ以上膿むことなく、ふさがった。
カナエの目元は未だ赤く腫れている。やってしまったことへの後悔がないわけではない。
けれど、今のカナエならばそれを糧にして、しっかりと明日へと向けて歩いていけるはずだ。
そんなカナエに向けて、百合鬼はそっと微笑みかける。
カナエの胸元に、そっと、手をあてる。
「この術は、誰かと戦うわけでも、幻覚を見せるわけでもないんだよ。これはね――」
それは、祈りを捧げる乙女のように。
それは、愛するものの残した新芽を、そっと守護するように。
カナエに受け入れられた百合鬼の術は。
少女の身体に、優しく、その根を広げていった。