――明治四十五年。
その日、夜のうちに人間の町まで偵察に出ていたヤタガラスからの報告を受けた
百合鬼は上弦の弐との戦いで、かなりの無茶をした。本来ならば不死身であるはずの鬼だというのに、一度はその身の大部分が灰となり消失するほどだったのだ。
あと少しでも戦いが長引いていれば、百合鬼と二度と会えなくなっていたかもしれない。それほどまでに、百合鬼は危険な水域にあった。
この日も百合鬼は布団で寝たまま身体の回復を待っている。とは言っても、枕元には最新の女性向け雑誌などが並んでいるため、精神的には十分元気が戻ってきているようだ。
「百合鬼。ヤタガラスによれば、カナエの体調も順調に回復していってるようですよ」
「よかったー、これだけ頑張って助けられなかったら、私の生きてきた意味がなくなっちゃうところでした」
「わあ。返答に困る内容」
花枝にしてみれば、百合鬼がここにいてくれるというだけでも大いに意味はあるし、生きてきた意味がないなどとは言って欲しくはない。
なので、どう反応すべきか悩む言葉だった。
もっとも、布団に寝たままの百合鬼は花枝のそんな内心などお構いなしに、まだ喋る。一見すると、けっこう元気そうに見えた。
「でもカナエちゃんも、隊士としては引退しちゃうんですよね。まだ十七歳で、柱にまでなったのに……」
「仕方ないですよ。傷は塞がっても、傷ついた肺の機能が元通りになるわけではありませんからね。呼吸が存分に使えねば鬼殺の隊士は務まりません」
「はぁ、カナエちゃん引退かあ、残念だな。また、一緒に技を研究したかったなー」
軽い口調でそう言う百合鬼だが、その声色はところどころ震えている。
花枝にもわかる。百合鬼のそれは空元気だ。花枝の前では無理して元気に振る舞っているだけだ。
無理もないと、花枝は思う。
カナエが隊士でなくなってしまえば、この
そうでなくとも、カナエの『百合の呼吸』は、カナエと百合鬼ふたりがいたからこそ生まれた――いわば、二人の夢の込められた呼吸だったのだ。
それが志半ばに鬼殺隊の歴史から永久に消え去ってしまうとすれば、百合鬼としては複雑な思いもあるはずだ。
「……」
自然と、二人とも黙り込んでしまい、室内にしばしの沈黙が流れる。
遠くから、鶏の鳴き声が響く。一日中黄昏に染まるこの里では、鶏は好きな時間に声をあげる。
二人の脳裏に、上弦の弐が最後に残した言葉がよぎる。
――花枝ちゃんによろしく。
御霊矢花枝が未だ生存していることが、上弦の弐に看破された。
それは、いままで平穏に暮らしてきたこの隠れ里が。否応なしに鬼との戦いに巻き込まれるということだ。
花枝は、百合鬼は、いや――『あやかし』として生きる仲間たちは、覚悟を決めなくてはならなくなった。
「……巫女鬼様。私は……悔しいです……本当に、悔しくてたまらないんです……」
「百合鬼……」
沈黙を破ったのは、百合鬼だ。
まるで、ずっとつけていた笑顔の仮面が崩壊してしまったかのように、彼女はその表情を悔しさで歪めている。
彼女の握った指が、ぎゅうと布団に食い込んでいく。
「だって……だって! あの童磨とかいう鬼が、全部、全部悪いんじゃないですか!」
童磨。
あの夜、カナエを死のふちまで追いやり、花枝の生存という答えに辿り着いた上弦の鬼。
「カナエちゃんのことも、巫女鬼様のことがバレたこともあります。けど……けど! アイツが始めに、巫女鬼様を鬼舞辻無惨に売ったんじゃないですか! アイツが、巫女鬼様を……花枝様を……っ」
花枝もあの夜、百合鬼の術を通して上弦の弐の姿を捉えていた。そして、その言葉を聞いていた。
慶応四年のあの日。平和に暮らしていた
けれど。花枝はふるふると首を横に振り、百合鬼の手を握る。
「わたしのことはいいんですよ、百合鬼。わたしにとっては過去のきっかけがどうこうよりも、今はあなたが無事に回復してくれることのほうが大事なんですから」
それは、本気の言葉だった。
花枝の家族が鬼舞辻無惨に殺され、花枝自身も鬼にされてから、もう四十五年は経ったのだ。
その切っ掛けを作ったのが誰であろうと、花枝としてはもう――全て、過去のことなのだ。
あのとき、百合鬼が灰となり消失しかけたときの恐怖と比べれば、童磨の言葉など些細なものだ。
「それに、カナエもまだ諦めてはいません。剣士として戦うことは出来なくとも、あの子はきっと、いつか『夢』を完成させますよ」
「夢……ですか」
そして、ふと。
今までの会話の流れとはまったく関係ないことなのだが、『夢』という言葉から、花枝は百合鬼に伝えるべき情報がもう一つあるのを思い出した。
「それと百合鬼。包丁鬼と田中鬼が、山羊の乳と卵と蜂蜜で、あいすくりんを作ってくれたそうですよ?」
「えっ! 寝てる場合じゃないですね!」
寝込んでいたはずの百合鬼がガバリと起きた。意外と元気で花枝は驚いた。
「巫女鬼様が夢にまで見たあいすくりんじゃないですか! 行きましょう!!」
「わあ。けっこう元気ですね」
言うが早いか、百合鬼は布団から這い出ると、小さな花枝の手を取って立ち上がる。未だに片足は再生途中であり、布団の横に置かれた松葉杖を使わねば歩けない状態だ。着物の下に隠れた身体も、恐らくはまだ目も当てられない状態なのだろう。
だが、そんなことを気にさせない程に、百合鬼は元気な声をあげていた。
「そりゃそうですよ。巫女鬼様の夢なんて、いくら叶えても足りないくらいですからね」
「ええ……」
先程まで寝込んでいた百合鬼はいったいなんだったのか。
ぐいと花枝の手をひっぱりあげて、釣られて花枝が立ち上がったのを確認すると、百合鬼は花枝と共に廊下を進んでいく。花枝は百合鬼が心配でたまらず、とにかく彼女の身体を支えながら歩いた。
「巫女鬼様はもっと沢山、夢をみてくださっていいくらいです」
「うーん、なら今度また、女子雑誌でも見て新しい夢を探してみましょうね。実はですね、ぱんけーき、というのが少し気になるんです」
「じゃあ次はそれにしましょう。ぱんけーき!」
心の底に溜まったもやもやする思いには、今だけは、そっと蓋を落として。
大切な仲間とともに夢について語り合える。
今はただ、そんな時間が。花枝にとってはとても幸せで、かけがえのない時間なのだった。
◆ ◆ ◆
この年の、夏。
苦しみも悲しみも背負った『明治』という長かった時代が終わりを告げ、過去のものへとなっていく。
そして、世には。
『大正』という、新時代が訪れた。
◆ ◆ ◆
――大正元年。その年末。
花枝は、大きく成長した少年と向かい合っていた。
否。正しくは、花枝は夢の中で見知らぬ女性になり、多くの炭が入った籠を背負った長男を、見送ろうとしていた。
景色は雪。女性の吐く息が白くなって消えていくのが見える。
この夢は、いつか見たあの夢の続きだ。初めは小さい子供だった長男は、今や立派な少年に育っていた。
花枝には不思議と、この少年は今から背負った炭を持ち、山の下の町へと行くのだと分かった。
『雪が降って危ないから、行かなくてもいいんだよ』
『正月になったらみんなに腹いっぱい食べさせてやりたいし、少しでも薪を売ってくるよ』
『……ありがとう』
この家族の父親は既にいないのだと、花枝は知っていた。いや、知っていたのはこの女性であり、花枝は夢を見ているだけだ。
花枝の知らないことを彼女は知っていて、彼女の知らないことを、花枝は知っている。
夢とは言え、とても不思議な感覚だった。
山を下ろうとする長男を、更に増えた子供たちが取り囲んでいる。
その中には、初めてこの夢を見た日に見た赤ん坊だった次女が成長し、元気に育った姿もあった。
黒髪を額で揃えた次女は今やちょうど七歳ほどで、まるで花枝にそっくりだった。
彼女は家族に囲まれ、とても、幸せそうだった。
そうして弟妹たちとの話が済んだのか、長男は大きな籠を背負い、ゆっくりと雪の積もる山を下っていく。
女性は、その背が見えなくなるまで見送っていた。
そして花枝は、不思議な喪失感とともに、ずっと、ずっと、長男の背中を見送って。
楽しげに話している、愛する子たちの姿をその目に焼き付けて――。
ボコッ、ボコッ、ボコッ。
鈍い痛みの三連発で、目が覚めた。
「うぅ……痛いです」
「ったく。巫女鬼よぉ、テメェはなんで隙あらば炭焼き小屋で眠ってんだよ。自分の部屋で寝やがれ」
「待って、待ってください、待ってください。なんだか頭が滅茶苦茶に痛いです。いつもの三倍痛いんですけど、酷くありませんか?」
「アァ? 気のせいだろ」
「気のせいなわけないじゃないですか。たんこぶになってますよ、もう。起こすにしても、もう少し――あれ?」
ふいに、ポロリ、と。
花枝の目から、透明の雫がこぼれ落ちる。
「わあ、目から水が」
「あ! お前、なに泣いてんだよ! そ、そんな強く殴ってねえだろうが?! お、おいっ、大丈夫かよっ」
胡蝶の夢。
それは、花枝が図書室で読んだ本に書かれていた話だ。
夢の中でだけ、別のなにかになっているのか。それとも今の自分こそが、夢の存在なのか。
あの家族の夢を見るたびに、花枝はその言葉を思い出す。
けれど。
「滅茶苦茶強く殴られたとは思いますけど、そうじゃなくてですね。実はちょっと不思議な夢を見ていたんですよ。きっとその夢が悲しくて、涙が出てしまったんだと思います」
「ゆ、夢だと……? いや、まあ痛くて泣いたわけじゃないならいいけどよ」
「滅茶苦茶痛かったですけどね? まあただ、何が悲しかったのか思い出せないんですよね。不思議ですね」
「ハァ?」
突然涙をこぼした花枝に手鬼は慌てた顔を見せていたが、続く花枝の言葉には、ぽかんとした顔に変わっていく。
「夢の中のわたしはわかっていたのに、起きているわたしは覚えていないんです。これじゃあどちらが夢だかわかりませんよ」
「夢なんてそんなもんだろ、どうせ現実じゃねえんだからよ。難しいことばかり考えてねえでとりあえず起きろ」
「もう、手鬼は浪漫がありませんね」
「ったく、頭を殴り過ぎたかと冷や冷やしたぜ」
「いえ、三発は殴り過ぎですからね?」
夢は夢であって、現実ではない。実に簡潔な答えである。
ただ、それでも。
花枝は心の中で、今は顔もおぼろげにしか思い出せない、夢で見たあの家族の幸せを願っていた。そして叶うならば、またいつか、あの幸せな人々の姿を見たいと願っていた。
そんな、不思議な祈りを飲み込んで。
花枝たちはまた、新たな年を迎えるのだった。
三章『胡蝶の夢』了
次話から、本編を進める前に一旦幕間話を五話挟みます
次章『幕間 みたまや大正噺』8月24日(月)23時公開予定です