それは、まだ外の世界で年号が変わるか変わらないかという時期のことだった。
童磨と戦った際の傷が癒えきっていない百合鬼を見舞うため、
突然、枕元に放られていた女子雑誌を開いて、百合鬼が興奮気味に語り出した。
「そういえば巫女鬼様、風見鬼。あとバターという物があれば、隠れ里でもパンケーキが作れそうですよ!」
「ばたーですか。食べ物の記事でたまに見かける言葉ですよね」
「バター……聞いたことがあるわ。それは、雌牛から生まれし……不可思議な、なにか……」
パンケーキ。それは少し前にも百合鬼と話した、西洋で食べられている非常に美味しいおやつなのだという。
外の世界で最近話題になっているようで、雑誌でも度々その名を見かけることがあった。そこには写真も載っており、見た目だけでいえば平べったいパンである。パンケーキというからには、パンに似た何かなのだろうと花枝は考えている。
そしてどうやら、百合鬼はそのパンケーキの材料や作り方が記載されている記事を発見したようだった。
必要な物は、小麦粉、ふくらし粉、牛乳、砂糖、卵、蜂蜜。そしてバター。
「ふくらし粉とはなんでしょうか」
「あー、多分重曹じゃないですかね。前に包丁鬼が和菓子を作るとき、使ってましたよ」
和菓子を膨らますことができる重曹。それはまだいくつかの調味料とともに炊事場には残っているはずだ。
牛乳は山羊の乳で代用し、砂糖も甘さだけなら蜂蜜で代用は可能だろう。
そして問題は、バターという食材だ。
牛の乳から作り出す、なにか。
なにかとはなにか。花枝は哲学的な思考に頭を悩ませるが、すぐにそこには百合鬼が答えを教えてくれた。
「えーとですねえ。バターっていうのは、牛乳……牛の乳からとれる『脂の塊』らしいですよ。どうやれば乳から脂がとれるんだか、私には皆目見当もつきませんけどね」
「牛の乳も、山羊の乳と同じような液体ですよね? あれから、脂の塊が出てくるんですか?」
「……不明、だわ」
実を言えば、この三人が生きていた江戸時代にも、牛の乳から作られた『牛酪』というバターに近しいものは存在していた。だが、残念ながら山の上で育った巫女はもちろん、ただの町娘だった百合鬼や風見鬼がそのようなものは知るわけもない。
なので、結局。この日の三人はバターへの興味が長続きすることもなく、すぐに別な話題に花を咲かせてしまうのだった。
◆ ◆ ◆
そんなやりとりがあってから、月日は過ぎ。百合鬼の身体が再生しきって、ようやく彼女が万全の状態に戻った頃。
花枝たちは、あの日のバターについてのやりとりを思い出すこととなる。
と、いうのも。
「バターですか? 山羊の乳から作ったものなら、まだ炊事場に余ってますよ?」
それは、女子鬼たちが雑談の中で明治時代の料理についての話題を楽しんでいたときのことだった。
雑誌に載っていた材料のひとつ――バターの話題に触れたときに、たまたまそこにいた田中鬼がしれっとそんなことを言い出したのだ。
「えーっ?! 聞いてないよ、田中鬼、どういうことなの?!」
「あわわわ、頭をゆすらないでください、頸がまたとれますっ! 頭とれますっ!」
百合鬼に頭を揺すられ、田中鬼の頭がずれかける。
いったい何の不具合か、過去に義勇に普通の刀で切断された田中鬼の頸は、あれからちょっとした衝撃があると取れるようになってしまっていた。実に不便な頸である。
「まあまあ百合鬼、落ち着いてください。でも田中鬼。わたしもそれは初耳ですけど、どういうことですか?」
「……そうね。いったい……どうして、沈黙の檻に、バターを閉ざしていたの……?」
「ええ、どうと言われても……」
そして、女子鬼三人衆に問いつめられた田中鬼は、ずれかけた頸を押さえながら、三人を引き連れ炊事場へと向かうことになるのだった。
◇ ◇ ◇
「コレガ牛酪ダ。バター、トモ言ウ……」
炊事場の主、恐ろしげな獣の顔をした優しい料理人、包丁鬼。
彼が取り出したのは、小さな蓋つきの容器だった。ぱかりとそれを開ければ、花枝のこぶし程度の白い固まりが入っている。
「わあ、脂? これがバターなんですか?」
花枝の質問には包丁鬼がこくりと頷く。
彼は棚から綺麗な小さじを一つ取り出すとバターをすくいあげ、花枝、百合鬼、風見鬼の指先に少しずつ乗せていく。
花枝たちはそれをぺろりと舐めてみるが、なんとも不思議な風味こそあるものの、脂である。塩が混ぜられているのか、多少の塩味を感じる。
三人とも、なんとも言えぬ表情でそれぞれ顔を見合わせた。
「百合鬼。風見鬼。どう思いました?」
「なんか風味が鼻に残りますし、そんなに美味しくないですね」
「……脂……だわ」
「ソノママ、舐メルモノジャ、ナイカラナ」
包丁鬼がバターの容器を閉じて口元をゆがませる。もしかしたら今のは苦笑を浮かべているのかもしれない。
一方田中鬼は、炊事場に隣接して作られた食料庫から、小麦粉や卵を取り出していた。
「包丁鬼さん。巫女鬼様たちは『パンケーキ』に興味があるようなので、俺が作ってみていいですか? 以前見たことはあるので、その時の見よう見まねですけどね」
「フム。俺モ、気ニナルナ」
◇ ◇ ◇
小麦粉と卵を混ぜ合わせ、そこに山羊の乳と、水に溶いたほんの少しの重曹、果物の汁、そして蜂蜜を混ぜ込み、焼く前の生地を作っていく。
トロトロになったそれを、油を敷いたフライパンに流し込む。ふつふつと表面が泡立ちはじめたところで、料理をひっくり返す調理器具を使い、田中鬼は器用にひっくり返していく。
両面が焼きあがったら皿に乗せ、最後にバターと蜂蜜を乗せるとどうやら完成らしい。卓上に三人分のパンケーキが並べられていく。
「わあ。可愛らしいパンみたいですね」
「まあ、俺の見よう見まねで、本物とはちょっと違っているかもしれませんが、皆さんどうぞ食べてみてください」
「どれどれ……」
炊事場にはナイフやフォークといった洋食用の食器類もあるが、江戸時代に生まれた花枝はだいたいの食事をお箸で食べるので、ナイフとフォークの出番はない。花枝たちはさっそくパンケーキに箸を伸ばす。
手にした箸でパンケーキをちぎり、溶けたバターと蜂蜜を塗りつけてから口へと運ぶ。
初めて口にしたそのパンケーキは、あくまで田中鬼による見よう見まねパンケーキであり、雑誌に載っているものとはかなり違う見た目をしていた。
けれど、それは必ずしも失敗作というわけではない。花枝がむぐむぐと味わっているそれは、どこかもっちりして、けれどふんわりして。そしてなにより、熱で溶けてしみこむバターと蜂蜜が想像以上に互いの味わいを引き立てていた。
「わあ! 田中鬼、とても美味しいですよこれ。隠れ里の主食にしましょう!」
この日。
パンケーキが、花枝の独断によって、隠れ里の主食に決定されるのだった。
なお、そこからそう時間をおかず。
『材料がそこまで大量に用意できない』という理由により、花枝の決定はすぐに覆された。
最終的に、パンケーキは毎日は食べられない『たまにだけ許される贅沢なおやつ』に決定し直されるのだった。
◆ ◆ ◆
花枝がパンケーキの味を覚えてから、しばらく後の炊事場にて。
「おう、田中鬼。俺を探してたってなぁ」
「あ、待ってました手鬼さん。山羊の乳がとれたので、またこっちの容器でバターをお願いしていいですか?」
「しゃあねえなあ、貸しな」
包丁鬼たちが教えてくれたバターの作り方。
それは、山羊の乳を冷やして浮いてきた脂肪分を容器に入れて、ひたすら振るという手法だった。花枝にはその理屈までは分からないが、それを振り続けることによってバターができるのだという。
当初は包丁鬼が直接容器を振り続けてバターを作っていたのだが、この里にはものを手に持ち振り続けるのにうってつけの鬼――手鬼がいる。
なので、最近は大きな容器に集めた脂肪分を詰め込んで、手鬼に延々とそれを振り続けてもらうというのが、この里のバターの作り方となっていた。
手鬼が一人、背中から生やした手でひたすら容器を振り続けていると、今度はそこに包丁鬼が声をかけてきた。
「手鬼。暇ナラ、卵白ノ泡立テヲ……任セタ」
「しゃあねえな。任せな。角が立つくらいでいいんだよな?」
もう何十年ものつきあいになるので、包丁鬼も手鬼に遠慮していない。
炊事場の横で暇そうに容器を振っている手鬼に、卵白がいくつも入れられた調理用の器と、それを泡立てるための道具を押しつける。
卵白の泡立て――海外ではメレンゲと呼ばれるそれだが、包丁鬼は様々な研究や工夫により、その技法を料理に取り入れていた。
そして、ひたすら泡立て作業を行うのにうってつけな人材。それが手鬼だった。
手鬼が一人、背中から生やした手の数々で容器を振り、卵白をかき混ぜ続けていると、今度はそこに花枝が声をかけてきた。
「手鬼、手鬼っ! 暇ならあいすくりんもかき混ぜてください!」
「アァ? お前、氷室の氷をまた勝手に使いやがって。次の冬まで雪は降らねえんだからな」
花枝が持ち込んだのは、氷室の氷に塩を混ぜた冷却のための器と、その上に載せられた、卵の黄身と山羊の乳、そして蜂蜜の入った金属製の器だった。
花枝の好物のひとつ、あいすくりん。
それは、これらの材料を氷と塩で冷やしながらひたすら混ぜ続け、柔らかく凍らせたものである。
今現在手鬼が泡立て器で混ぜているのが白身なので、そのときに余った黄身を花枝が分けてもらったものなのだろう。
そしてもちろん、ひたすらあいすくりんが凍るまで混ぜ続けるのにうってつけな人材。それが手鬼だった。
「大丈夫です、包丁鬼に許可はとりました! ねえ、包丁鬼」
「タマニナラ……構ワナイ」
「ったく、この里の連中は巫女鬼に甘すぎるんだよ」
「オ前ガ言ウノカ……」
背中から生やした手で、バターの容器を振り続け。
別の腕では卵の白身でメレンゲを作り続け。
そして、本物の両腕を使い、花枝のためのあいすくりんを混ぜる手鬼。
そんな手鬼の姿を見て、包丁鬼はやはり、恐ろしげな獣の顔の口元を少しだけ歪めているのだった。
◇ ◇ ◇
「それにしても、手鬼。頼んだ私が言うのもなんですけど、大変じゃないんですか? 三つもいっしょに混ぜるのって」
花枝は手鬼の横に座ってだんだんと固まっていくあいすくりんを眺めていたが、背後からは絶え間なくしゃかしゃかと容器を振る音がする。
横ではあいすくりんと同時に、卵の白身をかきまぜ続けている。
見たところ、すでに角が立つほどには泡立っているのだが、何が手鬼をそうさせるのか、彼はそれでもまだ延々とかき混ぜ続けている。
「別にこのくらい大した力は使ってねえよ。どこぞの貧弱なクソ雑魚じゃあるまいし、泡立てくらいでへばったりしねぇよ」
「わあ、気のせいか言葉が胸に刺さる」
軽い冗談を交わすが、しかし事実として花枝が泡立て作業などを受け持とうものならば、卵白が泡立つ前に花枝が体力の限界でへたってしまうのは間違いない。
花枝と手鬼の間には、それこそ天と地の差ほどに体力差があるのだ。
「まあ、器から零れねえようにきちんと見ておかねえといけねえから、そういう意味じゃ手間といや手間だがよ」
「結構その増やした手も器用なものですね」
花枝はそうつぶやきながら、視線を再び、大好きな『あいすくりん』へと戻し。
その完成を今か今かと待ち続けているのだった。
◇ ◇ ◇
「そんで、俺がひたすら振って作ったバターと、俺がひたすら泡立てた卵をつかって作られたのが、いまテメェらが食ってるふわふわのパンケーキってわけだな?」
手鬼の前で、花枝、百合鬼、風見鬼の三人が、包丁鬼特製のふわふわパンケーキを食べている。
上には作りたてのバターと、蟲鬼特製の藤の花蜂蜜がたんまりとかけられ、あげくその天辺には作りたてのあいすくりんといくつかの木の実が盛りつけられている。
どこからどう見ても、隠れ里にあるまじき豪華絢爛さだ。
「巫女鬼様。里に手鬼がいて本当に良かったですね!」
「……その阿修羅の如き多腕。それは、至高の労働力……」
「テメェら、人を便利な道具みたいに言うんじゃねえよ!」
「わあ、手鬼が怒った!」
結局、手鬼も卓に座らせて、四人で仲良くパンケーキを味わうことで、手鬼の怒りは収まった。
メレンゲという技法を取り入れた包丁鬼の特製パンケーキは、ふわふわで、甘くて、皆がたまげるほどに美味しかったという。