狐の子たち 肆
――大正四年。
甘露寺蜜璃という特大の変わり者が現れてからおよそ二年。今年もまた、最終選別がやってきた。
最終選別とは、鬼と子供たちで殺し合いをさせるという実に悪趣味な演習である。
花枝たちはその度に隠れ里の河原に石を積んでいったので、河原はもはや石だらけだ。
「さて。今年はどのような子供たちがいるのでしょうね」
「鬼の餌にならねえことを祈るぜ」
今年もまた、花枝と手鬼は高い木の上から最終選別の様子を眺めていた。木の上からは、全集中もおぼつかないような拙い剣技で、必死で鬼たちに応戦する子供たちの姿が見下ろせた。
目つきの悪すぎる少年が自身を鼓舞しながら必死に戦う姿があった。呼吸の型を使う素振りはなかったけれど、何か惹かれるものを感じる少年だった。
大声で泣きわめきながら走り抜けていく金髪の少年がいた。とてもうるさくて敵わないが、逃げ続けるその足には稀に見る爆発力がある。もしかしたら、ものすごい素質を秘めているかもしれない。
花の咲くような、どこかで見たことのある美しい軌跡で日輪刀を振るう少女がいた。少女からはちらりと視線を向けられた気もするが、さすがに気のせいだろう。
そして――。
「ねえ手鬼。あれって何ですかね。あれも最終選別の参加者なんですか? というか、あれは人間ですか?」
「鬼じゃあなさそうだが、どうだろうな。なんか大声で喚きながら反対の方向に走って行っちまったから、俺にもよくわからん」
花枝の言う『あれ』。
それは、猪だった。否、頭は猪だが首から下は人間だ。つまりはおそらく、かぶり物として猪の頭を被っているのだろう。
しかし、大声で「猪突猛進」と叫びながら真っ直ぐに駆け抜けていくその様は、とてもではないがまともな人間とは思えない。
「なんか、わたしたち『あやかし』以上に人間離れしてましたね。意味不明すぎて怖いです」
「大正ともなれば、色んな奴がいるんだろ。なんにせよ、ああいう異常なのには関わらないに限るぜ」
「そうですね。あれが近くにいたら逃げることにしましょう」
謎の猪は山の反対側へと向けて真っ直ぐに駆け抜けていってしまった。
結局その猪が戻ってくることはなかったのだが、花枝と手鬼は互いに「あの猪には関わらないでおくに限る」という考えで意見が一致するのだった。
そうして、しばらくの間、山の中を彷徨っている少年少女の様子を眺めていると――ふと、手鬼の雰囲気が変わった。
「……おい、巫女鬼、いたぞ。狐だ、狐の子がいる」
「え? どこどこ、どこですか?」
狐の子。鱗滝左近次の弟子たち。
錆兎と義勇の二人が訪れてから、年月にして八年。この間、誰一人としてやってくることのなかった狐の子が、再び最終選別に姿を現した。
狐の子を見つけられずにきょろきょろしている花枝をよそに、手鬼はそのバッテンの瞳を喜色に染めていた。
「ククク、フフフフフッ! 久しぶりの狐の子で、つい笑みが浮かんじまうなァ!!」
「ちょっと手鬼、どこですか? 笑ってないで教えてくださいよ」
「よぉし、久しぶりに驚かしてやるかァ! フフフフっ!」
「ちょっと、聞いてます? 手鬼ー?」
気分が昂ぶり花枝の声すら聞こえていない手鬼による、この日、新たに訪れた狐の子への。
真の最終選別が、いま、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
花枝は相変わらず木の上に放置され、手鬼と狐の子が相対する様を眺めていた。
さすがに花枝も慣れたもので、座りやすそうな枝を見つけて、そこにちょこんと腰掛ける。
花枝の視界の先では、狐面を頭につけた少年がひとり、暗い森を進んでいた。
赤らんだ髪と、同じく赤らんだ瞳。事故かなにかの影響か、額にはなかなか痛ましい火傷痕がある。
不思議と、花枝はその少年の姿をどこかで見たことがある気がしたが、しかし考えている暇もなく、森に潜んでいた手鬼が行動に出る。
「おい、そこの狐小僧」
「っ!?」
唐突に、森の中から少年にかけられる声と、木陰からぬっと現れる大きな影。
それはもちろん、緑色の巨体から幾つもの腕を生やした異形の鬼――手鬼の本気の姿である。
少年の目からは、何の前触れもなく巨大な異形が現れたように見えたことだろう。手鬼はそれくらいに、自然にひょっこりと出てきて、普通に話しかけていた。
「聞かせろよ、今は明治何年だ?」
「今は大正時代だ!」
根が真面目な子なのだろう。巨大な鬼の問いかけに、火傷痕の少年は律儀に答えを返す。
少年は日輪刀を油断なく構えている。そして、花枝の目からは、少年がしきりにくんくんと鼻を鳴らしているように見えた。
花枝の知らぬことだが、少年――竈門炭治郎にとって、嗅覚は命だ。罠の気配、鬼の気配、そして『隙』の気配。今までも、全てをその嗅覚が教えてくれていたのだ。
匂いによって、彼はこの異形が現れる前からそこに何かが潜んでいることには気付いていた。そして、木の上にいる『誰か』にも、彼は先程からずっと、気付いている。
だからこそ、だからこそ今の炭治郎は混乱の極みにいるのだが、しかし花枝からはそこまでは読み取れない。
「あぁ、そうだったなァ! 年号が変わってるんだよなァ!! こないだ四肢を千切ったガキがそう喚いてたっけなァァァ!」
「……なっ……!!?」
異形――手鬼は、かつて狐の子たちにそうしてきたように。
現水柱である真菰を激昂させ、彼女の冷静さを乱したときのように、額に火傷痕を持つ狐の子へと向けて、ニタニタとした笑顔とともに挑発を繰り返す。
もちろん、手鬼が言っていることは当然ながら大嘘である。
今が大正時代であることなど百も承知だし、子供の四肢を千切るなどという残虐行為を働いたこともない。
強いて言えば未熟な剣士たちをボコボコにして痛めつけることは多々あるけれど、ボコボコにされた彼らはみな生きて山を下りているし、子供を食うなど以ての外だ。
「まったく、手鬼は相変わらずなんですから」
ニタニタと大嘘をついてまで狐の子を挑発する様子に呆れながらも、木の上の花枝はジッと少年の姿を観察している。
「それにしても、あの子……」
いかに里の仲間や関わった人間たちからは『弱い』だの『貧弱』だのと言われても、花枝とて五十年近くをこの山で過ごし、最終選別にやってきた数百を超える剣士たちを見続けてきたのだ。
だから、眼下で手鬼と向き合っている少年の表情に、なんとも言えぬ違和感を覚えていた。
どこかで見たことのある容姿にも思えるが、違和感の正体はそこではない。花枝はじっと、違和感を確認すべく、木の上から静かに少年を見つめている。
「ガキの肉は美味いからなァ! 五十人は食ったぜ、それで狐のガキ、テメェが五十一人目だ!!」
「……なんで、なんで――」
そこで、花枝はようやく答えを見つけることができた。
彼は、手鬼を恐れていないのだ。
彼は、手鬼に殺意を向けていないのだ。
そして。
花枝の気付きが正解であることを裏付ける台詞が、その少年の口から飛び出した。
「なんで、そんな嘘をつくんだ? お前からは人食い鬼の匂いなんかしないし、鬼なのに、殺意が全くない」
「……アァ?」
静寂。
目の前で挑発を繰り返していた手鬼は、自分がいま何を言われたのか、しばらく理解できなかった。
木の上で見ている花枝も「わあ」と小さく呟いただけで、それ以上は言葉を発さない。言葉が出ない。
一方、少年は言葉を続ける。
「俺は匂いでわかるんだ。お前は嘘をついて、わざと俺を怒らせようとしている。それと、どこか嬉しそうで、だけど、少しだけ悲しそうな――」
「アァァァァ! うるせぇな!」
少年の言葉を遮るように、手鬼が吼えた。
「あの野郎、クソ面倒くさい狐の子を送りつけやがって! ガキ、うだうだ言ってねぇで刀を構えやがれ! テメェは鬼の頸を刈る側だろうがよ!」
「待ってくれ! お前が理性のある鬼なら、聞きたいことがあるんだ! それに俺は、人を食ってない鬼と戦うつもりはない!」
「知ったこっちゃねえ! 刀を構えろ! 俺と殺し合え!」
「嫌だ! 俺は、確かに鬼狩りの道を選んだけれど、俺が斬るのは人喰い鬼だけだ! 俺は何があっても、人を食っていない鬼を斬ったりしない!」
「アァァァ! なんなんだこのガキは!! 」
少年は強情だった。そして、手鬼もまた律儀であった。
かつて、
しかし、光景としては非常に面白いのだが、このままではキリがない。
花枝はそう判断すると、木の枝から腰をあげて、よじよじと。小さい体躯で頑張って木を下りていく。
「手鬼」
ある程度の高さまで降りた花枝が、不毛なやりとりを繰り返す二人へと向け、声をかける。
こんなところで言い争って、声に気づいた無関係な鬼や試験参加者が寄ってきたらそれこそ面倒くさいことになる。花枝はだから、ひとまずは二人を仲裁することにした。
「手鬼。ここはもう彼にきちんと説明をして、修練場へと連れていきましょう。わたしが話をしますから、ここから降ろしてください」
「……チッ、面倒くせぇが、仕方ねえな」
まだ何か言いたげな手鬼だったが、しかし花枝の言うことが正しいと判断したのだろう。少々不貞腐れながらも、巨大な腕の一本で花枝の胴体を優しく掴むと、そのまま地面に降ろす。
地面に降り立った花枝はぽんぽんと巫女服についた木の葉を払い落としてから、火傷痕の少年へと向き直る。
手鬼は花枝を守るべく、いつでもその腕を伸ばせるように構えているが、しかし花枝の行動を止めようとはしない。
「では、狐面のあなた。話をしたいのならば、一度その日輪刀を降ろして、わたしたちに――」
そこまで言ったところで、花枝の言葉は止まる。
「え?」
花枝が、思わず疑問符を口にする。
というのも、火傷痕の少年の様子が明らかにおかしいのだ。
彼は日輪刀を降ろすどころか、その手に握っていた日輪刀を――ぽろりと、地面に落としていた。
その両目をまんまるに見開き、彼は花枝を、花枝だけを、真っ直ぐに見つめていた。
そして――。
「……花子……か?」
「え?」
花枝が、再び疑問符を口にする。
少年は真っ直ぐに花枝を見つめて「花子」という名を口にした。もちろん花枝は花子ではないし、人違いなはずだ。
けれど、どこかで聞き覚えのあるその名に、花枝はすぐには否定の言葉を返せなかった。手鬼すら、わけも分からずに動きを止めている。
少年の瞳に、涙が浮かぶ。
「花子! あぁ、花子……花子っ! お前も、鬼になってたのか……あ、ぁぁ……」
「え……?」
少年は、がくがくと唇を震わせながら、一歩一歩、花枝に近づいて。
彼の見開いた両の瞳から、涙を流しながら。けれど、笑顔を浮かべて。
そっと彼は、花枝へと両の手を伸ばし。
そして、優しく、優しく抱きしめた。
「あぁ……花子……ごめん、ごめん……兄ちゃんは、あの時、花子も死んでしまったのかと、お前を埋葬して……」
それは、兄としての喜びと、懺悔だった。
「……痛かっただろう、怖かっただろう。兄ちゃん……長男なのに、お前たちを助けてやれなくて……でも、よかった……また、会えるなんて……花子……」
それは、妹を助けられなかった悲しみと、再会の喜びに濡れた言葉だった。
月光の下で。
少年――竈門炭治郎は。止めどなく溢れ出る涙を堪えようともせず。
あの日、永遠に亡くしてしまったはずの、愛しい妹――竈門花子の姿を抱きしめて、嗚咽を漏らし続けていた。
「わあ。これは……本当に、どうしましょう」
花枝は、とりあえず日輪刀だけは回収していた手鬼と視線を合わせつつ。
本気でうろたえるのだった。