永遠に黄昏時で刻の止まった隠れ里。
社家屋敷の一室で、温かい茶を飲みながら、
はじめ、森の中で花枝に抱きつき泣いていた炭治郎は、手鬼が無理矢理にその身体を引き剥がし、力尽くで隠れ里へと運び込んだ。
そのままあれよあれよという間に炭治郎は社家屋敷へと連れ込まれ、温かい茶を飲まされ、そこでようやく花枝への誤解も解け、まともに会話ができるようになった。
初めこそ、人を食わない鬼の集まる里の存在に困惑を隠せない様子だったが、匂いによって相手の感情が読み取れるというのは本当なのだろう。彼は無条件で、この里のものたちの話を信じてくれていた。
そうして、まず皆が耳を傾けているのは、竈門炭治郎という少年のこれまでの物語である。
「なるほど。鬼舞辻無惨に殺された七歳の妹が、わたしと瓜二つだった……と」
「それに、鬼になってから二年間眠り続けてる妹かよ。どっかの誰かを思い出すぜ」
花枝と瓜二つだという花子。
花枝と同じく、鬼となっても人を食わずに二年間眠り続けている禰豆子。
住民たちの視線は自然と、彼らの長である巫女鬼へと向けられていたが、誰もそれ以上のことは口にはしない。
――炭治郎の独白は続く。
「俺は、それで妹を……禰豆子を人間に戻すために、鬼殺隊に入ることに決めました。妹を人間にする方法は、鬼たちならば知っているかもしれないと義勇さんに聞いて……」
「あの野郎、なんてことを言いやがるんだ」
「なるほど。炭治郎はその日からずっと、ずっと、禰豆子のために頑張ってきたのですね。えらいです、すごいです」
花枝はここに炭治郎を連れてきてから、ずっと彼のとなりでその背をぽんぽんと叩き続けている。
炭治郎は生来、争いなどとは無縁な優しい気質なのだろう。鬼に家族を殺されようとも、決して彼の怒りは鬼には向いていない。強いて言えば憎むべきは鬼舞辻無惨だろうが、彼はまだ鬼舞辻無惨の人物像を知らないのだ。
彼の背で燻っている黒い呪い。それは、愛する家族を救えなかった後悔であり、妹を救う力のない自分自身への怒りであり、今も止まぬ――果てなき悲しみだ。
「それなのに、さっきは巫女鬼様の姿をみて、俺は呼吸の教えも、刀を握ることすらも忘れて……」
「わたしはそれほどまでに、その妹にそっくりなのですね」
「はい。巫女鬼様は花子に、本当に瓜二つで……花子は、笑顔がかわい……て……自慢の、妹で……お兄ちゃん、お兄ちゃ……て……っ」
花子のことを語りはじめた炭治郎の瞳から、一粒。雫がぽたりと落ちる。
「わあ、また泣いちゃった」
「すみ……ません。俺、泣いている場合じゃ、ないのに……! 今すぐ、泣き止みます!!」
今、炭治郎の心の傷を抉っているのは花枝だった。花枝の眼差しであり、花枝の声であり、炭治郎の背を撫でる花枝の温もりだった。
花枝が隣に座り心の傷を癒そうにも、その全てが花子の記憶を呼び戻し、炭治郎が悲しみに飲まれてしまう。彼はきっと、それだけ花子という妹のことも大切に思っていたのだろう。
なればこそ。
花枝は思う。彼はいまは、泣くべきなのだ。
「ねえ、炭治郎。あなたはもしかして、その日からずっと、家族のために泣くことができなかったのではありませんか?」
「それ、は……」
花枝は一度立ち上がり、俯く炭治郎の頭を抱き寄せる。
かつて、呪いから救われた小芭内を抱きしめてあげたことを思い出す。悲しみに飲まれていたカナエをこうして泣かせてあげたことを思い出す。
既にこの世に生まれ落ちてから五十年以上は生き続けてきた花枝にとっては、小芭内も、カナエも、炭治郎も。皆が等しく愛しい子供たちなのだ。
この少年は、ただ『禰豆子を人間に戻す』というたった一つの願いのために、一歩間違えれば命を落としかねない過酷な修行を受け、暗い森の中で鬼と殺し合う山にまでやってきた。
それは全て、彼の長男としての強さであり、自らを顧みないほどの底知れぬ優しさだ。きっとそこには、自分自身の悲しみに充てる時間などなかったに違いない。
だけれど――。
「優しい炭治郎。今だけは家族のために、泣いてあげてください。花子の代わりに、わたしが全部受け止めてあげますから」
「……花……子」
ぽんぽんと。
花枝は優しく、炭治郎の背中をさする。
「あぁ、花子……母ちゃん……みんな……うう、うぅ……」
気付けば、住民たちはみな部屋から姿を消していた。
彼らは皆、大切な人がいなくなる悲しさを知っている。自分が鬼になる辛さを知っている。
だからこそ、竈門炭治郎という少年の在り方には――。
皆、思うところはあるのだろう。
「どう、して……どうして、あんなことに……ああ……あああぁぁぁ……!!」
その日の社家屋敷には。
家族を喪った悲しみに向き合えた炭治郎の、悲痛な嗚咽が。
悲しく、響き続けていた。
◇ ◇ ◇
泣き疲れて眠った炭治郎が目を覚ましたのは、次の日の朝だった。
布団から起き上がった炭治郎は、変わらぬ黄昏時のままの情景に困惑しつつも、里の住民たちに促されるままに朝食をとっていた。
その表情は、昨日と比べるとまるで別人のように、どこかすっきりとした顔つきだ。
「あやかし、ですか」
「あァ。つっても、鬼殺隊どもが勝手にそう名付けただけだがな」
「わたしたち自身も、自分たちが何者なのかはよくわかっていないんですよ。でもまあ、今となっては『あやかし』を名乗っておいた方がわかりやすいですしね」
炭治郎とともに食事をとっているのは花枝と手鬼である。他の住民も炭治郎の話には興味があるものの、さすがに今はまだ遠慮しているようだった。
田中鬼が運んできたあっさりとした玄米飯と、野菜のおひたし、蒸した百合根。そして根菜の入った味噌汁をすすりながら、炭治郎は花枝たちの話を聞いている。
彼がいま考えているのは、たった一人生き残った禰豆子のことだ。
禰豆子は、人を食わぬように、ずっと竹筒を咥え続けている。仕方ないこととはいえ、兄としてはそんな禰豆子に罪悪感を覚えていた。
けれど、もし禰豆子が目の前の『あやかし』たちと同じように、人間を食わず、それどころか人と同じ食事をとれるようになるならば――。
「禰豆子も、あやかしになれる可能性はあるんでしょうか。せめて、人間に危害を加えないように……」
「あっ、なれますよ?」
花枝はおひたしをパクパクとつまみながら、それはもう、日常会話の延長のようにさらりと肯定した。
炭治郎はあまりの温度差に、口が「え」の形で固まっている。
花枝はそんな炭治郎の様子を無視し、懐から小ぶりな蜜柑のような実を取り出した。手鬼は味噌汁をゆっくりとすすっている。
「どうぞ、炭治郎。その妹――禰豆子が目を覚ましたら、この『トキジクの実』を食べさせてあげてくださいね」
「え、え……?」
「禰豆子が人を食べていないならば、これを食べることで問題なくわたしたちの同類になれるはずです。本当はそう簡単に人に与えられるものではないのですが、場合が場合ですしね」
「あ、ああ、よかった……よかった、よかった……!」
炭治郎はトキジクの実を受け取りしばし呆けていたものの、時間とともに、後からじわりと理解が追いついてきたようだ。
禰豆子が人を食わずにいられる。禰豆子が人間だった頃と同じものを食べられる。そして禰豆子が、この里の住人と同じように理性を取り戻してくれるかもしれない。
それは『人間に戻す』という目的とは異なるものだけれど、それでも。
禰豆子にとって、あるいは炭治郎にとって。何よりも得がたいものだった。
「もっとも、鬼を人間に戻す方法などというのはわたしたちもわかりません。もしそのようなものが見つかったなら、是非教えてくださいね」
「はい……はい! わかりました! 絶対に、巫女鬼様にもお伝えします!」
炭治郎はトキジクの実を大切に懐にしまい込み、ほっと安堵の息をつく。花枝もまた、やることをやってすっきりしたので、にこにこだ。
だがしかし、炭治郎が安心していられるのはここまでだった。
話が一段落したのを確認した手鬼が、にやりと口角をあげて、炭治郎を見下ろすように立ち上がる。
「んで、炭治郎。さっきも話したが、そろそろ最終選別の時間だぜ。覚悟は出来てるだろうなァ?」
代々、鱗滝門下の子狐たちは、この手鬼と戦い実力を認められなければならない。
それが、明治の世から続くならわしなのだと炭治郎は手鬼から聞いていた。
「あ、でも炭治郎? 不合格になっても先程のトキジクの実は差し上げますから、無理して隊士を目指し戦わなくてもいいんですよ?」
「ありがとうございます。でも……俺は最後までやります。それが、修行をつけてくれた鱗滝さんや真菰さん、錆兎さんへの恩返しです」
炭治郎の発言に、手鬼はくくくと笑い。
花枝は、「あ、義勇はそこに名前が出てこないんですね」などと、炭治郎の覚悟をよそにどうでもよさげなことを考えているのだった。
◆ ◆ ◆
竈門炭治郎という少年は、努力家であった。
それまで優しい家族とともに育ってきた少年が、鬼を殺すために二年間休みなく修行に明け暮れた。
それでもなお、彼は錆兎のように鬼を全滅させるほどの才能はない。槇寿郎のように手鬼と対等に戦える強さはない。炭治郎には、決して鬼殺の剣士としての秀でた才能などはない。
故に。
炭治郎の覚悟をあざ笑うかのような手鬼の猛攻を前にして、炭治郎は四面楚歌に陥っていた。
(いくら手を斬ってもまた増える……! それに、硬くて速い! 匂いよりも先に攻撃が来てしまう!)
手合わせ用の刀は日輪刀ではない、普通の鋼の刀である。
事前に「これなら手鬼の頸を斬っても構わない」などと言われていたが、しかしいまの炭治郎には手鬼の頸を斬るほどの余裕などありはしなかった。
前後左右から凄まじい速度で迫ってくる張り手を避け、受け流して、着実にひとつずつ切り落としていく。
水の呼吸はどのような状態にも対応出来る柔軟な受けの型だ。それを駆使し、どうにか炭治郎は戦い続けていた。
けれど、一つ一つの腕を斬り落とすのに全力を出し続けるのが精一杯で、戦いとしては炭治郎はまだ、何一つ出来ていなかった。
「おらおらおらっ!」
「がはっ」
地面から匂いがする――と、感じ取った時にはすでに、目の前が真っ白になるほどの打撃とともに、炭治郎は吹き飛ばされていた。
半ば無意識に受け身をとって、地面をゴロゴロと転がる。鱗滝から何度も叩き込まれた動きが、炭治郎の意識を繋ぎ止める。
あまりの衝撃に先程食べた食事が嘔吐物となりこみ上げる。それでもなお手鬼は容赦しない。
「匂いだけに頼ってんじゃねえよ! 鬼は地上だけじゃねえ、上からも地面からも出てくるぜェ!!!」
「はぁ……! はぁ……っ! つ、強い……」
地面にへたり込む炭治郎を圧殺するかのように、上から巨大な手が迫ってきた。炭治郎は息も絶え絶えながら、それでも慌てて身体を転がし難を逃れる。
だが、もはや呼吸もうまくいかず、身体が言うことを聞いてくれない。
「……チッ、ここまでか? まぁ、才能もねえのに頑張ったほうだぜ。テメェの根性がありゃあ、隠になってもそれなりにやっていけるだろ」
手鬼の声が炭治郎の耳に届くが、しかし炭治郎はそれに反応する余裕すらなかった。
今はとにかく、空気が必要だった。荒い呼吸を続け、肺に空気を送り込む。
単純な痛みや苦しさか、それとも悔しさか。
炭治郎の視界が、ぼんやりと歪んでいく。意識はもう、朦朧としはじめていた。
(そうだ……俺がここで負けても、トキジクの実で禰豆子は『あやかし』になれるんだ。この里の人たちに任せておけば、禰豆子はきっと、幸せに暮らせるんだ……)
炭治郎の脳裏には、様々な憧憬が浮かんでは消えていった。
幸せだった頃の禰豆子の姿が浮かぶ。笑い合ったこともあった。わがままを言われたこともあった。怒らせてしまったこともある。
(ああ。すまない、禰豆子……兄ちゃんは……)
炭治郎がトキジクの実を持ち帰れば、禰豆子は『あやかし』となれるのだ。
妹はきっと、この里に迎え入れてもらえるだろう。
巫女鬼たちと新たな家族となり、彼らと共に笑って暮らしていけるはずだ。
そこまで考えたとき。ふと、焦点の合わない炭治郎の視線が、巫女鬼の姿を捉えた。
否。
炭治郎の瞳には、花子の姿が映っていた。
――お兄ちゃん。
――お兄ちゃん、本当に、それでいいの?
花子の声が聞こえた。
幻覚かもしれない。幻聴かもしれない。
けれど、家族の声が、炭治郎の意思を急速に現実世界へと引き上げる。
無意識に炭治郎は、大きく呼吸を始めていた。肺に大量の空気が流れ込む。
血管に大量の酸素が送り込まれ、心臓の鼓動が、沸き立つように早くなる。
「……違う! 俺は、俺は、長男なんだ! 何があろうと、禰豆子を、人間に――!!」
「アァ?!」
ゆらりと、幽鬼染みた気配で、炭治郎は立ち上がった。
視線は朦朧と、しかし真っ直ぐに手鬼の姿を見据えていた。
その心は、熱く燃えていた。
「フフフ、フフフフ!! 上等だぜ、竈門炭治郎!!!」
手鬼が笑いながら、幾つもの巨腕を炭治郎へと伸ばしていく。
一つ一つが巨岩のような破壊力を込めたそれを、まるで神楽を舞うような動きで斬り払う。
手鬼は見た。殺気すらない、もはや意識があるかどうかも怪しい炭治郎が、神楽の動きと共に己に接敵する姿を。
そして――。
『壱ノ型 水面斬り』
口から炎を吐き出すような呼吸のまま、炭治郎が真横に刃を振り抜く姿を。
◇ ◇ ◇
「み、見事……炭治郎の……勝利……ぷっ、くくくっふふっ」
修練場には、花枝の笑い声が響き渡っていた。
いや、笑い声を発しているのは花枝だけではない。他にも何人かの鬼たちが笑い転げ、あるいは必死で笑いを我慢している。
「わ、笑っちゃだめですよ、巫女鬼様……ぷっ」
「ゲッピ! こんな風景、もう一生見られねえぜ!! うへへへゲッピ!」
「頸なし鬼か、これはこれでなかなかの造形美かもしれんなあ!!」
「巫女鬼と百合鬼、それに河童鬼、一番爆笑してるテメェ等のことは覚えたからな! あと彫刻鬼はこっち見るな! 変なこと考えるんじゃねえぞ!」
未だ緑の異形姿の手鬼が、大声でわめき散らしている。
そして、その騒がしい手鬼の頭を、田中鬼が頑張って胴体に押し込もうと四苦八苦していた。
そう。手鬼の頸は、斬られていた。
「はぁ……はぁ……手鬼、頸は大丈夫か? なんだか……本当に、すまない」
「チッ。テメェはもっと胸を張りやがれ。錆兎でも、真菰でも、杏寿郎でも槇寿郎でもねえ。テメェは、最終選別で俺の頸を刈った唯一の剣士なんだからなぁ!」
心配げに自分を見遣る炭治郎に向けて、手鬼が強気に言葉を荒らげる。
だが、その内容は炭治郎への賞賛だ。
最後、不思議な動きと呼吸を見せた炭治郎は、水の呼吸の基礎となる壱ノ型――水面斬りによって、岩よりも硬いはずの手鬼の頸を根元から切断したのだ。
もっとも、そこには鬼と人間の大きな差があった。
頸を斬られたはずの手鬼は元気に頸を戻してわめき散らし、一方では手鬼を倒した炭治郎はボロボロで、今にも倒れそうだ。
「あ、ああ。よかった、げんき、そう……で……」
「わあ。倒れちゃった」
そうして、敗者である手鬼とは裏腹に。
勝者であるはずの炭治郎は、ゆっくりと、ゆっくりと。
荒れ地となった地面に、ずしゃりと倒れ込むのだった。