「お兄ちゃん、私は、お兄ちゃんと、一緒に……戦う、戦うよ……!」
「禰豆子! 頼むからそんなこと……言わないでくれ」
この日。
とある霧深い山の麓に、兄と妹による言い争いの声が響いていた。
それは、最終選別にて合格した竈門炭治郎が、師である鱗滝左近次の待つ狭霧山に帰った日のことである。
◇ ◇ ◇
「お兄、ちゃん……っ!」
「禰豆子、お前、起きて……言葉を……! 禰豆子、禰豆子ぉっ!」
鱗滝の庵にて炭治郎を待っていたのは、二年の眠りから目覚めた妹、禰豆子だった。その口から竹筒は外され、その瞳には理性の光を宿していた。
禰豆子は鱗滝の手によって、真菰が託していた『トキジクの実』を摂取し、炭治郎がトキジクの実を持ち帰るまでもなく既に『あやかし』となっていた。
それは決して、人間に戻ったというわけではない。人として生きられぬ身体であることには変わりない。鬼としての特性か、話す言葉にはどこか辿々しさが残っている。
けれど。
禰豆子は、それまでの記憶を取り戻していた。人としての理性を取り戻していた。
自身が鬼となっている間に、家族に何があったのか、そして炭治郎がどれほどの犠牲を払ってきたのかを、理解してしまっていた。
故に。炭治郎が
だからこそ、その夜に。
兄妹喧嘩が勃発してしまった。
「お、兄ちゃ……ん。私も、戦う! お兄ちゃんを、一人で戦わせたり……し、ないよ!」
「禰豆子! 駄目だ、鬼狩りは危険なんだ! お前は巫女鬼様たちの所で待っていてくれ!!」
それは、兄妹が互いに互いを愛するが故の衝突だ。
『あやかし』となり理性を取り戻した禰豆子を前にして、炭治郎は「どうか、藤襲山の隠れ里で待っていてほしい」と伝えたのだ。
しかし禰豆子は、決してそれに頷きはしなかった。
トキジクの実を摂取して、今の禰豆子は非常に強い力を手にしている。だからこそ、兄の任務に同行し、自身も兄と共に鬼と戦うのだと言う。それが禰豆子の願いだった。
双方ともに、相手が自分のことを思ってくれていることくらいは重々承知している。
そんな相手が愛おしく、大切だからこその、衝突だ。
「お前は、巫女鬼様たちの所に行けば安全に暮らせるんだぞ! あの人たちなら、絶対にお前を受け入れてくれるはずなんだ! なのに、どうしてそんな……」
「ううん。私は、お兄ちゃんと……一緒に、戦う……よ。私には、私には……もう、お兄ちゃんしか……いないんだもん!」
「禰豆子……」
二人は血を分けた兄妹だ。こうと決めたら真っ直ぐで譲らない意思の強さも似かよっており、互いに己の願いを譲ろうとはしない。
だが。最終的に勝利したのは禰豆子だった。
兄が死地へと赴くというのなら、それを支える存在でありたい。この力を、そのために使いたい。もう、自分には兄しかいないから。
禰豆子が涙ながらに語ったその言葉に、炭治郎はとうとう言葉を失い。
ただ、嬉しさも悲しみも、全ての入り交じった感情のまま。震える手で、ずっと、ずっと。
たった一人の家族となってしまった禰豆子を抱きしめるのだった。
◇ ◇ ◇
半月後。
刀鍛冶との間にも一悶着あったものの、炭治郎が己の日輪刀を手にし、鬼殺隊士として最初の任務を受けるそのときがやってきた。
漆黒の隊服に、禰豆子が隠れるための籠。それが、旅立ちの準備である。
「炭治郎。禰豆子。すでにお前たちのことはお館様に報告してある。もしこの先、お館様から禰豆子の同行を禁じられたならば……」
「はい。その時は、藤襲山――巫女鬼様たちのもとへと禰豆子を連れていきます。絶対に、鬼狩りには連れていきません」
旅立ちを前にして。炭治郎は真っ直ぐに鱗滝の目を見る。――とは言っても、鱗滝は相変わらずの天狗面だが。
真菰や錆兎からは、鬼殺隊士としてお館様の判断は絶対だと教えられている。そして、お館様は絶対に『あやかし』となった禰豆子を悪いようにはしない、とも聞いている。
ここでお館様の判断にまで反抗してしまえば、それはきっと鱗滝や兄姉弟子たち、そして巫女鬼を始めとした隠れ里に住む者たちの立場も危うくなるのだろうと理解している。
だからこそ、炭治郎は真剣に頷いた。
「ならば、禰豆子。お前もそれで良いな?」
そして、禰豆子。
あやかしとなった彼女だが、昼間は『身体を縮める』という特技を利用し、炭治郎の背負う籠に隠れて過ごすことになる。
「うん……わかったよ、お爺ちゃん!」
箱から顔だけ出した禰豆子は、キリリとした顔つきで、鱗滝へとこくりと頷いた。
「む……」
「お爺ちゃん?」
「いや、何でもない」
未だ人間の言葉はやや喋りづらいらしく、たどたどしい口調の禰豆子は、鱗滝を「お爺ちゃん」と呼び続けていた。
最後の最後までその呼称が変わらぬことに、鱗滝はいったい何を思ったのか。天狗面は鱗滝の心を教えてはくれない。
ただ唯一、横で優しく微笑んでいる炭治郎だけが、鱗滝の温かな心の匂いを感じ取っていた。
◆ ◆ ◆
一方そのころ、藤襲山の隠れ里。
炭治郎たちが旅立ちの準備を進めているのと同じ頃、『あやかし』の里の面々には新たな流行が訪れていた。
「こいこいですぞお! 手鬼よ、敗北時の得点を今から心配しておくがよいぞお!」
社家屋敷の一室に、手鬼と彫刻鬼が向かい合って座り込み、ちょうど彫刻鬼が力強く声を荒らげているところだった。
部屋の中央に座り込む二人の前には、何枚かの札が並べられていた。
十二ヶ月にちなんだ草花や動物の姿が描かれた札。これは『花札』だ。
手鬼と彫刻鬼の二人は、俗に『こいこい』と呼ばれる花札での真剣勝負の真っ最中であった。
「フフフフ、フフフッ、その余裕がテメェの敗因だぜェ彫刻鬼! ほうれ月見酒! こいこい!!」
「なにい!? おのれ手鬼、さすがにやるのう!」
順番に手札を出し、役を作っていくこいこい。
手札で役さえ作ってしまえばそこで勝負を終了させ、手持ちの役をそのまま自分の得点にできる遊びだが、彫刻鬼も手鬼も一つの役で試合を終了させず、そのまま続けて更なる役を積み重ねることにしたようだ。
あまり欲を出しすぎると勝利が遠のく遊びではあるが、彫刻鬼と手鬼は両者ともに欲を出しているので、その試合はなかなかに実力の均衡した好勝負となっていた。
◇ ◇ ◇
「たまには皆でこういう遊びも楽しいものですね」
「労働を賭けているから、手鬼たちは結構本気で熱くなってますけどねー」
そんな様子を見ながら、花枝は横に立つ百合鬼に話しかける。
百合鬼は明治の終わりに上弦の弐との戦いで受けた傷も完全に癒えており、今はもう後遺症ひとつなく、手足の先まで再生して元気いっぱいだ。
室内では未だ、手鬼が勝ったかと思えば次の試合では彫刻鬼が勝ち、といった具合で、一進一退の勝負が続いている。
花札といえば賭博ごとというのはお約束だが、この隠れ里に貨幣の概念などない。なので、彼らが賭けているのは労働だ。
今回の手鬼たちは畑の芋掘り作業を賭けているため、両者とも必死である。いかに体力が有り余っている鬼といえど、労働を押しつけられるのは御免被るのだ。
「花札を思い出させてくれた炭治郎には感謝しないといけませんね」
「炭治郎、真面目そうだったけど耳飾りはハイカラでしたねー。花札の耳飾りって、町では人気なんですか?」
「違いますよ百合鬼。わたしの推理によれば、あれは日の呼吸の剣士――継国縁壱にあやかった飾りなのだと思いますよ。鬼殺隊で流行っているに違いありません」
「ああ、煉獄家の先祖の日記帳でしたっけ。お伽噺みたいな呼吸が書かれているっていう」
「縁壱と同じ飾りをつけることで、いつかは日の呼吸の使い手に成長したいという、剣士たちの願いのこもった御守りなのでしょうね」
「なるほどねー」
どうして今ここで花札が流行の遊びと化しているのか。
それは偏に、花枝たちの雑談の通りで、先日ここに訪れた少年――竈門炭治郎が付けていた耳飾りにある。
花札のような絵柄の耳飾り。それは、過去の炎柱の日記で読んだ日の呼吸の使い手、継国縁壱の耳に付けられていたものと同じものだった。
きっと、縁壱は大正の鬼殺隊にも語り継がれており、あの耳飾りはそんな縁壱にあやかって制作されたものに違いない。
それが花枝の推理である。花枝は推理小説も読んでいるので、推理力には自信があった。
「縁壱は、千八百に分裂した鬼舞辻無惨のうち、千五百を一瞬で切り裂いたんですよ。すごいですよね」
「鬼舞辻無惨が千八百に分裂っていうのも意味がよくわかりませんけど、一瞬で千五百を切り裂ける人間がいるわけないじゃないですか。巫女鬼様、騙されてますよそれ」
「うーん、言われてみれば、ちょっと誇張表現が過ぎますね」
冷静に考えれば、いくら剣術を磨こうが、呼吸がすごかろうが、いくらなんでも炎柱の日記に書かれた縁壱の行いは、人間離れがすぎる。
なので、花枝と百合鬼は「過去の炎柱が事実を誇張し大袈裟に書いたのだ」ということで納得し、縁壱についての話題を終わらせるのだった。
なお、室内で繰り広げられていた花札合戦は、最終的に手鬼の敗北で幕を下ろしていた。
◆ ◆ ◆
――花枝たちが花札に興じていた日から、時間にして数日後。
花枝が噂をしていた相手である竈門炭治郎はいま、任務で「鬼がいる」と噂されていた東京、浅草へとやってきていた。
炭治郎も人から話を聞いたことはあるし、新聞などで情報は知っていた。大都会は夜でも明るく照らされ、多くの人々がその街に集っているのだと、知識としては知っていた。
だがやはり、いざこうして実際に目にすると、まるで見知らぬ異国を訪れた気分になる。それこそ、家族とともに山の中で暮らしていた炭治郎にしてみれば、この浅草はまるで別世界だった。
とてもではないが、こんな場所に鬼が現れたら凄まじい被害を生み出してしまうだろう。そこは、そんな確信を持つに値する街だった。
そして。
その浅草で炭治郎が邂逅したのは、ただの鬼ではなかった。
「鬼舞辻無惨! 俺はお前を逃がさない、どこへ行こうと――」
鬼の首魁であり、全ての悲劇の元凶――鬼舞辻無惨。
多くの人々が行き交う大通りで、炭治郎は出会った。出会ってしまった。
しかし、無惨は罪もない男性に己の血を注ぎ、何事もなかったかのように街を歩いていってしまう。
「地獄の果てまで追い掛けて、必ずお前の頸に刃を振るう!!」
「お兄ちゃん……!」
鬼となった男性を炭治郎が押さえつけ、遠くからは炭治郎のもとへと、屋台のうどんを食べ終えた禰豆子が駆けてくる。
だが、その間にも鬼舞辻無惨は人混みの中へと消えていく。
「絶対に――お前を許さない!!」
目の前で容易く行われた非道に、怒りを燃やして。
今はただ、炭治郎の義憤の叫びだけが、浅草の人混みの中で轟き続けていた。
◇ ◇ ◇
そして。
「珠世様、気をつけてください。あの女、鬼ですよ」
「ええ。けれど、彼女はどうやら私たちとは違う『なにか』のようです」
「どうするんですか? 俺はあれに関わるのは反対ですが」
「私は……」
鬼と化した男性を守り続ける炭治郎と禰豆子。
その兄妹の姿を、女性と青年の二人組が、じっと。
見定めるかのように、闇から見つめているのだった。