「『あやかし』ですか。俄には信じられませんが、真実なのでしょうね」
「私、トキジクの実を食べ、て……全部思い、出しました! うどんも、食べまし……た!」
炭治郎の目の前では着物姿の女性が、静かに考え込んでいた。
ここは浅草の仲見世通りから少し歩いた先にある、とある屋敷内。目の前の女性――珠世の隠れ家である。
浅草で鬼舞辻無惨と遭遇した炭治郎たちは、鬼と化した男性が人を殺さぬよう彼の身柄を押さえ込んでいたのだが、そこに手を差し伸べてくれたのが珠世と、その付き人の少年、愈史郎だった。
驚いたことに、彼らは鬼でありながら鬼舞辻無惨の呪いから解放されたものたちだった。
珠世の屋敷に招かれた炭治郎は、彼女らのいきさつを聞き。そして自分たちも、これまでの経緯を語って聞かせたのである。
「そして、これがその『トキジクの実』です。俺はこの一つしか持っていないんですが」
「珠世さま! この蜜柑を調べれば、俺たちも……!」
「愈史郎、落ち着きなさい」
珠世は、炭治郎に対し「鬼を人間に戻すことは可能である」と言っていた。そのためには鬼舞辻無惨により多くの血を注がれた強い鬼の血が必要だという話も聞いた。
そしてその情報と引き換えに、炭治郎は『あやかし』と『トキジクの実』について珠世に語って聞かせることにした。
炭治郎が持っているのは、藤襲山にて巫女鬼から直接もらったものだ。禰豆子に食べさせるようにと渡されたものだが、当の禰豆子はすでに真菰が持ち寄った『トキジクの実』を摂取しており、ひとつ余ってしまったのだ。
もちろん、この情報は見ず知らずの者に語って聞かせていい話ではないということは理解している。
だが、炭治郎には目の前の珠世が邪悪な鬼ではないという確信があった。人間の血を必要とはしているものの、炭治郎の嗅覚に伝わる彼女のその在り方は『あやかし』たちに近いものであった。
そして、彼女たちの助けになりたいとも、思った。
だからこそ、炭治郎は彼女を信じて全て話すことにした。
◇ ◇ ◇
しばしの考察の後、珠世は顔をあげて口を開く。
「炭治郎さん。よろしければ、その実を私に譲っていただけませんか?」
珠世の申し出は当然のものである。
炭治郎はまっすぐな瞳で、珠世と見つめ合う。横で何故だか愈史郎が顔を赤くして怒っている。
「先ほどの男性のこともありますが、その実を研究すれば、鬼を人に戻す薬への近道となるかもしれません」
「……すみません、珠世さん。このトキジクの実は、巫女鬼様が俺を信頼し、預けてくれたものです。軽々と第三者に渡すわけにはいかないんです」
「な?! 貴様、だったらなんで取り出した! 見せびらかしたかったのか!」
「えっ、お兄ちゃん……?!」
どうやら、炭治郎がすぐに実を渡すものだと考えていたのだろう、愈史郎は怒りを隠さず今にも炭治郎に飛びかからんとしている。横で話を聞いていた禰豆子ですら、兄の言葉に驚いた顔をしているほどだ。
だが、炭治郎は珠世から視線を逸らさない。
炭治郎の心の中には、葛藤があった。巫女鬼から託されたものを、勝手に他者へと譲ってしまっていいのか。それが真に正しい行為と言えるのか。この実を渡すことで、本当に人々が救われるのか。
「ですが。俺は、先ほどの男性を救うと言ってくれた珠世さんを信じたい! だから……」
愈史郎も、禰豆子も、炭治郎の言葉の意味するところに気づき、口を閉ざす。
「巫女鬼様の信頼を、あなたも決して裏切らないと、絶対に、絶対に! 誓ってください!」
「……わかりました。かけられるものなどない身ですが、この私の誇りにかけて――誓いましょう」
数秒ほど、張りつめた空気の中で見つめ合ったあと。
炭治郎は口元にわずかな微笑みを浮かべて、トキジクの実を珠世へと差し出した。
「この実を研究すれば、私たちの研究もさらに前進するでしょう。ですが……」
その時。
屋敷の屋外から、何かがバキリと割れる音がした。
「いまは、この実を悠長に調べている場合ではなさそうですね」
「珠世さま!」
瞬間。
壁の一部が吹き飛んだ。
最初にそれに気がついた愈史郎が珠世に覆い被さるように庇う。
炭治郎が何事かと顔を上げれば、壁には一つの大穴があいていた。そしてそこから見えるのは、一組の男女。
一見すれば、着物姿の少女と、首に数珠をかけた少年の二人組だ。だが、その瞳は――『鬼』のそれだった。
「キャハハ! あの鬼、私の鞠を素手で取るとは、面白いのう!」
「やれやれ。朱紗丸、いきなり防がれるとは実に情けない……」
「貴様がうまく矢印で動かさぬのが悪いのじゃぞ!」
大穴のあいた壁の前では、表情を怒りに染めた禰豆子が仁王立ちになり、両手で何かを受け止めていた。
禰豆子の両手の中でプスプスと摩擦で焦げ付いているのは、一見すれば他愛のない『鞠』だった。その他愛のない鞠が、大砲の如く、壁を貫く勢いで投げ込まれたのだ。
「禰豆子……!」
「お兄ちゃん、戦う……よ!」
浅草の隠れ家にて、矢琶羽、そして朱紗丸という、鬼舞辻無惨が放った刺客との激闘が。
いま、始まった。
◆ ◆ ◆
炭治郎が浅草で鬼たちと激闘を繰り広げている頃。
「わあ。ものすごく伸びますよ、このお餅」
「巫女鬼、テメェはいったん箸で餅を千切ってから食えよ。喉に詰まるぞ」
「いやですよ、風情がないじゃないですか」
「巫女鬼様はお口が小さいんですから、せめてよく噛んで食べてくださいね? 喉に詰まっても鬼だから死にはしないと思いますけど」
これは、包丁鬼と田中鬼が先ほどまで境内でぺったんぺったんとついていた餅だ。住民たちは饅頭大の大きさに千切った餅を受け取り、思い思いの食べ方で味わっていた。
外に置かれた長椅子では、筆鬼と風見鬼が餅についての短歌や詩を詠み上げながら餅を食べている。建物の中では、モグラ鬼と彫刻鬼が談笑しつつ、醤油と海苔をつけた餅を味わっている。
蟲鬼と河童鬼はきな粉派のようだ。この里でとれた緑豆から作られたきな粉もどきをまぶした餅を勢いよく食べ、二人そろって豪快にむせていた。
そして、花枝はもちろん、みたまや餡をつけた餡ころ餅だ。横に座る手鬼と百合鬼もお揃いだ。
「それにしても、炭治郎の妹――禰豆子は全然やって来ませんね。むぐむぐ」
「炭治郎の野郎、妹にトキジクの実を食わせそこなったんじゃねえだろうな」
「鱗滝さまが妹を見ていてくれているはずですし、そんなヘマはあり得ませんよ」
「テメェのその鱗滝への絶対的な信頼はなんなんだよ」
石段に座りながら食べていると、正面にはこの隠れ里の入り口である鳥居が見えるが、鳥居の向こうから客人が訪れる気配は一切ない。
餡ころ餅をむぐむぐと頬張りながら、花枝はぼんやりとつぶやいた。
花枝はてっきり、トキジクの実を食べて『あやかし』となった禰豆子が、すぐにでもこの藤襲山へとつれて来られるものだとばかり考えていたのだ。
禰豆子のことは鱗滝が診ているはずなので、万が一でも禰豆子が暴れてトキジクの実を食べさせられないなどということはあり得ない。花枝はそう確信していた。
「巫女鬼様、私はその『鱗滝さま』を実際に見たことはないんですけど、その人ってそんなに凄いんですか? 言ってはなんですけど、江戸時代の柱ならすでにもう、かなりお年を召されてますよね?」
「ええ。鱗滝さまはですね。
「……」
花枝は問いかけるように語るが、百合鬼も手鬼も反応なく、無言である。
会話が止まり、三人が餅を咀嚼する音だけが響く。
最後の餅をゆっくり咀嚼し、ごくん、と餅を飲み込んで。
ようやく花枝は言葉を続ける。
「それに、私が危ない目にあっていたら、助けに来てくれると約束してくれたんです」
「な、なるほど?」
「完全にその約束は守られてねえけどな」
そしてやはり、続いて語られた話も、決して『鱗滝のすごい所』とは思えない内容だった。
花枝の記憶の中には他にも鱗滝の思い出はいくつかあるのだが、百合鬼も手鬼も、花枝がいったい鱗滝のどこをそこまで評価しているのか、わからなくなってきた。
なので、百合鬼は話題を戻した。これ以上、意味不明な鱗滝の話を続けられてはたまらない。
「ええと、そうだ、禰豆子ですよね? 禰豆子ちゃん。今頃どこで何をしているんでしょうね」
「そうですねえ。今度またヤタガラスに遠出してもらって、炭治郎の様子を確認してきてもらいましょうか。炭治郎がどこにいるかは分かりませんが、ヤタガラスならどうにかなるでしょうし」
どこかでヤタガラスが『ヤメロ! ヤメロ!』と騒いでいる気がしたが、花枝は気にしない。
「つーても、よくよく考えりゃ『あやかし』になったからってこの里に来なきゃならねえわけじゃねえしな。どこかで元気に遊んでるんじゃねえか?」
「わあ、そう言われてみると、確かにそれもそうですね」
手鬼の言葉には、花枝も感嘆の声をあげる。
言われてみればその通りで、鬼として鬼殺隊に捕らえられ山に放り出された自分たちと違い、禰豆子はまだ鬼として捕らえられたわけではない。
ならば、わざわざこの藤の牢獄に入る必要などはないのである。
「禰豆子がお友達でも作って楽しく遊んでくれているのなら、それが一番ですね」
◆ ◆ ◆
花枝たちが禰豆子の噂話をしているまさに同時刻。
禰豆子は一見同年代にも見える少女相手に、鞠を受け、防ぎ、避け。蹴り返し、投げ返し、隙を見て殴る蹴るを繰り返す、という白熱した遊びの真っ最中だった。
否。
鞠が飛び交ってはいるものの、これは鞠を使った遊びなどではなく、かなり過激な暴行を伴う戦いであった。
「はぁ、はぁ……禰豆子! 珠世さん! 愈史郎さん、無事ですか!」
「来たか炭治郎、珠世様は無事だ。それよりお前、なんなんだあの妹は! 本当にあれは鬼になりたてなのか!」
矢琶羽という、ものの力の流れを自在に操る恐るべき鬼と激闘を繰り広げていた炭治郎が、息を切らして禰豆子たちの元へと戻ってくる。
すると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
「なんじゃ、なんじゃ貴様は!! 人も食っていない鬼がどうしてそこまでの強さを発揮できるんじゃあ!! くそぉ、くそぉぉぉ、私の鞠を返せぇ! いや、嫌じゃああ!!!」
「私は、ちゃんと、ご飯……を、食べてるから! うどんも、食べたんだ……よっ!!」
「このぉ、くそぉぉおぉおお!!!」
阿修羅の如く六本腕の異形と化した少女の鬼――朱紗丸が、血だまりの中で禰豆子に完全に押さえ込まれていた。周囲には鞠が転々と落ちているが、朱紗丸の手は届きそうにない。
泣き喚く朱紗丸の衣服は血まみれだ。
腹に大穴でもあいているのか、出血がすごい。六本あった腕もその殆どがひしゃげ、あるいは肘から先が失われ。既にまともに動かせるのは一、二本といったところだろう。
朱紗丸はもう、回復が間に合っていない。もしくは、回復に回す力もすでに使い果たしたのかもしれない。
「これは……いったい何があったんだ」
「あの鬼とお前の妹の戦いの痕だよ。野蛮にも程があるだろう」
炭治郎があたりを見渡せば、周囲の木々はへし折られ、地面もあちこちが抉れていた。珠世の隠れ家の壁はぼろぼろに崩れ落ち、ひどい有様だ。
そして、その全てにおびただしい量の血痕が染みついており、思わず目を背けたくなるほどに凄惨な風景だった。
その血痕は決して鞠を持った鬼、朱紗丸だけのものではない。
禰豆子もまた衣服のあちこちが破れ、血まみれだった。すでに肉体は回復しているようだが、かなりの怪我を繰り返したのだろう。
炭治郎がいない間にどれほどの凄惨な戦いがあったのか。この光景を見るだけでも、想像に難くない。
「驚きました。戦い方の相性の差はありましたし、先程の話で『あやかし』はかなりの強さだと伺ってはいましたが、これほどとは……」
炭治郎が修羅の如き妹の姿に呆然としていると、横から珠世の声がかかり、ようやく我に返る。
「炭治郎さん。これを試させていただいてもよろしいですね?」
「あ、はっ、はい!」
それは、トキジクの実だ。
ものとしては蜜柑なので、皮を剥いた中には薄皮に包まれた小さな房がいくつか入っている。
珠世はそのうち、三分の一程度を丁寧に取り分けると、ゆっくりと。
力なくうなだれて泣いていた朱紗丸の口に、ねじ込んでいく。
「これだけ血を流しているならば、忌まわしいあの男の血もだいぶ薄まっているでしょう。実験台にはちょうど良い」
「うむぐっ?! 何をするんじゃ、何をするんじゃあ!! 嫌、いやだ、私は、私は……わた、し……は……」
血だまりの中で。朱紗丸はイヤイヤをするように首を横に振り、トキジクの実を拒否しようとする。
だが、禰豆子に散々痛めつけられ血を流した朱紗丸は、もはやそれに抵抗するだけの力すら失っていた。
朱紗丸はごくんとトキジクの実を飲み込み、しばらくの間もがいていたが、いつしかそのまま瞼を閉じて眠りについた。
「……本当に眠りましたね。あとは私がこの鬼を拘束し、経過を観察しましょう」
「ふん。殺されずに珠世様の実験台になれるとは、実に幸運な鬼だな」
珠世は朱紗丸の血液を注射器で吸い取ると、懐に入れていた小箱にしまい込む。
横では愈史郎がてきぱきとロープを取り出して朱紗丸の身体を縛り付け、その上から彼の血鬼術の紋様が描かれた紙をぺたぺたと張り付け始めた。
一方、朱紗丸相手に勝利してみせた禰豆子は元気な笑顔を見せている。
その着物はぼろぼろになり、何カ所も裂けている。炭治郎がいない間にも、かなり激しい戦いがあったことは想像に難くない。だが、肉体そのものはすでに回復しており、露わになった素肌には傷一つなさそうだ。
「ほら、お兄ちゃん……やった、勝ったよ」
炭治郎は両手を広げて、少しだけ疲れを見せている禰豆子を迎え入れ、その身体を優しく抱きしめる。
「禰豆子、すごいぞ、えらいぞ! 薄々分かってたけど、ものすごく強いんだな。俺が長男なのに」
禰豆子を褒め称える炭治郎の瞳には、喜びと、安堵と。
そして。
「俺も、もっと長男として頑張らないと!」
という、長男としての熱く燃える炎の色が、瞳の奥に浮かんでいるのだった。