――那田蜘蛛山。
鬼の家族が支配していたこの山はいま、多くの者たちの苦痛の呻き声と、鼻につく鉄錆のような匂いの充満する、小さな地獄となっていた。
多くの命が喪われた。犠牲となったのは、勇敢に最後まで戦い続けた数多くの鬼殺隊士たちだ。
だが、彼らが繋げた力によって、十二鬼月――下弦の伍・累は討伐された。
下弦との戦いにおける功労者は名も知らぬ一般隊士と、竈門炭治郎。そして炭治郎の妹である鬼、竈門禰豆子。
気配を消すことに長けたとある隊士。彼が子供姿の鬼である累を過剰に警戒し、意図せず囮となって累に追い掛けられることで、炭治郎たちは容易に累の背後をとることができた。
炭治郎が下弦の伍との戦いで使ったのは、竈門家に代々伝えられてきた火の神を祀る演舞――ヒノカミ神楽。隠れ里の手鬼との戦いの決着時に炭治郎が見せた神楽である。
あの時は無意識で動いていたため、自身で気付くのに長い時間を要してしまったものの、今では炭治郎はこの神楽が鬼狩りの呼吸である可能性に気付き、鬼との戦いの中でその練度を上げてきた。
更には禰豆子が『あやかし』の膂力に加えて、鬼の呪いを浄化する力をもった炎の血鬼術『爆血』を開花させた。鬼たちの様々な力を焼き祓うその炎は、鬼との戦いにおいて切り札ともなり得る力であった。
それらの力によって累に対し優位を維持したまま、炭治郎たちは、彼を討伐寸前まで追い詰めた。
十二鬼月を討てる。
炭治郎がそう思ったのもつかの間。彼は累の討伐を目前にし、惜しくもヒノカミ神楽による心肺機能の限界を迎えて崩れ落ちる。
禰豆子の救援も間に合わず、あわや『炭治郎 死す』といった場面で駆け付けたのは、水柱・真菰だった。
そして、真菰が振るった一閃によって。無事に、下弦の伍の討伐は成された。
だが、物語はここで終わらない。決して、炭治郎に安堵の時は訪れない。
禰豆子は確かに、炭治郎とともに多くの隊士たちを救い出した。十二鬼月と戦い、敵を追い詰めた。それらは間違いなく賞賛されるべき行動であり、戦果である。
けれど、けれども。
多くの隊士の前に姿を見せていた禰豆子は――本来、決して鬼殺隊に見つかってはいけない『鬼』なのだ。
◆ ◆ ◆
ヒノカミ神楽の反動による苦痛に顔を歪ませながらも、炭治郎は身体を無理矢理動かし、妹の禰豆子を庇うため、彼女に覆い被さっている。
一体何から庇おうとしているのか?
それは、新たにこの場へとやってきた女性、鬼殺隊蟲柱――胡蝶しのぶからである。
そして、しのぶから禰豆子を庇っているのは炭治郎だけではない。
炭治郎の姉弟子でもある水柱、真菰がいま、胡蝶しのぶの前に立ちはだかっていた。とてもやりづらそうに、困った顔をして、しのぶの動きを制している。
「ごめんね、しのぶちゃん。そこの子を討伐させるわけにはいかないの」
「なっ……?! 真菰さん。あなたの背後にいるのは鬼です! なんで、邪魔をするんですか!」
「うん、鬼だよね。まあ、当然そういう判断になるよねえ」
炭治郎は、動けない。
もちろんヒノカミ神楽の反動で動けないというのもあるが、それ以上に、いまの状況が炭治郎に動くことを許してくれなかった。
炭治郎は、禰豆子に覆い被さったまま、どうにか顔だけをあげて目の前でぶつかり合う柱同士の対峙を見つめていた。
柱の中では恐らく一番戦闘力に恵まれていないはずの蟲柱。それに立ち向かう、いつも優しく微笑みかけてくれた姉弟子、真菰。彼女らは、決して互いに日輪刀を相手に向けているわけではない。しのぶの刃の矛先はあくまで禰豆子であり、真菰はそもそもしのぶに刃を向けてはいない。
だというのに、そこには明らかに、『剣気』と呼ぶべきそれが、漂っていた。
真菰は今まで何度か修行を付けてくれた姉弟子なので、炭治郎は彼女の実力を知っているつもりだった。けれど炭治郎は今、自分がどれだけ彼女に手加減されていたのかを理解した。一切の隙を感じさせない真菰の佇まいに、圧倒されていた。
ごくりと唾を飲む。緊張の汗が頬を伝い、炭治郎の素肌を流れ落ちる。炭治郎の首筋に、冷たい感触が触れる。
禰豆子もまた、同様だ。
彼女は炭治郎よりも身体能力に恵まれており、累に負わされた数多の裂傷もすでに完治している。
だというのに。禰豆子は今、動けない。むしろ「いまは下手に動いてはならない」と、その理性で理解している。
そうして炭治郎たち兄妹が冷や汗とともに硬直している間にも、柱たちのひりつくような会話は続く。
「その鬼を放置してはそこの男の子が危険なんです! 真菰さん、どうして鬼を庇うような真似をしているんですか! これは……隊律違反どころではありませんよ!」
「うーん、状況だけ見れば間違いなくそう見えちゃうよね。ちゃんと説明するとそれなりに長くなるんだけど、しのぶちゃん、聞いてくれる?」
「……手短に」
「じゃあ、一言で言う。この子はすでに『トキジクの実』を食べてるの」
ドクン。
まるで炭治郎にも、蟲柱の――しのぶの心臓が撥ねる音が聞こえた気がした。
それくらい、しのぶの強い『動揺』が、匂いで伝わってきた。
「『トキジクの実』の研究をしているしのぶちゃんなら、その意味が理解できるよね?」
「そんな……え、いや、でも! だとして、どうしてそんな子がここにいるんですか! 姉さんは、姉さんは知っているんですか!?」
炭治郎に、しのぶの怒り――いや、混乱に近い感情が匂いとして届く。
言動からしてかなり気が短い女性だということはわかっていた。しかし、先程までは禰豆子に対する『鬼への憎しみ』で染まっていたその怒りが、今では別な感情にすげ変わっている。
それはどこか、愛情を伴う怒りと、それに悔しさが入り交じったような、とても複雑な匂いだ。そしてその矛先は、目の前にいる真菰へと向けられている。
「んー、カナエちゃんに教えたのも、つい最近だよ。今頃はすでに把握してると思うけど」
「……っ!! もう、もう!! なんなんですか、私だけいつも蚊帳の外でっ!!」
しのぶの怒りは、今度はこの場にいないカナエという女性にも向けられている。なんだか怒りっぽい女性だなと、炭治郎は心の片隅で思う。
だが、幸いにも。禰豆子への憎しみというものは、すでに霧散しているようだ。
そこでようやく、炭治郎は二人に向けて声をあげる。
「あの、すみません……」
「なに! なんですか!」
しのぶはぷりぷり怒っている。
だが、すでに彼女の日輪刀は禰豆子に向けられていないため、これはあくまで殺意の伴わない通常の怒りである。
そこで、炭治郎はおずおずと。現状を伝えていく。
炭治郎のすぐ横で。薄く笑ったままの、ほぼ無表情な少女が。
先程からずっと、炭治郎の首筋に日輪刀の刃を当てている現状を。
「この子が、ずっと俺を殺そうとしてるんですけど」
「ああっ! カナヲ、いいんです、刀を下ろしてください!」
少女の名は栗花落カナヲ。
最初に「規律違反の少年と彼が連れている鬼を無力化せよ」と指示を出されていたため、ずっと。
彼女は指示通りにただ、炭治郎の首筋に刃を押し当て、動きを封じていたのだった。
それと――。
「ごめんね禰豆子。あなたのことは私が絶対に守ってあげるけど、少しばかり辛い思いをするかもしれないから、許してね……」
「う、ん。わかったよ、真菰お姉ちゃん」
どさくさに紛れて。
真菰が小さく禰豆子に耳打ちをしたのだが、それを聞いていたのは禰豆子だけであった。
◆ ◆ ◆
「炭治郎。いつまで寝ている。さっさと起きろ」
そのような、那田蜘蛛山の死闘から明けて次の日。
炭治郎はあの後、鎹鴉から指令を受けて新たにやってきた隠たちに背負われ、あれよあれよという間に見知らぬ遠い土地まで運ばれていた。
その道中で、疲労が祟り眠りに落ちていた炭治郎だったが、耳元で聞き覚えのある声が響き、薄らと覚醒していく。
「炭治郎。もう鬼殺隊の本部だから、しゃきっとしてね」
「う……あ、錆兎さんに真菰さん……? こ、ここは?」
男性に続いて女性の声。炭治郎がよく知る二人の声に、深い眠りについていた意識が引き上げられる。
どうやら今は、どこかの地面に直接寝かされていたようだ。日の光の眩しさに目を細めてから、ゆっくりと炭治郎は上体を起こして周囲を見渡す。
炭治郎が寝ていたのは、白い石の敷き詰められた庭園――白州のような場所だった。そして声の主はやはり、狭霧山で何度か修行をつけてくれた兄姉弟子たちだ。
そして、眠る炭治郎を覗き込んでいたのは、兄姉弟子たちだけではない。
昨晩初めて顔をあわせたはずの蟲柱――胡蝶しのぶもまた、どこかむすっとした顔つきで、炭治郎を覗き込んでいた。炭治郎の嗅覚が、彼女の中の怒りと、それと同じくらいに何かしら苦悩しているような感情を伝えてくる。
「ここは鬼殺隊の本部で、ここにいるのは柱たちです。あなたは今から柱による裁判を受けることになります。事情がどうであれ、鬼を連れて歩いていたのは規律違反どころではありませんから」
「あ、あの、俺が違反していたことは事実で、処罰を受け入れる覚悟はあります! でも……妹は、禰豆子は助けてあげてください! 妹は本当に人間なんて食べていなくて――」
「黙りなさい!」
炭治郎の言葉は、怒りを隠そうともしないしのぶに止められた。
「真菰さんの顔を立てて優しくしてあげていますけど、あなたはまだ発言は許されていません。自分の立場をわきまえてください」
「……はい」
しのぶは、怒りながらも正論を叩きつけてくる。
ここは鬼殺隊本部であり、この場にいる集団は鬼殺隊の柱なのだという。
立場をわきまえろとは全くのその通りであり、炭治郎はぐうの根も出ずに、しょんぼりして頷くしかないのだった。
そして、そんな炭治郎の姿を眺めていた者たち。
彼らこそが、この鬼殺隊における最強戦力。すなわち、柱である。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……なんと可哀想な子だ。悲しみで気が狂ってしまったのだな。我が手で終わらせてやらねば」
数珠を手にし、首にも巨大な数珠を巻いた巨漢。彼は涙ながらに念仏を唱えながらも、なかなかに物騒なことを呟いている。
「そいつが十二鬼月を相手にド派手に立ち回ってたっていう隊士か? 鬼だっていう妹も那田蜘蛛山じゃド派手に暴れてたらしいじゃねえか、オイ。もちろん死刑の前に、どういうことだか聞かせてくれるんだよなあ?」
巨大な宝石のようなものをはめ込んだ鉢金と、目元の奇抜な化粧で身を飾った男性は、なにやら楽しげに炭治郎を眺めていた。
その物騒な言動からして『ド派手』なものが好きなのだろうと炭治郎にも伝わってくる。
「話はすでに聞いている! 妹が人を食っていない鬼だというのなら、俺が今すぐにでも
「何も終わりではないぞ杏寿郎。あの錆兎の顔を見てみろ、あれはあいつが俺たちに何か隠し事をしているときの顔だ。この重大な時に、あいつは俺たちに何か隠しているんだぞ。許せないとは思わないか? 俺は許せない。錆兎を吊るし上げる裁判をしたいくらいだ」
黄色と赤のド派手な髪色の男性と、白蛇を頸に巻いたド派手にねちっこい男性が言葉を交わしていた。
会話の内容からして、彼らは
「あ、鳥」
見たところ、炭治郎より若そうな少年もいるが、何を考えているのかわからない。
もしかしたら何も考えず、鳥を眺めているだけなのかもしれない。
そして、柱といえば。
炭治郎のすぐ側にいるこの二人も『柱』であるはずだ。
「炭治郎。あなたは私たちの弟弟子だから今回は私と錆兎は発言権がないんだよ。ごめんね」
「男なら何があろうが腹を括れ、炭治郎」
「真菰さん、錆兎さん。俺は、俺はいいんです。でも、禰豆子は……!」
炭治郎は、気心の知れた二人に小声で訴える。
自分はいいのだ。鬼殺隊において「鬼を連れて歩く」ということがどういう意味なのか、それがわからぬほど愚鈍ではない。禰豆子を連れ歩くことは当然禁止されるだろう。隊からは除名されるだろう。もしかしたら拷問や、あるいは何人かの柱が言うように死罪といった罰があるのかもしれない。
さすがに死にたくはないし、拷問を受けたいわけでもないが、それでも。
炭治郎にとって、自分のことなど二の次だった。
禰豆子はどこだ。
禰豆子を探す。
炭治郎は必死に周囲に視線を巡らせるが、この場にはこの裁判の一番の焦点であるはずの、禰豆子がいないのだ。
心臓が早鐘のように鳴り響く。最悪の予感に胃袋がひっくり返りそうになる。吐き気とともに、手足がガクガクと震え始める。
禰豆子は、禰豆子だけは、己の何を犠牲にしても守らなければならないというのに。
それだけが炭治郎を突き動かす『全て』なのだから。
しかし、炭治郎の願いとは裏腹に、禰豆子はいよいよ危険な状態に陥っていた。
見るからに危険そうな目つきをした全身傷痕だらけで白灰色の髪をした男が、炭治郎のよく知っている箱を抱えてやってきた。
その箱は、禰豆子の部屋だ。炭治郎は匂いをはっきりと嗅ぎ分ける。今もまだ、禰豆子は箱の中で縮こまっている。
「オイオイ、鬼を連れた馬鹿隊士ってぇのはそいつかァ? 水と鋼のお二人さんは、身内だからって甘やかしてるんじゃねえだろうなァ。柱ともあろう者がよォ!」
炭治郎はその男からじろりと睨み付けられる。
自分の罰は理解している。とはいえ、真菰と錆兎までが嘲笑される筋合いはないと、炭治郎の表情に怒りが浮かぶ。
そうしている間にも、その男は色々と騒ぎ立てた上に、日輪刀を――箱へと向けて構えだした。
「……実弥くん。何をするつもりなのかな?」
「んなもん、こうするに決まって――」
男にやさしく問いかけたのは真菰だ。
口調は優しいが、炭治郎には分かる。真菰が怒っている。
そして、今この場で怒りの感情を覚えているのは、真菰だけではない。
男が箱に日輪刀を突き刺そうとしたその瞬間。
別な日輪刀が、甲高い音をたて男の刃を弾き上げる。そして、男の眼前に、細い――まるで西洋の突剣のような刀が突きつけられた。
「暴走するのもいい加減にしろよ、不死川」
「巫山戯ないでくださいね? 不死川さん」
男――不死川の刀を弾いたのは、静かに怒りを燃やしている錆兎。
そして、男に真っ正面から厳しい視線を叩きつけているのは蟲柱であるしのぶだ。彼女は先ほどは炭治郎を怒って黙らせた立場だが、それはそれとして不死川の好き勝手な蛮行には普通に怒っている。恐らく、根が真面目で、とても怒りん坊なのだろう。
そして最後。
「駄目だよ、実弥くん」
気付けば不死川が抱えていた禰豆子の箱を、真菰が音もなく近づき、奪い取っていた。
「……っ!! おいおい、ここには鬼の味方しかいねえのかよ、アンタらは鬼殺隊の柱だろうがよォ……!」
三人の柱に囲まれ、不死川は鬼のような顔つきを更に歪ませていた。
不死川の顔はもう悪鬼そのものであり、離れて見ていた炭治郎は恐怖で心臓がどくんどくんと鳴り響いているというのに、その場に揃っている他の柱たちはしかし、慣れているのか涼しい顔だ。
なんなんだこの人たちは、と。炭治郎が心の中で驚愕したところで――。
「三人とも、実弥を許してあげておくれ。彼は風柱として、人一倍『鬼殺』という使命に真剣に向き合っているだけなんだよ」
「っ!?」
その場に、静かで穏やかな、けれど圧倒的な存在感を持つ声が響き渡る。
そしてその瞬間、それまでばちばちと火花を飛ばし合っていた柱たちが全員、白州に一列に並び、片膝をついて跪いた。
「少年。君も同じように頭をさげるんだ」
「は、はいっ」
黄色と赤の髪色をした柱に言われ、炭治郎も見よう見まねで柱たちと同じ姿勢になり、顔を俯かせた。
先ほどの声の主は、さらりとした黒髪の、顔の半分がただれてしまっている男性だった。
(あれが、お館様……!)
不思議な声だった。
そして、不思議な存在感を持った人物だった。
彼の周囲には、恐らくその家族だろう女性や女の子がいるけれど、しかし炭治郎の意識はそのお館様――産屋敷耀哉に繋ぎ止められてしまったかのように、動かない。
「真菰。禰豆子とともにこちらへ来なさい。陽の差し込む場所では彼女が可哀想だ」
「御意に」
「お館様! その中身は鬼です! それを身近に運び込むなど……!」
禰豆子の入っている箱を抱えた真菰が壇上へと昇り、耀哉の背後の陰になる位置へと移動する。
それに激高するのはもちろん、柱の中でも一番禰豆子へと敵対心を向けていた風柱――。
「実弥」
「……っ、はい」
その名を呼ぶ声は、優しく、しかし。
絶対だった。
炭治郎の心臓は未だに鼓動をかき鳴らしていた。炭治郎は、目の前にいる人物の『大きさ』に、気圧されていた。
「では。本日の『会議』を始めようか。待たせている相手もいることだしね」
そんな炭治郎の内心などお構いなしに。
炭治郎と禰豆子にとって、大きな機転となる会議がいま、幕をあげた。