産屋敷耀哉の背後の物影にはいま、一人の鬼の少女――竈門禰豆子が大人しく座っていた。彼女の横には、万が一の事態に備え水柱である真菰がついている。
竈門禰豆子。一見しただけでは、その姿は普通の人間の少女と大差無い。ただ、見るものが見れば、その佇まいにはどこか『角姫』の面影を見たかもしれない。
杏寿郎や小芭内などは、籠から出てきた禰豆子の姿を見たときには、驚きで目を見開いていたものだ。
当の禰豆子は自身の立場を理解できており、静かに当主へと頭を垂れて。ただ、この場に集った者たちの言葉に耳を傾けていた。
そうして今は、禰豆子の姿をみて激高する風柱と、それを窘める産屋敷当主のやりとりを経て。
産屋敷家の娘たちが、元水柱である鱗滝左近次から産屋敷耀哉へと届けられた手紙を読んでいるところだった。
◇ ◇ ◇
『――禰豆子は強靱な精神力で人としての理性を保っています。
飢餓状態であったにも関わらずに人を喰うことなく、そのまま二年の歳月を眠り続けました。
そして、目覚めた時点で彼女はトキジクの実を摂取しており、現在は人と同じものを食べ、人と同じ理を理解する"あやかし"と成っております。
それでも、もし禰豆子が人に襲いかかった場合は。
竈門炭治郎及び、鱗滝左近次に連なる一門、その全員が
腹を切ってお詫び致します。』
◇ ◇ ◇
視線が、禰豆子の横に座る水柱・真菰に。そして白州の端で静かに傅いたままの鋼柱・錆兎に集まっていた。
彼らが鱗滝左近次の弟子であることは、この場の全員が知っていることだ。
そしてもちろん、鱗滝左近次の一門とは彼らだけではない。真菰に続く水柱の資格を得ている甲隊士の冨岡義勇。剣士になれずとも隠として活動している多くの兄弟子達。彼ら全員が禰豆子の存在を把握し、禰豆子のために命を懸けていた。
自分たち兄妹がどれほどの者たちの尽力で生かされていたのかを知り、炭治郎と禰豆子の瞳には、うっすらと涙が浮かぶ。
そして、しばしの沈黙の後に、ようやく言葉を口にする柱たちがいる。
「なるほどな、すでにトキジクの実で『あやかし』と成っていたわけか! ならばその少女は安全だ! 裁判はもう終了でいいだろう!」
「黙れ杏寿郎、なにもよくはないぞ。わかっているのか? 錆兎の奴め、そんな重要なことを俺たちに話さずにいたのだ。俺たちの仲だというのに、信頼されていなかったということだ。実に苛つく話じゃあないか。錆兎め、どうしてくれようか」
禰豆子に真っ直ぐなギラギラとした視線を送っているのは炎柱・煉獄杏寿郎。彼はもともと、禰豆子を自ら
一方、禰豆子ではなく白州の端にいる錆兎に視線を送っているのは、蛇柱である伊黒小芭内だ。
彼にとって、煉獄槇寿郎の下であたかも兄弟弟子のように扱われていた錆兎と杏寿郎の二人は、それぞれの育手こそ違えど、数少ない『信頼出来る身内』だったのだ。
それがまさか、このような重大な事案を隠されていたのだから、ネチネチが止まらなくなるのも仕方ないことである。当の錆兎は必死に小芭内から視線を逸らし、何も聞こえていないふりに徹していた。
「そういうことであったか、真菰よ……」
「へぇ、これはこれは、噂の『あやかし』とはねぇ」
岩柱は涙を流しながらも、見えぬ目で水柱である真菰へと視線を向けて。音柱は冷静に周囲の反応を観察して状況を分析している。
「……」
「……っ」
霞柱はほぼ無関心を継続し、蟲柱である胡蝶しのぶは、『あやかし』という存在への複雑な思いを抱き、表情を硬くしている。
そして、最後の一名。風柱――不死川実弥。
彼だけは、実直すぎるが故に。己の身が血に濡れた修羅道へ堕ちようと、なにより大切な
皮肉にも、恐ろしげな表情を更に歪め悪鬼そのもののような顔となり、叫びを上げる。
「ふ……ざけたことを! トキジクの実など、都合のいいお伽噺ではありませんか! いや、そもそもそこの鬼が『あやかし』とやらだとしても、そいつらが人間を襲わぬ保証にはなりはしません!」
彼はその過剰すぎるほどの想いが故に、やりすぎるところがある隊士である。常ならばそれでも、鬼を憎む彼を否定するものなど誰一人としていなかった。
だが、残念ながら今回は状況が違っていた。
彼が睨み、そして罵っているのは『鬼』ではなく『あやかし』だ。
頑なにそのような態度をとり続ける実弥を中心にして、柱合会議の場には剣呑な空気が漂い始める。
だが、そんな空気をおさえたのはやはり、産屋敷耀哉その人だった。
「そうだね。『あやかし』だからといって、それは彼女が人を襲わぬことへの保証にはならない」
「ならば!」
「けれど、実弥。それは『人間が人間を襲わぬという保証はない』のと同じことなんだよ」
「なっ……!! 」
耀哉の圧倒的に優しく穏やかな声は、実弥にとっては残念なことに、いまそこにいる鬼――禰豆子を庇うものだった。あげく『あやかし』を人間と同列に扱うものだった。
実弥は言葉を失い、しかしすぐに無礼を承知で、耀哉へと反論を返す。
「……お館様、呼称がなんであれ、そこにいる竈門禰豆子は人間ではない化け物です! 何故そこまでその化け物を庇うのですか!」
「そうだね。これは完全に産屋敷家の問題なのだけれど――。産屋敷家は、彼女の身内に大きな借りがあるんだ。だから、せめて私は今回、禰豆子を守ってあげたいんだよ」
「借り……?」
耀哉の突然の話題転換には、質問を投げかけた実弥も困惑の色を隠せない。もちろん、その真意を掴めないのは他の柱たちも同様である。
今まで鬼殺隊に関わった形跡もない竈門禰豆子やその家族に、どうして産屋敷家が『借り』をつくろうか。普通に考えれば、そのようなことはあり得ない。
だが、困惑する柱たちに向けて、耀哉はただ穏やかな微笑みを向けるだけで、場には奇妙な沈黙だけが舞い降りる。
「少年。どういうことだ? 君の家族はお館様に何かやったのか?」
「し、知りません。俺も、なんのことだか……」
炭治郎の横にいた杏寿郎と呼ばれていた柱が小声で問いかけてくるが、しかし当然、炭治郎とてそのような話は初耳だ。
竈門家は代々続いてきた炭焼きの家系であり、少なくとも炭治郎が知る限りは、鬼殺隊と関わったなどという話は聞いたことがなかったのだ。それはもちろん、耀哉の背後で不思議そうな顔をしている禰豆子とて同様だろう。
けれど皆の困惑をよそに、耀哉は炭治郎へと顔を向け、声をかける。
「炭治郎。君の亡くなられた母親は"葵"に"枝"で『
「は……はい。そうです、俺の母は竈門葵枝と言います」
唐突に母の名を出されて、炭治郎の心臓がドクンと大きく跳ねる。
瞬間、母の優しかった笑顔が脳裏に蘇る。だが、何故それを今、産屋敷家の当主が聞いてくるのかという疑問が溢れ出し、母を懐かしむ気持ちは流されていく。
「そして、もう一つ。君の妹たち、禰豆子と花子の名は――葵枝さんの母親、君からすると母方のお婆さまが名付けたものだね?」
「そ、そうです。妹たち……禰豆子と花子の名前は、母方の祖母がつけてくれました。あの、お館様がどうしてそれを……?」
鼓動が早まるのがわかる。
母、そして祖母の名前程度ならば、役所で調べればいくらでも分かることだろう。いくら山に住んでいた炭治郎たち家族とて、時代はもう大正だ。日本国民としての戸籍くらいは持っている。
けれど。母方の祖母が禰豆子たちを名付けた事実など、いくら産屋敷家とはいえ知りようがないはずだ。母も死んでしまった今、その出来事を知っているのは炭治郎だけなのだから。
だが、続く耀哉の言葉に、たった一言に。
炭治郎の心に渦巻く疑念は全て、真っ白に流されていく。
「炭治郎。禰豆子の『
「え……」
そのとき、言葉を失ったのは炭治郎だけではない。
何人かの柱がはっと息を呑む音も、静かな白州に響いていた。
禰。
みたまや。
炭治郎は、その響きを知っている。その名が示す人物が誰なのかを知っている。
炭治郎の記憶の中で。
妹――花子と瓜二つの幼い巫女が、とても優しい瞳で。静かに、炭治郎を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「慶応四年のことだ。とある山の上に建つ神社が、一人の巫女を巡る鬼殺隊と鬼舞辻無惨の争いに巻き込まれ、焼き尽くされた。そこに住んでいた人々は皆殺しの憂き目に遭い、燃え盛る炎の中で生き残った者はいなかったとされている」
耀哉は、五十年近く前に起きた悲劇を語りはじめた。
それはとある山で起きた、鬼に全てを焼き尽くされた神社と、そこに住む一族の話だった。
「けれどね。その日たった一人だけ、近隣の神事に呼ばれ、難を逃れた娘がいたんだ。本来は神主が日帰りで行くはずだったのだけれど、その日は当時の水柱が重要な用件で急遽訪問したため、件の巫女の姉にあたる長女が代わりに山を下りることになったんだ」
炭治郎は、花枝に聞いたことがある。
鱗滝左近次は生前にとてもよくしてくれたのだと。そして、鬼となった彼女を捕らえて藤襲山へと放り込んだのもまた、鱗滝左近次だったのだと。
「急な話だったらしい。まだ若い娘の足だったので、その日は無理をせずに街の宿に泊まっていたことが幸いした。難を逃れたその娘は鬼殺隊が保護し、表向きは神社の焼失で死んだことになった」
それは、花枝すら知らない事実だった。
「彼女はそれまで名乗っていた苗字を捨て、藤の家紋の家の養女となったんだ。鬼舞辻無惨に知られたその苗字はもう、名乗るわけにはいかないからね」
神社が焼かれ、花枝が鬼となったその夜。花枝の姉だけはその場所にはいなかった。
彼女は鬼殺隊に保護され、御霊矢の一族であることを隠して生きていくことになった。
けれど。
その血は確かに、後世へと残された。
「それが、君たちの祖母――
「婆ちゃんが……御霊矢……」
花と葵。莢と豆。
炭治郎は、生前の祖母の姿を思い返す。
鬼舞辻無惨に襲われ、皆殺しにされた御霊矢の一族。その苗字を捨てざるを得なかった祖母。
それでも彼女は、孫の名前にだけは『みたまや』の一族である証を、残してくれたのだ。
そして、炭治郎が俯き考えている間にも、産屋敷耀哉の言葉は続いていた。
いや、彼は別な誰かに語りかけていた。
「だからこそ私は、せめてあなたの子孫たちを守ることで、あなたに報いたかったわけです。わかっていただけましたか? 角姫様」
「はあ。わかりましたけど、その呼び方はやめてくださいね、産屋敷」
耀哉の言葉に、幼い少女の声が返ってくる。
それは、炭治郎も知っている声だった。二人目の妹――花子と同じ声。けれど、決して花子とは違う、長い歴史を持つ声。
「ならば、私のことは耀哉とお呼びください。本来ならば、あなたが私のお婆さまだったかもしれないのですからね、花枝様」
耀哉の言葉に反応するかのように、ゆっくりと耀哉の背後の戸が開かれる。
そこにいたのは、元百合柱である胡蝶カナエと、柱の資格を得ている甲隊士、冨岡義勇。
そして、その二人を左右に従わせるようにして立っているのは、巫女服を着た、まだ幼い少女である。
その姿を見た瞬間。
その場に集った柱のうち、実に半数以上が。
片膝を地面について跪いた姿勢のまま、深く、頭を垂れた。
◇ ◇ ◇
「顔を上げてください。真菰、錆兎、杏寿郎、小芭内。それに、あなたがしのぶですね。カナエから話は伺っていますよ」
彼女こそは、『あやかし』の長であり、巫女鬼や角姫という異名を持つ少女――
花枝は前に進み出ると産屋敷耀哉のとなりの日陰に立ち、柱の面々を見つめていく。花枝と面識があるもの。そして直接の面識こそないけれど、花枝の背後に佇むカナエと縁の深い者。面識を持たず、花枝に警戒の視線を向けている者。
そして続けて花枝が視線を向けたのは、室内の奥まった陰で大人しくしていた竈門禰豆子と、白州で頭を下げたままだった竈門炭治郎の二人だ。
「炭治郎、禰豆子。あなたたちだけでも、よく生きていてくれました。禰豆子は莢子お姉様にそっくりです。本当に、お姉様の血を引いているのですね」
けれど、残念ながら禰豆子の耳には、花枝の言葉など届いてはいなかった。
禰豆子はその目をまんまるに見開いている。そして、そこにはじわりと、透明の涙が溢れ始める。
「花子……? 花子、な……の? 花子……あぁ……わぁあああああ!!」
「わあ、そうでした。わたしはあなたの妹にそっくりなのでしたか」
花枝に対し、柱の誰かが口を開こうとしたそのとき。
禰豆子が飛び出して、涙をぼろぼろと流しながら花枝へと抱きついた。すぐその場にいた真菰やカナエ、そして義勇は、その行動を止めはしなかった。
花枝の容姿は、禰豆子の妹である花子に生き写しだ。恐らく、禰豆子も初めて花枝の姿をみたときの炭治郎と同じように、花枝を「花子が鬼になった姿」と勘違いしてしまったのだろう。
「ごめん、ねぇ……痛かったよねぇ……花子、はな、こ……ううううぅぅ……!!」
耀哉のすぐ横で、先ほどまで静かに場をわきまえていた鬼の娘が、声をあげ、泣き続けている。
その状況であっても、耀哉はその瞳を伏せて、泣きわめく禰豆子を止めることはなかった。
そして、先程まで憎しみに染まっていた風柱・不死川実弥は、ただ、無表情で。
何度も妹の名を叫び、妹のために涙を流し続ける姉の姿を。じっと、無言のまま見つめていた。