――大正五年。初夏。
遊郭にて上弦の陸が討伐されたという朗報は、ここ
まさか炭治郎たちが出向いた先に上弦の鬼が潜んでいたなどとは知らなかった里の者たちは一時騒然としたものの、続いて届いた情報により、炭治郎たちの無事が確認されると、里の住民総出の小さな祝賀会が開かれた。
もちろん、無事だったのは炭治郎だけではない。一度ド派手な顔を見たことのある音柱はもちろん、禰豆子、義勇、善逸、伊之助といったその任務に同行していた者たちも無事だったらしい。
噂によれば、今は引退を仄めかす音柱と、それを引き止めようとする他の柱たちの間で色々と騒がしくなっているようだが、
その日からもずっと、今まで以上の密度で、『あやかし』たちとの実戦訓練を繰り返していた。
◆ ◆ ◆
それからも、日々は過ぎていく。
最近は獪岳が手鬼の頚を刎ねて勝利する回数も増えており、特訓後にも体力に余裕を残していることが多くなってきた。
この日も風見鬼の鳴らす鐘の音が響くまで、手鬼と獪岳は森の中の修練場にて様々な形式で実戦を繰り返していた。
これは、そんな修練場からの帰り道でのことである。
「角姫。俺もあの実を食えば、お前らみたいな不老不死になれるのか?」
頭を胴体に押し込んでいる手鬼と、彼らの見学をしていた花枝と、そして獪岳。その三人で森の中を歩いていると、獪岳が不意にそのようなことを呟いた。
彼が尋ねているのはもちろん、『トキジクの実』についてだろう。
「アァ? 獪岳テメエ、人間をやめるってのか?」
「え、獪岳、人間やめちゃうんですか?」
「やめるとは言ってねえよ。ただ、聞いてみただけだ」
獪岳の質問。それは実に素朴な質問だった。
人間である以上、食した者が不老不死となる奇跡の果実が実っていれば、それが気になるのは仕方のないことだろう。古来、不老不死というのは人間たちの夢なのだ。
特に、生き残ることを信条としている獪岳にしてみれば、気になるのは当然だ。
「もう、びっくりしちゃいました。いま獪岳が『あやかし』になっちゃったら、隊士を育てるっていう産屋敷との約束を反故にすることになっちゃいますから、どうしようかと思いました」
「なあ角姫、気にするところはそこかよ。お館様との約束はそりゃ重要だが、違うだろ」
「うーん、わたしとしては獪岳がここに住みたいのなら別に止めませんよ? まあ、せっかくの人間としての人生を、自分から手放しちゃうのは勿体ないなって思いますけど」
「人間としての人生……か」
いま、境内にあるトキジクの木の枝には、新たに実った橙色が黄昏の光を反射している。
小ぶりな蜜柑の姿をしたそれは花枝からは届かない高さだが、獪岳ならば届かない高さではない。彼がそれを食べようと思えば、いつでも採って食べられるはずだ。
けれど、花枝も手鬼も、特に獪岳を警戒するような素振りはない。それどころか、獪岳が『トキジクの実』を食べるならばそれでも構わないというくらいに、あっさりとした反応を見せていた。
獪岳は自分の手のひらに視線を落とす。何度も豆が潰れ皮が分厚くなった、ごつごつした剣士の手のひらだ。その手のひらこそが、獪岳自身のこれまでの修行の積み重ねであり、人間として足掻いてきた証明だ。
手を開いて、そして閉じ。過去に掴み損なった何かを思い返すかのように、彼はじっと自分の手のひらを見つめている。しかしそこには、何もない。
「なぁ角姫、手鬼。俺は確実に、お前らのお陰で強くなった。感謝もしているつもりだ」
「いきなりどうしました?」
森を歩きながら、獪岳が語り始める。
花枝がきょとんとして彼を見上げるが、獪岳は花枝の反応を無視しそのまま言葉を続けていく。
「外の世界は相変わらずくだらねえ連中だらけで息がつまるが、俺はお前らのことは気に入っている」
「わあ、嬉しい。口の悪さは相変わらず酷いですけど、やっぱり獪岳はわたしたちのこと大好きなんですね」
獪岳が眉を顰めてジロリと花枝を見るが、これは彼が怒っているわけではないのだと花枝は知っている。
きっと、多分、照れ隠しだ。
「獪岳、テメエは何が言いてえんだ。回りくどい言い方しやがって、言いたいことがあるならはっきり言いやがれ」
修練場のまわりの森は、程よく日差しを遮ってくれている。なので、常に黄昏に照らされた隠れ里だけれど、森の中には『闇』が多い。
獪岳はそんな闇に向かい、迷わず歩いていく。
彼の向かう闇の先には、黄昏に照らされた
「角姫は前にこの土地を"幸せな箱庭"と呼んでいただろう。もし本当に俺も『あやかし』になれるなら、いつかはくだらねえ連中のいない、この箱庭で生きるのも悪くねえなと思ってな」
「ケッ、老後を考えるのが早すぎるぜ。テメェはまずさっさと柱になりやがれ」
「獪岳だって、ちゃんと心を広く持てば、外の世界でも大切なものを沢山見つけられると思いますけどね」
「……知らねえよ、そんなもん」
花枝は、いつものように獪岳の背をぽんぽんと叩きながら。しっかりと、その横に並んで歩いていた。
人間たちの世界ではうまく生きられなかった獪岳が、自分たちを好きになってくれるのはとても嬉しいことだ。自分たちの仲間になりたいと言ってくれるのはとても光栄なことだ。
けれど、人間としてはそれはきっと間違っていて、良くないことなのだと、花枝は思う。
だからこそ。
彼がこれ以上間違えないように。彼が歩むべき道を見失わないように。
花枝は獪岳の言葉に、良いとも悪いとも、答えることなく。
しれっと話題を誤魔化すことにした。
「そういえば、パンケーキの『パン』って、小麦粉でつくるパンのことじゃないらしいですよ?」
「マジかよ」
「おいおい嘘だろ」
案外簡単に話題は誤魔化せた。
◆ ◆ ◆
「わあ、美味しい。やっぱり牛すきはいいですね」
最近の隠れ里では、以前よりも高い頻度で肉を食べられるようになっていた。
どうして隠れ里で肉を食べられるのか。それはもちろん、獪岳が指令を受けて外に鬼狩りに行く度に、肉やらなにやらの買い物を頼まれているからだ。
なにぶん様々なものが不足している隠れ里なので、最近は獪岳に買い物を頼む包丁鬼も遠慮がない。もはや鬼狩りついでに買い物だったはずが、買い物がてらの鬼狩りのようになっていた。
無論、そんな余裕があるのは、獪岳が鬼狩りとして十分な実力を有しているからこそである。
この日もまた、牛肉のたんまり入った『牛すき』を食べながら、花枝や手鬼をはじめとした住民たちは、獪岳の『新技』について話し合っていた。
「むぐむぐ。やっぱりここは一つ、他の呼吸の技を真似てみるのはどうですか? むっぐむっぐ」
「テメェ巫女鬼、食いながら喋るんじゃねえ。その箸を置きやがれ」
「だって手鬼、食べないでいたらお肉がなくなっちゃうじゃないですか」
「たりめえだろ、早い者勝ちだ」
相変わらず獪岳は、壱ノ型を使えない。
これはもう、生まれ持っての向き不向きが影響しているのだろうというのが皆の見解だった。
けれど、そもそもこの里には型など使うものはいないので、そこまで獪岳が壱ノ型を使えないことについて真剣に彼の立場で考えるものはいなかった。
新技を考えると言っても、はふはふと牛すきを味わいつつの雑談のようなものである。
「ねー獪岳さあ、あんた雷の呼吸以外は使えないの? いっそ百合の呼吸を覚えてみない?」
「無茶を言うな。あれは水の呼吸の派生である花の呼吸、それを更に改造したものだろ。雷とは相性が悪すぎる」
「そんなことないと思うけどなー。錆兎や炭治郎だって、種類の違う呼吸を使い分けてるんでしょ?」
「だとしても、だ。百合の呼吸はいらねえ」
花枝たちの向かいでは、百合鬼と獪岳が牛すきに入れられた菜花を二人してもりもりと食べながら、何やら面白いやりとりをしている。
獪岳が百合の呼吸を学べば、もしかしたら将来的には鳴柱ではなく百合柱・獪岳の姿がみられるかもしれない。
彼が『聖花開帳』などと叫んで百合の型を使っている姿を花枝は想像してみたのだが、驚くほどに似合っておらず、そんな想像をするだけでも獪岳に申し訳なくなってきたので花枝は考えるのをやめた。
そして気付けば、社家屋敷のその一室は宴会場の様相となっていた。
「巫女鬼さまも一杯どうですかー?」
「わたしはやめておきますよ。でも、百合鬼は飲み過ぎじゃないですか?」
花枝は肉体が幼いためか酒の類いは未だに苦手なのだが、どうやら花枝以外の皆は里で作られた特製の酒をすでに堪能しているようだ。
全員が全員、妙に気分を高揚させている。もしかしたら、皆すでに酔っ払っているのかもしれない。
獪岳と手鬼が腹を抱えて笑いながら、田中鬼の話を聞いている。風見鬼が壁に向かって詩を読み、筆鬼がうんうんと頷いている。河童鬼と蟲鬼は、何故かモグラ鬼と包丁鬼の毛皮を櫛で梳いている。彫刻鬼は部屋の柱に小さな角姫の姿を彫っているが、それは普通にやめてほしい。
それくらい、滅茶苦茶で、楽しい宴だった。
「つーか獪岳よォ! テメェはいつになったら柱になりやがる! もう俺より断然強くなった癖によ!」
「うるせえな、手鬼。柱になるためには鬼を五十体狩るか、十二鬼月を倒す必要があるんだよ。十二鬼月が見つからない以上は、指令をこなしていくしかねえんだ」
十二鬼月。鬼舞辻無惨直属の十二体の鬼である。
カナエが遭遇した上弦の弐。炭治郎たちが遭遇したという下弦の伍、下弦の壱、上弦の陸、そして上弦の参。炭治郎たちは短期間で次々と出会っているというのに、獪岳の引きの悪さは筋金入りだ。
上弦はともかく下弦はそれなりに入れ替わりが激しく、遭遇する機会は多いという話だったのだが、しかし最近はぱったりとそれらしき噂も聞かなくなってしまった。それこそ、この一年で唯一発見された下弦は、無限列車にいたという下弦の壱だけだ。
「下弦がぱったり出なくなったのは不思議ですね。下弦の鬼が集まって、計画的になにかやっているんでしょうか?」
「でも巫女鬼様、鬼たちが徒党を組むのって鬼舞辻無惨が許さないと思いますよー? 私も人喰い鬼だったときはなんだかそういう強迫観念というか、命令を守っていた気がしますし」
「チッ。嫌な記憶だが、俺もそれには同意だぜ」
百合鬼の言葉に手鬼が同意し、他の仲間たちもうんうんと頷いている。
餅は餅屋。肉は肉屋。鬼のことは元々鬼だった彼らに聞くのが一番確実なのだ。
「んー、皆がそういうなら、そういうものなんですかね。なら『鬼舞辻無惨が癇癪を起こして、下弦の鬼たちを自分で全員殺してしまった』というのはどうですか? ありそうじゃないですか?」
「巫女鬼様、さすがにそれはいくらなんでも馬鹿みたいじゃないですか。鬼舞辻無惨がそんな短慮な相手だったら、みんなここまで苦労しないと思いますよ」
「百合鬼の言う通りだぜ。テメェはくだらねえこと言ってねえで黙って豆腐でも食ってろ」
「そこはせめてお肉を食べさせてくださいよ」
花枝が鋭い発想で推理を語るが、周囲の反応としてはなしのつぶてである。
七歳児相手に苛つきを隠せなかったあの鬼舞辻無惨ならば、それくらいやりかねないなという本気の推理だったのだが、どうやら住民たちには不評だったようだ。
むむむ、と花枝は唇を尖らせてみるが、しかし七歳の身体なので可愛らしく拗ねているようにしかみえない。百合鬼はにっこり微笑み、手鬼は「ケッ」と無視をしている。
どことなく腑に落ちないものを覚えはするが……しかし、なんにしても、だ。
鬼舞辻無惨は今は、どうでもいい。
こうして皆が楽しめる時間を、楽しもう。
花枝は心のなかのあれこれ考えすぎていた頁を閉じて。牛すきに意識を向けるのだった。
なお、肉はもうなくなっていた。
◆ ◆ ◆
――蝶屋敷。
遊郭の戦いで傷を負った炭治郎たちだが、怪我が治った後もまだ、この蝶屋敷を活動の拠点としていた。
本来ならば蝶屋敷は主に女性隊士が中心となって生活している施設なのだが、禰豆子が安心して過ごせる拠点がこの場所くらいしかなかったのだ。
禰豆子は禰豆子で定期的にカナエやしのぶによる血液や体質の検査を施されており、彼女らの研究に一役買っている。つまりは大げさに言えば、共存関係といったところだろう。
そんな事情もあり、人格的にも信頼されている炭治郎たちも禰豆子と共に蝶屋敷に住まうことを許され、鬼殺隊の任務をこなし、槇寿郎に呼び出されては気絶するまで実戦稽古をさせられ、時には男手として蝶屋敷の仕事を手伝いながら、日々を過ごしていた。
そして、そんなある日のこと。
「久しぶりだな、炭治郎。指令を順調にこなしているようだな」
「錆兎さん! お久しぶりです! 錆兎さんがコツを教えてくれた呼吸の合わせ技、とても俺と相性がいいんです!」
炭治郎に声をかけたのは、鬼殺隊
炭治郎が隊士となってからも、彼は時折こうして顔を合わせる機会を作っては、炭治郎に稽古をつけてくれる。
実戦稽古は槇寿郎同様に毎回気絶するまでやらされるので大変だが、確実にそれらは炭治郎の経験となっている。
「そういえば、槇寿郎さんが錆兎さんとも久しぶりに手合わせしたいと言ってましたよ」
「それは聞かなかったことにしてくれ。ところで炭治郎、少し日輪刀を見せてみろ」
「あ、はい。どうぞ」
しかしどうも、この日の錆兎は、どうやらいつもの実戦稽古をつけるわけではなさそうだ。
なにかと思いながらも、炭治郎は言われるがまま錆兎に自身の日輪刀を手渡した。
「ふむ……やはりな。俺もそうだったが、異なる呼吸で型を使うと、その刃にかかる負荷が増大する。この日輪刀も微かに刃こぼれがあるだろう、そろそろ刀鍛冶に見せた方がいいぞ」
「え、刀鍛冶……ですか……そうか、うん。つまり、鋼鐵塚さん……か……」
炭治郎の顔がわかりやすく暗くなり、少しだけひきつっている。
というのも、炭治郎の刀を担当している刀鍛冶――鋼鐵塚という男は、とにかく『厄介』なのだ。刀のためなら、炭治郎を刺し殺すことも厭わない男なのだ。
炭治郎がいまひきつった顔を見せているのも、実のところ、あの鋼鐵塚に刀を見せるのが恐ろしいからである。
そんな炭治郎の表情からある程度察してくれたのだろう。苦笑を浮かべた錆兎が、炭治郎に刀を返しながら、こう提案してきた。
「炭治郎。俺と一度『刀鍛冶の里』に行ってみるか。見聞も広がるし、ちょうどいいだろう」
「刀鍛冶の……里、ですか?」
こうして、炭治郎は錆兎とともに、刀鍛冶の里へと向かうことが決定した。
炭治郎はその刀鍛冶の里にて、壮絶な戦いに直面し。
そして、大きな、大きな知らせを受け取ることとなるのだが。
それはまだ、誰も知り得ない未来の話である。