その夜。
鳥居を潜り、この隠れ里へと強引に進入してきたそれは。
実ににこやかな笑顔で。まるで旧知の仲のように、気さくに語りかけてきた。
◆ ◆ ◆
それは、ぼろぼろになったヤタガラスが報告を届けてから、すぐのことだった。
隠れ里の入り口である明神鳥居に張られていた結界が、力ずくで破壊された。世界にガラスが割れたような音が響き、里の『あやかし』たちの背筋に、ぞわりとした悪寒が走る。
その声が届いたのは。
その直後だ。
「やあやあ、随分前からこの山には目星をつけていたんだけど、大正解だったね」
にこやかに笑う声が響く。
「すごく素敵な場所じゃないか。太陽の光なんて浴びたのは何百年ぶりかな。それともこれは太陽じゃあないのかな?」
鳥居から吹き込む冷気と共に、それはやってきた。
「それに、逃れ者がこんなにいただなんて、さすがの俺も驚いてしまったよ。君たちは今までずっと、あの方から必死で隠れ続けていたんだね。感動しちゃったよ」
黄昏に照らされた世界に訪れたのは、頭から鮮血を被ったかのような不気味な姿の男だ。
一見すればにこやかに笑っているようだが、決してそこには友愛など存在していない。そこには作り物の演技じみた表情と、虫けらを観察するような上位者の傲慢さが滲んでいる。
そして、
「上弦の……弐」
花枝の呟きが聞こえているのか、いないのか。
上弦の弐は鳥居を入ってすぐの位置で立ち止まり、そこから見える隠れ里の景色を見渡している。
彼にとっては初めて見るであろう黄昏の異界だろうが、しかしそこには大きな驚きはない。恐らくは、鬼舞辻無惨の配下にいるのだろう。同じように、独自の空間を作り出せる鬼が。
しばらくの間、気持ちよさげに黄昏の日差しを浴びる。
そうしてこの世界の景色を堪能すると、上弦の弐はようやく口を開いた。
「こんな世界を作り出すだなんて、本当にすごいね、花枝ちゃん。ああ、俺のことは気軽に"童磨"と呼んでおくれ。君には五十年前から会いたいと思っていたんだよ」
「わたしは……永遠に、あなたとお会いしたくありませんでした。上弦の弐」
上弦の弐――童磨は花枝に視線を向ける。
情報を知っていたのか、あるいは鬼としての感覚で理解したのか。彼は花枝こそがこの里を作り出した主であることを正しく把握していた。
「つれないなあ。ところでここにいる逃れ者たちはみんな花枝ちゃんの配下なのかい? すごいすごい、みんな大人しく服従してるんだね!」
「やめてください。彼らはわたしの大切な仲間です、恐怖で従えさせるあなたたちとは違います」
花枝の周りには、彼女を守るようにして、様々な鬼たちが立っている。
緑色の巨大な異形。眼窩から花の生えた女鬼。化け物じみたもの、老人姿のもの、若者の姿をしたもの。
普段、鬼がこうして一つの目的を持ち並び立つ姿など見ることがないため、童磨は面白いものをみたと拍手をして喜んでいる。
だが、はしゃいでいるのは童磨のみ。
花枝をはじめとした里の住民たちは、皆が皆、油断なく。
今にも童磨に飛びかかりそうなほどに、強い殺気を纏っていた。
「あれぇ? なんでそんなに怒っているんだい? 俺は君たちのために、わざわざあの方にばれない時を狙って、こっそりやってきたんだよ?」
童磨は一対の鉄扇を両手に開くと、まるで手慰みの遊びのように、ゆるりと宙を仰いだ。すると、そこには白い氷の花がパキパキと現れる。
花枝の横では百合鬼が眉を顰め、険しい表情を浮かべている。あの氷は決して美しいだけのものではないのだと、彼女は知っていた。
「あの方はいま俺がどこで何をしているかなんて、一切興味を持っていないからね」
童磨は続ける。
「あの方は今頃、『刀鍛冶の里』とやらの戦いにしか目が行ってないはずさ」
「刀鍛冶の里……?」
「聞きたいかい? じゃあ、俺と花枝ちゃんの仲だから教えてあげようかな。鬼殺隊の命綱――日輪刀を作っている連中の住処をようやく見つけてね。今頃、上弦の肆、上弦の伍が一緒になって皆殺しの最中のはずだぜ」
愉しげに語る童磨の言葉に、先日の炭治郎から届いた手紙の言葉がよぎる。
炭治郎は今、どこにいる? 刀鍛冶の里にはいま、誰がいる?
だが、炭治郎へと思考を割く余裕を、目の前の鬼は与えてはくれない。
「日輪刀さえなければ、鬼殺隊なんて何の力もない烏合の衆に成り下がるからねぇ。例えば……そこの君は、雷の呼吸かな? その日輪刀がなくても戦えるかい?」
童磨は楽しげに語りながら、視線を花枝からその横へと向ける。
視線を向けた先にいるのは、この場で唯一の、日輪刀を構えている人間――
「くっ……!」
「花枝ちゃんは本当に、鬼殺隊士と懇意にしていたんだねえ。俺たちには信じられないことだよ。驚きの連続だ」
日輪刀を握りしめる獪岳の背に、冷たい汗が流れ落ちる。
童磨はいま、獪岳に視線を向けて、冷酷な殺意を向けている。上弦の弐。その圧は、獪岳の魂を屈服させるかのように、彼の全身を重くしている。
「でも……逃れ者はともかく、日輪刀を持ってる彼はいただけないなあ。この場で俺を殺せる可能性があるとしたら、彼の日輪刀だけだしね」
世が世なら。
獪岳が、友も理解者もいない、たった一人の孤独な隊士だったならば。
もしかしたらすでに、彼の心がへし折られ、生きるため――鬼へ向けて頭を垂れるような世界もあったかもしれない。
だが、今。獪岳を庇うべく一歩前へと踏み出したのは、花枝である。そして獪岳の前には、彼を守るように地面からいくつもの手が生えている。蟲の集団が、空を漂う風が、宙を舞う紙が、唯一の人間である獪岳を守るようにその場に顕現する。
そして獪岳もまた、鬼に気圧されようと、その視線を外さない。
一触即発の空気の中でも、住民たちは誰一人、余計な言葉を挟まない。
どこかで、隠れ里の中に住み着いた鳥たちが羽ばたく音だけが遠く響く。
「ねえ、童磨。聞かせてください」
「嬉しいなァ、名前で呼んでくれるのかい? やったやった、俺に答えられることなら、何でも答えてあげるよ」
「あなたはここに、何をしに来たのですか? もしあなたが『鬼舞辻無惨の呪いから脱却したい』と望むのならば……わたしは、呪いの浄化をお手伝いするのも吝かではありません」
「ふぅん……?」
この質問は、賭けだった。
相手は上弦の弐だ。鬼舞辻無惨にとって二番目の駒であり、普通に考えれば主を裏切るような真似はしないだろう。
だが、鬼舞辻無惨は普通ではないし、この童磨もまた、普通でないのは明らかだ。
だからもし、この童磨の望みが呪いからの解放だったならば。トキジクの実で、罠を張れる。
花枝は、この童磨がトキジクの実を食せば善人になるなどとは思っていない。いや、その可能性があったとしても、花枝はそんなことを許さない。
カナエたちの実験によれば、人間を大量に食った鬼であろうと、トキジクの実を食べた直後はしばしの眠りに落ちるのだ。
上弦の鬼にどれだけの効果があるかはわからない。だが、たとえ一瞬でも隙が生まれるとしたら。
獪岳ならば、頸を斬れる。
だが――。
「なるほどね。呪いを浄化する行程のどこかで、俺の力が無力化でもされるのかな? 力を失うとか、眠りにつくとか、ね。その隙に俺の頸を刈ろうとか、そういう狙いかな?」
「……そんな、こと」
「俺はこれでも長年教祖なんかをやっているから、人間の嘘つきはごまんと見てきたんだよね。それと比べれば、花枝ちゃんは裏で何かを企んでることがわかりやすくて可愛いね」
容易く、花枝の意図を見破られた。
誰も何も言わない。が、花枝の青ざめた顔を見れば、今の推理が図星だったことくらい、童磨でなくてもわかるだろう。
「恥じることはないよ、馬鹿な子ほど可愛らしいものさ」
「なら、せめてわたしの腕でも最初に食べてみませんか?」
「罠が見え見えだぜ、花枝ちゃん」
にこりと笑いながら、童磨は一度、両の扇を閉じる。
パキ、パキ、という音と共に。童磨の周囲に氷の華が生み出されていく。
空気が変わった。
それまでは曲がりなりにも『交渉』の場だったその境内は、いま。
殺気をぶつけ合う戦いの舞台へ、ゆっくりと変貌していく。それはまるで、黄昏が夜へと変わっていくかのように。
「正直に答えてあげるよ。俺も少しは呪いから脱却できる可能性を考えたからこそ、あのお方の横やりが入らないこの日を選んだんだ。でも、俺はこれでも、あの方の下で人間を食う生活もなかなか気に入ってるんだぜ?」
「わあ……残念です。交渉決裂ですね」
「でも、喜んでよ! そこの百合の鬼と、ついでにそこの黒髪の鬼は最後まで残しておいて、花枝ちゃんと一緒にゆっくり食べてあげるからね!」
花枝、百合鬼、風見鬼。
童磨の世界に、他の男衆は数えられてすらいない。まるで道ばたの石ころのような扱いに、手鬼がギリリと歯を食いしばる音がする。
「でも。今日は時間もないし、遊びをやめて――本気を出させてもらおうか」
童磨の表情から空っぽの笑顔が消え、その手にした対の扇を振り上げる。
すると、白い氷の結晶が童磨の周囲へと舞い踊り――。
『血鬼術 結晶ノ御子』
童磨の周囲に、何体もの氷人形が現れる。
それが――蹂躙の合図だった。
◇ ◇ ◇
周囲に百合の花が咲き乱れ、花弁が渦を巻く。境内に風が吹き、百合の芳香を急速に広げていく。
それと同時に『止』という文字が書かれた紙が宙を飛び交い、それを認識した童磨の動きが強制的に停止される。
童磨めがけて雷を纏った刃が振るわれ、鋭い彫刻刀が雨のように飛び交う。それを邪魔する氷人形たちを、緑色の腕が、獣の腕を持つ鬼が、その膂力で薙ぎ払う。
大地が破裂し、水流が童磨の足下を崩す。
一斉攻撃。
いまこの場で童磨を打倒し得るのは、獪岳の日輪刀だけである。
だからこそ『あやかし』たちは総力をあげ、童磨の無力化に全力をあげる。
が、童磨とてそれらの攻撃に晒されるだけではない。
雷を纏った刃はしかし、童磨の腕を一度は斬り飛ばしたものの、頸には届かない。
童磨の周囲に控えていた結晶ノ御子が吹き付けた吹雪に、いくつもの術が吹き飛ばされ、無効化されていく。大地も水流も、すべてが凍り付く。
緑の腕も、包丁を持った獣も、童磨に肉薄するが――しかし。
童磨の鉄扇により彼らの腕は切り裂かれ、鮮血をまき散らす。
それでも『あやかし』たちは止まらない。
腕を再生し、術を展開し、血しぶきをまき散らしながら、雄叫びを上げながら。
ただ、この里を護るため。その身を削り、童磨と戦い続けていた。
◇ ◇ ◇
「きゃあっ! みなさん、気をつけて! どうか、どうか……!!」
「巫女鬼様は……隠れててくれ……。俺たちが、戦うから……!」
一方、花枝は蟲鬼に守られていた。
蟲鬼は残念ながら、冷気を操る童磨に対抗するすべがない。だからこそ今は彼が、その身体で花枝を守る役目となっている。
すでに蟲鬼の身体には大量の氷柱が刺さり、その腕は大きく凍り付き、とうに砕かれている。
「破ァ!!」
その背後で。花枝を追う結晶ノ御子と戦っているのは田中鬼だ。
彼もまた、身体の半分が凍り付きながらも、懸命にその腕から衝撃波を飛ばし、氷人形たちを破壊していく。
「ふ、二人とも、身体が!」
花枝が見ている中で、田中鬼の身体は凍り付いていく。砕かれていく。花枝をかばったままの蟲鬼は、身体のほとんどが凍り付き、すでに動くこともままならない。
それでも、彼らは『あやかし』だ。
命尽きることなく、今なお、花枝を守る意志を燃やしていた。
が。
「俺が五十年前から恋い焦がれていた花枝ちゃんを、目の前で横取りだなんて。ああ、なんて酷いことをするのさ」
そこにいたのは、その衣装をぼろぼろにした――しかし、負った傷の大半を修復した童磨だった。
彼はほろほろと涙をこぼしながら、悲しみの表情を演じている。
境内では結晶ノ御子に囲まれた『あやかし』たちが、唖然としている。
いま、決死の想いで戦っていた相手が、瞬きのうちに人形を残し、離れた場所へと移動していたのだから。
圧倒的だった。
絶望的だった。
手鬼たちは、柱となった槇寿郎に勝てたことはないのだ。
手鬼たちは、柱に近づきつつある獪岳にも勝てなくなっているのだ。
そして、上弦とは、その柱三人分以上の強さを秘めているのだ。
『あやかし』たちがどれだけ修行を積もうとも。戦おうとも。祈ろうとも。
そこには、途方もない『強さ』という壁がそびえ立っていた。
「あ、ああ……そんな……」
花枝の心に、絶望が広がっていく。
童磨は地面に横たわる田中鬼へと向けて扇を一閃し、彼の肉体を瞬時にバラバラにし、再生できぬようその身を凍り付かせていく。更には花枝を抱き抱えたままの蟲鬼へと手を向けて。
「ぐうぁあああ!!」
「蟲鬼!!!」
幾つもの氷柱に貫かれ、蟲鬼の身体は崩れ落ちる。
そして、蟲鬼の身体にすがりつこうとした花枝は、しかし。
満面の笑みを浮かべた童磨に、その身を捕らえられていた。
「ああ……本当に、本当に、花枝ちゃん。君っていう子は、俺にとっては運命の女神のような子だね! 今だけは神の存在を信じてあげてもいいくらいさ!」
感動の言葉を吐く童磨の足下には。
「こんな、すてきなお土産までもらえるだなんて!」
青い色をした彼岸花が。
ゆらりと、風に揺れていた。
◇ ◇ ◇
氷の柱に張り付けにされた花枝には、そのすべてが見下ろせていた。
「テメェええええ!! 死ね、死にやがれ!!!」
「手鬼、だったっけ? 君がここにいる鬼では一番タフだね。厄介さでは、百合の術と紙の術がなかなかだと思うけど」
童磨は機嫌よく、己に襲いかかる緑の腕を、ひとつひとつ扇でさばき、凍らせ、切り刻んでいた。
「ただ手を伸ばしてるだけじゃなくて、空間を越えて延びる手もあるね。力任せの異形系の割に、血鬼術にも目覚めていたのかな? こんな時じゃなけりゃ、是非とも君たちをまとめて下弦の鬼に勧誘したいところだぜ」
すでにもう、勝負はついていた。
それでも。
巨大な異形となった手鬼が、その耐久力を駆使して戦い続けている。
あたりは今も、百合の花が咲き続け、風が吹き、命令の書かれた紙片が飛び交い、抵抗を見せている。
その術の所有者たち全身を切り刻まれ、地に伏しても、なお。
まだ動ける仲間を援護すべく、その術を切らさずに、戦い続けている。
「大地、破壊……!!」
「刻連撃……っ!!」
「グウうぉぉぉおおお!!」
モグラ鬼、彫刻鬼、包丁鬼が壁となり、結晶ノ御子を引き受け、崩していく。
彼らももう、ぼろぼろだ。童磨の――いや、結晶ノ御子の術の前で、為すすべもなく砕かれ、崩れ落ちていく。
張り付けで動けなくなっている花枝は、その絶望的な景色をただ、まざまざと見せつけられていた。
「シィィィィィ……!!」
獪岳もまた、体中が血で赤く染まっていた。
彼はすべてが恨めしかった。
彼はすべてに不満を覚えていた。
自分を追い出した仲間を、自分を利用した鬼を、自分をあざ笑う者を、自分の価値を認めない者を、泣きわめくだけで努力もしない者を、すべてを蔑んできた。
それでも、彼はたった一人の孤独な世界で、自らの努力を惜しむことだけはしなかった。
生き恥を晒しても。
後ろ指を指されても。
それに耐え、勝つために、最後に勝利をするために、彼は血を吐く想いで己を鍛え続けてきたのだ。
誰のために。
なんのために。
そんなことはもう、わからない。
けれど、今は――。
『肆の型 遠雷』
『参の型 聚蚊成雷』
『伍の型 熱界雷』
童磨ですら視認の難しいほどの疾さで、雷を纏った剣戟が襲いかかる。
空気が幾度も破裂する。音の速度を超えた衝撃が飛び交い、耳をつんざくほどの衝撃が、里に時間を教えてくれた半鐘台を、皆で作り直した石畳を、花枝がいつも腰を下ろしていた石階段を――全てを吹き飛ばしていく。
けれど。
現実は、残酷だ。
「いつもだったら、今頃うっかりやられてたかもしれないけどさ。言ったよね。俺は今回、遊ばないって」
童磨は、血塗れだ。
腕はもげ、腹は焼け焦げ、その顔も半分ほどが吹き飛んでいた。再生にも時間がかかっている。
けれど、けれど。
『血鬼術 霧氷・睡蓮菩薩』
「そ、そんな……」
爆発が消えた頃。
花枝が見たのは、見上げるほどの巨大な氷像の菩薩と。
その手に鷲掴みにされ、血を流し続ける獪岳の姿だった。
「はぁ……はぁ……さすがに俺も、疲れちゃったけど。すごいよ、俺じゃなかったら……意外と、君たちは上弦相手にも勝てていたかもしれないね」
童磨とて、この戦いは相当に厳しかった。大技中の大技『霧氷・睡蓮菩薩』は役目を果たすと同時に崩れ落ちていく。
だが、彼の目の前にはもう、彼に刃向かう存在はいなくなった。
「でも……悲しいね、花枝ちゃん。上弦の弐っていうのは伊達じゃないんだよ。君の仲間はがんばったけれど、みんな負けてしまったよ」
張り付けにされた花枝の前で、わざとらしく同情の涙を流して見せる童磨の声だけが。
動く者のいなくなった境内に響いていた。
◇ ◇ ◇
「花枝ちゃんが泣いて頼むから殺さないであげたけど、残酷だなァ花枝ちゃんは。彼、そのまま殺してあげたほうが苦しみも少ないだろうに」
花枝が張り付けにされている氷の柱の下に。
もはや、生きているのが不思議な状態の獪岳が捨て置かれていた。脚はひしゃげ、身体の至るところが奇妙に曲がり、所々に骨も飛び出ている。
獪岳だけではない。
もう、境内に動く者はいなくなっていた。
花枝の目の前に広がるのは、切り刻まれ、砕かれ、無残な姿で氷漬けにされた仲間たちの姿だった。
不死身の存在である以上は、まだ生きてはいる。死んではいない。けれどもう、誰も動かない。
花枝は、童磨に命乞いをした。自分ではない、獪岳の命を助けてもらうためだ。
里の住民たちは全員、すでに覚悟を決めていた。そして彼らはたとえ切り刻まれたとしても、不死の身体だ。まだ、死んではいない。
それに――彼らとは、もう何度も話し合っていたのだ。本当に、本当にこの里を守り切れなくなったときの、最後の手段。それはまさにいま、動き始めている手段である。
けれど、獪岳だけは駄目なのだ。
獪岳だけは、そんな手段すら選べない。このままでは彼は間違いなく、無念のままに死んでしまう。
童磨は彼らをおいて一人、何かを探すべく河原の方へと行ってしまったが、しかし境内にはもう戦えるものなどいないのだ。
微かな風が、花枝の塗れた頬を撫でる。
「獪岳……ごめんなさい、ごめんなさい……わたしたちが、あなたを里に呼ばなければ……」
「……角姫……気にする、な。お前らと……暮らすのは、悪くなかったぜ……」
「獪岳……」
僅かな風が、動かなくなった住民たちを撫でていく。花枝の耳元に、彼らの消えかけた吐息を運んでいく。
あの日。
煉獄家で出会った獪岳の心には――彼の心の『幸せの箱』には、ぽっかりと穴が空いていた。
だから、花枝はずっと、彼の背中をぽんぽんと叩き続けた。
人間の世界で生き辛かった彼を迎え入れて、彼のいいところを沢山褒めてあげた。認めてあげた。
獪岳は、今でもその性格は大きく歪んでいて、お世辞にも真っ当とは言えないけれど。それでも彼の心の箱に空いた穴は、花枝が残した不器用な修復痕だけを残し、閉じられていた。
穴の閉じた箱で、人としての幸せを見つけてほしかった。
だからこそ、花枝は。
獪岳に謝罪をしなければいけない。
「ねえ、獪岳。わたしは今から、残酷なことをします……」
「角……姫……」
「人間を『あやかし』にするのは、トキジクの実だけではないんです」
「おま、え、なにを……」
「うっ……うぅっ……うぐっ……!!」
張り付けにされた花枝は、動けない。
だから花枝は。
己の舌を、噛み切った。
どぼどぼと、大量の血液が花枝の口からこぼれ落ちる。
足下で死を待つだけの獪岳の眼前に、花枝の真っ赤な血が、垂れていく。
「わ、たしの……血を、飲みな、さい! きっと、苦痛が……襲う、けど……それ、でも……!」
はるか昔。
花枝がこの
それが示す可能性は、一つ。
花枝の生き血は、苦しみと引き替えに――対象を直接『あやかし』化させる力を含んでいる。
「……俺は、あやかしに、なる……ん、だな」
「は、い……」
花枝は血を流しながら、小さく頷いた。
獪岳は、血塗れになった両手で器を作り、花枝の血を受け取った。
彼の腕は、至る所の肉が割け、骨も飛び出ている。きっと、耐え難い激痛があるのだろう。それを思い、口から血を流し続ける花枝の瞳からは、止めどなく涙が溢れ落ちる。
獪岳の手のひらに、花枝の血と、涙の雫が混じる。
「幸せに……して、あげられなくて……ごめんね……かい、がく……」
「いい、さ。……お前らの……仲間に、なるのなら……」
もう、命の灯火が消えかけていた獪岳が、ずるずると、動かぬ腕を引きずって。
儀式のように、地面に這いつくばり、頭を垂れるようにして。
花枝の血を、飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
『巫女鬼様。こうなったら最後まで、一緒ですよ』
『テメェら。最後の作戦なんだからよ、とちるんじゃねえぞ』
僅かな風が花枝の耳元に、微かな声を届ける。
仲間たちが、命を削ってまでここまで戦ったのは。勝ち目がない戦いを続けていたのは。
全て、最後に残された希望を掴むためだった。
すべて、このときのためだった。
すでに全身を凍らされ、切り刻まれ、動けなくなったはずの風見鬼が、最後の力で伝えてくれている。
まもなく、藤襲山に。
朝が来る。
*当作品はまだ終わりませんのであしからず、です