いったいどのくらいの時間、この隠れ里を探索していただろうか。
黄昏時のまま刻の止まったこの世界では時間の感覚が曖昧になるが、恐らく鳥居から外の世界へと出れば、
その結果、この隠れ里はなかなか広く、神社の周囲の森はかなり奥まで存在していることがわかった。少なくとも、町が二つか三つは入りそうな広さはある。
それより奥は深い霧に包まれており、進んでいくと気付けば再び神社の前に出てきてしまうので、霧が出ている範囲がこの隠れ里の終点のようだ。
「さすがに鬼の身体でも、ちょっとはしゃぎすぎて疲れました」
「ああ、俺もだ」
花枝と手鬼の二人は、この隠れ里を二人で探索してまわったあとで、境内にある大きな木の下に腰を下ろしていた。
藤襲山というひとつの山と比べれば決して「広大」と言えるほどではない。けれど、鬼も鬼殺隊もおらず、暖かい光の中を自由に動き回れるこの土地は、二人にとっては何よりも自由な世界だった。
「小川が流れてたのは驚きましたね」
「ここは巫女鬼の生まれ育った場所なんだろ? 知らなかったのか?」
「だってわたし、亡くなったのは七歳ですよ? 森の奥なんて、危なくて入れてもらえませんでしたよ」
「ああ、そういやそうだったな」
人間の頃の花枝は文字通り神社の箱入り娘であり、神社の周囲とはいえ森の奥など入ったことなどなかった。あったとしても、神社の建物が見える範囲で木の実や花を探し歩いた程度だ。
それが今では藤襲山の森の中で一年以上生活しているのだから、人生は生きていれば何があるのかわからないなというのが、花枝の正直な感想だ。
もっとも「鬼になった時点で人生は終わっていますけどね」とも思ったが、さすがに口にするのはやめておいた。
「でも、一番驚いたのはやっぱりこれですね」
「そういや、言ってたな。この木は実際の神社には生えてなかったんだったか?」
「はい。こんな立派な橘の木は見覚えがないですよ」
木の下に腰を下ろしたまま、手鬼のバッテンの瞳が真上を見上げる。
これは橘――いわゆる、蜜柑の仲間の木である。枝の合間には3つほどの橙色の実がなっているのが見えるが、それを見上げる花枝の表情は驚きと困惑だ。
この隠れ里は、建物も、森の形も、恐らくはそのほとんどが現実の
だというのに。境内に堂々と生えているこの橘の木は、実際の御霊矢神社には存在していなかったものなのだ。
それが何を意味するのかは、残念ながらさっぱりわからない。
「ねえ手鬼。あの実って食べられると思いますか?」
「言うと思ったぜ。とりあえず一つ、採ってみるか?」
花枝は、手鬼に期待の視線を向ける。
鬼舞辻無惨の血を注がれ鬼となった際、幸か不幸か花枝の外見はほとんど変わらず、七歳の幼子のままだった。
一方の手鬼は、人間の頃は花枝より少し年上という程度の子供だったはずだが、鬼となってからはそれよりも明らかに成長しており、花枝よりも当然背が高い。
そして何より、彼の能力である『手』は伸縮自在なのだ。木の上の橘の実をひとつもぎ取るなど、わけないことだった。
「藤襲山には橘の木なんてありませんでしたからね。甘くて美味しければいいんですけど」
「まったくだぜ」
花枝と手鬼は、人間を食べない代わりに、人間だった頃と同じものを食べることができるし、その味を楽しむことができる。
それが、この場にいる二人の鬼と、藤襲山に生息し、人間を食らって生きる一般的な『鬼』との一番の違いだった。
とはいえ。
藤襲山に閉じこもっている二人にとって、人間らしい食事をとる機会など、あるはずもない。最終選別に訪れたばかりの若者を襲えば何かしらの食料は得られたかもしれないが、花枝たちはそこまで墜ちてはいない。
そんな日々の中では。たまに森の中で見かける小さな木の実だけが、二人にとっては唯一の甘味であり、御馳走だった。
だからこそ、いま目の前に実っている『橘の実』への期待は高い。
「むう。鬼も鬼殺隊もどうでもいいですから、はやく、はやく! 橘の実を採ってくださいよーっ!」
「わかってるから落ち着けってんだよ」
◇ ◇ ◇
手鬼が首元に巻いた手の一本を真上に伸ばし、無造作にもぎ取った橘の実を二人でわけて食べる。
しかし、期待が大きかった分だけ、期待はずれだったときの落胆は大きいものである。
残念なことに、そこには期待していた甘さというものはなく、花枝も手鬼も眉を潜めるような味わいだった。
だが。
花枝と手鬼がそれぞれ眉をしかめた理由は、全く違うものである。
「うーん。なんだか、あんまり味がしなくないですか? 香りもなんだか鉄臭いですし」
「いや、お前、これは……」
橙色の皮を剥いて半分に分けた橘の実を、花枝はぺろりと一口でもぐもぐと食べてしまった。もともと小さい実だったので、花枝の小さな口でも問題なく一口で食べられた。
一方で、手鬼はその小さな実を一房ずつ、警戒するように食べていたのだが――。
手鬼の顔は強くこわばっており、橘を食べつつも、まるで別な何かについて深く考え込んでいるようだった。
「手鬼?」
「いや、その前に……巫女鬼。お前、半分ぺろりと喰ったが、大丈夫だったか?」
「はい? お腹の具合とかですか? 全然、なんともないですよ?」
「そうか」
手鬼はそれだけ言うと、残りの小さな房を口に放り込んで咀嚼する。
そしてやはり、先ほどと同じように眉を潜めている。
そんな意味不明な表情を見せられた花枝の心の中では、好奇心の鐘がゴンゴンと鳴り響いていた。
「わあ。さすがに気になります。さっきは何を言いかけたのか教えてくださいよ」
手鬼の膝をゆさゆさと揺すると、ようやく手鬼は顔を上げる。
そして、彼のバッテンの瞳が花枝をジッと見る。それはまるで、花枝の内臓でも覗き見ているのではないかというような、鋭い視線だった。
「……お前が食っても味を感じないのは当たり前だ。この橘の実は、お前の血肉の味なんだよ」
「はい?」
寝耳に水とはこのことだろう。
世の中で、家族のような間柄の相手とともに橘の実を食べたあと、甘いとか酸っぱいとかではなく「お前の血肉の味がする」と言われた経験のあるものは、かなり少ないのではないだろうか。
◇ ◇ ◇
「――ってわけだ。あの時はお前を食ってから丸数日はのたうちまわってな、本当に死ぬかと思ったぜ」
「それはまた、大変でしたね」
手鬼が今しがた語っていたのは、花枝の血肉を食べたときの体験談である。
人喰い鬼だった頃の彼が、藤襲山に運ばれてきた直後の花枝を食べたという話は花枝も既に聞いているし、今さらそのことについてどうこう言うつもりはない。
むしろ、いざ「お前の血肉はこんな感じの味だった」だの「お前を食べたら苦しみでのたうちまわった」だのという話を聞かされても、花枝としては反応に困る。
だが、この話の重要なところはそこではない。手鬼が苦しみで転げ回ったときの様子など今はどうでもいいのだ。
「じゃあ、じゃあですよ? この橘の実を食べれば、他の鬼も手鬼のように、健全な鬼になるっていうことですか? そういうことですか?」
「知るか。俺がわかるわけねえだろ」
「わあ。一刀両断。でも、仮にですよ? この実がその――わたしの血肉と同じ効果を持つとしたら、貴重ですよね」
「まあ……そりゃな」
二人は考える。
仮に、仮にだ。まだそれが事実かどうかはわからないし、実際には何の効果もないかもしれない。それでも、だ。
もしこの実を食べさせることで『人喰い鬼』を、自分たちと同じ『理性ある鬼』に生まれ変わらせることができるならば。
それは、非常に大変なことであるのは間違いない。
「……トキジクの実」
「あ?」
そこで、ふと。花枝が小さく呟いた。
「トキジクノカグノコノミ、です。知りませんか?」
「知ってると思うか?」
「まったく思いません」
「だろうな」
この一年間の間に築き上げた、互いに遠慮のない軽快なやりとりを挟んでから、花枝は「うーんと」と少しだけ考えて、改めて手鬼に今の呟きについて説明していく。
「日本の神話に『トキジクノカグノコノミ』という実がありまして――」
花枝とて日本書紀の話をしっかりと覚えているわけではないので、その説明はおぼろげな記憶で掻い摘まんだものだった。
はるか昔の天皇が、常世の国に存在するという『トキジクノカグノコノミ』を、ひとりの家来に探しに行かせた。
そして十年後、家来が持ち帰ってきた太陽の色をした橘の実こそが。まさに『それを食すことで不老不死になれる』という、トキジクの実であった。
「――っていう風なお話だったと思います」
「へぇ。不老不死の実……なあ。突飛な話だが、今となっては全く否定できねえな」
「ですよね」
手鬼は顔をあげて、まだ頭上に実っている二つの橘の実――いや、トキジクの実を下から覗き込んだ。
不老不死など、人間の頃にはあくまで物語として一笑に付していたかもしれない。だが、今は違う。
決して人が望むような形ではないかもしれないが、鬼というものは実際に不老不死なのだ。太陽に焼かれ、鬼殺隊の持つ謎の刀で首を切られれば死んでしまうが、逆に言えばそこに注意していれば、何十年でも、何百年でも生きられるかもしれないのだ。
「まあ『不老不死』はともかく、鬼にこのトキジクを食べさせたとき、鬼舞辻無惨の呪いが解けるかどうかはちょっと、試してみる価値はあると思います」
「しゃあねえな。なら一度鳥居から外に出て、適当に弱そうな鬼をボコボコにしてさらってくるか?」
「わあ、暴力的で大胆」
善は急げ、ではないけれど、手鬼はすっくと立ち上がった。
今の藤襲山は『最終選別』の真っ最中である。このときならば、山から鬼が唐突に一体や二体消えたとしても、誰も気にするものはいまい。
雷の呼吸の剣士のような出会いたくない相手もいるにはいるが、てきとうに弱い鬼を見つけてボコボコにするだけならば、大した手間もかからないはずだ。
そんな手鬼に続いて、花枝も石段からぴょんと跳ね下りる。
「じゃあ、さっそく藤襲山に戻りましょう。今が何時頃なのかも確認しておきたいですしね。ここはずっと空の明るさが変わりませんから」
「……ちなみに、外に出たらもう戻ってこられないとか、そういうアホな話はないよな?」
「え、ええと、多分、大丈夫だと思います……よ?」
「チッ。そこは断言しろよ」
「わあ。不満を隠そうともしない舌打ち」
そんな風にいつものような掛け合いを交わしながら。
手鬼と、巫女鬼。二人の鬼は再び、最終選別中の藤襲山へとその身を投げ出すのだった。
全ては、てきとうな鬼を見つけてボコボコにするために。