上弦が三体同時に消滅し、青い彼岸花が見つかった。その日を境に、各地の鬼の出没がピタリと停止した。
嵐の前の静けさという言葉があるように、今現在は鬼舞辻無惨もまた、来たる『その日』へと向けて水面下で準備を進めているのだろうというのが、耀哉、そして珠世の両名の考えだ。
その最中、鬼殺隊にて開始された合同強化訓練。
その名も――柱稽古。
それは鬼殺隊の柱より下の階級の全隊士を対象とした、最終決戦へと向けた特別な訓練だった。
◇ ◇ ◇
――水柱邸。
「よし、じゃあみんな。限界まで全集中、してね?」
広い庭に並べられた隊士たちが、各々の日輪刀を振るいながら全集中の呼吸を行っていた。炎。水。風。土。雷。中には百合といった稀少な呼吸も存在する。
彼らの間を、竹刀を手にしてにこやかに巡回しているのは鬼殺隊水柱・真菰だ。この水柱の下で行われる修行――それは、呼吸の強化である。
「あ、常中に至ってる子たちは次に進んでいいよ。ここは、常中に至っていない隊士を死ぬほど鍛える場所だからね」
真菰は、いつものようにどこかふわふわとした雰囲気を漂わせながらも、隊士たちの前を練り歩く。
ときおり、全集中の呼吸をしていない隊士を見つけた真菰が、笑顔のままで竹刀を振り抜く場面もあるものの、他の一部の柱が行っている血みどろの鍛錬と比べれば、彼女の課した修行は実に穏やかなものだった。
無論、続けていくうちに己の肺が弾け飛ぶほどの苦痛に襲われ、その場に崩れ落ちる隊士も続出するが、真菰はそこで無駄な罰などは与えない。ただ頭から水をかけて意識を取り戻させ、笑顔のままにもう一度、全集中をさせるだけである。
なお、特訓そのものは死ぬほど苦しく厳しいのだが、見栄えのいい真菰が非常に近い距離で助言をくれるためか、特に若い男性隊士の中では非常に人気の特訓だった。
「やっぱ、水柱はいいなあ。優しくて強いし、現場での臨機応変な判断力は群を抜いているってのは憧れるよなあ」
「なんか、ふんわりとしてるのも重要だぜ。
割り当てられた食事や休憩の時間には、そのような会話を交わす隊士も少なくない。
また、中には運の悪い隊士もいるもので――。
「あんな感じなのに年上っていうところがなんか、いいんだよ」
「そうそう、年齢の割に可愛いしね。年齢はけっこう上なんだけどな、もうすぐ三じゅ――」
が、彼の言葉はそこで途切れる。
何故ならば、気付けば彼らの輪の中に、にこやかな笑顔を浮かべている水柱・真菰の姿が増えていたからだ。彼女は音も立てず、何の違和感もなくそこにいた。とてもこわい。
「ごめんね、年齢がけっこう上で。君、次はどこにいくの? 鋼柱のところ? そっかそっか、特別厳しくしてもらえるように、錆兎に頼んでおくからね。嬉しいよね?」
「……ぁぃ」
口は災いの元という言葉を改めて噛み締める隊士もいたが、なんにせよ。
水柱による『死ぬほど呼吸の修行をするだけ』という特訓は、確実に、鬼殺隊士の実力の底上げに結びついていた。
また。
「……巫女鬼様。どうか、私たちのことも見守っていてくださいね」
ときおり、悲しげな表情で空を見上げる真菰の姿を目撃した隊士たちは、それからしばらくの間、余計に修行に身が入らなくなってしまったりもしたけれど。それはまた、別の話である。
◇ ◇ ◇
――狭霧山。
「ひぃいぃ! 死ぬ、死ぬ、本当に死ぬっ……!」
「到着が遅い! なんだそのザマは。男ならば、死を恐れずにもう一度駈け降りてこい! さあ、もう一度頂上へと上がってみろ!」
たったいま山を駈け降りてきた隊士が、汗と泥だらけになりながら、その場に崩れ落ちていた。
ここは鬼殺隊鋼柱である錆兎による特訓場だ。
特訓の内容は『狭霧山の頂点からここまでを、提示した時間内で駆け抜けろ』という、実にわかりやすいものだ。
だが、山を降りてきた隊士は皆、顔面が恐怖に彩られている。なにせ、この山には両手ではとても数えきれないほどの殺傷罠が設置されており、そんな山を全力で駈け降りねばならぬのだ。
「は、鋼柱! 山の途中で天狗が俺たちに攻撃を仕掛けてきたんですが……!!!」
そして中には、そのような天狗の目撃報告を述べる隊士もいた。
狭霧山にて目撃される天狗。それはもちろん、鱗滝左近次のことである。
「運が良かったな、あの人は俺の師だ! お前らの隙を突くのがうまいから、徹底的に弱点を攻撃してもらえ!」
「ひ、ひぃ……鬼やで、鋼柱は鬼やで」
「馬鹿を言うな。俺が鬼ならば、炎柱の屋敷では貴様等は鬼をも超える悪鬼羅刹を見ることになるぞ」
「ひ、ひぃぃぃ……」
錆兎は。そして鱗滝は。
心の中でどれだけ涙を流そうとも、その痛みはしまい込んだ。悲しむのも、想いを馳せるのも、それは今でなくともいいのだ、と。
だからこそ彼らは、鬼殺隊の勝利のために。
この日もまた、己の成すべきことに邁進する。
◇ ◇ ◇
――とある滝場にて。
炭治郎・善逸・伊之助の三人は滝壺の横で焚き火を囲い、他の幾人かの隊士たちとともに串焼きにした魚を味わっているところだった。
「死ぬ! このまま俺たちは悲鳴嶼のおっさんに殺されるんだあああ!!」
「大袈裟だなあ、善逸は。いくら冷たいとは言っても、滝に打たれてただけなんだから、きちんと呼吸をして足腰を踏ん張っていれば死んだりはしないよ」
「炭治郎、お前はもう原理の外側の人間だからそんなことが言えるんだよ! 俺らはただの人間だから冷たい滝でも死ぬんだよ!」
ここは岩柱・悲鳴嶼行冥による柱稽古の舞台である。
行冥の出した試練は、滝行・木材担ぎ・大岩圧し、の三種であり、行冥自身はあくまで隊士たちの監督に徹するものであった。
炭治郎たちは現在、その一つ目の滝行期間の真っ最中なのだが、その時点でさっそく善逸と伊之助は死にかけていた。
のほほんとしているのは炭治郎だけであり、善逸などは一度は三途の川のほとりに辿り着き、顔に百合の花が咲いたお姉さんに抱きついてビンタされた程である。なお、その衝撃で彼は生き返った。
「あの玉ジャリジャリ親父も多分人間じゃねえぞ。ギョロ目大魔王ほどじゃねえけど、今の柱の中じゃ最強だろ」
「伊之助ぇ! お前、槇寿郎さんのことを大魔王って呼ぶんじゃねえよ! あの人その響きを気に入って余計に稽古が厳しくなってんだからな!!」
善逸も伊之助も、なんだかんだと言いながらも逃げずに滝行を頑張ったのだ。
その結果、それぞれ心臓が一度は止まりかけていたのだが、どうやら元気に復活したようで炭治郎はとても安心している。
そこで炭治郎はふと、今名前が出てきた玉ジャリジャリ親父――もとい、悲鳴嶼行冥について善逸に聞いてみた。
「そういえば善逸。悲鳴嶼さんにさっき何か聞かれてただろ、何だったんだ?」
「ああ、なんか……兄貴について、なんだか念仏を唱えながら聞いてきたんだよ。どんな奴だとか、隊士になる前の話は聞いているか、とか」
「へぇ……」
「勘吉の兄貴ってのは、上弦の弐を打倒したんだろ。今度会わせろ! 俺が強さを見てやる!」
「兄貴は、ほら、今は色々あってさ。あ、伊之助、そこの魚いい具合に焼けてるぞ」
「お! さすがは勘吉、いいところに気付くじゃねえか!」
善逸の兄弟子、
彼はあの夜、
一般隊士にはそれ以上の話は伝えられていないのだが、彼の身内である善逸だけは聞かされているのだ。獪岳は
それは一般隊士は知らないことなので、説明を求められても、有耶無耶に誤魔化すしかない。
伊之助が魚に齧り付いているのを横目に、炭治郎が話を続ける。
「善逸と話してた悲鳴嶼さんからは、悲しみとも、怒りとも言えないような……こう言ってはなんだけどさ、なんだかあんまり前向きではない感情の匂いがしてたんだよ。もしかしたら、昔なにかあったのかな」
「俺も同じような音を聞いたよ。獪岳の兄貴は性格が最低だから、かなり色んな人に嫌われてるんだよ。すぐ人のことカスとか愚図とか言うし、桃を投げつけてくるし。きっと悲鳴嶼さんも昔、兄貴と何かあったんだろうなあ……」
炭治郎は善逸の兄弟子の性格がかなり悪いという話は初めから聞いていたので、今さらそれに驚くようなことはない。
さくり、と。焼き魚の尻尾を噛みながら、炭治郎は深掘りする。
「善逸は悲鳴嶼さんにはなんて言ったんだ?」
「それは……ううん、俺も兄貴の昔のことなんて全然知らないしさ。昔のことは知らないけど、爺ちゃんのところでは……その、真面目にひたすら修行してて、俺が尊敬している人だ、とは伝えておいたけど」
「菱餅、お前、何赤くなってんだ?」
「う、うるせえ! あと菱餅ってなんだよ呼び間違いにしたって無理があるだろうが!!」
結局、しんみりとしていた空気は伊之助の乱入と善逸の叫びによって有耶無耶になり。
この後、悲鳴嶼行冥が様子を見に来るまで、大騒ぎが続いていたのだった。
(こいつら、元気だなあ……)
炭治郎たちが元気すぎてびっくりした、とは。
共に魚を食べていた鬼殺隊士、村田の談である。
◇ ◇ ◇
――炎柱・煉獄邸
「はい、皆はレオタードに着替えて、まずは準備運動からねーっ」
「は、恥ずかしいけど、これはこれで……」
柱稽古とは現役の柱が教官となって、各自が隊士を厳しく鍛えるという主旨の訓練だ。
しかし、恋柱である甘露寺蜜璃は、あくまで自身は炎柱が目覚めるまでのつなぎだという意見は譲らない。
だからこそ、この柱稽古においての恋柱の訓練は、炎柱である煉獄邸で行われることとなった。
「戦う前には、きちんと関節をほぐさないと駄目なのよ。せーのっ!」
「ぎゃああああ!!」
蜜璃はお世辞にも、人にものを教えるのが得意な女性ではない。
また、彼女の特殊体質ありきの戦い方は、とてもではないが隊士たちの参考にはならない。
だから蜜璃は、自身の担当する訓練内容は、柔軟や基礎的な体操といった『本番前の体作り』に割り当てていた。
もっとも、身体が硬い隊士にとって、馬鹿力の蜜璃に力ずくで柔軟をさせられるのは、ただただ地獄のような特訓だったという。
そして。
この屋敷で特訓を行っているのは、蜜璃だけではない。
道場でレオタードの隊士たちが柔軟運動で体をほぐしている頃、十分に体がほぐれたレオタードの隊士たちは、広々とした庭で悲鳴をあげていた。
「ぎゃっ!」
「ひえええ!!」
「ひっ、ま、まってくだ――」
「待たない! 遅い! 弱い! 貴様は鬼に襲われたときに同じことを言うのか! そんな体たらくで、貴様は鬼から大切な人々を守れるのか!」
「ひゅー、ひゅー、こ、呼吸が……つづかな、くて」
「喋る余力があるなら呼吸をしろ! 貴様が全集中をやめたそのとき、その背にいる何百もの人々が命を失うものと知れ!」
「っぐ……は、はい……!」
そこには、木刀を構え、四方八方に覇気と暴力をまき散らす男の姿があった。
彼こそは元炎柱・煉獄槇寿郎。眠り続ける現炎柱の父であり、先の明治時代においては最強の鬼殺隊士とまで呼ばれた人物だ。
槇寿郎の稽古は、全員同時にひたすら彼と打ち合う実戦稽古である。
槇寿郎が持つのは日輪刀どころではなく、ありふれた木刀だ。だというのに、彼が振るったひと薙ぎで、周囲にいたレオタード姿の隊士たちが仲良く同じ体勢で吹き飛んでいく。この頓痴気な光景は、ここ数年で日本でも知られるようになった海外の喜劇映画をどこか彷彿とさせた。
「いいかお前たち。いつまでもそんな珍妙な姿で寝ている場合ではないぞ!」
「いえ、これは恋柱が……」
「無駄口を叩くな! お前らは、先に逝ってしまった数多の想いをその背に受け継いでいることを自覚しろ! 未来に生まれてくる子供らを守るため、その火を絶やすことなく繋ぎ続けろ! それこそが貴様等が成し遂げねばならぬ、いま生きている貴様等にしか出来ぬ仕事だ!」
「っ……はい!」
鬼気迫る表情で隊士たちを鍛える槇寿郎。
その心には、今もなお。
黄昏の陽が照らす、永遠の箱庭の姿が。はっきりと、残されているのだった。
◆ ◆ ◆
槇寿郎が鬼気迫る表情で隊士たちを鍛えていたその頃。
煉獄家の奥まった一室では、もう一つの"稽古"が開催されていた。
無論、それは稽古とはいっても、実際にはその部屋にいるのは眠り続ける杏寿郎だけである。
稽古の舞台。
それは、杏寿郎の見ている『夢の世界』だった。
夢の中の煉獄家の縁側に腰を下ろし、一人の少女がお茶を飲みながら話をしていた。
「――というわけで、わたしは死んでしまいました」
「俺はまた大切な時に眠っていたわけか! 情けないし、つらい! 穴があったら入りたい!」
夢の中で、杏寿郎は花枝からこれまでのことを聞かされていた。彼が眠っている間に上弦が続々と討伐されていったこと。戦いによって『あやかし』の里が消滅し、かの里の住民たちは皆、朝日のなかに消えていったこと。
もっとも、それをこうして説明しているのが消えた筆頭である花枝本人であり、その本人がかなり呑気にしているため、この状況には悲壮感もなにもない。
「でも、眠り続けているお陰でこうやってあなたも修行ができるのですし、いいじゃないですか」
「確かに!」
何故、花枝がこうして杏寿郎の夢に現れてゆっくりしているのか。
それは杏寿郎が『トキジクの実』を摂取し、花枝と深い繋がりをもった状態で長く眠り続けているからだ。その状況を逆手にとって、花枝は杏寿郎の夢の中に居着いているというわけだ。
残念ながら彼の父である槇寿郎は花枝との間に血の縁を持たない。また、花枝と繫がりが強いはずの獪岳はほとんど眠ることがない上に、彼は起きたときに夢をほぼ覚えていないのだ。
なお、杏寿郎は花枝に面と向かって説明を聞いていたわけではない。
彼はいま、花枝が縁側から見守っている先で。日輪刀をその手に構え、全身を汗まみれにし、ひたすらに『稽古』を行っている最中なのだ。
花枝は稽古中の杏寿郎に向けて、縁側で茶を飲みながらあれこれ説明していたわけである。杏寿郎が優しいから良かったものの、他の相手ならば邪魔だと追い出されていたことだろう。
花枝が見守る中で、杏寿郎の稽古は続く。
「杏寿郎。そなたの剣術には重心の癖がある。何を学ぶにせよ、まずその悪癖を正さねばならない。そこから徹底的に改善する」
「うむ、
「そしてせめて、戦いの中で常時『視える』ようになってもらう。厳しくなるが、覚悟してほしい」
「よくわかりませんが、覚悟ならばとうに出来ています! よろしくお頼み申し上げる!」
杏寿郎に教えているのは、かつての鬼殺隊に呼吸の技術を伝えた始祖――継国縁壱。
花枝が連れてきた縁壱は、煉獄家の先祖にはよくしてもらったと言い、その礼も兼ねてこうして杏寿郎に指導を行ってくれている。
夢の世界における時間の流れというものは曖昧だ。
杏寿郎と縁壱は休憩すら挟まず、それこそ何時間も。もしかしたら何日間も、何週間も。
基礎の姿勢からあらゆる技の練度に至るまで、徹底的に剣術の修行を続けていた。
その間、花枝はあまりに暇だったので、夢の中の煉獄家の台所であれこれ勝手に食べたり、勝手に屋敷内の蔵書を読みふけりながら、彼らの修行が終わるのをのんびり待っていたのだった。
◇ ◇ ◇
夢の世界で、一体どれくらい修行をこなしただろうか。
お陰で杏寿郎はかなりのものを形にできたらしく、縁壱もひとまず今回の特訓には合格点を与えてくれた。
あくまでここは夢であり、この場で得たものを起きてからも形に残せるかどうかは杏寿郎の精神力次第だが、それは花枝も縁壱も心配はしていない。杏寿郎ならば大丈夫だという確信があった。
「杏寿郎。あなたは間もなく目覚めるでしょう。その時には、槇寿郎のことをよろしくお願いしますね」
花枝たちが、杏寿郎の夢から離れるべきときが来た。
杏寿郎の前には花枝と縁壱が並ぶ。杏寿郎は地面に膝をつき、花枝と視線を合わせる。
「俺が目が覚めた世界には、伯母上はいらっしゃらないのですね」
「……はい。でも、こうして見守っていますよ」
杏寿郎は一度だけ、ギリ、と歯を食いしばる。
この夢が終わったとき。それが、御霊矢花枝との別れのときなのだ。目覚めた世界にはもう、花枝はいないのだ。
こんな悲しい夢があるだろうかと、杏寿郎の表情が微かに歪む。
もう、別れのときだ。
ゆっくりと、世界が白んできた。花枝と縁壱が、杏寿郎の夢から消えていく。
だから、杏寿郎は最後にひとつだけ、今まで伝えてこなかった言葉を述べる。
「俺は十歳の頃、何を隠そうあなたが初恋相手でした。そしてもう、あなたより素敵な女性に出会うことなどないかもしれません」
「わあ」
突然の告白に、花枝が口元に手を当てた。
それを見た杏寿郎は、満足そうに、少しだけ目を細め。
「お達者で。可愛らしい伯母上」
最後にそう、別れを告げて。
世界が白く染まるまでの僅かな間。
花枝と杏寿郎は、互いに笑い合うのだった。