『俺は……もっと……戦える、戦えるんだ……』
『こわい……こわい……嫌だ……』
『誰か、誰か、せめて、あの鬼の情報だけでも……』
そこには、嘆きと悲しみがあった。
そこには、今もなお戦いの終わりに気付かぬ者がいた。
そこには、仲間の勝利を願う祈りの声があった。
そして、そこには。
多くの勇士たちが眠っていた。
◆ ◆ ◆
「わあ、お化けがいっぱい」
この日、花枝と
何百人もの名が刻まれた墓石が所狭しと並ぶこの場所には、数多くの隊士たちが眠っている。
眠っているとは言っても、遺骨として埋葬された隊士の数は少ない。人喰い鬼を相手にし、その身を食われることなく仲間の元へと還ることができたのは、一握りの幸福な者たちだけだ。
花枝たちは、そんな墓地の中をゆっくりと進んでいく。
「思ったよりも皆さん、丁寧に供養されているんですね」
「そのようだ。だが……それは必ずしも、彼らの幸福に繋がっているわけではないようだ」
「ええ」
幸福な死とはなんだろうか。少なくとも、この地に眠る隊士の全員が幸福な死を迎えたわけではないことだけは、花枝にもわかる。
肉体を失い魂だけの存在となった花枝の前には、今も血濡れのまま墓地を彷徨い続ける、浮かばれぬ隊士たちの姿が数多く映っていた。
「この方たち、自分が死んでしまったことすら、あまりよくわかっていないみたいです……」
「そうか。死してなお、彼らは鬼たちに縛られているのだな」
「それに関してはわたしたちが言えた話じゃありませんけどね」
血濡れの彼らは皆、最期まで戦ったのだ。
死してなお、彼らは日輪刀を離そうとせず、誰かを守るために戦い続けている。
死してなお、死の恐怖に呑まれ、震え、涙を流しながらも刀を構えている。
死してなお、得た情報を伝えるべく、仲間の名を呼び続けている。
それは、とても悲しく、辛い光景だった。
花枝はその小さな手を震わせて、強く握りしめる。
「縁壱さん。わたしは……こんなの、絶対に許したくはありません」
「ああ。私もだ」
「全員を浄化しきるのはかなり時間がかかりそうですが、それでも……わたしは、彼らを見捨てたくありません。人として、絶対に」
死者たちは、その一人一人が全身に黒い呪いをまとわりつかせていた。運が良いと言うべきか、彼らと同じく魂の存在である花枝の浄化の力は、霊体である彼らに十分な影響を与えられるはずだ。
ただし、花枝が浄化の力をふるい、彼らを一人一人救っていくのにどれほどの時間がかかるかはわからない。途方もない時間がかかるかもしれない。
それでも、花枝は彼らを救うことを決意する。
しっかりと目の前の死者の姿を見据えて、一歩踏み出したところで――。
「なれば花枝殿。私がやろう」
手で花枝を制したのは、縁壱だった。
「ふぇ? あの、手伝ってくれるのなら嬉しいですけど、どうするんですか?」
「私には、これがある」
果たして、浄化の力など持たぬはずの縁壱がいったい何をどう手伝うというのか。
花枝が困惑気味に問うと、縁壱が花枝に見せたのは――日輪刀だった。
当然だ。生前の全盛期の姿をとっている縁壱にとって、所持品など日輪刀くらいのものなのだから。
だが、刀とは当然、相手を斬るためのものである。花枝はやはり、困惑しっぱなしである。
「ごめんなさい縁壱さん。とどめを刺して楽にしてやるとか、そういうのは駄目ですよ?」
「案ずるな。あくまで、彼らにこびりついた黒い呪いのみを切り落とせば良いのだろう。花枝殿、その浄化の力をこの刀に乗せてはくれまいか」
「え、切り落とすって、正気ですか? 理屈で言えばそうなんですけど……」
花枝は、とりあえずは言われるがままに縁壱の刀に浄化の力を付与するけれど、しかしその表情は不安と困惑で彩られていた。
全身に黒い呪いを纏った人間の『呪い』のみを切り落とせるならば、花枝がいちから浄化するよりも圧倒的に早く終わる。それは間違いないだろう。
ただし――そんな芸当をできる者がいるのならば、だが。
これは果物の皮だけ剥くのとはわけが違うのだ。
一歩間違えれば霊となった彼らを更に傷つけ、目も当てられない惨劇になってしまうのだ。
だというのに、浄化の力を与えられた縁壱は花枝の困惑など無視して。
いつものように、感情を見せない表情のままに、一歩。
一番近い場所を彷徨っている死者へと近づいた。
そして、一陣の風が吹いた。
◇ ◇ ◇
「率直に言って、人間業じゃないですね」
「なんということはない。私は生前から、このようなことは得意なのだ」
「もしかして、昔の炎柱の日記って誇張抜きの事実が書いてあったんですかね……?」
結論から言ってしまうと、有言実行。縁壱は本当に、彼らにまとわりついていた漆黒の呪縛のみを斬り離し、彷徨う霊たちを救い出した。
その剣の動きは瞬きをしていると見逃してしまうほどに疾く、正確だった。いや、花枝などは瞬きもせずに見ていたにも関わらず、縁壱の剣戟が一切見えなかったほどである。
人間の域を軽々と飛び越えた神業を目にした花枝が目を丸くして驚いている間にも、縁壱は次々と、呪いに蝕まれた者たちを救っていく。
彼らを縛り付けていた呪いさえなくなれば、あとは楽なものだった。
『ありがとう、俺は、最後までやれたんだ……』
『もう……こわくない。ああ、光が見える』
『ああ、よかった。あの鬼は討伐されたのだな……』
花枝がひたすらその手で彼らに触れて回り、ぽんぽん、ぽんぽんと最後のだめ押しとなる浄化を施していく。
すると、隊士たちの瞳に光が戻り、血濡れだった彼らは生前の姿を取り戻す。
そして皆、己がすでに死者だということを理解する。
悔しさに泣く者もいる。思いもよらぬ事実に愕然とする者もいる。決して、悔いが残らないわけではない。
それでも――そこにはもう、痛みも、苦しみも、残ってはいなかった。
「鬼殺隊の皆さん。あなたたちの戦いは無駄ではありませんでした。まもなく必ず、皆さんの想いを受け継いだこの時代の隊士たちが、鬼舞辻無惨を討伐します」
墓地を彷徨っていた彼らに向けて、花枝は声をあげた。
隊士たちの前で、小さい巫女が声を張り上げている。その額から鬼の角が見えていたとしても、そこにはその巫女を敵と考えるものなどいない。
「この時代を生きている隊士たちは、皆さんの残した想いや技術、様々なものを受け継いで、いま、未来を、つかみ取ろうとしています」
花枝の声が、死者たちの心に滴を垂らす。
それはきっと、希望の滴だった。
「ですから――」
多くの隊士たちが、花枝を見つめていた。
「皆さんはもう、安心して、旅立ってください」
花枝の言葉が伝わったのか。それとも、呪いを浄化した時点で、彼らの道は開けていたのか。
彼らは皆、柔らかい表情を浮かべて。
彼らはそのまま、静かに。
光となって、消えていった。
墓地には静かなそよ風が吹き、小さな枯れ葉を運んでいく。
そこにはもう、誰もいない。
◇ ◇ ◇
「縁壱さんは、優しいですね」
「優しいのは花枝殿だろう。私はそなたのやろうとしたことを、手助けしたまでのことだ」
「ふふ。じゃあわたしたちは、二人とも優しいんですね」
「……そうか。そういう考え方で、良かったのだな」
静かになった墓地の中を、花枝と縁壱は手を握ったまま、微笑みながら、ゆっくりと歩いていく。
けれど、すぐに花枝はまじめな声色に戻る。
「――さて、縁壱さん。雑談はひとまず終わりましょうか」
彼らがこの日、この墓地へとやってきたのは決して、浮かばれぬ英雄たちを救うためではない。彼らを救うことになったのは、あくまでなりゆきだ。
花枝は、墓地の入り口へと視線を向ける。
「ようやく、もう一人。とびきり優しく、賢く、そして愚かな人間がきましたよ」
花枝の視線の先。
そこには、妻に押してもらい、車椅子に座ったままの姿の男性――産屋敷耀哉の姿があった。
◇ ◇ ◇
「すまないね、あまね。完全に動けなくなる前に、最期にもう一度だけ、彼らを見送りたかったんだ」
「いえ。あなたの手足として最後までお供いたします」
鬼殺隊の当主であり、産屋敷耀哉。彼はこの日まで、毎日のようにこの墓地へと足を運んでいた。
そして、その日課はおそらく――この日で終わりを迎えることとなる。もう、これ以上は彼の身体がもたないのだ。
耀哉の身体はすでに全身がただれており、顔にも包帯が巻かれている。広がる景色は全て、車椅子を押す妻のあまねが言葉にして説明していた。
柱合裁判の日に
彼の身体は、限界を迎えたのだ。
だが。
全てを喪ったからこそ、見えるようになったものもある。
「おや?」
「いかがなさいましたか?」
耀哉の気づきに、あまねが問いかける。
「あまね。この場に我々以外に、誰かいるのかい?」
「……いいえ、人払い済みですから、他には誰もおりません」
「……そう、なんだね」
あまねには、耀哉の言葉の真意はわからない。
けれど、彼女が夫として選んだこの人物が、天恵とも言うべき、人にはない感覚を有していることを知っている。
だから、あまねは何も言わず、何も聞かず。
静かに彼の背後に立ち、彼の望むとおりに車椅子を押していく。
そして、耀哉の言葉通りに車椅子は進んでいき、大きな銀杏の木の下で止まる。
「そこに、いらっしゃるのですね」
耀哉は迷いもなく。
誰もいないはずの銀杏の下へと向けて、声をかけた。
◇ ◇ ◇
「わあ。耀哉はわたしたちのことが見えているんですか?」
「……いや、彼はいま、視力でものを見てはいない。あくまで常人には備わっていない特殊な感覚によるものなのだろう」
「なるほど」
いきなり耀哉に話しかけられた花枝は、少しびっくりして縁壱の脚にしがみつく。
縁壱も花枝を拒むことはなく、落ち着かせるようにそっとその髪を撫でながら。しかしその眼は冷静に、耀哉の姿を観察していた。
縁壱の眼には、呪いで朽ちかけている耀哉の体内までもが視えている。
彼は少しだけ無念そうにその眼を伏せるが、しかし再びまっすぐ、この時代の当主へと視線を向けた。
花枝も落ち着いたのか、縁壱の手をとったまま、しかし彼の脚にしがみつくのはやめた。
「どちらにしても、耀哉のほうから気づいてくれたのならありがたいですね。今日は彼に、最後の挨拶をしにきたわけですし」
大きな銀杏の木の下にいたのは、花枝と縁壱だ。
無論、今の彼女らは魂だけの存在だ。幽霊、怪異、あるいは守り神に近いなにか。そのような存在だ。
しかし、車椅子に座る耀哉には、はっきりと。
花枝と縁壱の姿が、感じ取れていた。
耀哉は、誰もいないはずのその場所に、語りかける。
「あなたたちが授けてくれた、あやかしの血、呼吸の力。それぞれの力がいま、鬼舞辻無惨を追いつめようとしています」
花枝も、縁壱も。
静かに押し黙り、耀哉の言葉に耳を傾ける。
「どうか、許されるならば。最期まで、最期まで――我ら鬼殺隊の……勝利を、見守……っ……ぐふっ……」
「耀哉様! 血がっ!」
「くっ……はぁ、はぁ……すまない、あまね……」
「耀哉様、これ以上はお体に障ります。もう、もう……どうか、ご自愛を……」
途中、やはり相当無理をして言葉を紡いでいたのだろう。
耀哉は吐血し、あまねが泣きそうな顔ですぐに耀哉の前に回り込む。遠くから、血相を変えた隠たちが駆けてくるのが見える。
あまねとて、本当はこれ以上耀哉に無理をさせたくはないのだ。そんなのは当たり前だと、花枝は想う。
出会いこそ特殊だったのだろうが、あまねが耀哉を心から愛していることくらい、わかる。
花枝はだから。
縁壱を掴んでいた手を離すと、耀哉の元へと歩み寄った。
もちろん、耀哉にも、あまねにも、花枝の姿は見えていない。花枝の声は聞こえていない。
それでも花枝はかまわず、浄化の力を持つ小さなてのひらで、優しくそっと、耀哉に触れた。肉体を持たない花枝の浄化はとても微々たるもので、効果という効果もないだろう。
だとしても。せめて、耀哉の苦しみが緩和するように。あまねの悲しみが、これ以上降り積もらないように。祈りを込めた。
「ねえ、耀哉。これ以上あまねを悲しませないであげてくださいね」
耀哉にはきっと、死者である花枝の言葉など聞こえてはいない。
花枝はそれでも構わず言葉を紡ぐ。
「わたしたちも、あなたの覚悟はわかっています。わたしたちはもう、あなたの決断を否定はしません」
花枝と縁壱はこの日、この言葉を伝えるためにこの地へと訪れたのだ。
もちろん耀哉にこの声が伝わる保証などはない。それでも、花枝は耀哉にこの言葉を伝えたかった。
「ですが――生きている限り、最期まで足掻きなさい」
花枝は、耀哉がやろうとしていることを知っていた。
「全てを犠牲にすることを否定はしない。それでも、諦めてあなただけ眠りにつくなど、このわたしが許しませんよ、産屋敷耀哉!」
強くその名を呼びながらも、花枝の手が、耀哉へと浄化の力を注ぎ込んでいく。
湖畔の水を小さな柄杓で掬うようなものだ。いや、柄杓どころか、さじ一つ分もないかもしれない。肉体を失った花枝が現世に与えられる影響など、たかがしれているのだから。
だとしても、きっと。
耀哉には、この想いは伝わっていると、花枝は信じることにした。
そして、耀哉がこの墓地を訪れるのは、この日が最後となる。
そして。
彼の身体が爆炎に消えゆくことになるのは、これからひと月後。
大正六年、年が明けてすぐのことである。