空気の冷え込んだ、冬の夜。
産屋敷邸では、二人の男が対峙していた。
かたや、布団から上半身だけを起こした姿で妻に支えられているのは、産屋敷耀哉。その身体中に包帯が巻かれており、露出しているのはもう、包帯の隙間からのぞき見える右目だけである。
その瞳は呪いの影響か、すでに人のそれではなくなっていた。
妻のあまねは目を伏せ、ただ彼の身体だけを支えている。
そしてかたや、夜風を浴びて黒い外套を揺らし、洋装に身を包み現れたのは、鬼舞辻無惨。
月の隠れた夜の闇の中、無惨はひとり耀哉の前に現れ、眉をひそめて不満げな視線を向けている。
「やあ、鬼舞辻無惨。すまないね……このような、弱々しい姿で」
「実に惨めな姿だな、産屋敷」
「君の姿は……私の想像通りだよ。不思議なことに、初めて会った気がしないんだ」
「ふん」
無惨は不快そうに鼻を鳴らし、周囲に視線を向ける。
庭には着物姿の娘が一人、こちらに背を向けて鞠で遊んでいるが、娘の他に動くものはいない。
そして、横たわる耀哉の枕元に一体と、目の前に延びる縁側の両端にそれぞれ一体。視界内だけでも計三体の"木像"が置かれている。
巫女の衣装を着た幼子の像だった。その額には小さな角が生え、それが鬼であることを窺わせる。
「産屋敷。貴様はその不快な像を並べて、この私を追い返そうとでも考えているのか? いったい幾つ、この屋敷にそれを置いている」
――角姫像。
無惨は耀哉の側へと手をかざすと、その枕元に置かれた角姫像を一つ、粉々に粉砕する。
「……死んだ上弦が言っていた。生理的に受け入れがたい匂いのする木像が世に出回っているとな。くだらん妄言ばかり吐く鬼ではあったが、なるほど確かにこれは不快だ。鼻が曲がりそうだ」
「角姫像を壊しても意味はないよ、無惨。あくまで、鬼を寄せ付けないのはこの素材となる聖木の香りだからね」
「そうか。実に不快な屋敷だな」
意味がないと言われてもなお、苛立たしげに眉をひそめた無惨は縁側の先にある二体の角姫像へと手を向けると、極細の触手をしならせその木像を粉砕する。
砕け散った木片が縁側へぱらぱらと散らばる音と、鞠が地面で弾む、娘の一人遊びの音だけが、夜の帳に響く。
空からは、白い雪が降り始めている。
「ところで無惨。万世極楽教という宗教の信者が集団で不審死したという事件を知っているかい? 少し前に、巷を騒がしていたのだけれど」
「ああ。貴様らが討伐した上弦の弐――童磨は実に不愉快な男だったが、しかし非常に良い知らせを私にもたらしてくれた」
耀哉の出した話題に、一見無関係そうな内容の言葉を語りながらも、無惨はここへきて初めて口元に笑みを浮かべる。
全てをあざ笑うような、見下すような。傲慢な笑みを浮かべる。
「なので褒美として私自ら、奴の行方を捜していた信者どもを教祖の元へと送ってやっただけのことだ」
「そうかい。君が部下のために動くだなんてね」
「ああ。あれはすばらしい情報を残して死んでいったからな」
無惨は、その獰猛な目を細めて、一歩。
耀哉へと向かい、歩き出す。
「逃れ者として生きていた"御霊矢花枝"をあぶり出し、奴らが隠し育てていた"青い彼岸花"を見つけだした。私としても、実に千年ぶりに、気分のいい朝を迎えたものだ」
「花枝様は多くのものを私たちに与えてくださった」
「だが死んだ」
音もなく。
無惨は、耀哉の前に立っていた。
そして、その手を耀哉へと伸ばす。
「産屋敷。青い彼岸花を出せ。貴様が出さぬなら横の女を鬼にして場所を吐かせるだけだ」
「私があれを焼却したとは思わないのかい? 無惨」
「思わない。認めたくはないが、貴様と私は考えが通じる部分がある。私に対する最終手段と成りうる花を、貴様がみすみす手放すわけがない」
「そうだね」
耀哉は、慌てた様子もなく。懐から、一つの包みを取り出した。
「……私のほうでもこの花を存分に研究させてもらったよ。そして、出した結論なんだけれどね」
そこに包まれているもの。それはまさしく、あの日、藤襲山で滅び行く童磨が落としていった花だ。
すでに枝は枯れ、鮮やかな青を残す花も乾燥しており、少し触れるだけで崩れ落ちていく。
けれど、それは間違いなく。
無惨が千年以上もの間、探し求めてきた『青い彼岸花』である。
「この花は――君を討伐するための、決め手となる」
「そうか、それは残念だったな。この花はもう、私のものだ」
「ああ、構わないよ。その花はたった今、役目を果たしたからね」
耀哉の言葉に、無惨はほんの数拍ほど考え込むが、それだけだ。
包帯を巻かれ、今にも死にかけている耀哉の手からその包みをもぎ取ると。
無惨は耀哉の命を刈り取るために、その手をのばし。
そして、刹那の後。
つい今し方の疑問の答えを――耀哉の言葉の意味を、知ることとなる。
◆ ◆ ◆
『緊急招集ゥゥゥッ!!』
『産屋敷邸襲撃ィ!! 鬼舞辻無惨ガ、産屋敷邸ヲ襲撃ィィィィ!!!』
炭治郎たちが。数多の鬼殺隊士たちが。
そして、最強戦力たる柱たちが。
鎹鴉の報告を受け、産屋敷邸へと駆けつけたのは。
産屋敷邸は、鬼舞辻無惨もろとも。耀哉も、あまねも、爆炎に巻き込んで。
全てが消し飛ばされた瞬間だった。
◆ ◆ ◆
炭治郎がそこに駆けつけたときには、そこは炎の中だった。
崩れ落ち、原型すら留めない産屋敷邸。その中央に立つのは一人の男――鬼舞辻無惨。
耀哉がその身を犠牲にし、全てを吹き飛ばす炎を用いてもなお、鬼舞辻無惨は生きていた。いや、すでにもう、爆発による傷は再生されつつあった。
しかし、全てが元のままではない。
無惨の体には、赤黒い血のような色をした巨大な棘がいくつも突き刺さり、彼をその場に縫い止めていた。
炭治郎も、柱たちも知りはしないが、それは浅草で無惨により鬼にされた男性の血鬼術だ。それを珠世が抽出し、己の力としたものだ。
そして、無惨がその巨大な棘を体内に吸収し無効化しようとしたそのとき。
無惨の身体に、一つの腕が突き刺さった。
「珠世! なぜお前がここに……! まさか、貴様までもが鬼殺隊と繋がっていたというのか……!!」
それは、珠世。無惨の呪いから脱却し、数百年もの間、その姿をくらましていた鬼が今、無惨の体内に『なにか』をねじ込んだ。
「状況はもう変わったのですよ!
「ふざけた、ことを……!!」
「お前が吸収したのは、お前の全てを消し去り、無力な存在へと堕とす薬です! ははは、お前はこのまま、力を失っていくがいい、無惨!!」
「下らぬ真似を!!」
作り出した薬を間違いなく吸収させるため、珠世の腕が無惨の胴体に深々と食い込んでいる。無惨が棘から逃れるためには、この薬もろとも吸収せざるを得ない状況を、珠世が作り出したのだ。
彼女が握り込んでいたそれは、鬼舞辻無惨を滅ぼすためだけに調合された薬だ。呪いを浄化する薬。鬼を人間に戻す薬。他、鬼舞辻無惨を殺すためだけに生まれた幾つもの薬を珠世が組み合わせ、改良し、この日のために調合したものだ。
まんまと珠世にはめられた形になる無惨が、表情を怒りに染め、珠世の頭を握りつぶそうとする。
そして、己の腹部に食い込んだ珠世の腕ごとその全身を吸収し、食らいにかかる。
「ならば珠世!! 貴様はこのまま私に吸収されて、貴様が手を組んだ鬼殺隊が全滅する様を私の中からじっくりと眺めて――」
無惨の言葉は、そこで途切れる。
珠世の頭につかみかかっていた無惨の腕が、何かに撃ち抜かれ、吹き飛んだ。
同時に、無惨に食い込み外れなかった珠世の腕もその途中から吹き飛び、腕を失った珠世の身体は無惨から引き剥がされていく。
未だ血の棘に貫かれたままの無惨が見たもの。自分の腕を吹き飛ばしたもの。
それは――鞠だ。
「珠世様は返してもらうぞ! 鬼舞辻!」
「なん、だと……?」
無惨は驚きを隠そうともせず、その両目をギロリと見開き、その鞠の持ち主を睨みつける。
それは、少女の鬼だった。身体のほとんどは先の爆発で焼けただれた状態だが、しかしその顔には、そしてその鞠には、確かに見覚えがあった。
「貴様……朱紗丸だと?! くっ、どういうことだ」
それは、朱紗丸。
かつて炭治郎の命を討てという指令を出したはいいものの、無様に返り討ちに遭い、その場で反応が途切れた少女の鬼だ。
無惨の言葉を盲信する無様な鬼だった。所詮は十二鬼月にも届かぬような鞠遊びしか能のない鬼だったかと、無惨はその反応の消失を気にも留めはしなかった。
だが。
いま、目の前で。その朱紗丸が、その両の腕で珠世の身体をしかと抱きしめている。
憎しみの籠もった瞳で、その涙を隠そうともせずに、鬼舞辻無惨を睨みつけていた。
「この方は、私に救いをくれたんじゃ! 私に優しさをくれたんじゃ! 私の命に代えてでも、珠世様は絶対に守る!!」
「く……くく、くははっ」
吠える朱紗丸に対して、無惨はくつくつと笑い始める。
無惨の身体を貫いていた血の棘は珠世がねじ込んだ薬もろとも、すでに彼の体内に吸収されている。
産屋敷邸の爆発で負った肉体の破損もまた、すでに完治している状態だ。
鬼舞辻無惨の肉体は完全に再生し、体内に吸収された『薬』の効果は、まだ出ていない。
「はははは、ははは! ……笑わせるではないか、朱紗丸、貴様のような無能が何を出来ると言うのだ?」
無惨の身体から、触手が伸びる。
触手が朱紗丸の身体を打ち付け、鮮血が飛ぶ。
朱紗丸は両手で珠世を抱きしめ、背中から生えた四本の復腕で鞠を投げようとするが、しかしその腕は、鞠を投擲する間もなく切断される。
「あぐっ」
「貴様は、私の恐ろしさをもう忘れてしまったようだな、朱紗丸よ」
無惨が炎の中を歩き、珠世を抱きしめ続ける朱紗丸を正面から憎々しげに睨み付けている。
そして、珠世と朱紗丸を自らの手で直接ひねり潰すべく、その腕を巨大な蛇のような異形へと変化させた瞬間――。
『炎の呼吸 壱ノ型・不知火』
鬼舞辻無惨の頸が、炎とともに切断された。
「……実に、邪魔の多い夜だ。鬼殺隊……無限に湧き出てくる虫けらどもが」
頸が切断された。
だというのに、刹那の間にその頭部は再生され、ギロリとその炎の刃の主を睨みつける。
そこには、黄色と赤の髪色に、白と赤の燃えるような色合いをした羽織を翻した、一人の隊士の姿があった。
無惨もその姿は部下の瞳を通して見たことがある。
上弦の参――猗窩座がその胸を貫き、殺したはずの男。炎柱が、そこにいた。
「よもやよもやだ! 眠りから目覚めて最初に刃を向ける敵が、まさか鬼舞辻無惨だとは! 世の中何があるか、わからない!」
「なるほど、そうか。貴様は"御霊矢花枝"が生み出した鬼か」
その炎柱の額には鋭い角が生えていた。それは間違いなく"鬼"である証明だ。その顔には、まるで炎を象ったような痣が浮き出ている。
そして、その煌々と燃える瞳が、いま。
「炎柱・煉獄杏寿郎の名にかけて、貴様を討伐させてもらおう! 鬼舞辻無惨!」
まっすぐと、全ての悲劇の元凶。
鬼舞辻無惨へと、向けられていた。
◆ ◆ ◆
その燃えさかる産屋敷邸を見下ろす、一組の男女がいた。
御霊矢花枝と、継国縁壱。ぎゅっと手をつなぎ、一見すれば年の離れた兄妹のようにも見える組み合わせの彼らは、しかし。
この世界を長く眺めてきた、すでに人ならざるものたちだ。
彼ら二人は空の上から、鬼殺隊の戦いを見守っていた。
「始まりましたよ。縁壱さん」
「ああ。今宵、間違いなく――鬼舞辻無惨の討伐は果たされる。果たされる、べきだ」
花枝の視線の先では、煉獄杏寿郎が、無惨に対し日輪刀を構えている。
子供の頃から知っている杏寿郎が今、炎の中で、鬼舞辻無惨と対峙しているのが見える。
縁壱とつながれた花枝の手に、知らず知らずのうちに力がこもる。
産屋敷邸へと向けて、炭治郎が、禰豆子が、義勇が、錆兎が、真菰が。
いや、彼らだけではない。花枝と関わりがあった隊士も、花枝と出会うことがなかった隊士も。
皆が、決死の表情で走っている。
「縁壱さん。この子たちは皆、本来はもっと幸せに生きる権利があったはずなんです」
今、遙か離れた地では。
見知らぬ多くの隊士たちが、鎹鴉に呼ばれるがままに、夜の山を駆けていた。
蝶屋敷からは、あの施設を手伝っていた隊士の少女たちも、それどころか、怪我が癒えきっていないはずの隊士たちまでもが飛びだし、鎹鴉の誘導のままに夜の街を駆けだしていく。
皆が、悟ったのだ。
たった今、この時。鬼舞辻無惨との最後の戦いが、始まったのだと。
「花枝殿の言うとおりだ。彼らは、仲間や家族とともに、幸せな生活を送るべきだったのだ。あの男さえ、鬼舞辻無惨さえいなければ……」
縁壱も、花枝も、悔しさを隠せない。
もはや肉体を持たない彼らは、現世に多くは干渉できないのだ。
この数ヶ月。
花枝と強い縁を持った者たちの夢枕に立ち、彼らを鍛えることはしてきた。彼らが起きてからそれを覚えているかはわからないけれど、それが今の花枝たちにとっては精一杯の助力だった。
けれど、けれど。
いざ、自分たちよりも若く、未来のある彼らが死を覚悟している姿を見ると、底のないほどの悔しさが、心の底から声をあげる。
何もできない今の姿が、口惜しい。
彼らを置いて死んでしまったことが、口惜しい。
「私も、花枝殿も、人ならざるほどの力があった。けれど、私たちはしくじった」
「そうですね。わたしは、もっと、もっと早くから……鬼殺隊に、手を差し伸べるべきだったんです……」
「……だが、終わりではない。花枝殿。これは君の力だ、君への祈りだ」
「はい」
縁壱の言葉に、花枝は顔を上げる。
目で見えるようなものではない。けれど、感じるのだ。花枝と手を繋いでいる縁壱にもまた、この力が流れ込んでいるはずだ。
最後となるこの夜に、角姫への信仰が。巫女鬼への願いが。
花枝の元に、少しずつ、少しずつ、確かな力となって集い始めている。
数多の祈りにより、御霊矢花枝の力が復活しつつある。
「わたしには、まだ……役目があるのでしょうか」
「ああ。もしかすれば――私はあの黄昏の世界で君と出会うために、生まれたのかもしれない。時代を超えて、この日、この夜を迎えるために、生まれてきたのかもしれない。私は、そう考えている」
「縁壱さん、だったら、だったら、わたしたちも……っ!」
花枝たちの眼前で。
炎の中に到着した炭治郎が、禰豆子が、柱たちが。
鬼舞辻無惨と戦い始めている。
そして、そこに開かれたのは、異界への入り口だ。
花枝の隠れ里とも違う、それは広大な城の姿だ。
「行きましょう! この夜こそ、わたしたちが与えられた役目を、果たしましょう……!」
「無論、是非もなし」
そして、
鬼たちの住まう世界――無限城へと、まっすぐに飛び込んでいくのだった。
次話は10月5日(月)23時更新予定です