――無限城の最奥部にあたる吹き抜けの回廊で。
真菰、錆兎、義勇。
鱗滝左近次に保護され、彼の元で水の呼吸を学んできた『狐の子』たちは、今や三人ともがその顔に痣を宿し、その瞳は『透き通る世界』へと入門するに至っていた。
けれど、それでも。
巨大な肉の繭から上半身のみを出し、そこから動く気配すらない鬼舞辻無惨たった一人に。
彼らは、いいように翻弄されていた。
◇ ◇ ◇
「くそっ、奴が動けないうちに叩けるかと思ったが、長細い管が随分自由に動きやがる」
「大丈夫、落ち着いて! 所詮は本体が襲ってくるわけじゃない。動けないのは間違いないよ……っ!」
「くるぞ……っ!」
真菰、錆兎、義勇の三人は今、縦横無尽に飛び交う幾つもの触手に苦戦を強いられていた。
鬼舞辻無惨の背から生えた、血管を思わせるような触手。その先端には、鋭い牙を思わせる骨が付いている。
空気を斬り裂く音を鳴り響かせ、鋼より固く鋭い牙で対象を斬り裂き、触れるもの全てを破壊するそれらを掻い潜りながら、真菰たちは戦い続けていた。
それぞれが壁や梁を足場として吹き抜けの空間を駆け抜け、宙に浮かぶ巨大な肉の繭へと接敵するものの、空中は完全に無惨の支配領域だった。
人間とは、決して空を飛べるようには作られていない。
だからこそ彼らは、数少ない足場を駆使して戦い続けているのだが、"点"でも"面"でもなく、"空間そのもの"を削ぎ尽くすような無惨の攻撃は、熾烈だった。
幾度も血飛沫が飛び、地面に叩きつけられる。それでも、三人は止まらない。彼らが止まる時。それは、より大勢の命が失われる時なのだ。
どれほど身体を斬り裂かれ、貫かれようと、彼らは足を止めることだけはしない。
『水の呼吸 玖ノ型 水流飛沫・乱 泡沫』
『水の呼吸 拾壱ノ型 凪・波折り波濤』
『炎の呼吸 水ノ参 流流舞い』
真菰が壁や柱を飛び石のように駆け抜け、触手の合間を抜けて肉繭を地に堕とさんと斬り裂いていく。
姉弟子に続くように駆けあがった義勇によって、真菰を襲う幾つもの鞭がまとめて斬り落とされる。
そして錆兎が、まるで赤熱する溶岩の如き流れの剣戟で、その触手を操る本体――上半身を露わにしている鬼舞辻無惨を相手取り、正面から斬撃を繰り出していく。
それはまさに、同一の師――鱗滝左近次の弟子同士だからこそ可能な、互いの動きを見ずとも把握した連携だった。
壁と繋がれた部位を大きく斬り裂かれた繭はだらりと傾き、そこから濁流のように鮮血を吹き出している。無惨の上半身もまた、錆兎によって大きく肩口に裂傷を受けているのが見える。
だが、赤黒い血を振りまきながらも、鬼舞辻無惨本人は一切の動揺をみせはしない。
斬り裂かれた無惨の身体がまるで逆再生のように回復していき、巨大な肉繭は再び回廊へとその肉の紐を繋げていく。
「くそっ、あの鞭のような触手も厄介だが、足場がないのが痛いな」
「どうにか……落とすしかないだろう」
「二人とも、例の薬はもう打ってるよね。まだなら早くっ!」
奔りながら、戦いながら、狐の子たちは互いに声を掛け合っている。
だが。
「一つ聞きたいのだが、貴様らは一体何のためにそんな無意味なことをしている?」
互いを知り尽くした家族のような連携を組み立てる三人に向けて、無惨の声が吹き抜けに響き渡る。
「……なに?」
「聞くな義勇、こいつの言葉など戯れ言だ」
力を溜めていた義勇がつい反応の声をあげるが、しかしすぐに錆兎にたしなめられる。
それでもなお、三人の剣士を見下ろす無惨は、相手の反応など構わず一方的に言葉を投げかける。
「確かに、私の繭は貴様らに斬られ多少の血を失った。さすがは鬼殺隊の柱だと認めてやってもいい。だが――逆に言えばその程度だ。貴様らは巨大な湖の水を柄杓で汲み上げ喜んでいるだけに過ぎん。見ていて実に哀れだ」
淡々と、無惨は語っていく。そこに感情はなく、ただただ彼にとっての事実を述べているだけだ。
真菰とて、錆兎とて、幾度か切りつけた程度で鬼舞辻無惨がどうにかなるとは思っていない。今はまだ、前哨戦――いや、もしかしたら無惨にしてみればただの挨拶程度でしかないのかもしれないと、頭では理解している。
それでも、その血を流させる意味はあったと、剣士たちはそう信じるしかないのだ。
だが。
無惨は、そんな剣士たちに決定的な言葉を告げる。
「そうだな。貴様らが気付いていないようだから教えてやるが――」
その声は、不思議とその吹き抜けに大きく木霊した。
そして、言う。
「私はたった今――太陽を克服した」
「……は……?」
流れた血液で赤黒く染まった吹き抜けの床の上で、真菰たちが息を飲む。
「産屋敷が隠し持っていた青い彼岸花。これはやはり、私を完成させるための最後の一片だったようだ。産屋敷はあの爆発で彼岸花も焼失させたつもりだったかもしれないが、考えが浅はかとしか言いようがないな」
無惨が己の腕を、ズブリと自らの胸に突き刺し、何かを引きずり出した。
赤黒い血がどろりと零れ落ちるその孔から引きずり出されたのは、いくつかの、植物の茎だった。
それは、無惨が探し求めていた"青い彼岸花"だったものである。
真菰たちには、直前の産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨の間でどのような会話を交わされていたのかは、わからない。わかりようがない。
それでも間違いなく言えるのは、無惨はあの爆発の中でも、"青い彼岸花"を手にしていたということだ。
「この花を解析し我が身に定着させるのは、思いのほか容易い作業だった。なにせ、九割方は完成し、平安の時代から我が身に馴染んでいたのだからな。あの医師はなかなかどうして、良い腕を持っていたようだ」
無惨がその言葉を言い終えると同時。
吹き抜け中に、冷えきった空気が鳴るような、張り詰められていた硝子が割れるような、甲高い『何か』が響き渡る。
それと同時に――繭が、弾けた。
血の雨が、回廊へと降り注いだ。
肉の繭に含まれていた赤黒い血が、それが弾けると同時に吹き抜けへと飛び散り、真菰たちを濡らしていく。
だが、真菰たちは繭の行く末など気にしていられる場合ではなくなっていた。
「花を解析し終えた以上、あのような繭はもう必要ない」
真菰たちは動けない。
少しでも隙を見せれば、瞬きの瞬間にでも全てが終わってしまう。
そのような、恐ろしい『何か』が真菰らを包み込んでいた。
「さて、太陽を克服したこの身体の実験に、少しばかり付き合ってもらうぞ、柱ども」
そこにいたのは、先程までの姿とは違う姿をした無惨だった。
その白く染まった髪に、鮮やかな青色が線を引くように混ざっている。その両の瞳もまた、血を思わせる赤から鮮やかな青へと変貌を見せている。
そして、その纏う覇気は、これまでとはもはや、次元の違うものである。
それこそが。鬼殺隊の宿敵――鬼舞辻無惨の、完成した姿だった。
◆ ◆ ◆
――某所。
「輝利哉様……! き、鬼舞辻無惨が、太陽をこ……克服……と」
ここは、産屋敷輝利哉たちが鎹鴉を通じて無限城の状況を把握し、全隊士へ向けてあらゆる指示を出す、言わば、この最終局面における司令室である。
そこでたった今、顔面を蒼白にして震える少女がいた。彼女は産屋敷家の次女、にちか。
彼女は鎹鴉を通じて真菰たちと鬼舞辻無惨の会話を注視しており、無惨が太陽を克服したという情報を真っ先に知ってしまった。
それに対し、顔色を悪くしつつも、気丈に答えるのは長男であり、新たに産屋敷家当主の座を引き継いだ輝利哉である。
「真実かもしれない。けれど、それは私たちの負けを意味しない」
「し、しかし……」
他の姉妹たちも、己が担当している区画の指示出しを進めながらも、にちかと輝利哉の会話に耳をそばだてていた。
鬼舞辻無惨が太陽を克服した。それは、太陽の力をそこに宿す日輪刀ですら、無惨を打倒しうる武器ではなくなってしまうということだ。朝日が姿を現したとしても、無惨を倒すことができないということだ。
倒す術がなくなること。
それはつまり、鬼殺隊にとっては致命的な、絶望を意味する事態である。
ただし。
それは、"昨日まで"の話だ。
「奴の体内には今、珠世殿が調合した薬が存在しているはずだ。これは呪いを浄化し、鬼を人間に戻す。それだけではなく、分裂の阻害や老化の促進など、鬼舞辻無惨を知り尽くした珠世殿が調合した、奴を殺すための『毒』だ」
にちかが、ごくり、と唾を飲み込む。
「太陽で殺せないならば、その薬で鬼舞辻無惨を殺す。今だけは、この夜だけは。その手段が残されている」
「し、しかし、どうすれば……」
質問したのは、長女であるひなきだ。
彼女はしのぶや天元たちに指示を出して鬼の無力化を進めていたはずだけれど、こと話が鬼舞辻無惨の討伐方法となれば、口を挟まずにはいられなかった。
そして、ひなきの質問に対し輝利哉の出した答えは、非常に単純なものだった。
「単純な話だ。呪いを浄化する薬『トキジク』は、無惨の血が少なければ少ないほどに効果を発揮する。すなわち――」
◆ ◆ ◆
「あなたの倒し方。それは……多量の血を流させること」
「ほう?」
完成体となった鬼舞辻無惨を前にして。
日輪刀を構えた真菰が、静かに。背後に構える錆兎や義勇に伝えるように、語っていく。
真菰が先程まで負っていたいくつかの裂傷は、すでに完治し素肌が露わになっている。
いや、真菰だけでなく錆兎と義勇も、身体に負っていた傷跡がじわじわと治りつつあった。
これは、『トキジク』の力だ。
カナエたちが開発したその薬の真価。それは、その者に明朝までの短い間だけ不死性を与え、鬼に劣らぬ再生力を身につけるというものである。
そして。その『トキジク』は。無惨の血の少ない鬼ならば、呪いを浄化できるという特殊性を持っている。
「ならば、俺たちのやることは変わらない。ただひたすらに、無惨と戦い続けることだけだ!」
「ああ」
「くっくっく、面白い。どうやら貴様らも、例の妙な薬の力で不死となっているわけか。だが……この鬼舞辻無惨を相手にして、その不死性はどこまで耐えられる?」
無惨が腕を振るう。
「うぐ……っ!!」
それだけで、身構えていた三人の身体が吹き飛ばされた。
初見の動きだったとはいえ、視えなかった。そして、強力すぎた。
真菰も、錆兎も。胴体が大きく斬り裂かれ、痙攣を起こし地面に突っ伏している。彼らの下には、真っ赤な血だまりが広がり始めている。かろうじて一番距離があった義勇だけが、血を流しつつも二本の足で立っている状態だ。
「実に滑稽なものだ。戦い続けるなどと言っていたが、見ての通り、手も足も出ないではないか。やはり、貴様らが何をどうしようが、私の勝利は揺るぎない」
無惨は、未だ立ち上がれない真菰たちの下へとゆっくりと歩いて行く。もちろん、不死性を得た彼らがこれだけで死ぬとは無惨とて思っていないが、今ので息を引き取らぬならば、どの程度の傷を与えれば死ぬのかを何度でも試してみるだけのことだ。
一方で、離れた場所に飛ばされた義勇には大きな怪我こそないものの、しかし身体がすぐには動かない。
「どれ。さっそく、この女の頭を潰してみるか」
無惨が、まだ傷の再生が追いつかず、動けぬままの真菰の頭部へその腕を伸ばし――。
『日の呼吸 壱ノ型 円舞』
炎が、無惨の腕を灼いた。
太陽のように燃え盛る炎の刃を持つ一人の隊士が、鬼舞辻無惨の腕へと鬼滅の刃を振るっていた。
彼の使うそれは、日の呼吸。彼の操るそれは、ヒノカミ神楽。
「……真菰さん! 錆兎さん! ただいま、到着しました!」
竈門炭治郎。
あわやというところで、いま。日の呼吸の継承者が鬼舞辻無惨の下へと辿り着いた。
いや、援軍は炭治郎だけではない。
「真菰お姉ちゃん! 皆、助けにきたからね……!」
「遅れてすまない! 道のりが複雑で手間取ってしまったが、しかしこれでもう安心だな!」
「……太陽を克服した、だと? ならば、自ら殺してくださいと懇願するほどに痛めつければいいだけの話」
禰豆子、杏寿郎、小芭内。猗窩座との戦いを終えた三人も、血の海に沈む真菰らを庇うべく、無惨に立ち向かう。
「ククク……竈門炭治郎か。思えば貴様との縁もなかなかのものだ。今宵、我が手で貴様を殺すのもまた、一つの物語の終焉としてはちょうど良い」
「俺は、お前には負けない。お前はここで、消滅するんだ! 鬼舞辻無惨!」
多くの数奇な運命を背負い、妹のために鬼と戦い続けてきた少年、竈門炭治郎。
彼は、とうとう。
全ての元凶たる鬼の王――鬼舞辻無惨との最終決戦の舞台へと、躍り出た。