その広々とした吹き抜けの回廊では、今。
鬼殺隊が千余年もの間、追い続けてきた怨敵を前に、その全てを懸けた熾烈な戦いが繰り広げられていた。
立ちはだかるは太陽を克服した不死の王、鬼舞辻無惨。
白い髪に青の線が入りこみ、鮮やかな青の瞳は禍々しく輝いている。
彼はその背から生やした何本もの管に加え、その両腕を大蛇の如き触手と化し、それらを音をも置き去りにする速度でしならせる。
一方、炭治郎たち鬼殺隊はそれに対し数で応戦する。周囲を囲み、ある者が陽動となり、ある者が攻撃を防ぎ、ある者が無惨へと奥義を放つ。
皆がその身に痣を浮かべ、その瞳は『全てが透き通る世界』を覗き見ている。その武器は杏寿郎や禰豆子の血鬼術による炎を宿し、刃を赫く染め上げている。
そしてなにより、彼らは皆『トキジク』をそれぞれの限界まで使用し、つかの間の不死性を得て、己の身を厭うことなく鬼舞辻無惨と戦い続けている。
それだけを揃えた最強の布陣で挑み、なお。
鬼舞辻無惨は――強すぎた。
◇ ◇ ◇
「皆! 私たちの役割はっ、鬼舞辻無惨に血を流させることっ!」
「うむっ!」
「わ、かりました……っ!!」
傷を再生し終えた水柱・真菰が再び立ち上がり、司令塔として後から合流した仲間にも指示を伝えていく。
すでに無惨と相対していた真菰、錆兎、義勇。
そして、猗窩座を下した杏寿郎、小芭内、炭治郎、禰豆子。
鎹鴉からの報告によれば、上弦の壱である黒死牟を下した仲間たちも、この場にまもなく到着するはずだ。
士気は高い。誰もが、その全てを懸けて戦っている。
『炎の呼吸 伍ノ型 炎虎』
『水の呼吸 炎ノ伍 水虎』
炎と水。一対の虎が無惨を挟み込むようにして牙を剥き、その不死身の肉体を削っていく。
『水の呼吸 拾壱ノ型』
『――凪』
真菰と義勇、二人の凪が、仲間たちを庇い、護り通す。
皆が、血飛沫の中で戦い続けていた。
腕が飛ばされれば、千切れた腕を繋ぎ合わせる。腹が引き裂かれれば、無理矢理に縫い止め再生させる。
ひとときの不死性に縋るそれはまるで、一見すれば地獄のような光景だった。
けれどそれは、明日を掴むための、希望に満ちた戦いだ。
「本当にわらわらと……実に面倒臭い連中だ。か弱い人間の分際で、不死性を得て調子に乗っていると見える」
無惨もまた、空間を支配するほどの圧倒的な強さを誇りながらも、冷静に周囲の者たちへと視線を向ける。
その中でも、煉獄杏寿郎と竈門炭治郎。この二者に、無惨は特別な注意を払っていた。
この中で一番強く、無惨に対して手傷を負わせている杏寿郎。
そして、日の呼吸の型――ヒノカミ神楽で、不死の王たる鬼舞辻無惨に対して有効打を与え続けている竈門炭治郎。
それ以外の木っ端もまた、それぞれの型によって無惨に群がり続けている。
無惨はそこまで考えて、忌々しそうに。
小さく、呟いた。
「……童磨という男は不愉快ではあったが、こと扱う術の有用性はなかなかのものだった」
残念ながら、その言葉の意味をすぐに察せる隊士はこの場にいなかった。
童磨と戦った経験を持つ隊士は、この場にいない獪岳だけである。
だからこそ、あやかしたちを最大に苦しめた術を即座に思い浮かべられる者が、いなかった。
だからこそ、反応が遅れた。
ふいに、無惨が傷ついた腕を跳ね上げ、周囲に己の血を振りまいていく。
すると、その血が固まり、結晶となり。瞬く間にそれらの小さな結晶が膨れ上がるようにして、赤黒い血の結晶でできた『人型の血結晶人形』が形成されていく。
「こ、これは……!?」
『血鬼術 血結晶ノ御子』
炭治郎の目の前に現れた血結晶の人形は、無惨と同じようにその腕を伸ばし、音を置き去りにするほどの速度で、炭治郎の頭へ向けてその腕をしならせた。
「しまっ――」
そこには、筋肉も、血液の脈動もない。
故に、『全てが透き通る世界』に入ったばかりでそこに比重を置いてしまっていた炭治郎はその差異に気づかず、致命的なほどに、反応が遅れた。すぐに動こうにも、日の呼吸の反動が身体に残っており、脳からの指令に身体が追いつかない。
「炭治郎っ!!」
「お兄ちゃ――」
誰かの叫びが聞こえる。禰豆子が名を呼んでいる。
いくら『トキジク』で再生力を得たとはいえ、頭を吹き飛ばされて復活するほどの不死性ではない。
炭治郎の身体を、衝撃が襲う。避けようのない『死』という概念が襲う。
――が。
「た、炭治郎!! おま、おまえ! 油断すんなっ!!!」
炭治郎の頭が血結晶ノ御子に吹き飛ばされる寸前。炭治郎を横から突き飛ばしたのは、血結晶の鞭に並ぶ速度を持った雷の呼吸の隊士――我妻善逸である。
突き飛ばされ、床をごろごろと転がってせき込む炭治郎を、本日二度目の体当たりを経て顔面蒼白にした善逸がガクガクと揺さぶっていた。
当然、そこに駆けつけたのは善逸だけではない。
悲鳴嶼行冥、
上弦の壱という強敵を下した仲間たちもまた、この決戦の間へと到達した。
「ぜ、善逸……たす、かった……」
「お……俺もう、体当たりは嫌だからな……っ!!」
炭治郎の無事な姿に涙ぐむ善逸に礼を伝え、しかしすぐにまた炭治郎は立ち上がる。
今、この場で休んでいる時間はない。
「炭治郎、戦いは長丁場になる! 日の呼吸はまだ負担が大きい! 無惨本体以外には水の呼吸を使え!」
「ぐっ……はいっ!」
炭治郎の無事を確認した
総勢十三名。
これはいくら鬼舞辻無惨とはいえ、相手取るには少々手を焼く人数だ。
だからこそ、本来ならば使いたくもない童磨の術の模倣『血結晶ノ御子』を更に造り出しながら、無惨は無限城の空間へと向かって怒声をあげた。
「鳴女よ、貴様はいつまでそんな柱ひとりに手こずっている!」
鳴女。無惨はその、この無限城を操る鬼の名を叫ぶ。
「今すぐその場で私に殺されたくなければ、上弦としての仕事を果たせ、鳴女! 役立たずめが!」
それはまるで、恋柱と戦い続けている鳴女への。
死刑宣告のような怒声であった。
◆ ◆ ◆
「このおー! 上弦の……ええと、参よね! この恋柱・甘露寺蜜璃が許さないんだからー!」
炭治郎たちが鬼舞辻無惨との死闘を繰り広げているその頃。鬼殺隊恋柱・甘露寺蜜璃はひとり、上弦の参となった琵琶鬼、鳴女と戦い続けていた。
いや。
正しくは『戦うふり』をしていた。彼女は程々に力を抜いた跳躍で鳴女へ飛びかかり、目の前に現れた壁で弾かれ、床に転がる。
「いたたっ。うう、皆が戦っているのに、私、こんなことをしていていいのかしら」
自問自答。けれど、視線の先にはまるで『もっとまじめにやれ!』と言わんばかりの、愈史郎の睨み顔がある。
「そ、そうね! なら、もう少しだけ本気で……!! 壱ノ型、初恋のわななき!!」
鳴女を目指して、壁や梁を足場とした蜜璃が空を駆けるようにして突進し、恋の呼吸の型を繰り出していく。
だがしかし、彼女の刃が届くまえに、壁が動き、ふすまが現れ、伸びた床が蜜璃をぼよんとはね飛ばす。
そのような戦い――いや、茶番劇を、蜜璃はさきほどからずっと繰り広げていた。
「その調子です、蜜璃さん。そして、琵琶鬼」
蜜璃が相対しているはずの鬼、鳴女。
彼女のすぐ背後、耳元に語りかけるほどの距離に、一人の女がいた。
それは、珠世。鬼舞辻無惨の呪いから逃れた最初の鬼にして、蜜璃と鳴女が茶番を繰り広げるこの状態を作り上げた張本人だ。
珠世の左右、すぐにでも鳴女を殺せる位置には愈史郎と朱紗丸が控えている。
「あなたがきちんと知性を残した鬼で助かりました。そのまま視線は恋柱を追いかけ、私たちの姿をその目で捉えぬよう気をつけてください」
珠世は鳴女の耳元で小さく語りかける。
決して鬼舞辻無惨に把握されぬよう、声は落とし、鳴女の視界には入らないよう細心の注意を払っている。
珠世は、鳴女という鬼のことは知らない。
けれど、鳴女という鬼の置かれた状況を、この世界で一番よく知っている人物でもあった。
「この薬であなたを縛り付ける鬼舞辻無惨の呪いを浄化することで、あなたをあの男から――あなたを束縛し離さないその地獄から、解放することができます」
鬼舞辻無惨の側近という立場。
それは、小さな地獄である。
珠世という逃れ者は、鬼舞辻無惨という名の地獄から解放される喜びを知っている。
そして珠世は、目の前にいる琵琶鬼――鳴女を、その地獄から解放する手段を持っている。
「あなたが放った数多の『眼』が鬼殺隊を探り続けていることには気付いていました。だから私はあえて、あなたに見せつけたのですよ。如何でしたか? 鬼舞辻無惨の呪縛から逃れ、自由に過ごす私たち『あやかし』の姿は。自分もそうなりたいと、願いはしませんでしたか?」
鳴女が上弦の鬼となり新たに得た力。それは途方もない規模の索敵能力である。
各地に散らばる鬼殺隊士の所在を調べ上げるほどの索敵能力は、しかし。鳴女が本来知るはずもなかった情報まで拾い上げてしまった。
珠世や朱紗丸といった、無惨の呪いから解放された『あやかし』たちの存在。そして、鬼たちを鬼舞辻無惨の呪縛から解放できる、とある薬の存在。
鬼舞辻無惨という絶対的な主の下から動けぬ鳴女にとって、その薬の存在は――その身を滅ぼす、甘美な毒だった。
「あなたが大人しくこの戦いから手を引き、鬼舞辻無惨の元を離れるというのならば……この薬を、あなたに提供しましょう」
珠世は一つの注射器を取り出すと、その針を鳴女の首筋に触れさせる。
その中身は、鬼殺隊士たちが持つ『トキジク』をさらに濃縮したものである。恐らく現存する薬の中では一番、御霊矢花枝の血液に近いものだ。
それは、並の人間ならば即座に細胞を崩壊させ自滅しかねない程の、強い再生力を持った鬼にだけ使える強力な『毒』であり『薬』だった。
「条件は先ほども伝えた通り。『鬼殺隊が敗北したときは、あなたが鬼舞辻無惨の敵となり続けること』です。人間たちの味方をしろとは言いません。ただ、鬼舞辻無惨の敵でありなさい」
ベン、ベン、と琵琶が鳴る度に、目の前では甘露寺蜜璃が壁や床に激突し、弾き飛ばされていく。
鬼舞辻無惨からも、鳴女がこうして恋柱と戦い続けている様子が見えているはずだ。
だが、これは所詮茶番劇。いつまでも鬼の王を騙し通せるわけもない。
「仮にあの男が太陽を克服したとしても、あなたの力ならば奴を溶岩や深海、果ては空の彼方へ追放することも可能でしょう? 無理とは言わせない。そうせねば、あなたが殺されるだけ」
これは、珠世による『保険』だった。
いまのこの状況。愈史郎の能力を使えばすぐにでも、この琵琶の鬼の脳を操り無惨を謀ることもできるだろう。戦いを一時的に有利にすることは可能だろう。
だが。この琵琶の鬼は、唯一あの鬼舞辻無惨に対抗しうる能力を持っているのだ。
それはつまり、この鬼を『あやかし』へと引きずり込むことこそが、鬼舞辻無惨に対する最大の攻撃であることを意味する。
たとえこの夜、鬼殺隊が無惨に敗北して滅んだとしても。空間転移という最強の矛を無惨へ向け続ける限り、鬼の王に安息は訪れない。
それこそが、珠世の狙いである。
「薬の効力を得るためには、あなたは一度致命傷を負い、鬼舞辻無惨の血をその身体から大量に失う必要があります。よろしいですね?」
恋柱と戦い続ける鳴女の耳に、珠世の声が囁く。
それと同時に、重なるように。
『――今すぐその場で私に殺されたくなければ、上弦としての仕事を果たせ、鳴女! 役立たずめが!』
鬼舞辻無惨による、己への死刑宣告の怒声が届く。
がたがたと震えたまま。
鳴女は、琵琶を弾く手を止めた。
そして――。
小さく、頷いた。
「では、朱紗丸。彼女の頚を狙ってください」
「キャハハハ、悪く思うなよ! 琵琶女よ!」
朱紗丸の声と同時に、その背中から鳴女の頚へと向けて、砲撃の如き破壊力を持つ鞠が飛ぶ。
鳴女は決して身体能力に優れている鬼ではない。その頚は容易く吹き飛び、胴体はぐしゃりと音を立てて倒れ伏す。その頭は血飛沫にまみれながらごろごろと床を転がっていく。
頚を失った身体からは大量の血がだくだくと湧き出ている。この血は鳴女の血であり、彼女に注がれた鬼舞辻無惨の血だ。
「ふふふ、約束は守りましょう。鬼舞辻無惨を裏切る以上、あなたも一蓮托生なことを、お忘れなきよう」
珠世は薄笑いを浮かべたまま、鳴女の頭を拾い上げ、残された首筋に薬液を注入していく。
首だけにされながらも。薬により、その身の急激な変異を感じ取った鳴女の口元には。
仄かに、解放を喜ぶ笑みが、浮かんでいた。
◆ ◆ ◆
「馬鹿な。鳴女の反応が消えた……だと?」
「どこを見ている! 鬼舞辻無惨! これで、終わりだあああああ!!」
何かに反応し動きを止めた無惨の隙をつき、呼吸を日の呼吸へと戻した炭治郎がヒノカミ神楽で斬りつける。
円舞。碧羅の天。烈日紅鏡。灼骨炎陽。神楽が続く。
先程――上弦の壱を下した仲間が到着した頃から、まるで誰かが自分に重なり、日の呼吸を補助してくれているかのように、呼吸が楽になっていた。
残念ながら、その神楽は血結晶による横やりで阻止され、炭治郎は壁際へと吹き飛ばされていく。
すぐに周囲の柱たちが炭治郎を守るように無惨の前に出る。
無惨はヒノカミ神楽で負った傷口からだくだくと血を流し続けながら、目の前に立ち並ぶ鬼狩りたちの姿を睨み付けていた。
「……忌々しい! 忌々しい! 忌々しい!!」
鬼舞辻無惨は怒りを露わにし、その傷口を再生させていく。そして触手となった腕だけでなく、身体中に新たな紋様を浮かび上がらせ、肉と牙で作られた排気口のようなものを幾つも作りだしていく。
無惨は進化したその肉体で、全ての攻撃を弾き飛ばしていく。
周囲には何体もの血結晶ノ御子が現れ、柱たちの行く手を邪魔している。数多の腕が、触手が、空間そのものを染め上げるかのように振り回され、そこに存在するもの全てを砕き、切断し、貫かんとする。
遠くからは、一般隊士たちも駆けつけている。
中には、医療班として戦っていた胡蝶しのぶや伊之助、カナヲ、更に宇髄天元の姿もある。
血と怒号に染まる回廊に、柱たちがとうとう集結しはじめた。
そのとき――。
ズン、という臓腑に響くような重たい音とともに。
無限城が大きく揺れ始めた。
それに合わせるようにして、皆に伝えるように、少女の声が響く。
少女。それは、禰豆子だった。
「皆さん。琵琶鬼こと鳴女はもう、蜜璃たちが攻略してくれました! まもなくこの無限城は消え去ります!」
禰豆子であり、禰豆子でない声が響きわたる。
その言葉に釣られたのか、無惨ですら禰豆子に視線を向けている。
「なので……ここから先は、外での、地上での戦いとなります!」
柱たちは戦いながらも、禰豆子の声に耳を傾ける。
中には、その声の主が『誰』なのかを察し、こみ上げる想いに肩を震わせる者もいる。
「わたしたちも力を尽くします。ですから、皆さん! 最後まで、戦いましょう!」
それだけ言うと、禰豆子は何事もなかったかのように炭治郎の横――戦場へと戻っていく。
そして。
まさに禰豆子が今語った通り、無限城が急激な上昇を始めていったのは、その後すぐのことだった。