鬼舞辻無惨を前にしても、炭治郎の心は驚くほどに凪いでいた。
怒りはある。憎しみもある。これまでに見てきた全ての悲しみが、全ての涙が、全ての血が、炭治郎の中で煮え滾り、その心を狂わせようとする。
けれど。それでも尚、炭治郎の心は静かに、大きな力の流れの中を漂っていた。
『炭治郎。日の呼吸の型は十二の技で構成されるが、それは決して、ただそれぞれの技を順に繰り出せばいいというわけではない』
(はい。この型は"一つの流れ"を形にしたものです)
心の中で声が聞こえる。
声の主は縁壱。遙か昔、鬼殺隊に『呼吸』の技術を教えた剣士であり、炭治郎の先祖である炭吉と出会い、彼に日の呼吸の型を伝えた人物だ。
炭治郎は、全て思い出していた。
この日まで、
いや、彼が教えてくれたのは日の呼吸だけではない。型とは違った様々な技術を教えてもらった。戦いにおける心構えを学んだこともあった。時には修行でなく、花枝を交えて雑談に興じたこともあった。炭治郎の先祖である炭吉との思い出を、懐かしげに語って聞かせてくれたこともあった。
継国縁壱。
彼こそが。鱗滝左近次、煉獄槇寿郎に続く、炭治郎の三人目の師であった。
(
あとは、炭治郎がその教えを実践するだけである。まさに今、この瞬間が、その時だ。
『そうだ。日の呼吸の型、君の言う"ヒノカミ神楽"とは、夜明けまであの邪悪を繋ぎ止めるための、一つの終わりなき円環の流れであり、そのための呼吸だ』
(俺は今から、その流れを形にします。父さん、爺ちゃん、炭吉さん。ううん……もっと沢山のご先祖様方が、この夜のために繋ぎ続けてくれたものを、俺がここで完成させます)
『……なれば、炭治郎』
心の中で。縁壱が、笑顔を浮かべている気がした。
『私も君と共に、ヒノカミ神楽を舞うとしよう。かの太陽が――鬼舞辻無惨を照らすまで』
(はい! 縁壱さん!)
◇ ◇ ◇
型が、繋がっていく。
円舞。碧羅の天。烈日紅鏡。灼骨炎陽。陽華突。日暈の龍・頭舞い。斜陽転身。飛輪陽炎。輝輝恩光。火車。幻日虹。炎舞。そして、円舞。
炭治郎は、全てが見通せるその瞳で、無惨の触手を躱し、斬り、廻っていた。
終わらぬ神楽を舞うかのように型を続けるその姿は、鬼舞辻無惨があの日遭遇した侍――継国縁壱を彷彿とさせるものだった。
「ぐっ、貴様、日の呼吸を完成させたというのか……!! 竈門、竈門炭治郎ぉぉぉおおッ!!!」
無惨はヒノカミ神楽を舞い続ける炭治郎に適応すべく、その異形の身体を常に変化させ続けていた。
全身の皮膚には強固な鱗を生やし、身体から生える腕の数も斬り裂かれる以上に増やしていく。全身に開かれた牙を持つ排気口からは絶え間なく衝撃波を放ち、日の呼吸の型の威力を相殺し続ける。
そして今、更により強大な、周囲の全てを破壊できる力を得るため、無惨の身体は細胞分裂を繰り返しすさまじい速度で膨張しつつあった。無惨はもう、人とは呼べぬ『何か』に成ろうとしていた。
だが、鬼舞辻無惨の前に立ちはだかるのは決して竈門炭治郎だけではない。
「炭治郎ばかり見ていると、足下を掬われますよ? 鬼舞辻無惨」
「なっ……!?」
突如、蛾の大群が無惨の顔へと群がり、その視界を阻む。
無惨がそれを嫌がり無差別な衝撃波で蛾を吹き飛ばすが、続いて開いた無惨の眼前にふわりと舞い降りたのは、一枚の和紙だった。
『よわくなる』
微妙に丸いひらがなで書かれたその文章を認識した途端、無惨の膨張し始めていた身体が縮み始め、もとの形状へと戻っていく。勿論これは、無惨の意思によるものではない。
立て続けに襲い来る覚えのない血鬼術を解析しようにも、次々と降りかかるヒノカミ神楽の刃に対処し続けている無惨にそこまでの余裕は残されていない。
「筆鬼の術は使い方が難しいのですが、うまくいったみたいですね。ほら無惨、わたしにばかり注目していると、恐ろしいヒノカミ神楽の円環に巻き込まれますよ」
「貴様……!」
花枝の言葉通り、炭治郎の刀は無惨を斬り刻み続け、何度も鮮血が飛び散っていく。
一方、無惨は炭治郎を亡き者にすべく、造りだした全ての血結晶ノ御子を炭治郎一人にけしかけるが、決してその害意が炭治郎を傷つけることはない。
無惨の手足たるそれらの害意は全て、杏寿郎と
縁壱の修行を受けた杏寿郎はもとより、相手を物理的に崩壊させる獪岳の血鬼術は血結晶ノ御子相手には無類の強さを発揮している。
「動けるものは、炭治郎・禰豆子の両者を護るのだ! 彼らが最後の希望だ!」
「言われずとも! 俺らの大切な弟弟子だからな!」
いや、炭治郎たちを守るのは、杏寿郎と獪岳だけではない。
柱をはじめとした幾人もの仲間たちが矛となり、盾となり、防ぎ続けている。
「猪突猛進! 炭治郎ぉぉ!! 絶対に勝ちやがれええ!!」
「禰豆子ちゃんには! 俺が、傷一つ付けさせない……!!」
「キャハハハハッ! いい気味じゃなあ! 鬼舞辻ぃッ!!」
皆、すでに理解していた。
いま鬼舞辻無惨を討伐しうるのは、日の呼吸の型を舞い続ける竈門炭治郎と、竈門禰豆子に降りた巫女鬼――
周囲では、襲い来る鬼や血結晶から炭治郎と禰豆子を守るための、最後で最大の戦いが勃発していた。
数えきれぬほどの血鬼術が飛び交うが、数多の呼吸の型がそれらを斬り伏せていく。爆音が続き、大地が割れる。この場には決して、無傷の者などいない。全ての仲間たちが、限界を超えて戦っている。
無惨は距離を取ろうと足に力を入れるが、しかし気付けば足元の地面がぐずぐずに崩壊し、そこは水の溜まったぬかるみと化していた。
「さあ、鬼舞辻無惨。まだまだあります! わたしたち『あやかし』のしつこさを、思い知ってください!」
虚空から現れた彫刻刀が無惨の目を狙い飛び込んでくる。それを手で振り払うが、その隙を狙い、地面から伸びた幾つもの手が無惨を掴み、凄まじい力で水のぬかるみへと引きずり込もうとする。
離れた箇所に現れた手からは、目に見えぬ衝撃波が止めどなく放たれ、無惨が冷静に解析することを許さない。
四方から伸びる無数の手はまるで細く、肌も白い。それは間違いなく年若い少女の手であるというのに、そのくせ、獰猛な獣のような力強さを備えている。
「地面から生えてくる手には俺も驚かされたものだ! もっとも、今回のは小さくて可愛らしい手だがな!」
「まったくだ。手が小さくて迫力に欠けてるじゃねえか、角姫よぉ!」
「もう。わたしはさすがにあんな緑の異形にはなれませんからね。そもそもこの身体は禰豆子なんですから」
杏寿郎と獪岳は、数多の攻撃の手から炭治郎や花枝を守るために刀を振るいながらも、どこか楽しげに言う。花枝もまた、彼らの言葉に唇をとがらせながらも、楽しげに言葉を返す。
けれど、剣士たちも、花枝も。決して目の前の敵から視線を外すことはない。
花枝はその背に人々の祈りの力を背負い、戦い続ける炭治郎を補佐するように、術を行使し続けている。
(くっ、無惨の皮膚が硬くなってきた……!)
(大丈夫だ炭治郎。花枝殿の術に合わせ、落ち着いて呼吸に集中するのだ)
(はいっ……!)
炭治郎と縁壱が刃を振るい続け、進化していく無惨の肉体に対抗する。
風に吹かれ舞い上がる百合の花びらが、炭治郎の刃と共に無惨を斬り裂いていく。
花枝の意思で動く大地は無惨の踏み込みを許さず、次々と虚空から現れる手が、無惨を妨害すべく多様な術を放つ。
花枝が使っている術。それは、彼女の大切な仲間たちから託されたものだ。
数多の手を伸ばす術。文字で相手を操る術。百合の花を使った術。風を操る術。大地を操る術。刃を飛ばす術。獣の握力。水を操作する術。蟲を操る術。手から衝撃波を放つ術。
仲間全員の術が今、花枝の力となってこの場に顕現している。
「どう……いうことだ! なんなのだ、貴様は! 貴様は、竈門禰豆子ではないのか……!!」
「わあ。まあ気付いていないんですか」
無惨は常に肉体を進化させ、炭治郎をいなし続けている。
完全に日の呼吸を完成させた炭治郎にはきっと、この花枝たちの声も聞こえてはいないに違いない。彼はただひたすらに無惨から視線を逸らさず、延々と、延々と。無惨の身体に手傷を負わせていく。
なので、会話どころではない炭治郎の分まで、花枝は無惨へと言葉を紡いでいく。
「慶応四年以来ですね、鬼舞辻無惨。常世の国から戻ってきたんですよ。この夜こそあなたを――常世へと、連れて行くために」
「そうか……貴様か、御霊矢花枝ッ!!」
「思い出してくださいましたか、鬼舞辻無惨。あなたには特別に、わたしの本当の血鬼術を見せて差し上げます!」
竈門禰豆子は。
いや、御霊矢花枝は。
まっすぐに鬼舞辻無惨を見据えたまま、天へとその手を掲げていた。
数多の祈りを受け、力を取り戻した花枝による、借り物ではない『巫女鬼の血鬼術』が発動し、この戦いの行方を決定づけるのは。
この直後のことである。
◇ ◇ ◇
鬼舞辻無惨と柱たちが戦う戦場から少しだけ離れた、森の入り口。ここには怪我人が集められ、多くの医療班による野戦病院と化していた。
戦えるものたちは、今なお人喰い鬼や血結晶ノ御子たちと戦い続けているだろう。
だが、ここにいるのは戦う力を失ったものばかりだ。
そして、柱たちが戦っている戦場――産屋敷邸跡地を中心とした大異変は、この場所でも確認されていた。
「な、なんですか?! これは、景色が……っ?!」
医療班、神崎アオイが重傷患者に止血をし、包帯を巻き終えたところで、周囲の空気が変わった。
いや、景色そのものが変わった。
まだ朝日が昇る時間ではない。
だというのに――。
「やった、太陽! 太陽だよっ!」
「そ、そんな馬鹿な! だってまだ……!」
「な、なんか周囲の森が、おかしくないか?」
周囲の隊士たちもざわついている。
周囲の木々の形が見覚えのない森の姿に変わっており、自分たちを見下ろす空が橙色に染まっていた。それはまるで、黎明――あるいは、黄昏の空だ。
地平線から照らすような優しく、そして、そこはかとない侘しさを伴う橙の光が、血に汚れた隊士たちを優しく照らしている。
景色の中には、見覚えのない建物が建っている。開けた道の先には菜花が咲き乱れ、仄かなそよ風が花の香りを運んでくる。
そして、異変はさらに続く。
「ひえぇ……お、俺の腹に百合の花が咲いてるんだけど……」
「傷が、傷がふさがっていく……!」
「ど、どういうことなんだ!?」
怪我人たちの身体に小さな百合の花が咲き始め、まるでそれらの花が身体を癒すかのように、その傷を塞いでいった。
誰もが目を見開き、驚愕する。
けれど不思議と、そこに恐怖はない。
「ま、前に……元百合柱の胡蝶カナエ様がおっしゃっていました。上弦の弐と遭遇し、危うく命を落としかけたその日、一輪の白百合が、カナエ様の命をつないでくれた……と」
神崎アオイが、誰に言うでもなくぽつりとつぶやき、橙色に染まる空を見上げる。その言葉を聞いた怪我人たちも、静かに空を見上げている。
そしてふと、そよ風が隊士たちに声を届けたような気がした。
『――ありがとうございます。皆さんの祈りが集まり、わたしにここまでの力を与えてくれました』
『――この世界は、皆の力で呼び出した世界です』
その声は、彼らにそれだけを伝えてくれた。
いったい何が起きているのかは、彼らにはわからない。
それでも、これは、この奇跡はきっと。
自分たちを守護してくれるものなのだと。
ただそれだけは、確信できた。
◇ ◇ ◇
周囲の空が橙色に変わる。黄昏の光が、戦う隊士たちを優しく照らす。
異変の中心はやはり、鬼舞辻無惨と御霊矢花枝が相対する産屋敷邸跡地だった。
いや、そこはすでに産屋敷邸の跡地ではなくなっていた。
焼け落ちた屋敷跡は消え去り、代わりにそこには石畳が敷かれている。その先には、所々崩れ落ちた『神社』が、その姿を現している。
御霊矢神社。
ここは、花枝が掛け替えのない仲間たちと共に、明治の世を過ごしてきた隠れ里だ。
この常世の世界を生み出すこと。それこそが、花枝の――巫女鬼の『血鬼術』である。
無惨は訝しげに周囲を見回すが、彼にだけはその光景がなんなのかはわからない。
「この期に及んで、次はまやかしの太陽か? それとも貴様は、太陽を司る天照大神でも気取っているのか?」
「いいえ。わたしは決して神ではありません。天照大神なんて、恐れ多いです」
黄昏の空の下。
無惨は、新たに現れた怨敵と向かい合っていた。
彼の怨敵。それは、空が橙に染まると同時にそこに顕現した、巫女服に身を包んだ幼い鬼――御霊矢花枝。そして、日の呼吸の始祖――継国縁壱。
両者ともがうっすらと、その身体を透けさせている。
彼らの横には、ヒノカミ神楽の矛をおさめた竈門炭治郎と、これまでその身に花枝を降ろしていたはずの竈門禰豆子までもが付き従っている。
周囲には、獪岳や杏寿郎といった剣士たちの姿もある。
無惨はヒノカミ神楽に切り刻まれ、すでに触手の大半を失っていた。
赫刀によるヒノカミ神楽は、完成体となった無惨の再生力すら遅らせていた。
「……継国縁壱。貴様までが蘇って来るとはな。そこの竈門炭治郎が依り代か? やはりそいつは、早々に殺しておくべきだったか」
「鬼舞辻無惨よ、今一度問おう。命を何だと思っている?」
「黙れ!! 継国縁壱、そして御霊矢花枝! 死人如きが、私に指図をするな!!」
無惨はいま、ドロドロに煮えたぎる憤怒の中で、しかし冷静に状況を分析していた。
彼は自尊心が高く、誰もが認める暴君だが――しかし、己の劣勢を認められぬほどに、愚かではない。
数多く作り出したはずの血結晶ノ御子たちもすでに、黄昏の光の下に消滅している。
継国縁壱に、御霊矢花枝。そしてその依り代たち。いま目の前にいる者たちは、この自分よりも強い。
数百年前のあの日、継国縁壱と出会った日もそうだった。
どれほど奈落の如き深い屈辱を感じようとも、どれほどの怒りで臓腑が煮えたぎろうとも。彼は己の劣勢を認めることができる。
だからこそ、強い。
「ああ、認めよう。どうやら今の状況では、貴様の日の呼吸を打ち破ることは難しい。だが――貴様らがいくら私を切り刻もうが、どのようなまやかしの血鬼術を使おうが、私はすでにもう太陽を克服している! 貴様らは私を殺せない!!」
無惨の宣言が黄昏の世界に響きわたる。
それとともに、彼は右腕を大きく、頭上へと伸ばす。
剣士たちが日輪刀を手にし警戒態勢に入るが、先頭に立つ花枝はなにひとつ顔色を変えることはない。
「そして、貴様らの命綱であった珠世の薬もまた、私の細胞の中で固定されその効能は止まっている! 今の完成された私ならば、それができる!」
無惨の正面にいるのは、御霊矢花枝と継国縁壱。
その左右には、竈門炭治郎が。竈門禰豆子が。煉獄杏寿郎が。獪岳が。
そして鬼舞辻無惨の周囲では、柱たちが。数多の隊士たちが。鬼の王を追い詰めていた。
それぞれがその手に日輪刀を握りしめ。千年以上も追いかけてきた全ての元凶、鬼舞辻無惨を睨み、その心を燃やしていた。
だが、鬼舞辻無惨は己の不利を認めたとしても。決して、頭を垂れることだけはない。
「貴様らが何をしようと、私は不滅ということだ! 我が血液の一滴でも残る限り、いつか再び、究極の生物と成り、私は現れる!」
無惨が掲げた右腕が――弾け飛んだ。
無惨の腕は数百、数千の欠片となり、広範囲に飛び散っていく。神社の屋根を汚し、森へと血の雨が降り注ぐ。
血の一滴。爪の一欠片。すでにどこを構成していたのかもわからないような、肉片。
鬼舞辻無惨は、その全ての破片に己の『命』を分け与えていた。その全てが、鬼舞辻無惨として復活しうる、分体だった。
無惨は右腕の肩から先を失った姿で、愉悦の凶笑を浮かべている。
「鬼殺隊ども、今は貴様らの勝ちだ。だが、この私は貴様らの子孫を根絶やしにしてやろう!! 依り代で復活するというのならば、その依り代ごと殺してやろう! 必ず、必ずだ!!」
高らかにそう宣言し、無惨は全身にひび割れを発生させる。
とうとう、肉体の全てを分体と化し、彼はこの場でその身を『破裂』させることを選んだのだ。いつの日か復活したその日、目の前の彼らの末裔を鏖にすることを、予言して。
無惨の行動を制限させていた珠世の薬の効果が止められた今、鬼殺隊にそれを阻止する術はない。
だが。
小さく首を横に振り、それを否定するのは御霊矢花枝である。
「無理ですよ、無惨。あなたの血の一滴たりとも、これから先の時代に残させはしません。わたしがそれを、許しません」
「なんだと? 貴様に何が……」
しかし、無惨は異変に気づき、言葉を止める。ぎろりと視線を周囲へと巡らせる。
橙色に染まった世界。周囲には、自分を取り囲む鬼殺隊の隊士たちがいたはずだ。
それが気づけば、消えている。あれだけいた隊士たちの姿が、どこにもなくなっている。
「この常世の世界を、あなたに差し上げましょう。わたしにとって、とても大切で、思い出の詰まった隠れ里ですが。それを憎きあなたに譲りましょう。永遠に、永遠に」
「な、にを……言っている……?」
異変は進んでいる。
己を囲い込んでいた隊士が消え、続いて、気付けば柱たちの姿までもがなくなっていた。
周囲には黄昏に照らされた神社の拝殿だけが残り、その先にあるはずの森も、今は白い霧に覆われている。
いま、無惨の前に残されているのは。
御霊矢花枝と、継国縁壱。
そして無惨をまっすぐに睨みつけている炭治郎と禰豆子。その両脇に立つ、獪岳と杏寿郎。
それだけだ。
「ねえ、鬼舞辻無惨。『人間に戻る薬』を作った珠世さんには感謝してくださいね? 人として死んで地獄へ堕ちるか、不滅の鬼として永遠の孤独を生きるか、選択の余地を与えてくれたんですから」
そして、獪岳と杏寿郎が霞に溶けるように消えていき。竈門炭治郎、竈門禰豆子も消えていく。
無惨はようやく、理解した。
彼らが消えたのではない。
自分が、この世界にとり残されているのだ、と。
御霊矢花枝は、このまま自分だけをこの『常世』に取り残す気なのだ、と。
「や、やめろ! 貴様、何を言っているのかわかって――」
無惨は残された身体で、御霊矢花枝に腕を伸ばす。
が、実にあっさりと。その腕は継国縁壱に斬り落とされた。
「鬼舞辻無惨。我々はもう、二度と出会うことはないだろう」
「さようなら、鬼舞辻無惨。御霊矢神社を、大切にしてくださいね」
それが。
黄昏の隠れ里に、ただ一人残された鬼舞辻無惨の耳に届いた。
継国縁壱と、御霊矢花枝からの、最後の言葉である。
◆ ◆ ◆
この日。
日本という国に呪いを振りまいてきた鬼、鬼舞辻無惨は。
二度と出られぬ『隠れ里』へと、消え去った。