戦いは、終わった。
全ての元凶――鬼舞辻無惨は消え去った。まさに文字通りの『神隠し』に遭い、この世界とは違う異界へと放り込まれた。
『皆さん、お疲れさまでした。ずっとずっと、本当によく頑張りました。えらいです、すごいです』
戦場だったその場所の中央には、いま。巫女服の少女と、古めかしい着物に身を包んだ侍の二人が立っていた。
花枝の血鬼術の影響だろうか。すでに死した存在であるはずの彼女らはしかし、今もまだ魂だけの存在として、居並ぶ隊士たちの前にその姿を現している。
居並ぶ隊士たちは皆が膝をつき、花枝と縁壱へと向けて頭を垂れている。
彼らの代表として先頭にいるのは、水柱である真菰だ。
「御霊矢花枝様、そして継国縁壱様。私どもの勝利は、お二方の助力なくばなし得ないものでした。お二方には、本当に、本当に……」
『わあ。すごく硬い。ほら、もっと気楽にしてくださいよ、真菰』
鬼殺隊の代表として、声を震わせ言葉を述べる真菰に近づき、気さくに声をかけたのは花枝である。
『子供の頃から知っているあなたにそこまで畏まられると、逆に寂しくなっちゃいますよ。一緒に露天風呂にも入った仲なんですから』
花枝にしてみれば最終選別に参加していた子供の頃から知っている真菰だ。狐の子として手鬼と戦い、彼女が初めての『合格』を得た日のことを、今でも鮮明に思い出せるほどだ。
様々な思い出の詰まった隠れ里は鬼舞辻無惨に明け渡してしまったものの、あの里で皆と過ごした掛け替えのない記憶の数々は、今でもしっかりと、花枝の心の中に残っている。
だから、花枝は畏まる真菰に向けて、にっこりと微笑みかけた。
『ほら、真菰。顔を上げてください』
「はい……巫女鬼……様、巫女鬼様……っ。あの日、私と出会ってくれて……ありがとうございました。本当に、巫女鬼様がいてくれたから、私は、私たちは……ここまで……」
『うん、うん。あなたは本当に、たくさん頑張りました。痛い思いも、辛い思いも乗り越えて、今日まで生き残ってくれてありがとう、真菰』
残念ながら、魂だけの花枝はもう、真菰に触れて抱きしめることは出来ないけれど。
それでも彼女を抱きしめるように、花枝はそっと真菰の背中へと手を回す。
花枝を前にして子供のように嗚咽を零す真菰の姿を、隠となった彼女の兄弟子たち、そして彼女の弟弟子たちが。
鱗滝左近次の教えを受けた『狐の子』の大切な家族として。静かに、そっと見守ってくれていた。
◇ ◇ ◇
花枝が狐の子たちと過去を懐かしんでいる一方、縁壱の前には改めて、柱を代表して煉獄杏寿郎が向かい合うように立っていた。
「縁壱殿。鬼殺隊に『全集中の呼吸』を伝えてくださったこと。そして、数百年もの長きにわたり、我々を見守ってくださっていたこと、感謝いたします!」
『いいのだ、杏寿郎。私はただ、自分の技術を伝えただけだ。本来ならば、数百年前のあの日――』
「縁壱殿。そういう後ろ向きなのは駄目だと伯母上も仰っていたでしょう。この日くらいは、堂々と誇ってくれたほうが、俺たちも嬉しいものです」
杏寿郎は夢の中で縁壱に様々なものを学んで来た、いわば縁壱の弟子である。
長い修行時間の中では、互いの身の上話に耳を傾けた時間もあるほどの仲だ。だからこそ杏寿郎は遠慮せず、縁壱に要求をする。「誇ってくれ」と。
人だった頃と変わらぬ杏寿郎のギラギラした瞳を向けられて、縁壱はしばし、無表情で考え込むけれど。
『……ああ、そうだな。私も、嬉しい』
口元に笑顔を浮かべて、そう答えた。
『だが、生きた時代こそ違えど、私たちは共に戦った仲間なのだ。だから、君たちも誇ってくれ。こういうときは、私たち皆が誇っていいのだ……と、思う』
「ええ、その通りです。この戦いは、時代を超えた我ら全員の勝利です。祝いましょう! さあ、わっしょい! わっしょい!」
突然音頭を取り出す杏寿郎に、すぐ横にいた小芭内が無言で手拍子をし、蜜璃が一緒にわっしょいの音頭を取り始め、他の柱たちもわけがわからないままに巻き込まれるという混沌の一幕もあったけれど。
縁壱は目を細めて。自然と、口元に笑みを浮かべていた。
そして彼はひとり、夜空を見上げる。
『――煉獄殿。君の子孫は、とても、とても幸せそうに笑えているぞ』
縁壱は星の瞬く空へと向けて、小さく語りかけた。
その声ははたして、懐かしい友へと届いただろうか。
縁壱の言葉は、柱たちの楽しげな声とともに、星の瞬く冬の夜空へと溶けていった。
◇ ◇ ◇
『あっ、ところで珠世さんっていらっしゃいますか?』
「ええ、私でしたらこちらに」
それまでは花枝たちの周囲には柱をはじめとした縁者たちが集っていたのだけれど、珠世もまた近くで彼らの話を聞いていたようだ。花枝がその名を呼ぶと、すぐに彼女は現れた。
花枝と珠世は互いにその名を知ってはいたものの、実はこれが初対面である。
珠世の背後には、周囲の柱たちを威嚇する愈史郎と、
『実は珠世さんにはずっとお礼を言いたかったんですよ。獪岳を保護してくださってありがとうございます。獪岳は本当に口が悪いし、根っからの問題児なので、わたしたちがいなくなってからきちんとやっていけるか心配だったんですけど――』
「おい角姫、俺のことはいいだろうが。本題を言え」
『なんですかもう、挨拶くらいさせてくださいよ。獪岳はせっかちなんですから』
獪岳を世話してくれたお礼をしっかり伝えようとしていた花枝だったが、当の獪岳が普通に嫌そうな顔で文句を言ってきた。
なので、花枝はしぶしぶ獪岳についての挨拶を切り上げて、本題を伝える。
『ええと……それでですね。例の薬「トキジク」なんですが、あれの廃棄をお願いしたいんです。人喰い鬼の残党に使う分にはいいんですけど、この薬はきっと、この先を生きる人々の手に渡してはいけないと思いますから』
「……ええ。あの薬は人間には過ぎた薬です。私も、カナエさんやしのぶさんも、あれをこの国の歴史には残さぬつもりです」
『それならよかったです。それが一番気がかりだったんですよね』
花枝が伝えたかったこと。それは『トキジク』という、一時的とはいえ人間に不死性を与えてしまう薬のことだ。あんなものが人間社会にばら撒かれたら、恐らくはとんでもないことになってしまうだろうなという予感があった。
なので、恐らくあの薬を一番理解している珠世に廃棄をお願いしたのだが、彼女らも初めからあの薬を残すつもりなどなかったようだ。
「花枝さん。私からも質問よろしいですか?」
『はい、なんですか?』
「鬼舞辻無惨があの世界から戻る可能性は、本当にないと言い切れますか?」
『あ、それならばっちり大丈夫です! 常世の世界の仕組みは、説明がちょっと難しいんですけど、無限城とは違ってあそこは世界そのものが全く別なもので、神隠しが――ええと、まあ、大丈夫なんです!』
「……」
花枝は説明を放棄した。珠世の目は笑っていない。
空気が凍る。
だが、そこに救いの手が差し伸べられた。
『珠世殿、それは私も保証しよう。鬼舞辻無惨が戻ることは、二度とない』
「……継国縁壱。あなたがそう言うのならば、私もそれを信じましょう」
花枝に対して珠世は非常に疑わしい目を向けていたが、縁壱が横から保証してくれたので、珠世もきちんと信じてくれたようだ。
花枝としては少しだけひっかかりを覚えたが、しかし気にせずにっこり笑顔だ。
『そもそも、あっちの世界には無惨が力を回復させる栄養源がありませんからね。どの道もう、たいした力は残っていないんですよ』
「ああ、なるほど。日の呼吸の型であれだけ執拗に切り刻んでいたのはそのためでしたか」
『はい、だいたいそういう感じです! その上、最後は自分で残った力を振り絞って、意味もなく破裂してましたしね。今頃きっと、手作業で自分の肉片をかき集めてる頃です!』
花枝は物騒なことを言いながら、にっこり顔を見せる。珠世もまた、そんな花枝の様子を見て自然と苦笑を浮かべていた。
あくまで、それはどこか困ったような笑顔である。けれどそれは、彼女がこれまで一度たりとも見せたことのないような、とても自然な表情だった。
きっとこの夜、彼女の人生から鬼舞辻無惨という呪いが消え去ったのだろうと、花枝は嬉しくなる。ついでに、珠世の新たな表情を垣間見た愈史郎が興奮気味で少しおかしい様子を見せていたが、そちらは気にしないことにした。
◇ ◇ ◇
楽しい時間にも終わりは訪れる。
『ふふ。なんにしても、これでわたしも、心残りなく、手鬼たちのところに還れますね』
花枝の呟きに、辺りで勝利を祝っていた者たちが、しんと静まる。
暗かった空は、東の空から少しずつ白み始めている。
本物の太陽が昇り、地上の空を黎明の明かりで染める時間が近づいてきたようだ。
花枝は別れる前にしっかりと言葉を伝えるため、無惨との戦いで最後まで自分たちを守ってくれていた二人に視線を向ける。
『杏寿郎。あなたはきちんと人間に戻って、家族を安心させてあげてくださいね。あと槇寿郎にも……健康に、気を付けるようにと。そう、伝えておいてくださいね』
「はい。必ず父に伝えます。それと……伯母上は最後まで、いつものように、笑顔で幸せそうだった、と……伝えます。絶対に」
花枝は、初めて煉獄家で出会った子供の頃の杏寿郎の姿を思い出す。
最終選別にも届かぬほどの年齢の杏寿郎は、とても元気で、素直で、真っ直ぐな子供だった。
それが今ではもう、ここまで立派な大人へと成長してくれたのだ。花枝は瞳を細めて、うんうんと満足げに頷いて見せる。
次に、もう一人の『あやかし』へと振り返る。
すると、花枝が声をかける前に、相手から話しかけてきた。
「杏寿郎が人間に戻るなら、俺がこの世界に残された角姫の最後の眷属ってわけだな。まあ、それも悪くねえ。あとは任せておきな」
花枝のすぐ横で、こんなことをのたまう問題児。それはもちろん獪岳だ。
『もう、馬鹿なことを言ってないで、獪岳もきちんと「人間に戻る薬」を貰ってくださいね? 眷属だとか、そういうのはどうでもいいんですから』
「ああ。考えておく」
『わあ、絶対にやらないときの常套句』
花枝としては、獪岳にも人間として幸せになって欲しかった。
けれど、獪岳は獪岳だ。心の中の幸せの箱は補修できたはずだけれど、人間が嫌いで、他人の言葉を素直に受け取れないのが獪岳だ。残念ながら、そういうところまでは花枝でも直せなかった。
だから、これはこれで獪岳らしいかな、と。花枝はそんなことを思いながら、彼の顔を見上げる。
獪岳もまた、花枝の心情を知ってか知らずか、いつかのように、どこか寂しさの混ざった視線を花枝に向けている。
目と目が合って、どちらからともなく、笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
東の空は、明るくなりつつある。花枝たちの姿がだんだんと薄れていっているのは、きっと誰の目からもわかったことだろう。
縁壱も花枝の隣に並んで立つ。彼もまた、そろそろ逝く時間だと察しているようだ。
すでに珠世と愈史郎、朱紗丸は日差しのあたらぬ森の中へと消えてしまった。
珠世たちが作った薬『トキジク』で一時的な不死性を得た隊士たちもまた、太陽の光を苦手としているはずだ。死にはしないものの、肌を灼くような痛みはあるはずなのだが、しかし隊士たちは誰一人としてこの場を離れようとしない。
完全な『あやかし』である獪岳と杏寿郎、そして禰豆子も最後までこの場で花枝たちを見送るつもりのようで、事情を知っている隠たちがあわてて禰豆子の箱や、杏寿郎らを日差しから守るための日傘や大布を用意している。
花枝は、最後に声をかける。
『炭治郎。禰豆子。本当に、お疲れ様でした』
花枝が視線を向けたのは、姉である莢子の忘れ形見であり、花枝の唯一の血縁――炭治郎と禰豆子の二人だった。
禰豆子とは、神降ろしの最中に心の中で交流できていたし、炭治郎とは無惨を討伐した直後にも沢山言葉を交わしたはずだった。
それでも、花枝がこの世界で最後に言葉を届けた相手は、この二人だった。
「俺、炭吉さんからずっと受け継がれてきた日の呼吸のことも、俺たちの中に流れている御霊矢の血のことも、絶対に忘れません! 縁壱さん、大叔母様。本当に……ほん、とうに……ありがとう、ございました……!」
頭を下げる炭治郎の瞳からは、ぽたりぽたりと、透明な雫が落ちる。
『長き時を超えて、炭吉の血を引く君と出会えたことを、私は嬉しく思う。ありがとう、炭治郎』
『炭治郎。わたしこそ、あなたたちのことはずっと、忘れませんよ』
魂の存在では、炭治郎の頭を撫でてあげられない。そんなもどかしい思いにもやもやしている花枝に、次は禰豆子が言葉をかける。
「あのね、大叔母様! 私……みたまや、継ぐから! 苗字は違っても、私はみたまやの巫女だから!」
『わあ、頼もしい。それなら禰豆子は……この世界を、ずっと照らしてくださいね。わたしが大好きだったこの世界を、あなたの笑顔で』
「うん……うんっ……!」
禰豆子の頬も、濡れている。きっと禰豆子は人間に戻り、幸せな人生を送るだろう。幸せな結婚をするだろう。
そんな、禰豆子の輝かしい未来を想いながら。
花枝もまた、その瞳を潤ませていた。
◇ ◇ ◇
『皆さん。わたしは、この世界が大好きでした。ほとんど山の中で暮らしていましたけど、沢山の子たちを見守って、応援して、たまにボコボコにした子もいましたけど……』
朝日が昇る。
隊士たちはみな、地面に膝をつき、それでも顔を下げることなく、二人の姿を見つめている。
最後の瞬間まで鬼殺隊を見守ってくれた御霊矢花枝、そして呼吸を伝えた継国縁壱。二人はまるで日差しに溶けるように、キラキラと、その身を光の粒へと変えていく。
『でも、これから先は、皆さんが、わたしが愛したこの世界を、守ってくださいね』
そんな言葉とともに。
慶応の時代から、長らく鬼殺隊とともにあった角姫――
『大好きです、皆さん』
朝の光の中で。大好きだったこの世界から、消えていった。