幾星霜の先で 前編
――2017年。
和暦にして、平成二十九年。
千年以上もの長きに渡り人々を苦しめ続けてきた鬼の王が常世に消えてから、実に百年の時が過ぎた。
大正、昭和、そして平成と年号も変わり、鬼と鬼狩りたちの戦いはもう、各地に物語めいた言い伝えが残るばかりで、真実は人々に知らされぬままに歴史の影へと沈んでいった。
これは、そんな時代にあった、小さな再会の物語。
◇ ◇ ◇
この日、その藤襲山には二人の少女が訪れていた。
黒髪を揺らす二人の少女。先を歩くのは、後頭部で髪を結い上げた、表情豊かないかにも活発そうな少女だ。その後ろを歩くのは、背中まで艶やかな黒髪を伸ばした、感情を表に出さない冷静沈着そうな少女である。
二人とも小学五、六年くらいだろう。ハイキング用の靴に小さなリュックを背負い、木々に囲まれたデコボコの山道を歩いている。
「よっし、詩音ちゃん、ここから上に行けば例の神社があるよ!」
「ふぅ、はぁ……。少し待って頂戴、私、山道なんて……普段歩かないから、そんな速度は無理だわ……」
「あー、詩音ちゃんはインドアだからね-」
季節を問わず藤の花が咲いているこの山は、今や有名な観光地となっており、麓から中腹にあたるその区画は『藤襲自然公園』として人々の憩いの場となっていた。
特に、天気のいい日には家族連れや観光客が多く訪れ、麓の街で郷土料理を食べ、土産を購入して帰っていく。
この地域は明治時代から続く『角姫伝説』の発祥の地として知られており、今ではそれが元になったゆるキャラ『つのひめちゃん』がこの土地のマスコットとして住民たちにも愛されていた。
だが、いま二人の少女が歩いているのは、その自然公園よりさらに上だ。中腹を越えた先は、決して観光地などではない自然の姿を残した山であり、本来ならば子供たちが足を運ぶべき場所ではない。
「ええと、ここを上がって……ええと、この道を辿ればいいのかな?」
「……地面を見るといいわ。ほら、車両が通った後もあるし、神社があるとしたら、それを管理してる人がいるんじゃないかと思うの……」
「お、さすがは詩音ちゃん、よく見てるねー」
だが、少女たちは森の中を進んでいく。
木々が生い茂っているとは言っても、人の管理の行き届いている山だ。車が走れるほどに山道は整備されており、上を見上げれば電線も通っている。
時刻はまだ昼時。生憎日差しの隠れた曇り空だが、彼女らが手に持つスマートフォンも電波がきちんと通じているため、少女たちにさほどの危機感はない。
車のタイヤ跡のついた道をなぞるように、少女たちは曇り空の下を歩く。
「それにしてもさ、角姫様って本当にいると思う?」
「わからないわ。きっと……誰も見たことがないからこそ、偶像への信仰が集まっているのではないかしら」
「そうかー」
活発な方の少女が口にした角姫様とは、読んでそのまま、この地に伝わる『角姫伝説』に出てくる鬼の少女の名だ。この地域の名産品『角姫像』は、当然その少女を模した像である。
過去、この山には多くの恐ろしい鬼が潜んでいたのだけれど、角姫という鬼の巫女が現れ、暴れていた鬼たちを鎮め、人と共に歩める仲間として導いてくれたのだそうだ。
昔話ではあるけれど、麓の街ではそれが実際にあったこととして言い伝えられていた。
ただし、それでも。今の世で実際に角姫様と出会ったという話は聞いたことはない。
「ずっと昔はさ、この山には色んな鬼がいたっていうでしょ? 漫画だったら、こういう場所に入ったら絶対に何かしら出てくるものじゃない?」
「……さすがに、漫画の読み過ぎ。普通に生きていれば、そんなものとは出くわさないわよ」
「あー、私も漫画みたいに、なんかすごい怪異とか都市伝説に出くわしたいなー」
「あれは、あくまで漫画だもの」
さすがは小学生、山道をのぼりながらも元気である。歩きながら、どんどん会話は膨らんでいく。
怪異。都市伝説。それらはこの日本各地に存在する様々な怪奇現象や妖怪話を指す名称だ。
江戸時代までの古典的な妖怪話だけでなく、この国には大正時代以降に生まれた、いわゆる近代の妖怪話が非常に多く、それらの不思議な存在とともにこの平成まで歩んできた。
子供たちが読んでいるコミック誌でも、妖怪や怪異、都市伝説をテーマにしたものは非常に多い。昨年には、まさに大正時代を舞台にした『善逸伝』なる鬼との戦いを描いた漫画が連載開始されており、一部の妖怪話ファンの注目を浴びている。
何故大正以降にそのような話が増えているのか。様々な民俗学者が説を唱えているが、中には大正時代に大量の『人ならざるものたち』が生まれ、日本中に放たれたからだ、などという突飛な説もあるらしい。
もっとも、そのような百年前の出来事など、山を歩く少女たちには一切関係のないことである。
それらの噂話には、様々なものが存在する。
角姫のように人々を守ってくれる存在の言い伝えも少なくはなく、この山の麓には昭和の戦時中、永遠に歳を取らない女性の医師が多くの人々を助けてくれたという逸話もあったはずだ。
「……都市伝説。角姫様と出くわすならいいけれど……口裂け女や琵琶女みたいな、危険なものだったらどうするの? この寂しい山では、助けもないのよ……?」
「その時はほら、あの合い言葉だよ。悪い怪異は大体あの合い言葉で逃げ出すでしょ」
一方で、てけてけや口裂け女、琵琶女といった、人を襲うと言われる危険な怪異・都市伝説も多い。日本における行方不明者や未解決事件のいくつかは、それらの存在によるものだとまことしやかに囁かれている。
そしてそれらの噂と同時に広まっているのが、人ならざるものたちが怖れ慄き逃げ出すという『とある言葉』である。
「『むざん! むざん!』って唱えれば怪異なんて逃げちゃうからね。意味はよくわかんないけど」
「……もう、山でそんな言葉を連呼してると、逆に本物が――」
後ろを歩いていた少女、詩音が話しかけたところで。
ぽん、ぽん、ぽん、と。
いつの間にそこにあったのかもわからない『鞠』が、何もなかったはずの山道を転がっていた。
「え……?」
少女たちの視線がその『鞠』に釘付けになっていると。
ふいに、ガサリと。
道のすぐ横の、鬱蒼として暗くなった森の中から――黒い影が躍り出た。
「ぎゃああ!!! お化けがでたああぁぁ!!」
「……や、やっ……やだ……っ」
山道の脇の暗い森から突如出てきた黒い影。熊のような野生動物か、はたまたまさに今話していたような『人ならざるもの』か。
少女たちは、急な出来事に悲鳴を上げ、慌てて来た道を戻ろうとするが、足がもつれて二人で転んでしまう。
「詩音ちゃん、呪文! むざん! むざん!」
「む、むざん……! むざん……!」
二人は互いに抱き合い、ひたすらに『むざん』の呪文を唱えていた。これはこの国では広く知られている、悪しき妖怪が逃げ出すという不思議な言葉である。
だが、森から現れた黒い影は、そのような呪文を聞いても怯むことなく。むしろ、ふんす、と鼻を鳴らし――。
「人を見ていきなり化け物呼ばわりをするでない! あとその不快な呪文もやめんか!」
そんな叫びとともに、少女たちの背中に「ぽこん」と、拾った鞠を優しく投げ付けるのだった。
◇ ◇ ◇
背中にぽこんと鞠を投げられたショックで少女たちはビクッとするけれど、しかしすぐに聞こえてきた女性の声に、恐る恐る顔を上げる。
「え? お、お化けじゃない?」
「く、熊でもなさそうね……」
「全く、いきなり失礼なガキどもめ。私が熊や口裂け女に見えるか?」
それは、熊でも口裂け女でもなく、長めのショートボブの毛先を赤く染めた、気の強そうな女性であった。
見たところは十代の半ばにも見えるが、その態度がかなり堂々としており、見た目が若いだけで成人女性なのかもしれない。
上下を黒のジャケットスタイルでまとめており、頭には革製の丈夫そうなキャップを被り、日よけか虫除けか、腕には指先まで覆うアームカバーを付けている。肌の露出がほとんどないため、最初は黒い影の塊に見えてしまったのだ。
そして何故か、手に鞠を持っている。今しがた背中に軽く投げ付けられた鞠だが、いつの間にか回収したようだ。
少女たちは数秒ほどぽかんと女性を見上げてから、慌てて立ち上がる。
「ご、ごめんなさい! いきなり森から出てきたから、驚いちゃいました!」
「……謝罪するわ。ごめんなさい……」
「ん、ちゃんと謝れるのは偉いぞ。それで? 見た所は山で迷っているわけでもなさそうじゃが、ここは子供が興味本位で入るような場所ではないぞ。一体何しに来た?」
女性が問うと、少女たちは一度、二人で顔を見合わせる。
二人で山に入り込むほどの行動力に溢れる少女たちではあるけれど、今どきの子供たちなので、それなりに警戒心は持ち合わせている。
山で森の中からいきなり出てきた目の前の女性。そして、もしかしたら地方の方言なのかもしれないが、口調が妙に年寄りくさい。はたして彼女にどこまで話して良いものかと、少女たちは目と目で相談する。
そして、どちらともなく頷いた。
「あの、私たち、この藤襲山にあるっていう神社にお参りに来たんです! どうしても、お願いしたいことがあって!」
「……藤襲山の森の中には、角姫様の明神鳥居があったと……話を聞いているわ……」
「角姫の鳥居……じゃと? ふむう……」
女性はそれに心当たりがあるのか、少しだけ黙って考え込んでいる。
簡単に言ってしまえば、少女たちの目的は『山の奥に存在するという神社を参拝したい』というだけのものだ。だが、実のところ、その願いは非常に重い意味を持つことを、黒い衣装の女性は知っている。
彼女は二人の少女をジッと見つめてしばらく考え込んでから、しかし最終的ににやりと笑みを浮かべて、少女たちに提案をする。
「依頼……というわけでもなさそうじゃが、何やら訳ありのようじゃな。よし、少し先に私が住んでいる屋敷があるから、一旦そこに来い。茶菓子くらい御馳走するぞ」
「ええと、お姉さんは? ここの山の人なんですか?」
「ああ。私は朱紗丸。ここの山の管理もしておるが、本職は『拝み屋』じゃ。人に害をなす物の怪どもを退治するプロじゃよ」
「お、拝み屋……?」
「そうじゃぞ。あちこちの物の怪を退治したり、あるいは悪戯が過ぎる奴を注意してまわったりとかしておる。何を食ったのか知らんが、怪物に変異した野生動物を狩ることだってあるぞ」
「な、なんか漫画みたいですね。じゃあ、琵琶女とかも知ってるんですか?」
「ま、まあ……あれには因縁があるというか、責任があるというか……まあ、色々あるんじゃよ」
「へー」
彼女の言う『拝み屋』とは、憑き物や悪霊の撃退、妖怪怪異による事件の解決といった、この都市伝説の多い日本でもなお珍しい、言ってしまえばファンタジックな職業である。
少女たちも興味深そうにその話を聞いてはいるが、内心では半信半疑だ。
そんな拝み屋を自称する女性――朱紗丸だが、少女たちに後をついてくるように言うと、さっそく車の跡の残る山道を歩き始めた。森の中を通らずにきちんとした道を選んでいるあたりは、彼女なりに子供たちに気をつかってくれているようだ。
少女たちも、どことなく不安げな表情を残しつつも、山の管理をしているという朱紗丸のあとについていく。
二人がしっかりと後ろについてくるのを確認すると、朱紗丸はおもむろに懐からスマートフォンを取り出し、歩きながら通話をかけ始めた。
何度かのコール音の後、通話先の相手が出たようだ。
「
電話口に話しかけていた朱紗丸が、背後の少女を振り返る。
今の通話の会話からして、名前を聞かれていることを察した少女たちが、今更ながら名を名乗る。
「私は"
「……"
「――百合と詩音の二人じゃ。知らん? そりゃそうじゃろ、私も初めて会う小学生じゃからな。ああ、そう騒ぐな。聞いたところワケアリなのは間違いないから、とにかく連れていくぞ」
朱紗丸は一方的にそう伝えると、相手の返答も待たずに通話をオフにする。
切る直前、スマートフォンからは男性が何かを言っている声が漏れ聞こえていたが、朱紗丸はまったく気にせずに、ポケットにスマートフォンをしまい込んでしまった。
そして、背後を歩く少女たちに向けて、目を細めて笑いかける。その目はどことなく、悪戯っぽい笑みにも見えた。
「よし、ついてこい。私の相方の男も、お前らの話に興味があるようだ」
「え、お姉さん、なんか一方的に用件を伝えて、電話口で文句言われてませんでした?」
「キャハハハ、気のせいじゃ! 獪岳は基本的に人当たりの悪い奴じゃが、昔から小さい娘にはなにかと甘いからな。歓迎されるじゃろ」
「え、それってロリコンてことですか?」
「……このままついて行って、本当に大丈夫なのかしら……」
そこはかとない不安が少女たちの頭をよぎるが、とは言え無断で入った山道で、その山の管理をしている女性に出会ってしまった以上、ここから更に勝手な行動を取るわけにもいかない。
なので、百合と詩音の二人の女児は、手を繋いで朱紗丸の後に続く。
拝み屋などという不思議な人たちならば、もしかしたら自分たちの悩みも解決してくれるかもしれないなと、不安の中に、決して小さくはない期待感を高まらせて。
胡蝶百合と風見詩音の二人は、ざく、ざくと、朱紗丸に連れられ歩いていくのだった。
◇ ◇ ◇
百合と詩音は知らない。
この目の前を歩く女性、朱紗丸。そして彼女が語っている相方、獪岳。
この二人が人間などではなく、百年以上の時を生きてきた『あやかし』という存在だということを。
彼らが多くの仲間とともに、数多の悲劇を生み出した邪悪なる鬼の王と戦った過去を。
そして、朱紗丸と獪岳も知らない。
百合と詩音がこの山を訪れた理由。
そこには彼らにとって、切っても切れぬほどの『縁』が働いているということを。
互いに互いのことを知らぬまま、縁は続いていく。
百合と詩音、二人の少女は何も知らないままに。
ただ、初めて訪れたはずの森に懐かしい気持ちを感じながら、藤襲山の山道を登っていくのだった。