――明治五年。
この日もまた、鬼殺隊による『最終選別』が行われていた。
すでに選別の日程は後半に入り、鬼も、そして見習い剣士たちも、それぞれ大きく数を減らしている。
「巫女鬼。あの剣士をどう見る」
「あそこにいる水の呼吸の剣士ですか? 他と比べるとなかなか腕は立ちますけど……」
試験参加者が残していく道具類をかき集めるために山に出てきた手鬼と花枝の二人だが、今はその足をとめ、選別に参加するひとりの少年に注目していた。
幼さの残る顔立ちからして、その年の頃は一三歳程度だろうか。
その使う剣術は水の型だ。花枝もすでに幾度かの最終選別を観察してきたので、基本的な呼吸とその型はある程度つかめるようになった。
「随分と大きな怪我をしていますね、可哀想に。残り日数的にはもう合格は無理じゃありませんか?」
その水の呼吸の少年は、狐の面を頭に斜めに被っているのが特徴的だった。
どうやら腹部から足にかけて大きな傷を負っているようで、衣服には血が滲み、どことなくふらふらとした足取りだ。
「ありゃあ、他の参加者を庇ってこさえた怪我だろうな。たまにいるんだ。いくら実力があろうが、それで死んでりゃ世話ねえぜ」
手鬼の憶測に、なるほど、と思う。
狐面の少年の腕ならば、この藤襲山の鬼相手に苦戦するはずもないが、足手まといとして他の参加者を庇いながらとなると、話が変わってくる。
もっとも、彼の周囲に他の選別参加者はいないので、あれが本当に誰かを庇った傷なのかどうかは、もう調べようがない。
「それで、彼がどうしたんですか?」
「……あの狐面は、間違いなく鱗滝のもんだ。俺の目がそう言ってる」
「バッテンの目がそう言ってるんですか?」
なにを言ってるんだろうかと、花枝はいぶかしげな目で手鬼をちらりと見やるが、彼の表情は真剣だった。
どうやら冗談で言っているわけではなさそうなので、花枝は茶化すのをやめて、その鱗滝の関係者と思わしき剣士に視線を戻す。
すると――。
「あーあ。気絶しちまったなあ」
「わあ。私がよそ見をしている間に、あっさり倒れちゃいました」
◇ ◇ ◇
「うぅ……ここは?」
「あ、目覚めましたか。おはようございます、子狐さん。いまは怪我の治療をさせて頂いておりますよ」
少年が意識を取り戻したとき、あたりはすでに暗く、夜中になっていた。
朦朧とした意識の中で、彼は自分をのぞき込む優しげな童女の姿に気がついた。月の光に照らされた白い装束。その胸から下は赤く染まっており、それはまるで巫女服のように見えた。
童女は光を持たぬ淀んだ瞳をしているものの、とても優しげな眼差しをしていた。そして、その額には小さな角が生えていた。
小さな角。
角。それは、鬼である証拠だ。
それに気付いた瞬間。ドクン、と少年の心臓が警鐘を鳴らす。
少年の心臓は一気に鼓動を早め、意識が急速に覚醒していく。
「くっ! きさま鬼か!!」
「わあ。いきなり臨戦態勢」
「落ち着けよ、雑魚が。俺等はテメェを食う気なんざねぇよ」
少年はあわてて起きあがろうとするが、こんなこともあろうかと手鬼が先に手足を縛っていたので、花枝が危害を加えられることはない。
怪我人を連れ去り、その手足を縛りつけるのはまさに悪の所行だが、見習いとはいえ相手は鬼狩り、こちらは鬼だ。こうして拘束するのも仕方がない。
「くそ、僕を連れ去り、内臓から食う気か! 今ここで殺したらどうだ! さあ! さあ!」
「巫女鬼、こいつボコボコにして黙らせちゃ駄目か?」
「駄目にきまってるじゃないですか」
花枝はぽきぽきと指を鳴らしている手鬼をやれやれと宥めながら、てきぱきと、少年の傷口への応急処置を進めていくのだった。
◇ ◇ ◇
処置は進んでいく。
少年はしばらくの間は警戒し、触るな、殺せ、と騒がしかったが、花枝の応急処置を見ていたからか、はたまた手鬼が強引に猿ぐつわを噛ませたからか、途中からは随分と大人しくなった。
応急処置に使用したのは百合鬼が見繕い配合してくれた薬草だ。今この場で傷が癒えるわけではないにしろ、そこからよくないものが入り込み、怪我が悪化することはないだろう。
「今さらですけど、あなたは鱗滝さんの関係者で間違いはありませんか?」
「水柱を知っているのか? 鱗滝さんは、僕の兄弟子であり、師のひとりでもある」
「え、あの方、弟子に『鱗滝さん』なんて呼ばせてるんですか?」
応急処置が終わるころには少年はだいぶ大人しくなった。手鬼はともかく、少なくとも花枝に対する警戒心は緩んできたようで、猿ぐつわを外しても騒ぎ立てることはない。
花枝が少年の背に手を当て、浄化をし続けていたのも大きいのだろう。この力は相手の警戒心を抑える効果もあるのだ。手鬼は「詐欺師向きの力だな」などと失礼なことを述べていた。
そしてやはり、手鬼の見立て通り、彼は鱗滝左近次ゆかりの者であった。同じ育主のもとで水の呼吸を学んだのをきっかけに、鱗滝もまた彼を長らく指導してきたのだという。
「この狐面、奴の手作りだろ。あの天狗面と作りが同じだと思ったぜ」
無造作に狐面を手にした手鬼を少年が睨みつけているが、手鬼は意にも介さない。
手鬼はまるで店先の工芸品を触るかのように狐面の裏表を観察し、あげくにくんくんと匂いを嗅いで「鱗滝の匂いだ」などと呟いている。手鬼はたまに気持ち悪いな、と花枝は内心で思った。
「でも、手鬼の勘違いでなくて安心しました。わたしは、鱗滝さんには恩があるんです」
「鱗滝さんに……恩?」
「こいつ、巫女鬼は鬼になってすぐ、鱗滝にこの山に放り込まれたんだ。巫女鬼は命を救われたみたいに言ってるが、俺に言わせりゃ恩どころか一番憎むべき対象だぜ」
「ふふっ、でも手鬼も、この子狐さんを助けるのに協力してくれましたよね?」
「……鬼に弟子を助けられたと知った鱗滝の顔を想像したら、笑えるだろ。それだけの理由だ」
少年は、鬼であるにも関わらず自分を治療し、あげく鱗滝の話題で笑いあっている二人の姿を。まるで、信じられないものを見るように見つめていた。
そして、手鬼が発した『巫女鬼』という言葉を脳内で反芻し。ふいに、彼の脳裏にひとつの名前が浮かび上がる。
「みたまや、かえ……?」
「わあ、わたしのことをご存じで?」
それは、久しく呼ばれることのなかった花枝の、人間としての本名である。
花枝はきょとんとした顔を少年に向けて、手鬼は途端に無表情になる。
「鱗滝さんが……聞かせてくれたんです。己の慢心が原因で、
「後悔……ですか」
「ケッ。人を食ってもいない巫女鬼をこんな檻に放り込んでおいて、あいつが嘆いてるのかよ。笑えるぜ」
「もう、手鬼は相変わらずですね」
相変わらず鱗滝の話題になるとトゲトゲしい手鬼を制して、花枝は少年に向き直った。
「よろしければ、今の鱗滝さんについて、聞かせてもらえますか?」
「そんならついでに、外のことについても聞かせろ。ここは外の情報が入ってこねえんだ」
「はい。では……鱗滝さんは、年号が明治に変わった時期に――」
その後、花枝と手鬼はこの山に来てから初めて、藤襲山の外の出来事を知った。
水柱として活動している鱗滝についてだけではない。日本という国の変わり様は、花枝たちにとっては大きな驚きだった。
そして、藤襲山にいるだけでは知り得ない、鬼殺隊という組織や、それが戦っている鬼というものについても様々な知識を得た。
その頃にはもう、暗かった空はうっすらと紫色に変化し始め、朝が近づいていることを示していた。
◇ ◇ ◇
「わたしたちのことは鬼殺隊には絶対に秘密にしてくださいね? 鬼狩りなんて差し向けられたらかないませんし、絶対、絶対に内緒ですよ?」
「言っておくが、人を食わない鬼なんてのは俺らだけだ。間違っても、外の世界の鬼に期待すんな」
「……はい。どちらも肝に銘じます」
空が明るくなる前に、花枝と手鬼は少年を山の中腹――藤の花が咲き乱れる箇所へと移動させた。
応急処置をしたものの、彼はもうこれ以上戦えない。鱗滝には悪いが、彼はどのみち最終選別は失格だろう。
「ここから下山して隊士を諦めるのも、また上にあがって鬼に食われるのも、テメェの好きにしろ」
「それでももし、あなたが生きて帰るなら……そのときは、鱗滝さんによろしくお願いしますね」
「……巫女鬼様、手鬼さん。このご恩は一生忘れません」
狐の面を着け直した彼は、二人の鬼に深々と頭をさげてから、ざく、ざくと。藤の花の舞い散る中腹を歩き出した。
花枝たちもそのまま踵を返し、太陽が出る前に隠れ里へと帰還する。
彼らはそのまま、どちらも後ろを振り返ることはなく、子狐と鬼たちの初めての邂逅は終わりを告げた。
この先、長い月日の中で。
彼に続く何人もの狐たちがこの山を訪れることになるのだが、花枝も手鬼も、そんなことは知る由もないのだった。
◇ ◇ ◇
「アァァ! 結局は子狐一匹助けただけじゃねえか! くだらねえことに時間使っちまった!」
「いいじゃないですか。鱗滝さんに恩を返せたわけですし」
「アホ、恩なんかじゃねえよ。俺はあいつを恨んでるんだよ」
「わあ、素直じゃない」
黄昏の隠れ里に戻れば、そこはいつも通りの御霊矢神社である。
手鬼がその腕を駆使して掘り進めた井戸から汲んだ水を二人でゴクゴクと飲み干すと、二人は石段に腰掛けてこの日の感想を述べ合っていた。
とはいえ、試験参加者が残していった道具や物資を拾い集めるという目的から考えると、この日は何の収穫もなしである。
だが、そんな二人の会話を聞いていた筆鬼が、紙にさらさらと文字を書き、花枝と手鬼に見せつけた。
――『情けは人の為ならず、巡り巡って己がため』
「あぁ? どういう意味だよ、先生」
「ふぉふぉ。もしかしたら、今回かけた『情け』こそが、後々巡り巡って、我らを助けるやもしれん、ということじゃよ」
「なるほど。そういう考え方もありますね」
「んな都合いい話があるかっての」
そんな風に、愚痴りあい、そして笑いあいながら。
黄昏の世界の刻は今日もまた、平穏に過ぎていく。
◇ ◇ ◇
なお、隠れ里の『物資』について、この年からは事情が大きく変わっていくこととなる。
というのも、花枝と手鬼が狐面の少年を送り出した場所、藤の花の咲き乱れる地点にて。
塩や味噌などの必需品や、いくつかの生活道具や明治の新聞の束といったものがまとめられた包みを、花枝たちは定期的に発見するようになったのだ。
不思議なことに、鎹鴉たちはその明らかに不審な荷物を見つけても何も騒ぎ立てる様子はなかった。
鬼に関係のない物ならば気にしないのだろうかと花枝は疑問に思ったが、鴉の考えなどわかるわけもないので、じきに考えるのをやめた。
「しかしこの包み、あの子狐か? それとも……」
しきりに包みの匂いをかぐ手鬼に花枝は苦笑しつつ、味噌をぺろりと嘗めとった。
「情けは人のためならず。今回は、なかなかいい勉強になりましたね」
数年ぶりに味わった味噌の味は、少しばかりしょっぱくて。
そして、とても懐かしいものであった。
◆ ◆ ◆
件の最終選別から数日後のこと。
藤襲山から遠く離れた地に、あの少年はいた。
「そうか。花枝と……あの少年が、今もあの山に……」
「鱗滝さん。巫女鬼と手鬼は、僕を救ってくださいました。あの子たちは……ええ、間違いなく『人』でした!」
「……」
「鱗滝さん。巫女鬼……御霊矢花枝が、いったい何の罪を背負っていると言うのでしょうか! どうして彼女は心が清いままに、ずっと、ずっと……あんな、暗い山で……」
頭ではわかっているのだ。
花枝があの山から出れば、すぐにでも鬼殺隊に命を狙われる。もしそこで鱗滝たちが庇い立てしようものなら、自分たちこそが鬼に与した裏切り者として裁かれることになる。
鬼殺隊は『人の心を持つ鬼』など、何があろうと信じない。そのような世迷い言を、決して許さない。そういう風につくられた組織なのだから。
それが今の、鬼殺隊だ。
けれど、けれど。彼らは思う。
それはあんまりではないか。どうしてあの巫女が、そんな辛い思いをせねばならないのか。
目を瞑れば、あの山で生きているであろう幼い巫女の微笑みが、今もなお、心の奥底に焼き付いている。
それはまるで――彼らを決して離さぬ、呪いのように。