みょん柱。 作:みょん!
狭霧山、型の練習をする時に使用する広間で日課の型稽古を続けている。
水の呼吸の基本的な型は、肉体に沁み付く程に繰り返した。
関節の駆動、筋肉の動作、骨の一本に至るまで神経を巡らせて操作し、刀に導かれるままに技を振るう。
魂魄妖夢は刀が振り方を教えてくれると云った。
鱗滝が鍛錬に口出しをしなくなった後、俺の先生は両手に握る刀になる。
数打ちの刀、言い訳は出来ない。
俺は知っている。この刀で滝を斬れる事、岩を斬れる事を知っている。
よく手入れのされた良い刀だと妖夢は言ったから。
足りていないのは俺の力だと分かっている。
迷いはない。
終着点を見せて貰ったから、俺は心置きなく鍛錬に身を置ける。
とある日の事、型稽古をする時は目を伏せている時の方が効率が良いと悟る。
深呼吸を繰り返す。全集中の呼吸の原理は、大量に酸素を取り込む事で肉体の活性化を促すもの。だけど今、自分が行っているのは真逆の事、肩の力を抜いて全身を脱力させる。無理に正眼を維持せず、切っ先を下げる。自然体の方がより自分の身体の事が理解出来る気がしたので、右足を引いて半身になり、下段に構えた刀を身体の後方に下げる。これは妖夢に倣った型の一つで脇構えというらしい。呼吸は細く、より細く、全集中の呼吸の仕方を維持したまま、朝焼けに溶ける白い吐息のような、消え入る程に浅く、より長く呼吸する。想像するのは波風一つ立たない湖の風景、水面に反射する青空。僅かな乱れで鮮やかな景色は打ち消される。呼吸は浅く、意識は深く、より深みに落としていけば、次第に肌身に感じる五感の感覚が希薄になる。音は遠く、肌を撫でる風の感触は鈍く、感覚を研ぎ澄ませれば、研ぎ澄ます程に五感が麻痺する矛盾、ふわりと肉体から零れる意識の糸。全身が何かを感じ取った次の瞬間、抑え込んでいた肉体が全集中の呼吸を伴って爆発する。
ヒュッと刃が風を切る感覚、目に見えない何かを斬った手応えがある。
分かる、これではまだ駄目なのだと。刃を通じて、空気に触れた。触れた先にあった、宙を舞った木の葉がひらりと真っ二つに切れる。滝を斬った、あの極致には程遠い。だけど、此処が始まりなのだと理解した。
ほんの一端、剣の深みに触れた、気がする。
時は満ちた。恐らく、今ならば。
大岩のある場所に赴く、身の丈程もある大岩を前に刀を手に取る。
上段に構えた、意識を集中させる。呼吸をする、意識を集中させる。呼吸は肉体を活性化させるだけではなく、肉体を操作するのにも活用する。呼吸をした時の反応で普段、生活をするだけでは意識しない肉体の動作を自覚させる。動作を細かく切り分ける。切り分けた上で連動させる。呼吸を繰り返す、意識は、揺らぎだ。集中するという事は、揺らぎを極限まで抑える事に等しい。呼吸を繰り返す、揺らぎを無理に押さえつける事はせず、時が満ちるのを待ち続ける。全集中の呼吸で活性化する肉体を抑え込めば、自然と全身に気が充実するのが分かった。まだだ、まだ、まだまだだ。意識と肉体、気の揺らぎがまだ整っていない。全身の歯車がガチッと噛み合う瞬間がある。まだ、まだまだ、焦る必要はない。何故ならば、俺はまだ未熟だから、今は、正確に技を繰り出す事だけを考えれば良い。正しい剣筋に刃を添わせる。それだけに意識を全集中する。
全ての揺らぎが噛み合った瞬間、スッと刀を振り下ろす。
弾かれる感触はない。大岩の表面に刃が入り、刀身は足元まで。大岩は縦に両断される。
「…………斬れた」
昨日までの苦戦は嘘の様で、驚く程に呆気なく、だけど大岩が横に別れた時の振動が確かな実感として伝わって来る。
「……嗚呼、斬れた……やっと! ……やっとだ!」
苦節一年、漸く成し遂げた結果に感極まって両拳を握り締める。
これで最終選別に行く事が出来る。
鬼殺隊に入る事が目的ではない。
漸く、禰豆子の為に行動を起こせる様になったのだ。
歓喜に打ち震えて、ふと我に返る。
「此処、数日。ずっと剣だけを振り続けていたから身体が汚れ塗れだ」
鱗滝に報告する真似に一度、身を清めようと考えた。
……。
…………。
………………。
身を清める為に滝へ足を運んだのは、なんとなくだった。
心が挫けそうになった時、妖夢が見せてくれた見本が俺の支えになった。
迷いが生まれた時、此処に来る。
あの日の事を思い出す、岩を斬るのに全集中の呼吸も必要ない事を教えてくれた日の事を。
正しく斬る。それだけで充分なのだと。
滝を前にふと視線を落とす。
足元には、妖夢が斬った岩が転がっている。
綺麗な、太刀筋だった。
あの日から更に三ヶ月、未だ切断面は鮮やかに保たれている。
一目見て、嗚呼、自分はまだまだだと悟る。
自分が斬った切断面よりも三ヶ月前に斬った彼女の切断面の方が綺麗だった。
俺は、大岩を斬ったのだと思った。
だけど違った、俺は大岩を割ったに過ぎなかった。
妖夢の切断面を見て、まだ同じだと思える程、俺は驕ったつもりはない。
此処が、始まりなのだろう。
剣の道も、禰豆子を人に戻す道も。
「此処に居ましたか」
振り返ると半霊を顔の横に浮かべる女剣士が居た。
先月は来なかったので二ヶ月振りだ。
「妖夢さん!」
「お久し振りです。此処に来る途中で見ましたよ、両断した大岩を」
よく頑張りましたね、と彼女は俺の頭をわしゃわしゃと撫でる。
見た目の問題で少し気恥ずかしいけど、恐らく俺よりも年齢の高い彼女の好意を素直に受け止めた。
滝壺より少し下流、水飛沫の掛からない距離で互いに距離を取る。
どちらが言い始めた訳でもない。
妖夢は、木刀を手に取り、俺は、真剣を握り締める。
静かに息を吸い込んだ。
全集中の呼吸は、肉体を活性化させるだけではない。
血流を操作する事も出来る。ある一ヶ所だけに意識を集中し、止血する事も出来る。
脱力をする時に力を吐く。
妖夢もまた呼吸で、起こりを操作する時もある。
呼吸は原点なのだ。
全ての動作の始まりである。
「土産話をしましょう」
妖夢は、真剣を持った俺と対峙して呼吸の操作を必要としていなかった。
臨戦態勢にすら入っていない彼女に向けて剣を振り回す。
木刀で鋼の刃は受け止め切れないので、的確に剣の腹を叩かれて撃ち落される。
見切られている。
錆兎の言った通り、大岩を斬った程度では埋まらない差がある。
分かっていた事だ、胸を借りるつもりで技を繰り出す。
「横浜で六つ目の異形な侍と対峙し、私は打ち負かされました」
「え?」
「はい、隙有りです」
木刀の切っ先で胸元を突かれる。
たった一撃で呼吸困難となり、なんとか酸素を得ようと咳を立てる。
しかし妖夢は、立て直す間も置かず、距離を詰める。
「人喰い鬼の中でも実力者ではあるようでしたが、彼以外にも同格の存在が要ると考えた方が無難です」
呼吸が使えず、防御を固める。
最初の数度は幾分か余裕を以て受け止め切れた。
しかし攻撃を繰り返される度に速度は増し、刀の出所を見切るのが難しくなる。
勘に頼る事は出来ない。
一ヶ所、防御を緩めると必ず、その場所を打ち据えられるからだ。最終的に受け止め切れず、地面に倒れるまで木刀を打ち付けられた。
何時もの事だけど、今日は何時もより少し当たりが強かった様に感じられる。
「今更、覚悟を問う真似はしません。ただ知ってください」
妖夢は腰に刀を差す仕草を見せて、体勢を低くする。
居合抜刀の構え。
全身に今まで見た事がない視覚化した桃色の気を纏う。
「貴方では、身を守る事も叶わない鬼が要る」
彼女の身体が一瞬だけ揺れたかと思った次の瞬間、音もなく俺の身体を風だけが吹き抜けた。
背後から、トン、と軽い足音が聞こえる。
振り返る事が出来ない、予感がした。
目の前から、目に見えない何かが迫って来る圧を感じる。
「剣伎・桜花閃々」
呟かれた言葉と共に、視界に桃色の剣閃が弾ける。
俺は身構える事も出来ず、剣気の奔流に飲み込まれてしまった。
結果として、怪我はなかった。
反応が出来れば、それで良く。出来なかったら肌を掠める程度に調整されていた。
桃色の気が舞い落ちる桜の様に消える。
視界が開けた先、背後を振り返れば、構えを解いた妖夢が微笑んでいた。
「貴方がこれから進もうとする道の先は、そういう危険が待ち構えているのです」
大岩を斬って気が大きくなっていた。
俺は、まだ彼女の背中も見えていないというのに。
まだまだ、まだまだ。まだまだ、だ。
「妖夢さん!」
俺は気付けば、地面に膝を着いていた。
頭を下げる行為は、相手に生殺与奪の権を握られる事に等しい。
冨岡に教えられた事だ。
だけど、俺には、これ以上に誠意を見せられる姿勢を知らない。
故に額を川辺の砂利に押し付けて願い出る。
「俺を鍛え上げてくださいッ!!」
禰豆子は目覚める気配はない。
ならば、まだ俺は、この山を離れるべきではないのかも知れない。
あと一年、少なくとも次の最終選別は見送るべきだ。
⋯⋯。
⋯⋯⋯⋯。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
翌日の深夜、割れた大岩の前に足を運ぶと仮面を外した錆兎の姿がある。
彼の仮面は大岩を両断する前に俺が斬った。真剣な顔で俺を睨み付ける彼が片手に握るのは、真剣。俺は、腰に差した刀に手を掛けて、鞘から刀身を引き抜く。鯉口に刀身の擦れる音、数打ちの刀は俺の先生だ。半年間、振り続けた刀は、手に馴染んだ。
最近、錆兎は、男なら、と語る事は少なくなった。
「大岩を斬るだけでは飽き足らず、まだ力を欲するその心意気や良しッ!」
だが、と錆兎は叫んだ。
「鱗滝さんから学んだ水の呼吸はまだ、極めた訳ではないッ! であるにも関わらず、他の流派に現を抜かすなど……男が決めたなら、その道を貫き通すべきではないのかッ!?」
彼が怒声を張り上げる意味を理解し、俺は刀の切っ先を錆兎の眉間に向けて構えを取る。
「俺は始めから決めているよ、錆兎。禰豆子を守る、俺も生き残る。その為に必要な力を欲している」
「ならばッ!」
「勘違いしないで欲しい。俺は水の呼吸を蔑ろにする訳ではない。俺の剣の骨子は、鱗滝さんが教えてくれた水の呼吸だ」
俺には、妖夢が語る霊気と妖気は分からない。
長年の修行に加えて、先天的な素質、種族的な特性が関わっているのだと云う。だから霊気を伴う技は教えても扱えるか分からないと言われた。
なので骨子は水の呼吸のまま、伸ばす方針で固められている。
「……ならばッ! ならばだッ!!」
錆兎が一瞬の溜めの後、駆け出した。
「その剣で証明してみせろッ!」
迫る剣閃を受け止める。
早い、これが錆兎の本気。だが見えない程ではない。
息を吐く、そして吸い込んだ。
ある日を境に全集中の呼吸は出来るだけ、日常的にも維持出来る様に心掛けている。そうしなければ全集中の呼吸を使いながら脱力をする事は叶わないと思ったからだ。
身体に馴染ませる。
この一年は、そればかりだ。
剣を、型を、呼吸を、意識せずとも繰り返せる程に馴染ませ続けて来た。気付いた時には、錆兎と斬り結べる様になっていた。気付いた時には、隙の糸を感じ取れる様になっていた。反復は、繰り返せば繰り返すだけ、繰り出す技の精度が上がるのだと知った。
正しい剣筋に刃を滑り込ませる。
この感覚が分かるまで、どれだけの時間を費やしたか。
何合も斬り結んだ末に相手を退かせる事が出来たのは俺の方だった。
「ぐうっ……ならば!!」
錆兎は、何時もと違う構えを取った。
「俺のとっておきをくれてやるッ!!」
錆兎は、全方位から俺を翻弄する様に斬り刻んで来る。
だが見えない訳ではない、全てを見ずとも良い。視界は広く、死覚は五感で補った。錆兎の連撃を受け止める度に火花が散り、気を抜けば、腕の一本も持っていかれる気迫を感じ取る。
最後に一瞬、気配を消した錆兎は俺の懐に潜り込んで、全力の全集中の呼吸。斬り上げる。人の身を超えた怪力で、受け止めた俺の身体ごと宙に打ち上げた。
なんて、力ッ! 腕が痺れる程の衝撃に気を取られる俺に錆兎が全身を錐揉み回転させながら跳躍する。
「水の呼吸・陸ノ型、ねじれ渦──ッ!!」
ねじれ渦の刃は、渦巻き状の軌跡を画く。全身を回転させて、周囲を巻き込む様に斬撃は本来、攻撃よりも防御よりも技である。
「──遠天ッ!!」
だが錆兎のねじれ渦は、同じ技なのにより攻撃的で猛々しかった。まるで暴風雨の様に相手を斬り刻む連撃の一撃、一撃の全てが渾身。絶対に倒すという強い意思、鱗滝に教えて貰った水の呼吸の特性は、攻守の均整が取れており、どちらかといえば防御より、ありとあらゆる状況に対応できる対応力の高さが売りという話だった。故に水の呼吸、流れる水の様に流麗に、時に滝の様に猛々しく。しかし、錆兎の水の呼吸は、常に激流。嵐の日の氾濫寸前の河を思い出す。彼は水が溢れ出すギリギリで河を制御していた。
激流から放たれた一刀を受け止める。
だが、宙に放り出された身体、力を受け止め切れず、渦の中心から弾き飛ばされてしまった。
受け身も取れず、地面に倒れ伏す。
「あの人に鍛錬を付けて貰うのは良いッ! 守る者の為に強くなる、強き者に教えを請う。それ自体は正しいだからなッ!!」
だが、と地面に着地した錆兎が俺を見下し、強い視線で宣言する。
「少しでも水の呼吸を疎かにすれば、俺が何度でも叩きのめしてやるッ!!」
俺は地面に手を着く、そして呼吸を整えながら立ち上がる。願ったり叶ったりだ、俺もまだ水の呼吸を極めたなんて欠片も思っていない。
「炭治郎、次は私だよ?」
柔らかな声に後ろを振り返る。すると今日まで一度も斬り結んだ事がない真菰が刀を構えていた。
「私のとっておきもあげる」
玖ノ型、水流飛沫・乱。
と呟かれる言葉の後に更に一言、泡沫。
通常の水流飛沫・乱よりも、軽やかな足取りで彼女は迫って来た。