約束の旋律 ~The Promised Melody~ 作:洟魔
本作は『ソードアート・オンライン インテグラル・ファクター』をベースにした二次創作です。
オリジナル主人公を中心に、原作・ゲームとは異なる展開や独自設定を含みます。
楽しんでいただければ幸いです。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡い橙色に染めていた。
静かな部屋に、一つだけ音が響く。
ピアノだった。
軽やかで優しい旋律が廊下を伝い、眠りの中にいた少年の意識をゆっくりと引き上げていく。
「……朝か」
重村悠紀は目を擦りながら上半身を起こした。
時計を見る。
午前七時。
休日だというのに、目覚ましを掛けなくても起きてしまうのは、毎朝決まった時間に聞こえてくるこの音のおかげだった。
「また弾いてるな」
小さく笑い、ベッドから降りる。
部屋を出ると、ピアノの音はさらに鮮明になった。
リビングの隣にある音楽室。
扉は半開きになっている。
中では、一人の少女が鍵盤を軽やかに叩いていた。
肩まで伸びたブラウンの髪が、朝日に照らされて柔らかく揺れる。
曲が終わると同時に、少女は振り返った。
「おはよう、悠紀」
「……おはよう、悠那」
少女――重村悠那は、満足そうに笑った。
「今日はちゃんと起きたね」
「毎日そのピアノで起こされてるからな」
「えへへ。目覚まし代わりになってるなら大成功」
「近所迷惑って苦情が来る前にな」
「来ない来ない」
悠那は笑いながら立ち上がる。
「朝ご飯できてるよ。お父さんも待ってる」
「了解」
二人は並んでリビングへ向かった。
テーブルには焼き魚、味噌汁、卵焼き。
湯気の立つ朝食を前に、父・重村徹大が新聞から顔を上げる。
「おはよう、二人とも」
「おはよう」
「おはよう、お父さん」
三人が席につき、「いただきます」と声を揃える。
穏やかな時間だった。
テレビでは朝の情報番組が流れている。
料理の話題、天気予報、芸能ニュース。
何気なく流れていた映像が切り替わり、鮮やかな青空と浮遊城が映し出された。
『――世界初のVRMMORPG《ソードアート・オンライン》、本日ついに正式サービス開始!』
悠那が箸を止める。
「これ、悠紀が今日やるゲームだよね?」
「ああ」
「いいなぁ……」
羨ましそうな視線が悠紀へ向けられる。
悠紀はその視線に気付きながら、ご飯を一口頬張った。
「そんな目で見ても貸さないぞ」
「えぇ~!」
「ナーヴギアごと抱えて逃げても無駄だからな」
「そんなことしないもん!」
「どうだか」
「弟はもっとお姉ちゃんを敬うべきです!」
「弟って言っても数分しか変わらないだろ」
「数分でもお姉ちゃんはお姉ちゃん!」
悠紀は肩をすくめる。
「威張れるほどの差じゃない」
「もう!」
頬を膨らませる悠那を見て、徹大は思わず吹き出した。
「二人とも、本当に仲がいいな」
「違うよ、お父さん。悠紀が生意気なの」
「事実を言っただけ」
「ほらまた!」
朝の食卓に笑い声が広がる。
朝食を終えると、徹大は壁に掛けられた時計へ視線を向けた。
「さて、そろそろ行くか」
コーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がる。
「今日は早く帰れると思う」
「はーい」
「分かった」
靴を履き終えた徹大が、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ。帰ったら、二人に見せたいものがある」
悠那が首を傾げる。
「え? 何?」
徹大は少しだけ笑う。
「帰ってからのお楽しみだ」
悠那は目を輝かせる。
「えー! 気になる!」
悠紀は肩をすくめる。
「また研究の話じゃないのか」
徹大は苦笑するだけで答えない。
「じゃあ、行ってきます」
「「いってらっしゃい」」
玄関の扉が閉まり、家の中は静かな空気に包まれる。
その静寂を破るように、悠那が大きく伸びをした。
「よーし!」
「何だ、その気合い」
「配信の準備!」
そう言ってリビングの一角へ駆け寄る。そこにはマイクやミキサー、ノートパソコンなど、配信用の機材が整然と並んでいた。
悠紀も慣れた手つきで電子ピアノの電源を入れ、鍵盤を軽く叩く。澄んだ音色が部屋に響き渡る。
「今日はどうする?」
椅子へ腰掛けながら尋ねると、悠那は腕を組んで少し考え込んだ。
「んー……この前はデュエットだったし……今日は悠紀がピアノ担当!」
「ボーカルは?」
「もちろん私!」
「結局いつも通りじゃないか」
「細かいことは気にしなーい」
「はいはい」
苦笑しながら鍵盤へ指を置く。
悠那はマイクの高さを調整し、ヘッドホンを耳へ掛けた。
「配信開始っと」
画面にはすぐにコメントが流れ始める。
『待ってました!』
『双子配信だ!』
『悠那ちゃん、おはよう!』
『悠紀くんのピアノ楽しみ!』
「みんな、おはよう!」
悠那が笑顔で手を振ると、コメント欄はさらに勢いを増した。
『おはよう!』
『今日も来た!』
『休日はこの配信から始まる!』
悠紀はその様子を横目で見ながら肩をすくめる。
「相変わらず元気だな」
「リスナーさんは宝物だからね」
悠那がゆっくりと深呼吸をした。
悠紀も静かに息を整え、鍵盤へ指を置く。
目が合う。
合図はいらない。
悠紀が最初の一音を奏でる。
優しく、どこか懐かしい旋律。
その音に寄り添うように、悠那の澄んだ歌声が重なった。
互いの呼吸を知り尽くした二人だからこそ奏でられる音楽が、部屋いっぱいに響き渡る。
画面の向こうの誰かへ届けるために。
そして何より、自分たちが音楽を楽しむために。
♦
最後の音が静かに消えていく。
数秒の余韻の後、コメント欄が一気に流れ始めた。
『今日も最高でした!』
『朝から癒やされた』
『二人の息ぴったり!』
『また夜も配信して!』
悠那は嬉しそうに画面を眺めながら、小さく頭を下げる。
「みんな、ありがとう!」
『こちらこそ!』
『仕事頑張れる!』
『学校行ってきます!』
「行ってらっしゃい!」
画面へ向かって手を振る悠那の隣で、悠紀は配信ソフトを終了させる。
「相変わらず人気者だな」
「悠紀のピアノがあるからだよ」
「そういうことにしておく」
「そういうことなの」
悠那は得意げに胸を張る。
その様子に苦笑しながら、悠紀はヘッドホンを外して立ち上がった。
「さて」
視線は部屋の隅へ向く。
そこには、昨日の夜から何度も確認していた黒いヘッドギア――ナーヴギアが置かれていた。
そして、その隣には新品のパッケージ。
《Sword Art Online》。
今日、この世界中のプレイヤーが待ち望んだゲーム。
「いよいよだね」
悠那も箱を見つめながら呟く。
「ベータの時も楽しそうだったもんね」
「ああ」
悠紀は箱を手に取り、ゆっくりと眺める。
二か月。
ベータテストという短い期間だったが、その世界は現実と見間違えるほど美しかった。
剣を振るい、街を歩き、人と出会う。
ゲームという言葉だけでは表せない世界だった。
「……また会えるかな」
ふと、小さく呟く。
「ん?」
「いや」
思い浮かんだのは、一人の少女だった。
ベータテストで出会った初心者プレイヤー。
右も左も分からず、おどおどしていた少女は、それでも前へ進もうとしていた。
『また正式サービスで会えたら、その時もよろしくね!』
別れ際の笑顔が、今でも頭に残っている。
「知り合い?」
悠那が首を傾げる。
「ベータで少しな」
「ふーん。友達?」
「……どうだろうな」
友達というには短い付き合いだった。
けれど、もう一度会えたら悪くない。
そんなことを思えるくらいには、印象に残る相手だった。
「その子もログインするの?」
「してるかもしれない」
「会えるといいね」
「ああ」
悠紀は小さく頷いた。
悠那はソファに腰掛け、足をぶらぶらと揺らす。
「いいなぁ」
「またそれか」
「だって羨ましいんだもん」
「そんな目しても貸さないぞ」
「むぅ……」
頬を膨らませる悠那に、悠紀は思わず笑う。
「帰ってきたら感想くらいは聞かせてやる」
「約束?」
「ああ」
「じゃあ私も、その時までに新しい曲作っとく」
「……また無茶なこと言い出したな」
「いいでしょ?」
悠那は立ち上がると、悠紀の前へ歩み寄り、小指を差し出した。
「約束」
悠紀は少しだけ呆れたように息をつく。
「子どもか」
「いいから」
「……はいはい」
小指を絡める。
「帰ってきたら、一番最初に聞かせる」
「楽しみにしてる」
指を離すと、悠那は満足そうに笑った。
その笑顔を見届けてから、悠紀はナーヴギアを手に取る。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい、悠紀」
玄関ではなく、自室へ向かう。
ベッドへ腰掛け、ナーヴギアを頭へ装着する。
視界の端に、青白いランプが点灯した。
深く息を吸う。
そして。
「――リンク・スタート」
視界が白い光に包まれる。
次の瞬間、足元に確かな感触が戻った。
石畳。
ゆっくりと目を開けば、どこまでも青く澄んだ空が広がっている。
目の前には巨大な浮遊城《アインクラッド》。
何度見ても、この光景には息を呑まされる。
「やっぱり……すごいな」
ベータテストで何度も見た景色。
それでも正式サービス版は、細部まで磨き上げられ、まるで本当に異世界へ迷い込んだような錯覚を覚える。
街を歩くプレイヤーたちの表情は期待に満ちていた。
「あっち行こう!」
「まず武器屋じゃない?」
「スクショ撮ろうぜ!」
あちこちから弾んだ声が聞こえてくる。
誰もが、新しい世界への第一歩に胸を躍らせていた。
悠紀は大きく息を吸う。
空気の匂いまで感じられるほどの没入感。
やはり、このゲームは特別だ。
「さて……」
まずは装備を確認する。
メニューウィンドウを開き、プレイヤー情報へ視線を向ける。
《ユキ》
表示されたプレイヤーネームを見て、小さく息を吐く。
本名の『悠紀』から一文字抜いただけ。
深く考えて付けた名前ではないが、一度聞けば覚えやすいだろうという理由で決めた。
「まあ、これで十分だ」
メニューを開き、初期装備の片手剣を装着する。
背中に装備された剣へ軽く手を添えると、不思議と気持ちが落ち着いた。
「正式版でどこまで変わってるか……」
独り言を漏らしながら街を歩き始める。
ベータテストで覚えた道順は体が覚えていた。
まずは転移門広場。
そこから外へ出てレベルを上げる。
効率だけを考えるなら、それが最善だ。
だが。
歩きながら、ふと一人の顔が頭をよぎる。
黒髪のセミロングを揺らし、必死に剣を振っていた少女。
印象的なグリーンの瞳は、不安を隠しながらも前だけを見据えていた。
『ユキさん! ありがとうございました!』
別れ際の笑顔が、今でも記憶に残っている。
「……ログインしてるのか」
正式サービスを楽しみにしていた。
あの様子なら、きっと来ている。
「会えたら、その時は――」
言葉は最後まで続かなかった。
人混みの向こう。
見覚えのある後ろ姿が視界へ映る。
肩まで伸びた黒髪。
初心者用の装備に身を包み、不安そうに周囲を見回している少女。
ユキは思わず足を止めた。
「あいつ……」
自然と口元が緩む。
ベータテストの頃と変わらない。
いや。
少しだけ、自信がついたようにも見える。
「コハル」
その名前を呼ぶと、少女の肩がぴくりと震えた。
ゆっくりと振り返る。
鮮やかなグリーンの瞳がユキを映した。
一瞬きょとんとした表情を浮かべた少女は、次の瞬間、ぱっと花が咲くような笑顔になる。
「――ユキさん!」
人混みを縫うように、小走りでこちらへ駆け寄ってくる。
「久しぶりだな、コハル」
ユキも自然と笑みを浮かべた。
「ちゃんとログインできたんですね!」
「ああ。お前もな」
「はい!」
嬉しそうに何度も頷くコハルを見て、ユキはどこか安心したように息をつく。
「ベータの時はありがとうございました! ユキさんのおかげで、最後まで頑張れました!」
「礼ならいらない。ちゃんと続けてくれたのはコハル自身だからな」
照れくさそうに笑うコハルだったが、すぐに少し困った表情へ変わる。
「あの……実は」
「どうした?」
「ベータテストから時間が空いちゃって……操作を少し忘れちゃったんです」
頭を掻きながら苦笑する。
「だから、また少しだけ教えてもらえませんか?」
ユキは少し考える素振りを見せると、小さく頷いた。
「いいぞ。俺も正式版の変更点は確認したい」
「ありがとうございます!」
二人は転移門広場を後にし、始まりの街を抜けてフィールドへ向かう。
街道には、同じようにレベル上げへ向かうプレイヤーたちの姿があった。
草原へ出ると、ユキは初期装備の片手直剣を抜く。
「まずは基本からだ。ソードスキルを使ってみろ」
「はい!」
コハルは深呼吸を一つ。
剣を構え、スキルを発動しようとする。
しかし。
「あれ? ……おかしいな」
剣は中途半端に動いただけで、スキルは発動しない。
「違う違う。そうじゃなくて……」
何度試しても結果は同じだった。
「ベータではちゃんとできたのに……」
困ったように剣を見つめるコハル。
ユキはその様子を静かに見つめながら口を開く。
「焦るな。一回深呼吸しろ」
「は、はい」
「正式版になって感覚が少し変わってるのかもしれない。リズムを無理に合わせようとせず、一度落ち着け」
コハルは大きく息を吸い、もう一度剣を構えた。
その時だった。
「おいおい、オレよりひでぇんじゃねぇか?」
聞き覚えのない陽気な声が、二人の背後から響いた。
振り向くと、そこには赤いバンダナを頭に巻き、肩口まで伸びた紫色の髪を下ろした男が立っていた。人懐っこそうな笑みを浮かべ、初対面にもかかわらず気軽に手を上げる。
「よ! オレはクライン。よろしくな! 良ければアンタらもキリト先生のバトル講習に参加してけよ! な!」
「勝手なこと言うなよ……」
呆れたような声がクラインの背後から聞こえる。
視線を向けると、一人の青年がゆっくりと歩み寄ってきた。
艶のある黒髪に、どこか涼しげな表情をしている。
クラインが先ほどキリトと呼んだ青年。ベータテストでも何度か耳にした名前だった。
「いいじゃねぇか、みんなで盛り上がった方が楽しいだろ? なぁ、おめぇら名前は?」
クラインに促され、コハルが一歩前へ出る。
「そうですね! あ、私はコハルって言います。よろしくお願いします、クラインさん、キリトさん」
続いてユキも軽く会釈した。
「俺はユキ。よろしく、クラインさん、キリトさん」
クラインは満足そうに笑う。
「クラインでいいぜ! ほら、二人もこう言ってるんだからいいだろ、キリト先生!」
「だから先生はやめろって」
小さくため息をついてから、キリトは二人へ視線を向けた。
「キリトでいいよ。けど、俺が教える必要ないと思うぜ。あんたらベータ経験者だろ?」
「へっ?」
クラインが間の抜けた声を上げる。
キリトは肩をすくめながら答えた。
「武器の使い方で分かる。少なくとも剣の構えに迷いがない。けど――」
視線がコハルへ向く。
「コハルの方は、まだあまり身についてなかったみたいだけどな」
「す、すみません……」
コハルは申し訳なさそうに肩を縮める。
「ベータではユキさんに教えてもらって、ちゃんとできてたんです。でも、また攻撃が当たらなくなっちゃって……」
キリトは納得したように頷いた。
「攻撃モーションが合ってないんじゃないか? 力を入れすぎないようにして、システムアシストに合わせてみな」
「あっ……」
コハルは何かに気付いたように目を見開く。
「そっか。装備が変わると技も変わるんですね。えっと、じゃあやってみます!」
そう言って細剣を握り直す。
深呼吸を一つ。
今度は力を抜き、剣の軌道をシステムへ委ねるように意識する。
すると、刀身が淡い光を帯びた。
次の瞬間、身体が自然と前へ踏み込み、一閃。
先ほどまでとは比べものにならないほど滑らかな軌道でソードスキルが発動し、目の前のフレンジーボアへ命中する。
「や、やった!」
嬉しそうに声を上げるコハルを見て、ユキは小さく笑みを浮かべた。
「今の感覚を忘れるな」
「はい!」
素直に頷くコハルの返事に、クラインは感心したように腕を組む。
「へぇ~、ちゃんと先生やってたんだな、ユキ」
「大したことはしてない」
「いやいや、十分すげぇって」
ユキは肩をすくめるだけだったが、そのやり取りを見ていたキリトは、どこか納得したように静かに頷いていた。
その後も四人はフィールドを回り、フレンジーボア相手に戦闘を重ねていった。
最初こそぎこちなかったコハルの細剣も、戦闘を重ねるごとに軌道が安定していった。
「やった!」
細剣が淡い光を纏い、フレンジーボアを貫く。
モンスターは青いポリゴン片となって砕け散った。
「今のは良かったな」
「はい!」
褒められたコハルは嬉しそうに笑う。
「もう初心者って感じじゃねぇな!」
クラインが豪快に笑いながら親指を立てる。
「まだまだですよ。でも、ベータの時よりはちゃんと戦えてる気がします!」
「その調子だ」
ユキも短く頷く。
気付けば太陽は頭上高く昇り、草原を吹き抜ける風もどこか暖かさを帯び始めていた。
四人のレベルは、それぞれ二ほど上がっている。
ゲーム開始直後としては、十分な成果だった。
「にしても、ユキの戦い方ってすげぇよな」
クラインが感心したように言う。
「何か動きを全部読んでるみてぇに、綺麗にかわしてカウンターを叩き込んでるじゃねぇか」
「確かに……」
コハルも隣で何度も頷く。
「すごく自然な動きでした」
二人の視線を受けても、ユキは照れた様子を見せず、剣を鞘へ納めながら静かに答えた。
「俺は相手のリズムを読んでるんだ」
「リズム?」
クラインが首を傾げる。
「ああ。動き出しや速さ、攻撃へ入るタイミング……そういうものには、それぞれ独特のリズムがある」
ユキは近くを歩くフレンジーボアへ目を向けた。
「あいつも、ただ適当に突っ込んできてるわけじゃない。一定の間隔で足を踏み込み、身体を沈めてから突進する。その流れが分かれば、次に何をするかは自然と見えてくる」
クラインは「へぇ……」と感心したように唸る。
「音楽と同じだよ」
ユキは続けた。
「テンポも拍子も分からない演奏は合わせられない。でも、一度リズムを掴めば、次の音は予測できる」
そう言って、自分の片手直剣を軽く叩く。
「戦いも同じだ」
少しの沈黙が流れる。
最初に口を開いたのはキリトだった。
「へぇ……面白い考え方だな」
その言葉に、ユキは肩をすくめる。
「小さい頃から音楽ばかりやってきたからな。自然とそうなっただけだ」
キリトはユキの片手直剣へ視線を向け、納得したように小さく頷いた。
「さて、もうひと狩り……と行きてぇところだが」
クラインがメニューを開き、時刻を確認する。
「あー、もうこんな時間か」
頭を掻きながら苦笑した。
「悪ぃ。そろそろ飯食わねぇと。ピザの宅配を時間指定してっからよ」
その言葉にコハルは目を丸くする。
「ゲームの中でも、お腹って空くんですか?」
「いや、リアルの話だよ」
クラインは笑いながら自分の頭を指差した。
「ログアウトしたら、すぐ届く予定なんだ」
ユキもつられて苦笑する。
「時間指定とは準備がいいな」
「だろ?」
クラインが胸を張る。
「ゲーム始まったら絶対飯なんか忘れると思って、昨日のうちに予約しといたんだ! じゃあ、俺は一旦ログアウトするわ」
クラインはそう言ってメニューウィンドウを開いた。
「またあとで会えたらよろしくな!」
「ああ」
「よろしくお願いします!」
ユキとコハルが頷く。
クラインは迷いなくメニューを操作する。
だが――。
「……あれ?」
指が止まった。
その表情から笑みが消える。
「おかしいな」
もう一度メニューを開き直し、今度はゆっくりと画面を見渡す。
「どうした?」
キリトが尋ねると、クラインは困惑した顔のまま答えた。
「ログアウトボタンがねぇ」
「は?」
思わずユキもメニューを開く。
プレイヤー情報、アイテム、装備、設定。メニューを端から順に確認していくが……。
(……ない)
あるはずの場所に、ログアウトの項目が存在しない。
見落としたのかと思い、もう一度最初から確認する。
それでも、ない。
「そんな……」
コハルも青ざめた表情で自分のメニューを見つめていた。
「わ、私もありません……」
「バグか?」
クラインは苦笑いを浮かべるが、その声には焦りが滲んでいる。
ユキは首を横に振った。
「俺たち全員に同じ不具合が出てるなら、単純な表示バグとは考えにくい」
「でも、こんなの……」
コハルが不安そうに呟いた、その時だった。
空気が震えた。
低く重い鐘の音が、始まりの街全体へ響き渡る。
ゴォォォン――。
聞いたことのない音だった。
「何だ……?」
キリトが眉をひそめる。
次の瞬間。
四人の身体が淡い青い光に包まれた。
「え……?」
コハルが目を見開く。
「転移……!?」
光はさらに強さを増していく。
視界が真っ白に染まり、耳鳴りだけが残る。
次に視界が開けた時。
四人は見知らぬ場所ではなく、見覚えのある巨大な広場の中央に立っていた。
《はじまりの街》中央広場。
しかし、その光景はログイン直後とはまるで違っていた。
広場を埋め尽くすほどのプレイヤーたち。
突然の転移に戸惑い、周囲を見回す者。
誰かへ怒鳴る者。
システムの不具合だと騒ぐ者。
混乱は瞬く間に広がっていく。
「何が起きてるんだ……」
誰かの呟きが、広場のざわめきへ溶けていく。
ざわめきは、時間が経つごとに大きくなっていく。
「おい! 運営は何やってんだ!」
「バグだろ!? 早く戻せよ!」
「ログアウトボタンがない!」
広場中から怒号が飛び交う。
それでも誰一人として状況を理解できていなかった。
ユキももう一度メニューを開く。
やはり、ログアウトの項目はない。
隣ではコハルが不安そうに周囲を見回している。
「ユキさん……」
「大丈夫だ」
そう答えたものの、自分自身を安心させるような言葉でもあった。
これだけの人数が同時に転移させられるなど、ベータテストでは一度も経験していない。
何かがおかしい。
その時だった。
広場の上空が赤く染まり始める。
まるで空そのものが溶けるように、不気味な液体がゆっくりと広がっていく。
「何だ……?」
誰かが呟く。
赤い液体は渦を巻き、一つの巨大な人影を形作っていく。
ローブを纏った、顔のない巨人。
プレイヤー全員を見下ろすように空へ立つその姿に、広場からざわめきが消えた。
静寂。
そして、低く落ち着いた男の声が響く。
「諸君、私の世界へようこそ」
その声は広場全体へ静かに広がっていく。
「私の名は茅場晶彦」
ユキの表情がわずかに強張る。
(茅場……晶彦)
《ソードアート・オンライン》を開発した天才ゲームクリエイター。
その本人が、なぜここにいる。
「現在、諸君はゲームから自発的にログアウトすることはできない」
広場がざわつく。
「また、ナーヴギアを外部から取り外すこともできない」
「は……?」
クラインが声を漏らす。
コハルも信じられないという表情で巨人を見上げていた。
「これらはシステムの不具合ではない」
茅場の声は淡々としている。
「《ソードアート・オンライン》本来の仕様である」
その一言で、広場の空気が凍りついた。
誰も言葉を発せない。
何を言われたのか理解できなかった。
「なお、ナーヴギアを無理に取り外そうとした場合――」
一拍置く。
「ナーヴギアは高出力のマイクロ波を照射し、諸君の脳を破壊する」
一瞬。
誰も反応できなかった。
しかし、その意味を理解した者から悲鳴を上げ始める。
「ふざけるな!」
「嘘だろ!?」
「冗談じゃない!」
怒号が広場を埋め尽くす。
ユキは拳を強く握り締めた。
心臓が嫌な音を立てる。
もし、それが本当なら。
現実には。
悠那がいる。
約束したばかりだった。
帰ったら、新しい曲を聴かせてもらうと。
小指を交わした感触が、今も指先に残っている。
「そんな……」
コハルの震えた声が聞こえた。
ユキは咄嗟にその肩へ手を置く。
「……落ち着け。まずは最後まで聞こう」
自分へ言い聞かせるように言う。
だが、その言葉とは裏腹に、不安だけが胸の奥で膨らんでいく。
茅場晶彦は、なおも静かに続けた。
「諸君がこの世界から解放される方法は、一つだけ」
広場にいた全員が、その言葉へ耳を傾ける。
誰もが息を呑んだ。
「この《アインクラッド》百層へ到達し、最上階に待つボスを撃破すること」
その声には一切の感情がなかった。
「それが唯一、このゲームをクリアする方法である」
その瞬間、ユキは茅場晶彦のインタビュー記事の一文を思い出す。
『これはゲームであっても、遊びではない』
その言葉が、脳裏を過ぎる。
ユキの指先には、今も小指を絡めた感触が残っていた。