無職転生 ~異世界行ったらニート目指す~ 作:めーぷるん
心臓が、痛かった。
深夜のオフィスに、カナは一人だった。誰もいないフロア。デスクの隅で、三日前から置きっぱなしのエナジードリンクの空き缶が蛍光灯の光を鈍く反射している。壊れたままの時計。誰かの忘れ物のストール。パソコンの画面には「修正依頼」「至急」「本日中に」という文字が延々と並び、最後に届いた上司からのメールは「明日の朝までに全部だ。終わるまで帰るな」だった。
カナは胸を押さえた。心臓が早鐘のように脈打っている。嫌な汗が背中を伝い、指先が冷たい。視界がぼやけて、モニターの文字が滲む。
——ああ、やばい。
立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。椅子からずり落ちるように床に倒れた。冷たい床の感触。誰もいない。誰も助けてくれない。ああ、そうだ。私はずっと、こんなふうに生きてきた。
最後に脳裏をよぎったのは、なぜかラーメンのことだった。ラーメンか、カツ丼か、いや、ラーメンだ——ああ、最後にラーメンぐらい食べておけばよかった。それが、走馬灯の代わりだった。
中学二年の春。教室の隅で小さくなっているミユキを見つけた。教科書をゴミ箱に捨てられ、上履きを隠され、机に落書きをされる彼女を、クラス中が無視していた。先生も、見て見ぬふりだった。カナは勇気を振り絞って「やめなよ」と言った。たったそれだけだった。それだけで、全部が変わった。翌日から、標的はカナに変わった。
「私、カナさんとは違いますから」
そう言って、ミユキは笑った。いじめっ子たちの輪の中で、安堵した顔でカナを見下すように笑ったのだ。教室中の好奇と嘲笑の視線が、一斉にカナに突き刺さった。あの笑顔が、あの言葉が、刃のように胸に突き刺さったまま、何年経っても抜けなかった。
それから——必死に勉強して「優等生」になろうとして孤立した高校時代。誰とも関わらないと決めて息を殺した大学時代。そして、頑張れば報われると信じて入った会社で、どれだけ成果を出しても上司の機嫌一つで評価が決まることを思い知った社会人生活。
いつも頑張ってきた。いつも裏切られてきた。
もう、疲れた。
カナは天井を見上げながら思った。
——もし、もう一度人生があるなら。
今度は、誰の役にも立たない。誰にも期待されない。ただ息をするだけの、平穏な人生を送りたい。誰も助けず、誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、ただ静かに。昼まで寝て、誰にも文句を言われず、好きな時に好きなものを食べて、誰にも迷惑をかけずに、冬の日の木漏れ日みたいに、ただひっそりと生きていきたい。
そう、この国の言葉で言うなら——ニートのような。
それが、彼女の最後の願いだった。意識が、暗闇に沈んでいく。
次にカナが感じたのは、暖かい闇だった。
遠くで声が聞こえる。日本語じゃないのに、意味だけが不思議と頭に入ってくる——「産まれました」「女の子です」「元気な……」そういうことらしい。ああ、これが異世界転生というやつか。死んだと思ったら、気づけば赤ん坊になっている。案外、あるものなんだな。
視界はぼやけている。自分の手を見ようとしたが、首が据わっていないから上手く動かせない。くぐもった音。肌に触れる空気の冷たさが、前世のものとはどこか違う。ロウソクの灯りが揺れるたび、天井の木目が生き物のように動いた。空気は少し湿っていて、かすかに古い木と薬草の匂いがした。
「……泣かないわね」
「おかしいわ。背中を叩いても泣かない」
産婆たちが不安そうに囁き合っている。一人がカナの背中をポンポンと叩いたが、カナは泣かなかった。泣く必要を感じなかったのだ。
「まあ、いいじゃないか。元気ならそれで」
若い男の声。視線だけを動かすと、二十代後半くらいの貴族風の男が立っていた。茶色の髪。どこか覇気のない顔立ち。彼が「グレン様」と呼ばれているのが聞こえた。
グレンはカナの横で横たわる女性に近づいた。女性はぐったりとしていた。顔色が悪く、呼吸も浅い。汗で額に髪が張り付いている。
「ミリア、よく頑張ったな」
「……女の子、でしたね。すみません」
「いや、いいんだ。お前が無事でよかった」
そう言いながらも、グレンの顔にはかすかな失望が浮かんでいた。この時代、この世界では、家を継ぐのは男。女の子は、政略結婚の駒にしかならない。それは、これからどうでもよくなることだが、そのときはほんの少しだけ胸がチクリとした。
「カナリアと名付けよう。お前の好きな花の名だ」
「……カナリア。いい名前ですね」
ミリアが弱々しく微笑むのを見ながら、カナリアは心の中で、静かに誓った。
——今度こそ、誰にも期待されない人生を送ろう。平凡で、無能で、誰も気に留めない存在。それがいい。誰も私を見なければ、誰も私を傷つけない。誰も私に期待しなければ、私も誰も裏切らない。これが、私の異世界ライフの第一歩だ。
◆◆◆
三年の歳月が、ゆっくりと流れた。
カナリアの「平凡作戦」は、今のところ成功していた。
彼女はわざと覚えを悪く振る舞い、言葉数も少なく、いつもぼんやりと窓の外を眺めているような子供を演じた。たまに何もないところでわざと転んでみせたり、簡単な受け答えにひどく時間をかけたりもした。内心では「めんどくさい。早くこの茶番終われ」と思いながら、それでも真剣に「演技」を続けた。これが私の平和を守るための、大事な仕事なのだと自分に言い聞かせて。
父親のグレンは、そんな彼女にほとんど関心を示さなかった。彼はいつも書斎にこもり、時折、家計簿を前に深いため息をついていた。壁には、先祖のものらしき古い剣が一振り、飾ってある。その剣はもはや武器ではなく、過ぎ去った栄光を悼む墓標のように、静かに、重く、そこに在った。グレンは時々、その剣を見上げては、何かを振り切るように首を横に振っていた。それは、剣を取ることを己に禁じている、あるいは、取ったところでどうにもならないと絶望しているかのような、諦めの仕草だった。
屋敷の中では、カナリアは「できの悪い娘」として、特に期待もされずに過ごせていた。それが彼女にとっては理想的な環境だった。もっとも、三人で暮らすには持て余すほど大きな屋敷は、没落していく家の寂しさを如実に示していた。使用人は老執事のセバスただ一人。廊下の隅には埃が溜まり、庭の植え込みも手入れが行き届いていない。壁の漆喰はところどころ剥がれ、かつては美しかったであろう調度品も、色褪せて傷んでいる。食事も質素で、今日は硬いパンと薄いスープだけだった。
カナリアは、母のミリア以外とは、ほとんど口をきかなかった。
「カナ、今日は何をして遊んだの?」
ミリアの部屋はいつも薬草の匂いがした。窓辺には黄色いカナリアの花が生けてある。彼女の名前の由来になった花だ。ミリアは日に日に痩せていったが、カナリアが来るといつも笑顔を見せた。その笑顔を見るたびに、カナリアの胸はぎゅっと締め付けられた。
「……にわ」
「そう。お庭で何か見つけた?」
「……はな」
カナリアはわざとたどたどしく話す。本当はもっと上手に喋れる。三歳児とは思えないほど流暢に話すことだってできる。でも、もしそんなことをしたら、父が「天才だ」と騒ぎ出すだろう。そうなれば、面倒なことに巻き込まれる。私はただ、平和に暮らしたいだけなのに。
「カナは優しい子ね。お母さん、カナが生まれてきてくれて本当に良かった」
その言葉を聞くたびに、カナリアの胸はぎゅっと締め付けられた。嬉しいのだ。でも、同時に怖かった。「優しい子」だと思われたら、それもまた期待に繋がる。「いい子」であろうとすればするほど、前世では苦しんだ。だから今度は「いい子」になりたくなかったのに——それでも母の手の温もりは、何よりも代えがたいものだった。
「……かあさま、だいじょうぶ?」
カナリアは小さく呟いて、ミリアの細く冷たい手を握り返す。それだけが、彼女にできる精一杯の愛情表現だった。
「ええ、大丈夫。カナが来てくれると、いつも元気になるの。……それに、あの人は昔からああだから。気にしなくていいのよ」
最後の言葉は、自分に言い聞かせるような、かすかな響きだった。
その日、母の部屋を出た後、彼女は一人で庭に出た。母が「庭の花は元気かしら」と心配そうに言ったのを思い出したからだ。
誰も手入れをしない庭の片隅で、一輪の小さな白い花が俯くように咲いている。名前も知らない花。誰も気に留めない花。まるで、前世の自分みたいだ——カナリアはそう思った。彼女はその花の前にしゃがみ込み、そっと指を伸ばした。
花びらに触れた瞬間、指先がほんのりと温かくなった。
俯いていた花が、ゆっくりと顔を上げる。しおれていた茎がしゃんと伸び、白い花びらがみずみずしさを取り戻していく。まるで、生まれたてのような、初々しい輝きで。
「……え?」
カナリアは慌てて手を引っ込めた。心臓がドキドキと音を立てる。今のは何だ? 気のせいか? いや、違う。確かに今、自分の指先から何かが流れ込んだ感覚があった。なんだ、これ。前世の知識にはない感覚。これは——魔法? いや、魔術というやつか?
彼女はもう一度、恐る恐る花に触れてみた。今度は何も起こらなかった。花はただの花のままだ。
「……気のせい、だよね」
カナリアは自分に言い聞かせるように呟いて、立ち上がった。違う、気のせいだ。そう思いたかった。もし自分に特別な力があるなんて知られたら、父が何を言い出すかわからない。母のような病弱な人を「治せる」なんてことになれば——面倒なことに巻き込まれる。面倒なことだけは、絶対に嫌だ。
「お嬢様、そろそろお部屋に。風が冷たくなってまいりました」
背後から声がして、カナリアは飛び上がりそうになった。いつの間にか、庭の手入れをしていたセバスが、すぐ近くに立っていた。彼はカナリアの手元をじっと見ていた。その目は、何かを知っているような、でも何も言わないような、深い諦念をたたえていた。まるで、この屋敷のすべてを、長い時間をかけて見届けてきた者のような、静かな眼差しだった。
「……は、はい」
カナリアは花から手を離し、そそくさとその場を去った。心臓がバクバクと鳴っている。見られた? いや、大丈夫。何もなかった。何もなかったのだ。
セバスはそれ以上何も言わず、ただ静かに一礼した。カナリアは彼が何を考えているのかわからなかった。ただ、彼が他の大人たちのように、自分を「できの悪い子」として見ていないことだけは、なんとなく感じ取っていた。
彼女は考えたくなかった。庭を後にし、自分の部屋へと戻った。
その夜、事件は起きた。
廊下から突然、慌ただしい足音と叫び声が響いた。
「医者を! 早く!」
「ミリア! ミリア! しっかりしろ!」
セバスの切迫した叫び声と、グレンの悲鳴にも似た声が、屋敷中に響き渡る。
カナリアはベッドから飛び降り、部屋を飛び出した。セバスがランタンを手に走っていく。その先は母の部屋だ。彼女も走ろうとしたが、足が竦んだ。心臓が、前世のあの日のように早鐘を打つ。指先が冷たくなり、視界が狭まる。
——まただ。
前世の記憶が、嫌でもフラッシュバックする。会社のトイレで同期が泣いているのを見つけた時。助けようと思ったのに、声をかけられなかった。次の日、同期は辞めた。誰にも何も言わずに消えた。また、何もできなかった。私は、いつもそうだ。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ!」
カナリアは頭を振り、走り出した。母を失うのは嫌だ。もう何も失いたくない。たとえどんな面倒が待っていようと、今は母を助けたい。彼女は母の部屋に飛び込んだ。
中は薄暗かった。ベッドの上で、ミリアが苦しんでいる。顔は青白く、唇は紫色に変色していた。呼吸は浅く、時々激しく咳き込んでは、胸を押さえている。枕元には血の混じった布が置かれていた。指先が、信じられないほど冷たくなっていた。
そこに医者が到着した。息を切らせた中年の男は、ミリアを診察し、脈を取り、そして首を横に振った。
「手の施しようが……ありません」
「なにっ!? 治癒魔術は! あんたは治癒術師じゃないのか!」
「私は初級の治癒しか……。それに、奥様の病は魔力の循環不全。内臓が弱りきっている。これはもう、聖級以上の治癒術師でなければ……魔力が内臓を育む前に、尽きてしまう」
医者の言葉が、遠くに聞こえる。グレンが壁を拳で殴る鈍い音。一瞬、彼が書斎の剣に手を伸ばそうとしたように見えたのは、錯覚だったか。その動きは、無力感に押し潰された絶望そのものだった。セバスが必死に何かを叫んでいる。しかし、カナリアの耳には何も届かなかった。
彼女は母のベッドに駆け寄り、その冷たい手を両手で握りしめていた。
——もう失いたくない。
その思いだけが、彼女の心を満たした。
——怖い。助けるのは怖い。また裏切られるかもしれない。期待されるかもしれない。面倒に巻き込まれるかもしれない。そんなの、絶対に嫌だ。でも、それでも——!
カナリアの中で、何かが弾けた。
その瞬間、世界から完全に音が消えた。グレンの怒号も、セバスの悲鳴も、すべてが深海の底に沈んだように遠のき、自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく、ゆっくりと響き渡る。時間の流れが変わる——いや、時間そのものが止まったかのような、永遠の静寂。
両手が、光を放ち始めた。暖かい金色の光——いや、それは光の粒子だった。カナリアの花びらが舞うような、淡く優しい光。その光が、まるで意志を持つ生き物のように、母の全身を包み込んでいく。
部屋の中に、ふわりと花の香りが満ちた。それは、母の部屋にいつも生けてある、カナリアの花の香りだった。
「な、なんだ……これは……? 治癒魔術……? いや、術式の痕跡がまったくない……! 原理が違う! こんな現象は見たことも聞いたこともない……まるで、魔力そのものが生命を育んでいるようだ……!」
医者の驚愕の声が、どこか遠くの世界から響くように聞こえる。しかしカナリアの意識は、自分の手に集中していた。光が母の体内に流れ込んでいく感覚。壊れた部分を、光の粒子が一つ一つ丁寧に修復していく手応え。冷たかった母の指先が、少しずつ温もりを取り戻していく。彼女の魔力が、母の命の灯を吹き消そうとする風から、必死に守っている——そんな感覚だった。
どれだけ時間が経ったのか。光が収まった時、ミリアの顔に血色が戻っていた。紫色だった唇が薄紅色に変わり、浅かった呼吸が深く穏やかになる。指先の色も、元に戻っている。
カナリアはその場にへたり込んだ。体中の力が抜け、視界が歪む。頭が割れるように痛み、吐き気がこみ上げてくる。胃の底がキリキリと痛み、異常な空腹感すら覚える。これが、魔力を使い果たすということか——。
「……カナ」
かすかな声。カナリアが顔を上げると、ミリアが目を開けていた。その目から、涙が一筋こぼれ落ちる。感謝と、そして、娘の運命を狂わせてしまったかもしれないという、かすかな罪悪感を滲ませて。
「ありがとう……あなたが、私を……」
ミリアは震える手で、カナリアの手を握り返した。その手は、さっきまで信じられないほど冷たかったのに、今は暖かかった。
——ああ。
カナリアは思った。これが、誰かの役に立つということか。これが、誰かに感謝されるということか。前世で一度も得られなかったものが、今、自分の手の中にある。
嬉しかった。心の底から、嬉しかった。生まれて初めて、自分の存在が許されたような気がした。
「おお、これは……! 奇跡だ……! 安静にしていれば、もう大丈夫でしょう!」
医者が興奮した様子で叫ぶ。その言葉に、部屋の誰もが安堵の息を漏らした。カナリアも、ほんの少しだけ、微笑んだ。これで、母は助かる。それだけで、十分だ。
しかし、その幸福は長くは続かなかった。
「お前……魔術が使えるのか!? それも、これほどの治癒を……! 家の者にそんな力があるとは、思ってもみなかったぞ!」
駆けつけたグレンが、カナリアの肩を掴んだ。その手は震えていた。興奮と、わずかな畏れの混じった震え。グレンの目は、今までカナリアに向けたことのない、ぎらついた輝きを帯びていた。まるで、砂漠で金塊を見つけた旅人のような目。長年の屈辱から、ようやく解放される希望に打ち震える目だった。
「才能だ……! これは才能だぞ! カナリア、お前はグレイラット家の誇りだ! これで……これで本家に認められる! 家名を復興できる! もう誰にも、落ちぶれた分家とは言わせない!」
違う。違う、違う、違う。
カナリアは心の中で叫んだ。私は、こんなつもりじゃなかった。ただ、母を助けたかっただけだ。それなのに、どうしてそうなる? どうしてみんな、私に「期待」する? 私はただ、平穏に生きたいだけなのに。理不尽だ。どうして私ばかり、こんな目に遭わなければならないんだ。
母を助けた手に、まだ温もりが残っている。でも、父の言葉で、その温もりが一瞬にして冷たい鎖の感触に変わった。首に、手首に、重く巻き付く鉄の鎖の感触。これが、誰かを助けた代償。これが、私の「罰」だ。
「いい知らせだ! 本家に連絡を取った! 向こうにはお前と同じ年の子供がいる——ルーデウスという少年だ! 魔術の天才で、水聖級魔術師の弟子だと聞く! お前はそこで、その才能をもっと磨くんだ!」
ルーデウス。
その名前を聞いた瞬間、カナリアの全身が硬直した。
ルーデウス・グレイラット。
なぜ、その名前を知っている? 会ったこともない、この世界で聞いたこともない名前だ。なのに——脳裏に、断片的なイメージが走る。異世界。転生。本気で生きる少年。冒険。家族。仲間。戦い。ドラゴン。そして、世界を変える運命。さらに——複数の美少女に囲まれる光景。面倒くさそうな人間関係の渦。特定のキーワードが、幻聴のように脳内に木霊する。『ヒトガミ』『ラプラス』——なんだ、これは。
「無職転生……」
カナリアは無意識に、前世で見た小説のタイトルを呟いていた。内容はほとんど覚えていない。ただ、世界を巻き込む大きな運命の中心にいる少年の物語——そして最終的に、とんでもない数の女性にモテる、面倒なハーレム野郎だということだけは、なぜか覚えていた。
そんな人物の近くに行けば、どうなる?
——面倒なことに巻き込まれるに決まってる。ハーレム要員の一人にカウントされるなんて、絶対に嫌だ。私はただ、目立たず、誰にも関わらず、静かに生きたいだけなのに。
カナリアは自分の右手を見つめた。さっきまで母の温もりを感じていた手だ。でも今は違う。この手が、自分の平穏を壊した。この手が、父の「期待」という鎖を生み出した。これが、誰かを助けた代償。これが、私の平穏を壊した代償だ。
「絶対に、あの天才に近づかない。関わらない。私は平穏に生きるんだ。誰にも期待されず、誰も期待しない。誰の役にも立たず、誰の迷惑にもならない。ただ静かに息をするだけの——」
そこまで言いかけて、彼女は前世の記憶の中の言葉を思い出した。なんの役にも立たず、ただ社会の隅で静かに生きる存在。あの国で、確かそう呼ばれていた。
「そう、ニートになるんだ」
彼女はぎゅっと手を握りしめた。これが私の、新しい人生の目標だ。誰がなんと言おうと、私は自分の平穏を手に入れる。絶対に。
その瞬間、握りしめた手が、ぼんやりと淡い光を放った。
カナリアは目を見開いた。母の手を離し、自分の意思で魔力を抑えているのに——手は、まるで彼女の意志とは無関係に、震えるように光り続けている。花びらが舞うような、淡い金色の光の粒子。
「……なに、これ」
自分の手なのに、自分のものじゃないみたいだ。光は次第に強くなり、部屋の隅に生けてあったカナリアの花を照らし出した。その花が、風もないのにゆらりと揺れた。
カナリアは慌てて毛布の下に手を隠した。心臓が早鐘を打つ。冷や汗が背中を伝う。頭の中が真っ白になる。逃げたい。でも、逃げられない——そんな予感が、初めて彼女を包み込んだ。
窓の外では、風がカナリアの花を揺らしていた。その風が、彼女の前髪をそっと持ち上げる。運命が、自分ごと動き始めた——そんな感覚が、彼女の全身を這い回った。