無職転生 ~異世界行ったらニート目指す~ 作:めーぷるん
馬車が屋敷に到着したのは、昼下がりのことだった。
御者が「着きましたよ、お嬢ちゃん」と声をかけてくれて、カナリアは重い腰を上げた。道中、ずっと考え続けていたことを、もう一度だけ心の中で反芻する。
——私は、平凡に生きるんだ。
右手を見下ろす。指先は今は大人しくしている。でも、毛布の下でそっと手のひらを開くと、かすかに金色の残滓がちらついているのが見えた。ここ数日、ずっとそうだ。完全には消えない。まるで何かを待っているかのように、微かな熱を帯びて、チリチリと痺れている。
母ミリアが見送ってくれた玄関先の光景が、まぶたの裏に焼きついている。病身を押して立ち、カナリアの手を握りしめて、「カナは私の誇りよ」と言った。泣きそうになるのを必死に堪えて、カナリアは「行ってきます」とだけ返した。それが精一杯だった。
彼女は自分に言い聞かせるように、心の中で「五箇条」を唱えた。右手の指を一本ずつ折りながら。一、目立たない。二、期待されない。三、誰も助けない。四、誰にも関わらない。五、自分の力を絶対に使わない。親指から順に折り曲げて、最後に小さな拳を作る。この五本の指が、私の未来を守る盾になる。そう信じて、彼女はぎゅっと拳を握りしめた。
馬車を降りたカナリアは、目の前の光景にしばし呆然とした。
「……え?」
そこにあったのは、分家の屋敷と大差ない、むしろ少し小さいくらいの、ごく普通の二階建ての木造家屋だった。庭には洗濯物がはためき、物置小屋が見える。想像していた「本家」の威容——広大な敷地に、使用人が大勢行き交う豪奢な館——は、欠片も存在しなかった。
——これが、本家? あの、グレイラットの? お屋敷の中に滝があったり、庭でドラゴンが飼われてたりするんじゃないの? 私、てっきり「お嬢様、お紅茶が入りましたわ」とか言われながら、フリルのついたドレスに着せ替えられるのかと……。
落ちぶれているとはいえ、家名だけは本家。だからこそ父は、こんな縁にすら縋るしかなかった。分家の中でも底辺の家にとって、勘当されて久しいという噂のある本家筋の親戚ですら、拾い上げてもらえるかどうかの命綱だったのだ。それを思うと、この質素な屋敷が余計に痛々しく見えた。
完全に肩透かしを食らったカナリアがぽかんとしていると、玄関から金髪の女性が現れた。年の頃は二十代後半だろうか。柔らかな微笑みを浮かべた、優しそうな人だった。
「まあ、あなたがカナリアちゃん? 小さいのに遠くからよく来たわね。疲れたでしょう」
「……は、はい。カナリア、です」
「私はゼニス。これからよろしくね。何か困ったことがあったら、いつでも言って。あなたはもう、うちの子なんだから」
その言葉に、カナリアの胸がかすかに痛んだ。——うちの子。そんなふうに言われたのは、母以外では初めてだった。
家の中も、想像とはかけ離れていた。内装は質素で、分家と大差ない。壁に掛けられた一振りの剣と、書斎に並ぶ数冊の本が、かろうじて「本家」の格式を感じさせる程度だった。そこで初めて、カナリアはもう一人の住人と目が合った。長い髪のメイド服の女性——リーリャ。彼女は無表情のまま、深々と一礼した。
「……お茶をお持ちします」
それだけ言って、彼女は静かに去っていく。その背中を見送りながら、カナリアは微かな違和感を覚えた。——今、この人、私の手をじっと見てなかったか? まるで、何かを知っているような目だった。セバスと同じだ。何かを感じ取っているのに、何も言わない。
「ルディは今、庭で勉強中よ。ロキシー先生っていう魔術の先生が来てくれててね」
ゼニスの言葉に、カナリアの心臓が跳ね上がった。きた。ついに、その時が。
「後で紹介するわ。あの子、ちょっと変わってるけど、悪い子じゃないから」
——変わってる、どころの騒ぎじゃないんです、奥さん。あの子、将来世界を巻き込む大事件の中心人物になるんですよ。
心の中でそう叫びつつ、カナリアは引きつった笑顔を浮かべるしかなかった。
そこに、汗を拭きながら一人の男が戻ってきた。茶色の髪に、鍛え上げられた体躯。腰には剣を帯びている。一目で「只者ではない」とわかる雰囲気があり、カナリアは思わず姿勢を正した。
「おう、お前がカナリアか。俺はパウロだ。よろしくな」
パウロ・グレイラット。彼はカナリアを気さくに迎え入れたが、その目が一瞬、剣士のそれになってカナリアを捉えた。値踏みするような、しかしすぐに霧散した、ほんの刹那の視線。カナリアの背筋が凍り、無意識に右手がピクリと震えた。それを隠すように、彼女はぎゅっと拳を握りしめる。
パウロはすぐに「疲れただろう。今日はゆっくりしな」と言って、ゼニスと共に家の中へと戻っていく。
「じゃあ、そろそろ庭に行ってみる? ルディもそろそろ休憩の時間だと思うし」
ゼニスの言葉に、カナリアは観念して立ち上がった。逃げられないなら、せめて被害を最小限に。
◆◆◆
庭は、家と同じく質素なものだった。手入れの行き届いた小さな菜園と、物置小屋。そして、庭の中央には大樹が一本、どっしりと根を張っている。木漏れ日が地面に揺れ、風が葉を擦り合わせる音が心地よく響いていた。
しかし、その一角で行われている光景は、まったくもって「普通」ではなかった。水の弾が、空を裂いて飛ぶ。それは七歳の少年が放ったとは思えない速度と精度で、的に命中すると、派手な水しぶきを上げた。
「うん、こんなものかな」
少年——ルーデウス・グレイラット——は、まるで退屈な宿題を終えたかのように、ぽつりと呟いた。その隣では、青い髪の小柄な女性——ロキシー——が、うんうんと満足げに頷いている。
カナリアが息を呑んで見つめる中、ロキシーが一歩踏み出そうとして、自分のローブの裾を踏んだ。バランスを崩し、あわや転倒——というところで、杖を地面に突いてかろうじて体勢を立て直す。彼女は何事もなかったかのように咳払いをしたが、耳がほんのり赤くなっていた。
——今、この人、自分の服で転びかけたよね。先生だよね? この人が魔術の先生? 大丈夫なのか、この師弟。
内心のツッコミが追いつかないうちに、ルーデウスがこちらに気づいた。その目が、カナリアを捉える。七歳とは思えない、何かをじっくりと観察するような、それでいて純粋な好奇心に満ちた視線。
「君が、来たっていう……」
「……は、はい。カナリア、です」
カナリアは緊張で声が上ずるのを必死に抑え、たどたどしく挨拶した。大丈夫、今の私は「ぼんやりした子」。何もできない、ただの平凡な子だ。そう自分に言い聞かせる。
その時だった。二人のやり取りを近くで眺めていたロキシーが、ふと眉をひそめた。彼女は杖を握り直すと、カナリアの手元へと視線を落とす。
「……あら」
「な、なにか?」
「あなた、少し様子が変ですね。魔力の流れが、まるで自分で塞き止めているみたいです。ちゃんと呼吸するみたいに、外に出してあげないと」
カナリアは息を呑んだ。まさか、一瞬で。
「な、なにがですか。私、そんな、魔術なんて全然……」
「魔術を使えるかどうかは関係ありません。子供でも、魔力を持っていれば流れはあります。あなたのは、それが不自然に淀んでいる。長年、無理に押さえ込んでいる人にありがちな流れ方です」
ロキシーの口調は淡々としていた。責めるでも、はしゃぐでもない。ただ、事実を確認するような、教師としての観察の声だった。それがかえって、カナリアには逃げ場がなかった。ごまかしようがない。専門家が、専門知識で言い当てているのだ。
ルーデウスは、その様子をじっと見ていた。しばらく黙って、ロキシーとカナリアを見比べていたが、やがて何かに気づいたように、ぽつりと言った。
「……ああ、そうか」
「なに?」
「先生が言ってるの、つまりこういうことでしょ。普通、魔力って、水が流れるみたいに体の中を巡ってる。でも、それを無理やり止めようとすると、澱むっていうか、変な渦になる。カナリアのそれ、まさにそれだ」
彼はカナリアの手元をまじまじと見つめながら、独り言のように続けた。
「多分、無意識に抑え込んでるんだと思う。抑え込むこと自体は、練習すれば誰でもある程度はできる。でも、六歳くらいの子が、ここまで綺麗に抑え込めてるのは、正直ちょっと変だよ。相当な期間、意識的にやってないと、こうはならない」
——うわあああ。先生が見抜いて、それを聞いた瞬間、この子が理屈をつけて完全に言語化してくる。この師弟、コンビネーションが悪辣すぎる。
「な、なにがですか」
声が裏返った。自分でもわかる。これじゃあ、とぼけてるんじゃなくて、単に動揺してるだけの怪しい奴だ。
「あ、ごめん。責めてるわけじゃないよ」
ルーデウスは慌てたように両手を挙げた。
「ただ、そのままだと良くないんじゃないかって、それだけ。無理に堰き止めた水って、いつか勢いよく溢れるものだから」
——気にしないでって言われても! こっちは完全に気にしてるし、あなたの「勢いよく溢れる」がどれだけ的を射た比喩か、私はもう知ってるんだよなあ……!
「ルディ、新しいお友達ですか?」
ロキシーが改めて、カナリアの顔を覗き込む。
「まだ小さいのに、これだけの魔力を無理に抑え込むのは危険です。もしよければ、少しだけ制御の練習をしてみませんか? 基礎的なものなら、すぐにできるようになりますよ」
ロキシーの言葉には、純粋な善意しか感じられなかった。彼女はただ、目の前の子供の体調を心配しているだけだ。カナリアは戸惑った。こんなふうに、見返りもなく誰かに心配されるのは、母以外では初めてかもしれない。
「ありがとう、ございます。でも、私は……」
カナリアが言いよどんでいると、ロキシーは小さく首を振った。
「無理にとは言いません。でも、もし困ったことがあれば、いつでも言ってください」
ルーデウスが、少しだけ言いにくそうに言葉を継いだ。
「あのさ、もし気が向いたら、一緒に練習しない? 僕も人の魔力の流れってあんまり見たことないから、勉強になるし」
——勉強になるし。あ、そういう建前をつけるんだ。でも、その言い方がちょっとたどたどしいあたり、意外とこういうの慣れてないのかもしれない。いや、何を好意的に分析してるんだ私は。危ない危ない。
結局、カナリアにはもはや断る選択肢は残されていなかった。この二人を相手にこれ以上隠し通すのは、六歳の演技力ではどうにもならない。カナリアの「平凡作戦」は、本家到着からものの三十分で完全に破綻したのだった。
◆◆◆
ルーデウスとロキシーの訓練が再開され、カナリアは庭の端にぽつんと取り残された。大樹の木陰に腰を下ろし、ぼんやりと二人の様子を眺める。水の弾が空を裂き、ルーデウスが涼しい顔で魔術を連発している。その隣で、ロキシーが時折助言を挟みながら、ノートに何かを書き留めていた。
ふと、ロキシーがこちらに気づいて近づいてきた。
「どうしました? 退屈ですか?」
「……いえ、大丈夫です」
「そうですか。でも、もしよければ、これを持っていてください」
ロキシーはそう言って、ローブの内側から小さなペンダントを取り出した。緑がかった金属でできていて、三つの槍が組み合わさったような形をしている。
「これは……?」
「私の故郷に伝わるお守りです。ミグルド族の守り石。直接的な効果はないんですけど、持っているだけで少し魔力が安定するんです。あなたの力が、いつか誰かを救うものになりますように」
「……こんな大事なもの、もらえません」
「いいんです。私はもうすぐここを発ちますから」
「え?」
ロキシーは静かに微笑んだ。
「ルディにはもう、教えられることがなくなりました。今日が、最後の授業なんです」
カナリアは言葉を失った。ロキシーの顔には、寂しさと誇りが同居していた。教え子が自分を超えていく——それは師としての喜びであり、同時に喪失でもあるのだろう。彼女の小さな背中が、やけに大きく見えた。
「あなたも、きっとそうです。自分の力を怖がらなくていい。いつか、その力が誰かの役に立つ日が来ます。その時まで、大切にしまっておいてください」
「……はい」
カナリアはペンダントをぎゅっと握りしめた。金属のひんやりとした感触が、火照った手のひらに心地よかった。
やがて、ルーデウスの訓練が終わり、ロキシーは旅立ちの時を迎えた。屋敷の前に立ち、彼女は小さな鞄一つを手に、晴れやかな顔で一同を見渡した。
「二年間、ありがとうございました」
ゼニスが「ロキシーちゃん、元気でね」とハンカチを握りしめ、パウロが「世話になったな」と手を上げる。リーリャが無言で深々と一礼した。
ルーデウスは最後まで、いつもの調子で「またどこかで会おう、先生」と言った。でもその声が、ほんの少しだけ震えていたのを、カナリアは聞き逃さなかった。彼はすぐに笑顔を作ったが、その笑顔が、いつもの「無邪気な天才」の顔とは少しだけ違って見えたのは、気のせいだろうか。
ロキシーは少しだけ目を潤ませて、小さく頷いた。そして、カナリアに向き直る。
「カナリアさん。あなたの魔力は、きっと誰かを救うためのものです。どうか、自分を信じて」
カナリアは何も言えず、ただ深く頭を下げた。ロキシーの足音が遠ざかり、やがて見えなくなっても、彼女は顔を上げられなかった。右手の中で、もらったばかりのペンダントが静かに温かかった。
——誰かを救うためのもの。そうだろうか。私のこの手は、母を救った。でも、そのせいで父の期待という鎖を生み出した。救うことが、いつも良いこととは限らない。それでも、この人の言葉は、不思議と胸にすとんと落ちていった。
◆◆◆
ロキシーが旅立ってから、数日が過ぎた。
カナリアは少しずつ、この家での生活に慣れ始めていた。ゼニスはいつも優しく、パウロは忙しくてあまり家にいない。リーリャは相変わらず無表情だが、食事の好みを覚えてくれたり、夜は毛布を一枚多くかけてくれたりと、不器用な優しさを見せていた。それに気づくたび、カナリアは少しだけ心が温かくなった。
そしてルーデウスは——相変わらず、時々じっとこちらを見つめては、手元のノートに何かを書き留めている。ただ、それが以前のような「値踏みする」視線だけではないことに、カナリアは気づき始めていた。彼は彼なりに、カナリアの体調を気遣っているのかもしれない。まあ、それが「観察」なのか「心配」なのか、区別がつかないのがこの天才の困ったところなのだけれど。
——絶対に関わってはいけない。私はただ、平凡に暮らすんだ。
そう心に決めて、彼女は今日もできるだけ存在感を消して過ごしていた。
庭の大樹の下。そこは、この家の中で一番落ち着く場所だった。誰もいない時間を見計らって、カナリアは一人で木陰に座る。風が葉を揺らし、木漏れ日が地面にゆらゆらと揺れている。ロキシーからもらったペンダントを握りしめ、目を閉じると、心臓の鼓動が少しだけ落ち着くのを感じた。
その時だった。
「……あの」
か細い声がして、カナリアは目を開けた。いつの間にか、すぐ近くに一人の少女が立っている。年の頃は自分と同じくらいだろうか。特徴的な緑がかった髪が、陽の光を受けて淡く輝いていた。俯きがちで、両手をもじもじと組み合わせている。なかなか目を合わせようとしない。
カナリアは、どう話しかければいいのかわからず、結局黙り込んでしまった。沈黙が痛い。
先に口を開いたのは少女の方だった。
「……あの、私、シルフィエット。シルフィって呼んで」
たどたどしい、けれど必死に絞り出したような声だった。その声には、見知らぬ相手に話しかけることへの緊張と、ほんの少しの期待が混ざっているように感じられた。
「……カナリア、です」
それが、二人の最初の会話だった。ぎこちなく、たどたどしく、しかし確かに、それは始まりだった。
それから、ぽつりぽつりと、シルフィは自分のことを話し始めた。自分の髪の色のせいで、村の子供たちにいじめられていたこと。誰も助けてくれなかったこと。怖くて、ずっと一人でいたこと。
「……ルディはね、私の髪、気にしてないの。変だとも言わないし、いじめたりもしない。私、ルディにすごく感謝してる。だから、私、ルディの役に立ちたいの」
カナリアは、シルフィの言葉を聞きながら、自分の心臓がきゅっと締め付けられるのを感じた。この子は、私と同じだ。周囲から浮いていて、自分を隠している。だけど、この子にはルーデウスがいる。この子にとってルーデウスは、怖い天才なんかじゃなくて、手を差し伸べてくれた「恩人」なんだ。
「あ、そうだ」
シルフィが何かを思い出したように立ち上がり、大樹の根元に咲く小さな白い花を一輪摘んだ。そして、少し恥ずかしそうに、カナリアに差し出す。
「これ、あげる。私、この花、好きなんだ」
「……ありがとう」
カナリアはその花を受け取り、まじまじと見つめた。誰かに何かをもらうなんて、いつぶりだろう。母以外の誰かが、私のために何かをしてくれるなんて。胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じる。——ああ、これが友達なのか。
それと同時に、彼女は無意識に、右手の指を折り始めていた。四、誰にも関わらない。その指が、途中で止まる。——あ、今、四を破ったな。まあ、破るために作ったルールだし、仕方ないか。そう自分に言い訳しながらも、カナリアは小さく苦笑した。
それから、二人は他愛のない話を続けた。庭に咲いている花の名前、やってくる鳥のこと、ルーデウスのちょっと変わったところ。話の流れで、思わず「私の国ではね——」と言いかけて、カナリアは慌てて口を噤んだ。しまった。
シルフィはきょとんとして、それから小さく笑った。
「カナリアって、時々変なこと言うね」
「……うん、よく言われる」
カナリアが苦笑してごまかすと、シルフィは「でも、面白いから好き」と言って、また笑った。その無垢な笑顔に、カナリアの心は少しだけ軽くなった。——危なかった。これが、友達ってやつなのか。気を許すと、すぐにボロが出そうになる。でも、それが不思議と悪い気はしなかった。
「また、明日も話せる?」
日が傾き始めた頃、シルフィが少しだけ笑顔を見せて言った。その笑顔は、とても眩しくて、カナリアは自分でも驚くほど素直に、こくりと頷いていた。
「……はい」
それは、確かな幸福の瞬間だった。
◆◆◆
その幸福が、音を立てて揺らぎ始めたのは、それから間もなくのことだった。
「あっ」
そろそろ帰らなきゃ、と立ち上がったシルフィが、大樹の根元に足を取られた。彼女は慌てて手を地面についたが、バランスを崩してしまう。
「大丈夫?」
カナリアが手を貸そうとしたその時、シルフィは顔をしかめて自分の手のひらを見た。小さな擦り傷。じわりと血が滲んでいる。
それを見た瞬間、カナリアの中で、何かが疼いた。
——あ。
まずい、と思う間もなかった。右手が、ぼんやりと淡い金色の光を放ち始める。自分の意思とは無関係に、指先が熱を帯び、魔力が手のひらに集まっていく。やめろ、やめてくれ。私は誰も助けないと決めたんだ。お前のせいで、私の平穏はいつも壊されるんだ。頼むから、引っ込んでくれ——!
しかし、手は彼女の叫びを無視して、治癒の光を放とうとしていた。まるで、彼女の本質が「助けたい」と叫んでいるかのように。
慌てて右手を左手で押さえつけようとしたが、遅かった。
シルフィは、目を見開いて、カナリアの光る手をじっと見つめていた。二人の視線が、交錯する。困惑と、恐れと、そしてかすかな寂しさ。それらが混ざり合った複雑な色が、シルフィの瞳の中を渦巻いていた。
「……カナリア、それ」
カナリアは必死に言い訳を探した。「ち、違うの、これは、その——」しかし言葉は喉の奥で詰まり、何も出てこない。右手はまだ、彼女の意思とは無関係に、脈打つように、かすかに震えながら光を放ち続けている。
シルフィは、しばらく呆然とカナリアの手を見つめていた。その視線が、ゆっくりと手から顔へと移動する。彼女は一歩、後ろに下がった。
「……怖い」
その一言が、カナリアの胸に深く突き刺さった。当然だ。私だって、こんな手、怖い。シルフィは震える声で続けた。
「カナリアは、何者なの?」
——何者なの。
その問いに、カナリアは何も答えられなかった。答えれば、今度こそ全てが終わる。せっかくできた初めての友達を、自分の手で失ってしまう。だから彼女は、ただ黙って、俯くことしかできなかった。
長い沈黙の後、シルフィは自分で自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。そして、ぽつりと言った。
「……痛いの、治してほしい」
驚いて顔を上げるカナリアに、シルフィは涙を浮かべながらも、小さく笑った。
「カナリアは、怖くない。さっき、花をくれた時に思ったの。この人は、優しい人だって。だから……お願い」
カナリアの目の奥が、熱くなった。
——友達。
前世でも、この世界でも、こんなふうに受け入れられたことはなかった。母以外の誰かに、「怖くない」と言ってもらえたことなんて。
カナリアは震える右手をゆっくりと差し出し、シルフィの小さな手のひらにそっと重ねた。今度はちゃんと、自分の意思で。金色の光が優しく灯り、擦り傷を包み込んでいく。数秒後、光が消えた時には、傷は跡形もなく消えていた。
シルフィは自分の手のひらをまじまじと見つめてから、にっこりと笑った。
「すごい。カナリア、すごいよ」
「……ありがとう、シルフィ」
カナリアは声を震わせながら、なんとかそれだけを言った。
「私、このこと絶対に誰にも言わない。ルディにも言わない。友達だから、約束する」
シルフィはそう言うと、右手の小指を差し出した。
——ああ、この世界にも指切りがあるのか。
カナリアは自分の小指を絡めた。二人の小指が、しっかりと結びつく。
「……私も。シルフィが困ってたら、助ける。絶対に」
その瞬間、カナリアの右手が、ほんの少しだけ温かい金色に輝いた。今までの疼きとは違う、穏やかな温もり。木漏れ日が、二人の手を優しく照らしていた。
◆◆◆
その夜。
カナリアは客間に用意された小さなベッドに横たわり、天井を見つめていた。窓の外から虫の音がかすかに聞こえる。今日一日を振り返りながら、彼女は心の中で「五箇条」の達成率を確認した。
一、目立たない(初日でロキシーに見抜かれ、ルーデウスに言語化された。完全に失敗)。二、期待されない(大失敗)。三、誰も助けない(助けてしまった。でも、自分の意思で)。四、誰にも関わらない(シルフィと友達になった。完全に破った)。五、自分の力を絶対に使わない(使った。でも、後悔はしていない)。
「……壊滅的だな、私の平凡作戦」
彼女は小さく苦笑した。でも、不思議と悪い気はしなかった。シルフィの手の温もりが、まだ右手に残っている。あの指切りの瞬間、確かにこの手は温かく輝いたのだ。誰かを傷つけるためじゃない、守るための光だと、そう思えた。
枕元には、ロキシーからもらったペンダントがある。月明かりを受けて、かすかに緑色に輝いていた。——あなたの魔力は、きっと誰かを救うためのもの。ロキシーの言葉が、胸の中で静かに響いている。彼女がこの家を去ってから、まだ数日しか経っていない。でも、もうずいぶん遠くに行ってしまったような気がした。
それから、シルフィの言葉を思い出す。——ルディに治してもらうから。
いや、違う。あの後、シルフィは自分から「治してほしい」と言ってくれた。私の手を、自分の意思で選んでくれた。それでも、最初の「怖い」という一言は、まだ胸のどこかに小さな棘のように残っていた。
カナリアは自分の右手を見つめる。この手はシルフィの傷を癒した。でも、最初に見せたのは怯えだった。信頼を得るには、まだ何かが足りないのかもしれない。それが何なのか、今の彼女にはわからなかった。
——どっちにしても、これから少しずつだ。
カナリアは小さくため息をついて、目を閉じた。
それから、ルーデウスという天才。ロキシーが専門的な言葉で言い当てたことを、彼はすぐに自分なりの理屈に変換していた。「無理やり堰き止めた水って、いつか勢いよく溢れるものだから」——あの比喩は、単なる知識の受け売りではなかった。彼は、彼なりに理解しようとしていた。彼にとって私は、ただの観察対象に過ぎないのか。それとも——。
考えれば考えるほど、わからないことだらけだった。
でも、少なくとも今日、私はシルフィという友達を得た。それは、前世では決して得られなかったものだ。ロキシーという大人が去った寂しさを埋めるように、新しい繋がりが生まれた。その温かさを胸に抱きしめながら、カナリアはゆっくりと目を閉じた。
明日も、シルフィに会える。その事実だけで、今は十分だった。
右手が、まだかすかに疼いていた。でも今は、その疼きが少しだけ、前よりも温かく感じられた。
◆◆◆
同じ夜。ルーデウスは自室で、小さなノートに向かっていた。窓の外では月が雲に隠れ、部屋の中はランプの灯りだけが揺れている。
彼はペンを手に取り、静かに何かを書き留める。
「観察記録:カナリア・グレイラット。分家から来た少女。初対面時、ロキシー先生が魔力の流れの異常を指摘。無理に押さえ込んでいるというより、無意識に抑圧しているように見える、というのが先生の見立て。自分でも改めて確認したが、確かに淀みが確認できた。長期間にわたって意識的に抑制していないと、この年齢でここまで綺麗な澱み方にはならない気がする。本日、彼女の右手がかすかに発光するのを庭の大樹の下で確認。対象はシルフィの擦り傷。治癒魔術の一種か——しかし術式の痕跡がなく、通常の治癒とは原理が異なる可能性がある」
彼はそこでペンを止め、窓の外を見つめた。大樹の下で、シルフィとカナリアが小指を絡め合っている光景を思い出す。シルフィの緊張が解けていくのが、遠くからでもわかった。一人ではなかっただろうかと、何度も気にかけていただけに、その光景は意外で、そして少しだけほっとするものだった。
彼はノートの隅に、小さく「シルフィ、笑顔」とだけ書き足して、ノートを静かに閉じた。口元に、誰にも見せない、かすかな笑みが浮かんでいた。
現在改稿中