無職転生 ~異世界行ったらニート目指す~ 作:めーぷるん
朝の光が部屋に差し込むより早く、カナリアは目を覚ました。
理由は一つ——右手が疼いている。毛布の下でそっと手のひらを開くと、指先に金色の残滓がちらついているのが見えた。ここ数日、ずっと同じだ。まるで「私はここにいる」と主張するかのように、傷口が脈打つような熱を帯びて、チリチリと痺れ続けている。
——うるさいなあ。わかってるよ、お前がまだ生きてるってことは。でも今日こそおとなしくしてて。頼むから。
心の中でそう語りかけながら、カナリアは右手をぎゅっと握りしめてベッドを出た。
朝食の席。ゼニスの焼いたパンをちぎりながら、彼女は必死に「ぼんやりした子供」の顔を作り続ける。隣ではルーデウスがいつも通り無邪気な顔でスープを口に運び、リーリャが無言で給仕している。何の変哲もない、普通の朝の光景だ。
なのに、パウロの目だけが違った。
「カナリア」
心臓が跳ね上がる。何かを知っているのか。いや、あの場にパウロはいなかったはずだ。シルフィは「誰にも言わない」と約束してくれた。ルーデウスは——あの天才は、「黙っておく」と言っていた。つまり、パウロはまだ何も知らないはずだ。
「は、はい」
「昨日、ルディがな、ちょっと面白い話をしてくれてな」
——ルーデウスが!?
カナリアは反射的にルーデウスの方を見た。彼は少しだけ気まずそうに視線を逸らした——いや、正確には逸らそうとして、結局バツが悪そうにこちらを見た。その表情には、少なくとも悪意は感じられない。彼がパウロに話したのは、きっと「面白い観察記録」としてではなく、単にカナリアのことを心配してのことなのだろう。それがわかるだけに、余計にタチが悪い。
——このお人好しめ。いつの間にパウロにチクったんだ。善意でやられると怒るに怒れないんだよなあ……。私の平穏はまた一歩、遠のいた。
「お前、魔術の才能を隠してるんだってな」
スープをすくおうとしていた手が、空中で止まる。カナリアは引きつった笑みを浮かべた。
「そ、そんなこと……ルーデウスの勘違いじゃ……」
「ルディが言うなら間違いない」
パウロの口調は軽かったが、その目は剣士のそれだった。値踏みするような、獲物を見定めるような目。かつて何人もの魔物や無法者と渡り合ってきた、元冒険者の目だ。カナリアの背筋を冷たいものが走り抜ける。
「それでな、今日、俺と模擬戦をしてみないか?」
「あなた、子供に無理させちゃダメよ」
ゼニスが呆れたようにパウロをたしなめる。しかしパウロは引き下がらなかった。
「無理はさせないさ。ちょっと体を動かすだけだ」
「でも、私は全然……」
「ルディが言うなら間違いない。いいから付き合え」
もはや逃げ道はなかった。カナリアは観念して、心の中で五箇条の生存確認をした。一、目立たない(死)。二、期待されない(死)。三、誰も助けない(かろうじて生存)。四、誰にも関わらない(死)。五、自分の力を絶対に使わない(今日が正念場、危篤)。
うん、見事に死屍累々だ。私の平凡作戦は、本家に来てたった二日で完全に息絶えたらしい。合掌。
「……わかりました」
彼女は力なく答えた。胃のあたりがキリキリと痛む。朝食のパンが、やけに喉に詰まった。
◆◆◆
模擬戦の場所は、庭の一角に整地されたスペースだった。
地面には踏み固められた土。周囲には訓練用の木剣が数本、雑に立てかけられている。パウロはそのうちの一本を手に取り、軽く素振りをした。風を切る音が、びりびりと空気を震わせる。
「剣でも魔術でもいいぞ。俺に一太刀でも入れられたら、お前の勝ちだ」
パウロの言葉に、カナリアは無言で頭を下げた。
——勝ちも負けもないんだよなあ、こっちは。目立たないことが勝利で、期待されることが敗北なんだよ。あなたたちの価値観、完全に私と逆なんですけど。
心の中で毒づきながらも、彼女は構えを取った。大樹の根元には、ルーデウスが腰を下ろしている。膝の上には例のノート。その横顔は、どことなく落ち着かない様子で、時折ペンを置いては手をこすり合わせている。今日の彼は、いつもの「観察者」というより、友達の体力測定を見守る保護者のように見えなくもなかった。
パウロの初撃は緩やかだった。六歳の子供を相手にした、完全に遊びの一撃。カナリアはそれを必死に避ける。偶然を装って。何も考えず、恐怖のままに。
「……ほう?」
パウロの目が、少しだけ変わった。彼は何かを察したように、徐々に速度を上げていく。一撃、また一撃。風を切る音が鋭さを増し、カナリアの額に冷や汗が浮かんだ。
——まずい。このままじゃ「無能」の演技が限界だ。
彼女の体は、前世で染みついた防衛本能——誰かに追い詰められた時に身を守るための、泥臭くて本能的な動き——を覚えていた。そしてその動きは、どうやらこの世界の剣士の目には「筋がいい」と映ってしまうらしい。この体が。この世界のこの体が、前世で培った生存本能を、武器に変えてしまっている。
「もう少しだけ本気でいくぞ」
空気が張り詰めた。パウロの構えが変わる。遊びのそれから、本気のそれへ。彼の目が、獲物の真価を見極めようとする狩人のそれに変わった瞬間を、カナリアは見逃さなかった。
——来る。速い。ああ、もう逃げ出したい。異世界に転生したのに、なんで私ばかりこんな目に。ニートになりたいだけなのに!
しかし体は勝手に動いていた。パウロの一撃が肩をかする。冷や汗が飛び散る。短い。速い。重い。息つく暇もない連撃。追い詰められる。それでも体は動く。脳が理解するより先に、体が反応する。そんな自分が、無性に腹立たしい。
その瞬間、カナリアの右手が勝手に動き、光を放とうとした。
まずい——!
彼女はとっさに左手で自分の右手を叩き落とした。魔力の光は霧散し、その代わりに彼女の体が無様に地面に転がる。パウロの木剣が、喉元でぴたりと止まった。
「そこまで」
カナリアは地面に倒れたまま、肩で息をした。右手がまだ疼いている。指先が脈打つように熱を帯び、必死に握りつぶす。誰にも見られるな。まだバレてない。そう思ってルーデウスの方を見ると、彼はペンを置いて、安堵したように小さく息をついたところだった。目が合うと、彼はちょっと気まずそうに視線をそらした。
——ああ、今の見てたな。見てて、心配してたんだな。まったく、このお人好しめ。
パウロは木剣を下ろし、カナリアを見下ろした。しばらく何も言わずに、じっと彼女を観察していたが、やがて口元をゆるめた。
「……やっぱりな」
「ち、ちが……」
「違わない。お前の体の動きは、剣を知らない素人のそれじゃない。誰かに習ったわけでもないのに、本能的に攻撃を避ける動きが染みついている。まるで長年、何かに追われ続けてきたみたいな——まあいい。魔術を使わずにあれだけ動ける六歳の子供は、少なくとも俺は見たことがない」
——長年、何かに追われ続けてきた。その通りだ。前世では上司や納期に、この世界では「期待」という名の鎖に。私はずっと、何かから逃げ続けてきた。その結果が、この泥臭い動きなのだとしたら——少しだけ、誇ってもいいのかもしれない。
カナリアは何も言えず、ただ俯いた。パウロはしゃがみこんで、彼女の目線に合わせる。
「なあ、カナリア。お前は自分の力を隠そうとしている。それは別に悪いことじゃない。誰にだって隠したいものの一つや二つはある。だがな、その力はお前が思っているよりずっと危ういものだ。無理に抑え込めば、いつかお前自身を壊すぞ」
——壊す。
その言葉が、カナリアの心臓をぎゅっと掴んだ。母を治癒した後、気絶した自分。ロキシー先生も同じことを言っていた。パウロとロキシー、二人の大人が同じ警告を発している。その事実が、何よりも重かった。
「……どうすれば」
「まずは、その力をちゃんと理解することだ。抑え込むんじゃなくて、制御する。やり方は——まあ、俺にはわからん。ルディなら何か知ってるんじゃないか」
パウロが振り返ると、ルーデウスはノートを閉じて立ち上がった。その顔には、好奇心と、そしてどこかほっとしたような、安心したような色が浮かんでいる。彼は少しだけ迷うような間を置いてから、口を開いた。
「何か困ってることがあったら言ってよ。僕にできることなら、手伝うから」
——ああ、そういう言い方するんだ。やっぱり、根はお人好しなんだろうな、この天才は。
カナリアは地面に座り込んだまま、こくりと小さく頷いた。
◆◆◆
模擬戦の後、カナリアが地面に座り込んだままでいると、ゼニスが水差しとタオルを持ってやってきた。パウロはそれを受け取ると、カナリアの前にしゃがみこむ。彼は乱暴にタオルで自分の汗を拭きながら、ふと真顔になった。
「なあ、ゼニス。俺さ、どうやってこいつらに接すればいいんだろうな」
「どうしたの、急に」
「いや、ルディといいカナリアといい、俺なんかよりずっと先に行きそうでよ。父親として、どう導けばいいのかわからん時がある」
ゼニスは少しだけ驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「あなたはあなたでいいのよ。困った時に手を差し伸べて、危ない時に守ってあげれば。それで十分」
「……そうか」
パウロは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。カナリアはその姿を見て、思わず口元が緩んだ。——なんだ、この人も悩んでるんだ。完璧な父親なんかじゃなくて、ただの不器用な一人の大人なんだ。そう思うと、少しだけ気が楽になった。
この時の私は、まだ知らなかった。この不器用さが、明日、どんな形で牙を剥くのかを。
◆◆◆
模擬戦の後、カナリアは大樹の下に座り込み、震える右手をじっと見つめていた。指先に、まだかすかに金色の残滓がちらついている。
そこに、ルーデウスがやってきた。ノートを小脇に抱えて。カナリアは心の中で叫んだ。——来た。でも今日は、いつもの「観察者」の顔じゃない。なんだか、ちょっとだけ言い出しにくそうにしている。
「さっきの、右手が光ってたよね」
カナリアは観念して、小さく頷いた。もう逃げられない。ここまで来たら、開き直るしかない。
「あのさ、無理にとは言わないんだけど……もし、その力で困ってることがあったら、僕でよければ相談に乗るよ。僕も似たようなものだから」
——似たようなもの?
カナリアは思わずルーデウスの顔を見つめた。彼は照れくさそうに、それでいて真剣な目でこちらを見ている。彼もまた、人には言えない何かを抱えているのだろうか。この天才にも、この天才なりの悩みがあるのだろうか。
「……ルーデウスは、私のことをどう思ってるの? ただの観察対象?」
カナリアの言葉に、ルーデウスは少しだけ考えてから、静かに答えた。
「最初は、ちょっと気になるなって思っただけなんだ。でも今は、君が無理してるんじゃないかって、それが心配で」
——なんだ、それ。ずるい。そうやって真っ直ぐに「心配だ」なんて言われたら、こっちは何も言い返せないじゃないか。計算とか打算とかじゃなくて、ただ純粋に心配してるんだ、この天才は。それが一番タチが悪い。
「だからさ、君の力が暴走して、君自身が壊れたり、シルフィが悲しむのは、僕も嫌だ。だから協力する。それだけだよ」
カナリアはルーデウスの目を見つめた。嘘をついている目ではなかった。彼は本気で、シルフィのことを大切に思っている。そのついでに、カナリアのことも。不器用だけど、確かな優しさだった。
「……わかった。でも、私の目的はあくまで平穏に生きることだから」
「うん、それでいいよ。じゃあ、まずは自分の魔力の流れを感じることから始めよう」
そう言って、彼はノートを開いた。でも今日は、いつもの「観察記録」というより、カナリアのためのメモを取り始めたように見えた。
◆◆◆
ルーデウスの指導は、意外にも理路整然としていた。
「まずは、自分の魔力の流れを感じることからだよ。無理に抑え込もうとすると、ますます制御が難しくなる。澱んだ水が腐っていくみたいにね。そうじゃなくて、少しずつ流してやるんだ」
カナリアは目を閉じて、自分の右手に集中した。指先に集まる魔力の感覚。それは確かに、せき止められた水のように澱んでいた。濁って、冷たくて、動きを忘れた水。これを、流す。恐る恐る、少しだけ力を抜く。
その瞬間、右手が金色の光を放った。カナリアは慌てて力を込めようとしたが、ルーデウスが静かに言った。
「そのままだ。怖がらなくていい。ちゃんと制御できてる。ほら、ちゃんと自分のものになってる」
確かに、光は暴走していない。澱んでいた水が、少しずつ澄んでいく——そんな感覚が、指先から手首へ、手首から腕へと広がっていく。自分の意思で、少しだけ流れをコントロールできている。初めての感覚だった。
「うん、いい感じだね。その調子で練習すれば、そのうち無意識でも制御できるようになるよ」
ルーデウスは満足げに頷きながら、ノートに何かを書き留めた。でもそれは、いつもの「観察記録」というより、練習の記録に見えた。
「……ありがとう、ルーデウス」
「どういたしまして。でも、これはまだ第一段階だからね」
「わかってる」
そう言いながらも、カナリアの心は少しだけ軽くなっていた。私は今、この天才と手を組んだ。それが吉と出るか凶と出るかは、まだわからない。でも少なくとも、この右手は私の敵じゃない。手なずけることのできる、私の一部なんだ。
◆◆◆
夕食の席。いつものようにゼニスの手料理が並び、パウロが上機嫌でパンをかじる。ルーデウスはスープを飲みながら、時折カナリアの方を見ては、何かを考えるような仕草を見せた。
食卓の話題は他愛ないものだった。ゼニスが畑の野菜の話をし、パウロが近所の森で見かけた魔物の話をする。リーリャはいつも通り無言で給仕に徹している。
だが、その日の食卓には、いつもと違う何かが混じっていた。パウロが時折、ルーデウスの方をちらりと見る。その目には、いつもの快活さの下に、何か決めかねているような色があった。ルーデウスはそれに気づいているのかいないのか、いつも通りパンをちぎっている。
食事の終わり際、パウロがふと真顔になった。
「ルディ」
「なに?」
「お前、来年で八歳になるな」
「うん」
「フィットア領のロアに、ボレアス家って貴族がいる。そこの娘の家庭教師の口があってな。お前にどうかと思ってる」
ルーデウスの手が、一瞬だけ止まった。カナリアはその横顔を見ていた。彼の表情に、驚きはあっても、混乱はなかった。まるで、いつかこういう話が来ることを、心のどこかで予期していたかのように。
「……いつから?」
「決まればすぐだ。話がまとまり次第、俺と一緒に発つ」
ゼニスが箸を止めた。何か言いたげに口を開きかけて、けれど言葉にせず、ただ静かにパウロを見つめた。二人の間に、カナリアには読み取れない何かが流れているのがわかった。
「わかった」
ルーデウスは、あっさりと頷いた。それだけだった。カナリアはその返事の軽さに、かえって不安を覚えた。まるで、覚悟をとうに決めていたかのような、あるいは、決めていないふりをしているかのような、そんな頷き方だった。
「……ごちそうさま」
彼女は静かに席を立ち、自室へと戻った。何が起ころうとしているのか、はっきりとはわからない。ただ、明日の朝がいつも通りではないだろうことだけは、確信できた。
◆◆◆
その予感は、翌朝、最悪の形で当たった。
カナリアが物音で目を覚ましたのは、まだ空が白み始めたばかりの時間だった。廊下から、押し殺した怒鳴り声と、何かがぶつかり合う鈍い音が響いてくる。
「暴れるな、ルディ!」
パウロの声だった。いつもの快活さは欠片もない。ただ、抑えつけるような、そして苦しそうな声だった。
「離せ、父さん! なんで急に——うわっ!」
ルーデウスの叫び声が、途中で不自然に途切れた。何か布のようなものがぶつかる音。それから、ずるずると何かを引きずるような音。
カナリアはベッドから飛び起き、部屋の扉に手をかけた。でも、開けられなかった。指先が震えて、取っ手を掴む力が入らない。心臓が、前世のあの日のように早鐘を打っている。
——何が起きてるの。何をしてるの。
扉の隙間から、そっと廊下を覗く。薄暗い光の中に、パウロの背中が見えた。彼の腕の中には、ぐったりとしたルーデウスがいた。両手を後ろ手にロープで縛られ、意識を失っているのか、身動き一つしない。
カナリアは息を呑んだ。
パウロの表情は、これまで見たどの顔とも違っていた。怒りでも、悪意でもない。もっと複雑な、追い詰められた人間の顔だった。まるで、自分自身を何かに納得させようとしているような、そんな顔だった。
ゼニスが廊下の奥から駆けてくる。彼女はルーデウスの姿を見て、一瞬だけ顔を歪めたが、パウロを止めようとはしなかった。ただ、震える声で「本当に、これでいいの」とだけ言った。
「……わからん。でも、これしか思いつかなかった」
パウロの声は、震えていた。カナリアが今まで聞いたことのない声だった。
「あいつは、シルフィがいなきゃ立っていられなくなる。俺には、それが怖い。だから——今、切り離す」
その言葉の意味を、カナリアは半分も理解できなかった。ただ、パウロがルーデウスを抱えたまま、玄関の方へと歩いていくのを、扉の隙間から見つめることしかできなかった。
馬車の車輪が軋む音。馬の嘶き。そして、屋敷の前から遠ざかっていく蹄の音。
それだけだった。何の別れの言葉もなく、何の説明もなく、ルーデウスは連れ去られていった。
カナリアは、しばらくの間、扉に手をかけたまま立ち尽くしていた。
◆◆◆
朝食の席には、パウロの姿はなかった。ゼニスが硬い顔で座り、リーリャが無言で給仕をしている。ルーデウスの席には、誰も座っていない。空っぽの椅子が、やけに大きく見えた。
「……ルディは?」
カナリアが恐る恐る尋ねると、ゼニスは一瞬だけ言葉に詰まり、それから、無理に微笑んだ。
「ロアの領主様のところで、家庭教師をすることになったの。今朝、パウロと一緒に発ったわ」
「いつ帰ってくるんですか」
「……わからないわ」
その一言に、カナリアは背筋が冷たくなった。ゼニスの表情には、隠しきれない疲労と、何かを堪えるような色があった。彼女もまた、この決定に完全には納得していないのだと、その顔を見ればわかった。
パウロは夕方に一人で戻ってきた。ゼニスが詰め寄るのを、「話はまとまった。もう発った後だ」の一言で済ませる。その顔には、いつもの軽薄な笑みすらなかった。ただ、なにか重いものを背負い込んだような、疲れ切った男の顔があった。
カナリアは、それをただ見ていることしかできなかった。
そして——シルフィが来た。
「ルディは? どこにいるの?」
カナリアは何も答えられなかった。シルフィはパウロに詰め寄り、ゼニスに詰め寄り、リーリャに詰め寄った。そして、事実を知った。ルーデウスが、もうこの家にはいないことを。何の前触れもなく、別れの言葉さえもなく、いなくなったことを。
「……五年」
パウロが、絞り出すように言った言葉に、シルフィの顔が凍りついた。
「五年間、帰ってこない。手紙も出させない。それが、契約の条件だ」
「なんで……なんでそんな……!」
「シルフィ」
パウロはしゃがみこんで、シルフィの目線に合わせようとした。しかし彼女は、その手を振り払うように後ずさった。
「なんでですか! ルディ、何も悪いことしてないのに! なのに、なんで——」
「悪いことをしたから、離したわけじゃない」
パウロの声は、静かで、そして苦しげだった。
「お前たちが、互いに寄りかかりすぎてる。ルディは、お前がいなきゃ前に進めなくなる。お前も、ルディがいなきゃ立っていられなくなる。そうなる前に——」
「そんなの、私が決めることです! 大人が勝手に決めることじゃない!」
シルフィの叫び声が、屋敷中に響いた。彼女は、それ以上何も言わず、走り去っていった。
カナリアが追いかけると、シルフィは大樹の根元にうずくまっていた。よく見ると、彼女は樹の根元の小さな窪みに、そっと指を這わせている。そこには、拙い文字で「シルフィとルディ」と刻まれていた。いつの間にこんなものを——そう思う間もなく、シルフィは声を押し殺して泣き始めた。
「……なんで、なんで何も言ってくれなかったの……? こんなに、こんなに大切だったのに……ルディは、私のこと、どうでもよかったのかな……?」
カナリアは何も言えなかった。ただ、シルフィの背中に手を当てることしかできなかった。
違う、と心の中で叫ぶ。ルーデウスはあの時、確かに言っていた。「シルフィが笑ってるのを見ると、僕も嬉しい」と。あの言葉は嘘じゃない。むしろ、彼があんなに真っ直ぐに誰かを想っていることを、私は知っている。でも今は、それを伝えることさえできない。彼自身、縛られて、気絶させられて、連れ去られたのだ。別れの言葉一つ、残す時間もなく。
自分が無力で、なにもできない子供であることを、カナリアは思い知らされた。
「……ごめん、シルフィ。私、何もできなかった」
シルフィは答えない。ただ、肩を震わせて泣き続けていた。大樹の葉が、風に揺れている。いつもと変わらない音だった。でも、決定的に何かが変わってしまった——そんな気がした。
夕暮れが、泣き疲れて眠ってしまったシルフィの髪を、優しく照らしていた。
◆◆◆
その夜、カナリアは自室のベッドに座り、今日一日を振り返っていた。窓から差し込む月明かりが、床に青白い影を落としている。遠くで虫の音が静かに響いていた。
右手を開き、自分の意思で光を灯す。今度は、ちゃんと制御できる。光は穏やかで、暖かく、彼女の手のひらの上で静かに揺れている。
昨日、ここまで来て、少しだけこの手のことを誇らしく思えた。なのに今日は、この制御された光すらも、何の意味も持たないように思えた。
——シルフィが泣いていた時、私はこの手で、何もできなかった。
五箇条の生存確認。一、目立たない(死)。二、期待されない(死)。三、誰も助けない——今日、私はシルフィを助けられなかった。泣いている友達の背中に手を当てることしかできなかった。四、誰にも関わらない(死)。五、自分の力を絶対に使わない(今日は使わなかった。でも、こんな時にこそ使えるべきだったのではないか?)。
「……無力だ、私」
カナリアは右手をぎゅっと握りしめた。この手は、母を救い、シルフィの傷を癒した。ルーデウスは私に、この手を「手なずけろ」と言った。パウロは私に、この手で「お前自身を壊すな」と言った。ロキシー先生は私に、この手は「誰かを救うためのもの」だと言った。そしてルーデウスは、純粋に私のことを心配してくれた。
でも、今日の私は——泣いているシルフィの背中を撫でることしかできなかった。連れ去られる寸前のルーデウスの声を、扉の向こうで聞くことしかできなかった。
「……違う。私は、シルフィが泣き止むのを待ってただけだ。何もしなかった。できなかった。それが、今日の私だ」
彼女は小さく呟いて、枕元のロキシーのペンダントを見つめた。月明かりを受けて、かすかに緑色に輝いている。——あなたの魔力は、きっと誰かを救うためのもの。ロキシーの言葉が、胸の中で静かに響く。
誰かを救うためのもの。それが本当なら——私は、もっとこの手をうまく使えるようにならなければならない。シルフィがもう泣かなくても済むように。それとも、いっそ——誰とも関わらなければ、こんな思いをせずに済むのだろうか。
わからない。でも、少なくとも今は、泣いている友達を放っておくことなんてできない。
「ニートになる夢は、まだ諦めてない。でも——今は、目の前のことをやるしかないみたいだ」
彼女は右手を握りしめた。窓の外では、風が大樹の葉を揺らしていた。
その時だった。
握りしめた右手が、突然、脈打つように熱を帯びた。今までの制御された光とは違う。意思とは無関係に、指先がチリチリと疼き、手のひら全体が勝手に輝き始める。まるで遠くの雷に呼応するかのように、断続的に、不気味に。この疼きは——母を治癒した時の、シルフィの傷を癒した時の、誰かを「助けたい」と無意識に願った時の疼きに、とてもよく似ている。でも、今この部屋に、助けを必要としている人はいない。屋敷の中の誰もが寝静まっている。
なのに、どうして。
——遠くで、誰かが傷ついているのだろうか。私の手は、それを感じているのだろうか。
馬車に乗せられ、どこかへ運ばれていくルーデウスの姿が、ふと脳裏をよぎった。まさか、あの子が——いや、考えすぎだ。ただの家庭教師の話だと、ゼニスも言っていた。危ないことなんて何も——。
「——え?」
カナリアは慌てて右手を握りしめた。痛いほどの力を込めて、必死に光を抑え込む。やがて光は弱まり、部屋は再び月明かりだけに包まれた。
「なに、今の……」
彼女は息を切らしながら、自分の右手をじっと見つめた。まだ、指先が虫が這うようにチリチリと痺れている。これは、いつもの疼きとは違う。誰かを「助けたい」という衝動が、対象もわからないまま、手だけが勝手に疼いている——そんな不気味な感覚だった。そしてその疼きは、これまでのどんな時よりも強く、切実だった。
カナリアは右手を胸の前に抱え込むようにして、強く、強く握りしめる。指先の疼きは、まだ消えていなかった。
明日、シルフィに会える。それだけが、今の私を支えている。でも——この手は、何を感じているんだろう。ルーデウスは、今どこにいるんだろう。
ふと、今日のリーリャの横顔を思い出す。あの人もまた、何かを知りながら黙っている。この屋敷には、まだ私の知らない何かが隠されている。そんな気がしてならなかった。
何かが、起ころうとしている。嫌な予感が、小さな棘のように胸に刺さったまま、取れなかった。