無職転生 ~異世界行ったらニート目指す~ 作:めーぷるん
ルーデウスが連れ去られてから、屋敷は長い間、静けさに沈んでいた。
朝食の席で、パウロの席は空いていることが多くなった。領主のもとへ何度も足を運んでいるらしい、とゼニスが疲れた声で説明してくれた。何のためかは、彼女も詳しくは語らなかった。ただ、その口調には、拭いきれない硬さがあった。
カナリアは、その空気を壊さないよう、できるだけ静かに過ごしていた。だが、いくら気配を殺しても、この屋敷にはもう一人、決して静かにはできない人間がいた。
シルフィだ。
彼女の住む家は、屋敷から歩いて小一時間ほどの場所にあった。緑髪のせいで村の子供たちに疎まれていた彼女は、暇を見つけるたびに、その道を一人で歩いてやってくる。最初は週に一度か二度だったが、あの日以来、その頻度は明らかに増えていった。
彼女は、日課のように、大樹の根元に指を這わせ、そこに刻まれた「シルフィとルディ」の文字をなぞる。最初の数日は、ただそこに座って、ぼんやりと空を見上げているだけだった。カナリアが声をかけても、上手く答えが返ってこない日もあった。
「……シルフィ」
ある日の午後、カナリアが隣に腰を下ろすと、シルフィはちらりとこちらを見て、また文字に視線を戻した。
「ルディ、寒くないかな」
「……多分、大丈夫だと思う」
「五年って、どれくらいだろう。私、六歳になるのに」
その問いに、カナリアは何も答えられなかった。五年という時間の重さを、六歳の子供に説明する言葉を、彼女は持っていなかった。
「……私、待ってるからね。ルディが帰ってきたら、ちゃんと言う。ずっと待ってたよって」
シルフィの声には、迷いがなかった。カナリアは、その真っ直ぐさに、少しだけ息苦しくなった。自分だったら、こんなに真っ直ぐに、誰かを待つことができるだろうか。
◆◆◆
それから、季節が一つ、また一つと巡っていった。
最初の数ヶ月、シルフィは沈みがちだった。大樹の下で一人、木の根元の文字を眺める時間が長かった。だが、カナリアが隣に座り続けるうち、少しずつ、彼女の口から他の話題も出るようになっていった。
「あのね、今日、庭の花が咲いたの」
「あそこの丸い石、ルディと積み上げたやつなんだ」
シルフィの言葉には、常にルーデウスの影があった。それでも、カナリアはその隣に座り続けた。指切りの約束を、彼女は忘れていなかった。
「シルフィ、こっち来て。虫、見つけたよ」
「わっ、大きいね! ルディに見せたら、絶対喜ぶのに」
二人でだけの遊びも、少しずつ増えていった。大樹の周りに小さな花壇を作ったり、拾った石を積んで塔を作ったり。そのたびに、シルフィは「ルディが帰ってきたら見せる」と言い、カナリアは頷きながら、心の中でだけ小さな痛みを覚えた。
村から通う道は、決して楽なものではなかったはずだ。それでも、シルフィは、雨の日も、風の強い日も、休むことなくやってきた。
——私は、ルディの代わりにはなれない。でも、隣にいることくらいはできる。
その考えは、いつしか、カナリアの中で、揺るがない一つの指針になっていた。
◆◆◆
夏の終わり、屋敷に一通の手紙が届いた。
差出人は、分家の父、グレンだった。カナリアは、リーリャから手紙を受け取った瞬間、胃の底が冷たくなるのを感じた。
自室に戻り、震える手で封を切る。
文面は、丁寧な言葉で綴られていたが、その裏に滲む圧力を、カナリアは痛いほど感じ取った。
『カナリア。本家での生活はどうか。ミリアも心配している。
本家の方々に、失礼のないよう努めているか。特に、ルーデウス様のような優れた御方の傍で学べることは、我が家にとって、この上ない好機だ。お前の魔力については、まだ何も見出せていないのか。
本家の目に留まるようであれば、必ず知らせるように。お前の才が明らかになれば、我が家の名誉も、いくらか回復されよう』
その一文一文が、カナリアの胸を締め付けた。ミリアが心配している、という一言だけが、かすかな温かさを持っていた。それ以外は、すべてが、彼女に「才能を見せろ」と迫る言葉だった。
カナリアは、手紙を握りしめたまま、ベッドに腰を下ろした。
——ルーデウス様のような優れた御方の傍で。
その言葉が、皮肉なほど的を射ていた。父は、まだルーデウスがどこかへ行ってしまったことを知らない。何ヶ月も前に、連れ去られていったことを。
もし、この事実を知ったら、父は何と言うだろうか。落胆するだろうか。それとも、別の何かを企むだろうか。
カナリアは、手紙をたたみ、引き出しの奥深くに押し込んだ。それ以上、考えたくなかった。
その夜、ベッドに横たわり、右手をぼんやりと見つめる。指先に、かすかな熱が残っている。ここ数日、こういうことが増えていた。理由もなく疼く。誰も傷ついていないのに。
——五箇条。
彼女は、指を一本ずつ折りながら、心の中で数えた。一、目立たない。もう無理だ。ロキシー先生とルーデウスに見抜かれた時点で、この項目は死んでいる。二、期待されない。父の手紙が、それを完全に踏み潰している。三、誰も助けない。シルフィの傷を治した。四、誰にも関わらない。
その項目まで来て、彼女は小さく笑った。
「……完全に、破綻してるな」
シルフィと過ごした日々を思い出す。花壇、石の塔、他愛のない話。あれらを、「関わっていない」と言い張ることは、もはや自分自身に対する嘘だった。
カナリアは、右手をぎゅっと握りしめた。ロキシーのペンダントの感触が、そこにあった。
——誰かを救うためのもの。
その言葉を、また思い出す。もし、この力が本当にそういうものなら——隠すことに、どれだけの意味があるのだろうか。
それでも、彼女は、まだ答えを見つけられなかった。
◆◆◆
秋が来て、また冬が過ぎた。
パウロは、以前よりも家にいる時間が増えていた。ただ、その表情には、以前の快活さが完全には戻っていなかった。ある晩、カナリアが夜中に水を飲みに厨房へ向かう途中、居間から漏れる声に、思わず足を止めた。
「……ゼニス。俺は、間違えたんだろうか」
パウロの声だった。低く、疲れきった声。カナリアは、扉の陰でそっと息を潜めた。
「今更、それを言うの」
「わかってるさ。もう決めたことだ。でも、シルフィの様子を見てると、な」
しばらくの沈黙があった。
「あの子は、ルディがいなくても、少しずつ前を向いてる。カナリアと一緒にいる時間が、あの子を支えてる」
ゼニスの言葉に、カナリアの心臓が跳ねた。私が、シルフィを支えている。そんなふうに、誰かに見られていたなんて、思ってもいなかった。
「そうか……そうだな。あの子には、感謝しなきゃな」
パウロの声に、少しだけ、いつもの明るさが戻っていた。カナリアは、それ以上聞いていることに気が引けて、静かに厨房へ向かった。水を飲む手が、少しだけ震えていた。
感謝されるようなことをした、という自覚はなかった。ただ、指切りの約束を、忘れずにいただけだ。それだけのことが、誰かの助けになっているという事実が、彼女にはまだ、うまく飲み込めなかった。
◆◆◆
二年目の春、変化が訪れたのは、思いがけない形だった。
その日、カナリアとシルフィは、いつものように大樹の下で過ごしていた。シルフィが、拾った小石を並べて何かの形を作ろうとしている。カナリアは、その隣で、ぼんやりと空を見上げていた。
「……ねえ、カナリア」
「なに?」
「私、最近、ちょっとだけ、魔術の練習始めたの」
その言葉に、カナリアは驚いて視線を戻した。シルフィは、少し恥ずかしそうに、自分の手のひらを見つめている。
「本当に? どうして、急に」
「ルディが帰ってきた時に、少しでも成長してたって、思ってもらいたくて」
その答えに、カナリアは何も言えなかった。シルフィの真っ直ぐさは、変わらず彼女の胸を締め付ける。
「あとね……もう一つ。カナリアがいつも、その光る手のこと、気にしてるでしょ。私、それを見てから、ちょっとだけ、魔術のこと調べたの。村の図書室にあった、古い本で」
カナリアの心臓が、大きく跳ねた。
「治癒魔術って、本当は、すごく難しいものらしいの。詠唱もいるし、練習もたくさん必要で。でも、カナリアは、それを、詠唱もなしに、自然にできてる」
シルフィは、まっすぐにカナリアの目を見つめた。
「それって、すごいことなんじゃない?」
その問いに、カナリアは、どう答えればいいのか、わからなかった。すごいことだと言われるたびに、彼女の中では、警戒の鐘が鳴る。すごいと思われることは、期待されることと同義だ。そして期待は、いつか、重荷になる。
「……怖いよ、それ。すごいって言われるの」
思わず、本音がこぼれた。シルフィは、きょとんとした顔をした。
「怖い? どうして?」
「すごいって言われたら、みんな、私に何かを期待するようになる。そうしたら、私は、その期待に応えなきゃいけなくなる。応えられなかったら——」
カナリアは、そこで言葉を止めた。応えられなかったら、どうなるのか。前世の記憶が、ちらりと脳裏をよぎる。誰かの期待に応えられず、失望され、疎まれた、あの日々。
「私、期待されるのが、すごく怖いの」
シルフィは、しばらく黙って、カナリアの顔を見つめていた。それから、小石を一つ、カナリアの手のひらにそっと乗せた。
「じゃあ、私は、カナリアに何も期待しない」
「え……」
「カナリアが光る手を使えても、使えなくても、私はカナリアのことが好き。それは、変わらないよ」
その言葉に、カナリアの目の奥が、熱くなった。
——期待しない、という言葉が、こんなに温かいものだとは、思わなかった。
「……ありがとう、シルフィ」
その一言だけを、彼女はなんとか絞り出した。シルフィは、にっこりと笑って、また小石を並べ始めた。
その光景を見つめながら、カナリアは、初めて、自分の力について、少しだけ違う考えを持ち始めていた。
もしかしたら、この力は、誰かに期待されるためのものではなく、誰かを大切に思う気持ちの、延長線上にあるものなのかもしれない。
◆◆◆
その夜、カナリアは自室で、ロキシーのペンダントを握りしめながら、これまでのことを振り返っていた。
ルーデウスが連れ去られてから、もう二年近くが経つ。あの日の絶望的な朝を、まだ鮮明に覚えている。パウロの苦しげな顔。ゼニスの震える声。シルフィの悲しげな声。
あれから、時間は確かに流れた。シルフィは、ルーデウスの不在を抱えながらも、少しずつ、前を向き始めている。パウロも、自分の選択に葛藤しながらも、家族との時間を、以前より大切にするようになった。
そして、カナリア自身も——
右手を見つめる。もう、この手を完全に恐れているわけではなかった。まだ、期待されることへの恐怖は消えていない。でも、シルフィの言葉が、その恐怖に、小さな隙間を作ってくれた気がした。
「……もう、ルーデウスが帰ってくるの、あと三年か」
声に出して呟くと、その時間の長さに、少しだけ気が遠くなった。三年後、ルーデウスが帰ってきた時、この屋敷は、どんな景色になっているだろうか。シルフィは、どんな顔で彼を迎えるだろうか。
その未来を想像しながら、カナリアは、ゆっくりと目を閉じた。
◆◆◆
それから、さらに季節が巡った。
カナリアの生活は、以前より少しだけ穏やかなものになっていた。シルフィとの時間は変わらず続き、パウロとの模擬戦も、時折続けられていた。ゼニスは、変わらず優しく、リーリャは、相変わらず無表情のまま、静かに気を配ってくれていた。
だが、その穏やかさの底に、一つだけ、消えない不安があった。
分家からの手紙は、その後も何度か届いた。文面は、回を重ねるごとに、少しずつ切迫感を増していった。『本家での評判はどうか』『ミリアの薬代が、また嵩んできている』——その一文を読んだ日、カナリアは、拳を強く握りしめた。母のことを引き合いに出されると、彼女は、どうしても心を揺らされてしまう。
そんな中、その日は、いつもと変わらない一日のはずだった。
昼下がり、シルフィは、いつもの道を歩いて屋敷にやってきた。二人は大樹の下で、いつものように他愛のない話をしていた。空はやけに晴れ渡っていて、風もなく、静かな午後だった。
「あ、そういえば、来月、村のお祭りがあるんだって。一緒に行こうよ」
「うん、楽しみだね」
カナリアが答えた、その時だった。
シルフィが何かを言いかけて——
視界が、突然、真っ白に染まった。