無職転生 ~異世界行ったらニート目指す~ 作:めーぷるん
——お祭り、一緒に。
シルフィの声が、そこで途切れていた。何を言おうとしていたのか、その続きを、カナリアは聞くことができなかった。
目を覚ますと、そこは知らない場所だった。
視界に映るのは、鬱蒼と重なり合う木々の緑。頭上を覆う枝葉が、陽の光をほんの一筋だけ地面に落としている。全身が痛い。土と草の匂いが、鼻の奥にべったりと張り付いている。
カナリアは、しばらくの間、状況を理解できなかった。ついさっきまで、大樹の下にいたはずだ。シルフィと——
——シルフィ!
弾かれるように上体を起こすと、頭の奥で鈍い痛みが弾けた。「っ……」思わず呻いて、額を押さえる。手のひらに触れた自分の頭が、やけに他人のもののように感じられた。
周囲を見渡す。木々。木々。木々。見たこともない形の葉。聞いたこともない鳥の声——いや、鳥だろうか。もっと低く、獣に近い声も混じっている。
ここは、どこだ。
あの光。あれは何だったのか。大樹の下に突然広がった、目も眩むほどの光。シルフィが何かを言いかけて、その声が途中で途切れて。そこから、記憶が唐突に飛んでいる。
カナリアは震える両手を見下ろした。指先は無事だった。服も破れていない。ただ、体中が土と泥で汚れている。
なぜ、こんなことになったのか、わからなかった。ただ一つ確かなのは、今、この場に自分以外の誰もいないという事実だけだった。
◆◆◆
カナリアは、立ち上がって歩き始めた。他にできることがなかった。
森は深く、視界が悪い。太陽の位置すらろくにわからない。方向感覚は、あっという間に失われていった。喉が渇いていることに気づいたのは、歩き始めてしばらく経ってからだった。
水の匂いを探す。前世の記憶にあった、サバイバル知識の断片を頼りに、地面の傾斜を見て、低い方へ、低い方へと足を進める。幸い、小さな川を見つけることができた。冷たい水を掬って口にすると、少しだけ、頭がはっきりした。
しかし、その安堵も長くは続かなかった。
水を飲んだ後、彼女は改めて自分の状況を数えてみた。食料はない。火を起こす手段もない。着ているものは、屋敷で着ていた普段着一枚だけ。夜になれば、この森の気温がどうなるか、想像するだけで背筋が冷えた。
——五箇条。
思わず、心の中でそれを数えようとした。一、目立たない。二、期待されない。三、誰も助けない。四、誰にも関わらない。五、自分の力を絶対に使わない。
その瞬間、彼女は自分の五箇条が、この状況において何の意味も持たないことに気づいた。
目立たないようにしたところで、誰もいない。期待されないようにしたところで、誰も期待していない。誰も助けない、誰にも関わらない——関わる対象すら、ここには存在しない。
自分を守るために築いてきたルールが、この森の中では、ただの空虚な言葉の連なりになっていた。
「……なんだ、これ」
乾いた笑いが漏れた。ずっと信じてきた自分の指針が、この状況に対して何の役にも立たない。それがひどく滑稽で、同時に、恐ろしかった。
◆◆◆
日が傾き始めると、森の空気が一変した。
鳥の声が消え、代わりに、聞いたこともない獣の唸り声のようなものが、遠くから断続的に響き始めた。カナリアは大きな木の根元に体を寄せ、両膝を抱えて丸くなった。
寒い。着ているものが薄すぎる。体の震えが止まらない。それは寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、もう自分でもわからなかった。
夜が深まるにつれ、唸り声はより近くなっていくように感じられた。目を閉じても眠れない。目を開けていても何も見えない。ただ、闇の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
——このまま、ここで死ぬのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、右手が、ぼんやりと熱を持った。カナリアは驚いて自分の手を見つめる。淡い金色の光が、手のひらの中でかすかに揺れていた。
誰も傷ついていない。誰も助けを求めていない。なのに、この光は。
——これは、私自身を、治そうとしているのかもしれない。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。この力は、いつも他人のために疼いていた。母のために。シルフィのために。でも今、それは初めて、彼女自身のために疼いている。誰かに向けるためではなく、自分の限界を、自分の力そのものが察知している。
その事実が、なぜか、ひどく寂しかった。
右手をぎゅっと握りしめると、ロキシーからもらったペンダントの感触が指に触れた。屋敷を出る時、ずっと肌身離さず身につけていたものだ。カナリアはそれを取り出し、両手で包み込むように握った。冷たい金属の感触が、少しだけ、彼女を現実に繋ぎとめてくれた。
——あなたの魔力は、きっと誰かを救うためのもの。
ロキシーの言葉が、頭の中で静かに響く。誰かを救うため。でも、今、私を救ってくれる人は、どこにもいない。
シルフィの、あの日の笑顔が浮かぶ。指切りをした、小さな約束。また明日会えると、無邪気に信じていたあの日。あの日から、もう二年近くが経っていた。それだけの時間を積み重ねて、それでも、あの続きの言葉を、聞くことができなかった。
——また、明日も話せる?
あの言葉が、今はひどく遠い場所にあるように感じられた。
カナリアは、膝に顔を埋めた。声を出さずに泣いた。誰にも見られていないとわかっていても、泣き声を漏らすことすら、恐ろしかった。
◆◆◆
どれほどの時間が経ったのか、わからなかった。うとうとと浅い眠りに落ちては、獣の声に驚いて覚醒する。その繰り返しの中で、いつの間にか夜が明けていた。
体は限界に近かった。空腹感はもはや痛みに変わり、喉はまた渇いていた。立ち上がろうとした膝が、がくがくと震える。
そんな時だった。
「……おい、そこ」
声がした。人の声。カナリアは弾かれたように顔を上げた。
木々の間から、一人の男が姿を現した。日に焼けた肌、無精髭、擦り切れた革の軽装。腰に短剣を帯びている。年の頃は三十代半ばくらいだろうか。冒険者風の身なりをしていて、疲れ切った顔をしているものの、明確な敵意は感じられなかった。
「お前、まさか一人か……?」
「……はい」
カナリアは、声を出すのがやっとだった。男は、あたりを見回して他に誰もいないことを確認すると、少しだけ肩を落とした。
「マジか。俺も、似たようなもんだ」
「同じ……?」
「気づいたら、この森にいた。それだけだ。何が起きたのか、俺にもさっぱりわからねえ。ついこの間まで、依頼で森の外れを歩いてたはずなんだが」
男は、まだ状況を掴みきれていないのか、周囲を見回しながら、そう言った。カナリアは、その言葉を聞きながら、少しだけ体の緊張が緩むのを感じた。少なくとも、自分だけが理解不能な状況に置かれているわけではない。同じ理不尽に遭った人間が、他にもいる。
「お前、名前は?」
「……カナリア、です」
「カナリアか。俺はダグだ。とりあえず、一人よりは二人の方がマシだ。何が起きたにせよ、まずは、生き延びる方法を考えよう」
その提案に、カナリアは一瞬、迷った。四、誰にも関わらない。頭の中で、五箇条が微かに響く。でも、今の状況で、それを頑なに守ることに、どれほどの意味があるだろうか。
「……お願いします」
彼女は、震える声でそう答えた。
◆◆◆
ダグは、思っていたよりも頼りになった。彼は簡易的な火の起こし方を知っていて、乾いた枝を集めて焚き火を作った。持っていた干し肉を、無言でカナリアに手渡してくれる。
「食え。腹が減ってるだろ」
カナリアは震える手でそれを受け取り、口に運んだ。硬く、味も薄かったが、それでも涙が出そうになるほど美味しく感じられた。
「……ありがとうございます」
「別に、礼を言うことじゃねえ。子供が飢えてるのを見て、放っておけるわけがねえだろ」
ダグはそう言って、焚き火の向こうで小さく笑った。その笑顔には、疲労の色が濃く滲んでいたが、悪意めいたものは感じられなかった。
「俺にも、お前くらいの娘がいるんだよ」
その一言に、カナリアは思わず顔を上げた。
「娘……」
「ああ。故郷に置いてきちまった。こんなことになるとは思わずにな。早く帰らねえと、あいつまだ小さいのに、俺がいないと母親も大変だろうよ」
ダグは焚き火の炎をじっと見つめながら、そう呟いた。その横顔には、家族への思いが確かに滲んでいた。カナリアは、その言葉を聞いて、少しだけ彼への警戒が緩むのを感じた。
——この人にも、守りたいものがあるんだ。
その夜、二人は交代で見張りをしながら、なんとか一晩を乗り越えた。翌朝、ダグは地図らしきものを取り出し、方角を確認していた。
「この森を抜けりゃ、人里があるはずだ。俺の記憶が正しけりゃな」
「本当ですか」
「まあ、行ってみりゃわかる。とりあえず、一緒に来い」
カナリアは、その言葉に頷いた。少しずつ、彼への信頼が積み重なっていくのを感じていた。彼は決して優しい言葉ばかりをかけてくれる人物ではなかったが、その粗野な態度の中に、確かな責任感のようなものが見えた。
◆◆◆
二日目の昼、道中で小さな事故が起きた。ダグが足場の悪い岩場で足を滑らせ、足首を強く捻ったのだ。
「くそ、っ……」
彼はうずくまり、痛みに顔をしかめた。カナリアは、とっさに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「……いや、これは、まずいな。腫れてきてる」
彼の足首を見ると、確かに赤く腫れ上がっていた。この状態で歩き続けるのは難しいだろう。カナリアは、迷いながらも、右手をそっと差し出した。
「私、多分、これ、治せます」
「……は?」
「治癒の魔術、みたいなものです。詠唱もいらないみたいで」
彼女は正直に答えた。既に隠しきれないほどの状況だったし、この人には、少しくらい正直でいてもいいだろうと思ったのだ。
ダグの表情には、驚きが浮かんでいた。しかし、その驚きの中に、一瞬だけ、別の色が混じったのを、カナリアは見逃さなかった。
値踏みするような、何かを計算するような、そういう色だった。
しかし、それはすぐに消え、彼はいつもの粗野な笑顔を浮かべた。
「すげえな、お前。まさか、こんな小さい子が、治癒魔術を無詠唱で使えるとは」
「……あの、あまり、他の人には言わないでほしいです」
「わかってるよ。誰が言うかよ、こんな場所で」
その言葉に、カナリアは少しだけ安堵した。しかし、心の奥のどこかで、小さな違和感が消えずに残っていた。
◆◆◆
三日目、二人は森の出口が近いことを示す、開けた場所に差し掛かった。木々の密度が薄くなり、遠くに岩山らしきものが見えている。
「もうすぐだ。あの岩山を越えりゃ、確か人が住んでる場所があったはずだ」
ダグの声には、明らかな安堵があった。カナリアも、少しだけ気が緩んだ。もう少し頑張れば、この地獄のような日々から抜け出せるかもしれない。
その時だった。
低い唸り声が、開けた場所の向こうから響いた。木々の間から、大きな影が姿を現す。牙を剥き、四肢に鋭い爪を持つ、見たこともない獣——魔物だった。体長は、カナリアの身長の二倍近くあるだろうか。
「まずい……!」
ダグが表情を凍らせた。彼は短剣を構えたが、その手が微かに震えているのが見えた。
「あの手の魔物は、俺一人じゃ荷が重い。厄介だ……」
魔物が地面を蹴り、こちらへ向かって走り出した。カナリアは咄嗟に後ずさったが、逃げ切れる速度ではないことは、直感的にわかった。
「カナリア、お前、あの光る手、あれで何か——」
「私、攻撃なんてできません!」
「くそ、そうか。じゃあ——」
ダグの目が、一瞬だけ、カナリアと魔物を交互に見た。その視線に、彼女は寒気を覚えた。
「あの岩の隙間に隠れてろ! 俺が引き受ける!」
「え……?」
ダグはそう言うと、カナリアの肩を強く押した。彼女は転がるように、近くの岩の隙間に身を潜める。そこから見えたのは、ダグが短剣を構えて魔物と対峙する姿だった。
しかし、その対峙は、長くは続かなかった。
数度の刃を交わした後、ダグは魔物の一撃を受けて後方に吹き飛ばされた。彼は倒れたまま、しばらく起き上がらなかった。魔物が、次の標的として、岩の隙間に隠れるカナリアの方へ、ゆっくりと向きを変える。
その時、ダグが呻きながら顔を上げた。彼の目に、カナリアと魔物が同時に映っていた。
「……すまねえ」
その一言だけを残して、ダグは体を起こすと、痛む足を引きながら、逆方向へと走り出した。
カナリアは、その背中を見つめた。魔物は一瞬、ダグの動きに気を取られたが、すぐにまた、岩の隙間の方へと視線を戻した。
——見捨てられた。
その理解が、頭の中で冷たく響いた。ダグの「すまねえ」という一言。あれは、罪悪感を抱いたまま逃げる人間の言葉だった。悪意ではなかった。ただ、彼にも、帰らなければならない場所があったのだ。守りたい家族がいたのだ。それでも——それでも、彼は、この状況で、カナリアを囮にして、自分だけ逃げた。
魔物が唸り声を上げ、岩の隙間に爪を伸ばしてくる。カナリアは身を縮め、必死にその狭い空間の奥へと逃げ込んだ。爪が岩を削る音が、耳元で響く。
——死ぬ。ここで、死ぬ。
その考えが浮かんだ瞬間、右手が、これまでとは違う強さで発光した。今度は、明確な意思を持って。彼女は無意識に、その光を魔物の顔に向けて放った。眩い光に、魔物が一瞬、たじろぐ。
その隙を、カナリアは見逃さなかった。彼女は岩の隙間から飛び出し、無我夢中で走った。方向も何も考えず、ただ、その場から離れることだけを考えて。
どれほど走ったのか、わからない。やがて、足がもつれ、彼女はその場に倒れ込んだ。
◆◆◆
息を切らしながら、カナリアは倒れたまま、空を見上げていた。
魔物の唸り声は、もう聞こえない。振り切れたのか、それとも、まだ追ってきているのか、わからない。ただ、体力の限界が、彼女をその場に縫い付けていた。
——独りだ。
その事実が、これまでの孤独とは違う重さで、彼女に迫ってきた。
最初に転移で独りになった時は、単純な孤独だった。誰もいない、という事実だけだった。しかし今は、違う。一度、頼れると思った人間に、裏切られた。信頼した相手に、囮にされた。
その重さが、単純な孤独よりも、遥かに深く、彼女の胸を刺していた。
——あの人にも、娘がいたんだ。
その事実を思い出すと、憎むことすらできなかった。ダグは、悪人ではなかった。ただ、彼にも守りたいものがあり、その天秤が、カナリアよりも自分の家族に傾いただけだった。
それが、余計に辛かった。単純な悪意なら、まだ憎むことができた。でも、これは、生き延びるために誰もがしてしまうかもしれない、そういう選択だった。
カナリアは、震える手でロキシーのペンダントを握りしめた。冷たい金属の感触。それだけが、今の彼女を、かろうじて繋ぎとめていた。
——シルフィ。ゼニスさん。ルーデウス。ロキシー先生。
脳裏に浮かぶ、屋敷での温かい日々。あの日々は、今、あまりにも遠かった。
「……また、独りだ」
声に出したその言葉は、掠れて、ほとんど風に消えていった。
どれほどの時間、そこに倒れていたのか、わからない。やがて、遠くから、何かの足音が聞こえた気がした。カナリアは、意識が薄れる中で、それが救いなのか、新たな危機なのか、判断する力すら残っていなかった。
ただ、その足音が近づいてくるのを、彼女は、ぼんやりと聞いていた。