誕生日プレゼントで父さんから貰った模擬剣の革鞘。ベルトがしっかりときつく締められているかを確認して、まだ少し大きくて背負うには難しいそれを胸に抱いて小走りに屋敷を駆け回る。
「……? めずらしい。 父さんの執務室に母さんがいるなんて」
邪魔しちゃいけないと思って、部屋の外で会話が終わるのを待つ。僕の背に伝わる石でできた扉の、無機質な冷たさ。
扉一つ隔てて、その先で僕の両親は口論をしていた。音が弦に伝わるように、声もまた扉を震わせて僕の背に質感を伴わせていた。
今日は珍しく家庭教師に早く授業を終えてもらえたんだ。いつも真面目なつもりでいるけど、とりわけ良くできた自覚があった。
だから、現役十二騎士である父さんに剣の手ほどきをしてもらいたかった。執務で忙しそうにしている父さんとの数少ない接点、いっぱい話したいことがあったんだ。…………なのに。
「どうしてあの子に野蛮な剣術など教えるの!?」
「野蛮だと? 代々受け継がれてきたジェレミアの剣術を野蛮と評したのか、お前は!」
「ええ、確かに野蛮と言いました! あの子の綺麗な顔に傷でもついたら……社交界で居場所が無くなってしまうじゃない!騎士としての才しかないあなたはデュオニスの教育に首を突っ込まないでくださる!?」
「なんっ……お前はいつもそうだ! お前を嫁に貰ったのは誰だと思っている!? 貰い手のいなかったお前など、私が娶らなければ今頃一家路頭に迷っていたというのに!」
「……っ、最低!!」
乾いた破裂音が一つ響いて、ハイヒールからなる規則的なリズムが扉の奥にある部屋から遠のいていく。
……二人は家族じゃないのかい?どうしてそうも酷い言葉で相手をなじることができるの?僕という存在は、二人の愛の下に育まれたものではなかったの?
二人ともやめてよと、扉を開けて仲裁に入ることはできなかった。争っている中心には僕がいて、僕が原因だから、僕が何を言っても無駄だと思った。
晩餐の時、僕は二人が言い争っていたことなど露も知らないフリをした。ジェレミア家が抱えるシェフの、渾身の出来栄えだろうブイヨンのスープは、心なしか塩味が強すぎるような気がした。
母さんは僕に対して過保護だった。それは子煩悩から来るものではなく、僕の容姿が母さんに似ていたからだ。
母さんは、僕のことを自らの写し鏡だと捉えて接している。ケリュドアナの社交界で立場の無かった彼女は、僕を使って見返してやりたいのだろう。
「デュオニス、どうかあなただけは私を裏切らないでね」
母さんが僕を寝かしつける時、呪詛のように毎度吐くその一言が、僕には耳にこびりついて嫌な音色を奏でているようで気持ちが悪かった。
僕の居場所はこの家になかった。枕を濡らして孤独感に苛まれながら、僕は背を丸めて肌触りのいいシーツを強く皺ができるくらい握りしめて眠りについた。
居場所が無いのは外でも同じだった。僕は僕の意志に関わらず人の好感を得てしまうようで、それを好く思わない同年代の子どもたちから、よく「お話」と題して学び舎の裏手に連れ出されていた。
「……うぐっ! ……僕、君たちになにか嫌なことをしたかなぁ」
「ああ、されたね。俺らは性悪なお前の根っこを正してやってるだけだってのに、いつだって教室内じゃ女連中から悪者扱いされてやがる!」
「どうせこの後お得意のおべっかでも使って女どもの気を引くんだろ?いいよなぁ、見目麗しい王子様は味方がいっぱいいて!」
「……僕は彼女たちに味方になってなんて一言もしゃべったことなんてないよ。それに、騎士たるもの、かっこ悪いおべっかなんか使うわけないじゃないか」
「あ゛〜〜……!! うぜェんだよ、そうやっていつもいつもォ……!!」
彼らは少しだけ知恵が回るようで、目に付きやすいところに痣を作ることはなかった。決まって服の下に隠れるところ……腕の付け根や腹の周りを重点的に殴って、溜まりに溜まった憂さ晴らしをしていた。
「……っぷは。はぁっ、はぁっ……」
彼らとの楽しい「お話」を終えて、鼻血と発汗でベタついた身体を学び舎の外れにある小さな池で拭っていると、いつも狙いすましたように特定の女の子たちが身を隠して待ち伏せをしていた。
「デュオニスくん、だいじょうぶ?」
「その鼻血、いたそう……」
心配そうに、いつもの定型文。本当は僕のことなんて心配しちゃいなくて、見てくれのいい僕にどう色目を使えばいいか、それだけを突き詰めて捻り出した打算ありきのコンタクト。
この子たちは僕が学友に暴力を振るわれていることを知っていて、しかし僕のこの状況が吊り橋効果的であるから見逃している。本当に心配なら、さっき僕が呼び出された時点で誰でもいいから大人を呼んできているはずだ。
僕の中で、女性というものは醜い生きものだという観念が固定されていくのを感じる。今すぐにでも彼女を突き飛ばして、どこかに行ってくれと叫びたい気分だ。
心の中に堆積していく彼女たちへの侮蔑が、彼女たちの可憐なはずの容姿を醜い豚のようなシルエットに変換させていく。僕には、彼女たちが同じ人には見えなかった。
「……ううん。少し運動していたら転んじゃって。僕ってば鈍臭くって、毎回転んでばっかりなんだ、笑っちゃうよね」
基本的な学術は家庭教師との授業で押さえられている。なら、一見行く意味のないように思える学び舎に、僕が行く理由は?
これは母さんの方針だ。彼女は僕を貴族どうしのネットワークに放り投げて、上手く社交界を操ろうとしている。
つまり「お話」上手な彼らも、幼くして色の付け方をしっている彼女らも……全員はケリュドアナの政治のどれかに密接しているお金持ちの出身ということ。
「習慣的な運動を心がけているの? デュオニスくんったら、真面目なのね!」
「それなら、私たちも参加してもいい? コルセットが上手く締まらなくって……」
「あはは。一端の淑女がそういった下世話な話題を殿方にするのは良くないよ。……悪いけど、一人でまったりと身体を動かしたいんだ。またの機会があったらお誘いするよ」
僕はここで荒事を立ててはいけない。母さんの耳に届いて、あらゆる問題が発覚しようものなら……ちっぽけな僕じゃどうにもならない事が起こるだろうというのは容易に想像ができた。
故に、僕は外にも本心を晒け出せる居場所はなかった。孤独に、けれど着実に。嘘をついてその場をやり過ごすことの技術だけは上手くなっていった。
数年が経過して、僕に学術院で何を学ぶかという学問選択の時期が訪れた。それまでに僕は母さんの理想とするデュオニス・ジェレミアを完璧に演じきっていたから、婉曲的に彼女が誘導したのは社会科学、主にケリュドアナ領民に関する問題を扱う公民分野の学問であった。
一方で僕の本心はどこにあったかというと、未だに武術を修め十二騎士らしい振る舞いをしたいという望みを捨てきれていなかった。資本だけはある父さんは、これ以上母さんとの関係悪化を防ぐため単身ジェレミア領の別荘に移り住んで久しく、長らく会話をする機会がなかった。
ただ、僕の内的性質は今でも父さんに近しいところにあると思っているし、こうして十分な年月を母さんの近くにいるからこそ、かつての父さんの主義主張に何ら不当性が無かったことをひしひしと実感していた。だから、本当に父さんのようになりたかった。
残念ながら、自己認知というのはアテにならない。実際の僕の内的性質は母さんに近しいものに変容していた。客観的に見て、僕はその話術の巧みさで人を操るのに長けているようだ。
毎朝清水で顔を洗うたび、ご対面することになる僕の容姿。反吐が出る。害意の無いような垂れた目尻に、整った鼻筋。リップクリームでも塗りたくったかのように艶を見せる唇。母さんが眉を顰める武術から身を遠のいて、傷一つ無く保たれている白い素肌。
ああ、恐ろしいことに僕は自らのこの美しさを刃とする化け物になってしまった。この容姿の前で、言うことを聞かない淑女はいない。彼女たちの人間的情報網は幾重にも張り巡らされていて、その一つ一つに引っかかる話題を僕はつまみ食いするだけでいい。
それで、母さんが気に食わない貴族がいれば僕が少し悲しげに瞳を瞑って彼女たちに「お願い」をするだけ。いとも簡単に、ケリュドアナの内部は好き勝手に弄ることができる。
「────これが、僕の理想した十二騎士としての在り方?」
いっそ爪を立ててこの瞳を抉り取ってしまえば楽だろうか。他者からどれだけ麗しいと言われようが、見えぬ限りは確かめようがなくなるだろう。
瞳まで含めて僕の容姿だ。どれほど美しい絵画も傷がつけば見向きもされなくなるように、僕も壊れ物になればこの腐りきった役割から解放されるのだろうか?
「……『母さんが怖いから』。
また僕は反抗できない。裏切ることができない」
微かに残っている愛国心が消え去ってしまう前に、僕は霞になって死んでしまいたかった。誰かのせいにもまともにできない僕の内側はもう、壊れているのだろうな。
学術院に通うまでの路は、唯一僕がありのままの僕として解放され、邪魔の及ばない聖域だった。母さんにも知られていない、わざとギリギリに到着するように遠回りをするようにした、僕だけの路。
人と関わるのは嫌いだ。彼ら彼女らの顔に滲む欲を察して、それを叶えてあげられるだけの甘い言葉を投げかけてあげられてしまうから、どうしたって僕と彼ら彼女らの間にある関係は純粋なものではなくなる。
けれど、遠くから眺める人の営みの美しさは好きだ。産まれたばかりの赤子におくるみを巻いて、陽の射し込む広場の踊り場で、慈しみの笑みを湛えているまだ若い母親を見ると、人間の神聖のなんたるかに触れた気分になる。
石灰岩の柱の、指に粉っぽさの残る感触。朝早くから肉の仕込みをしているのか、保護のために塗った樹脂が鼻につく木箱の積み上がる音。大衆酒場は昨夜まで繁盛していたのかな、今はしんと静まり返って穏やかだ。
何度も足を運んで、そろそろ変化も乏しくなってきたケリュドアナの生活の息遣いに、ふと知らない音が混じった。それは、独特なテンポで地から離れる裸足からなるものだった。
「……ふっ、ふっ。 ちがう、こうじゃない……もっと、かろやかに……」
それは一つの浮世絵のような美しさだった。彼女が腕をしなやかに振る度、彼女の背景として映るケリュドアナとの調和は何度もその色を変えていくようだった。
洗練された踊り。一つだけを突き詰めた者にしか表現できないもの。なのに、彼女の表情はとても苦しそうで痛々しかった。その理由を、知りたいと思う自分がいた。
「────お嬢さん。少し休まないと、足の皮が剥がれてしまって、血が流れてしまうよ」
声をかけるつもりはなかった。下手に関わって、僕の容姿が彼女の純粋な美しさに余計な差し色を加え、汚してしまうのが嫌だった。頭より先に動いた口から出た言葉に理解が追いついてから、しまったと慌てて手を使って塞ぐ。
「……なに? 見世物じゃないんだけど。 アタシの舞の練習を邪魔するつもりならどっか行って!」
きっ、と強く睨まれて僕は驚愕した。彼女の瞳に、僕という存在は1ミリも写し出されていなかったから。この呪いのような容姿なんかよりも、彼女はよっぽど大事な何かがあって……それは揺るぎなく、彼女の強い意志の礎になっていた。
「……そうだよね。人に見られてちゃ、緊張して練習するものもできないよね。でも、これだけはさせてくれないか」
正直、嬉しかった。僕という存在を歪めずに見つめてくれたのは、彼女が初めてだった。だから、二度と関わることはないだろうなと思いながらも感謝を伝えたくて、赤ぎれを起こしかけている彼女の足に応急処置を施した。
「……よし! 君の両足に気休めの布を巻いた。これなら、皮が剥がれることもなく踊り続けることができるよ。 でも、気休めだから程々にね?」
「……ありがと。 アンタ、名前は?」
「僕? ……ただのデュオニス。ちょっとだけ勉強ができるから、学術院に入ることが許されてる……どこにでもいる一般人さ」
彼女の瞳は、これほど近くても色情に揺れたりなどしていない。けれど僕は怖気付いた。怖かったんだ。ジェレミアの名前を出して、彼女の態度が豹変してしまったらどうしようって。
「へぇ。あったまいいのねぇ……って、アンタだけ名乗ってアタシは名乗らないってのは失礼よね。アタシはルシーラ。踊ることしか能が無いのに、なっぜかペルセイア家に拾われて……性に合わない貴族の仲間入りをしちゃったルシーラよ」
「……あの、ペルセイア?」
「そう。よりにもよってあの完璧超人、ラウラ・ペルセイアのいるペルセイア。……嫌になるわよねぇ? 礼儀作法に食事の仕方。 口調も矯正されるし、たまったもんじゃないわ」
口に出るのは不平不満ばかりだった。なのに、どうにもその温かな微笑みとは一致しない。踏み込んでいいのか、僕は指と指の間を所在なげに撫でながら悩んでいた。
「気になることがあるって顔に書いてあるわよ。分かりやすいわねぇ、アンタ。露店で変なもの売りつけられたりしてないでしょうね?」
「えっ!? そ、そんなに僕の顔に出ていたかなっ……?」
「そりゃあもう、ありありと浮かんでたわ。どうしてそんな不満ばっかなのに、ちょっと楽しそうなの〜?ってね!」
僕は上手く取り繕って、淑女の前では心を殺しきれていたと思っていた。それが、こんな初めて会った女の子には通用しないなんて。
僕の慌てように意地悪に笑うルシーラは、お淑やかに笑う貴族の彼女たちみたいな作られたものではなかった。血液の通った、本当の笑顔で。
「────アタシはねぇ! このケリュドアナがとーっても大嫌いで、それと同じくらいケリュドアナがとーっても大好きなの!」
手を伸ばして、後ろに並び立つケリュドアナの街並みを宝物みたいに紹介するルシーラ。鳥たちの囀りが、人々の生活のはじまりを告げている。
「アタシはこのケリュドアナに証を刻んでやるつもりなの。ここにはアタシと、アタシの愛した人たちが生きていたっていう証拠を」
彼女のその言葉は、耳に入らなかった。心臓がやけに高鳴ってうるさくて、それどころじゃなかったから。
僕は恋をした。嫌いになっても、好きになっていいと教えてくれたルシーラに。
それから、あの美しい活力に満ちていた彼女が社交界で萎びているのを見かけるまでに、一年の歳月もいらなかった。
メンタルやられてるときにさ、すっげぇ光にあてられると綺麗なくらいに歪むよね
この現象を「長年推していた国民的アイドルが解散してロスってた矢先、友達に紹介された地下アイドルのライブにたまたまお邪魔したら見事沼った」と同じものと見なします