淫紋の魔法少女 〜お姫様は、お姫様に永遠を誓う〜 作:目玉焼きトースト
朝だった。
カーテンの隙間から射す光が、詩織の瞼を刺した。身体を起こす。胸の淫紋が、寝ているあいだも脈打ちつづけていた。四枚の花弁が皮膚の下で熱を持っている。内臓のように、生々しく。
鏡を見る。寝乱れた髪。青ざめた肌。目の下の隈は昨日より濃くなっている。制服に着替え、リボンを結ぶ指は今日も正確だ。ボタンを嵌め、スカートの皺を伸ばし、カーディガンに袖を通す。小夜が貸してくれたものだ。袖を通した瞬間、胸の淫紋が──
動かなかった。
いつもなら微かに疼いた。小夜の匂いに反応して、花弁が熱を帯びた。でも、今朝は違う。淫紋は熱いままなのに、小夜の匂いには何も感じない。
──慣れてきている。
詩織は鏡の中の自分を見つめた。小夜の匂いにすら、身体が反応しなくなってきている。感情だけじゃない。身体の記憶さえも、少しずつ薄れていく。その事実が、詩織の胸に冷たく積もった。失ったことを悲しむ心はない。でも、失ったことに気づく頭はある。気づいても何も感じない自分が、鏡の向こうで無表情に立っている。
──あたしは、少しずつ、すべてを失っていく。
それでも、詩織はカーディガンを脱がなかった。小夜の匂いがしなくても、これを着ていることは、約束を覚えている証だった。
◆◆◆
リビングの扉を開けると、三人がすでに朝食をとっていた。
「おはよう、詩織」
小夜が微笑む。今日も聖女の仮面。銀の長い髪が朝日に透けて輝いている。でも、その目は相変わらず赤く腫れていて、詩織を見る視線が一瞬だけ揺れた。詩織は「おはよう」と短く返し、席につく。小夜の声を聞いた耳の奥は、もう痺れなかった。
隣の美影が、無言で紅茶を差し出す。肩口で切り揃えた黒髪。前髪は眉の上で水平に切りそろえられている。切れ長の黒い瞳は正面を見据えたまま微動だにしない。でも詩織にはわかった。組まれた指の関節が白くなっている。引き締まった身体が、制服の下で強張っていた。美影は怒っているのだ。詩織が一人で突っ込んだことに。でもそれを口に出せないことに、もっと怒っている。
「……主君。昨夜は、あまり眠れなかったのでは」
「ちょっと寝つきが悪かっただけ。平気」
「そうですか」
美影はそれ以上何も言わない。けれどその目は、詩織の顔色を、呼吸のリズムを、紅茶を持つ指先のわずかな震えを、すべて見逃さずにいた。詩織を守ると誓われた騎士は、今日も詩織を見つめている。応えられない主君を、それでも見つめ続けている。
──あたしは、美影に何も返せない。それなのに、美影はあたしから離れない。これが支配だとしたら、あたしは──。
「詩織ー、朝から暗い顔してると皺になるよー」
ゆらがトーストを齧りながら言った。明るい茶色のボブカットの毛先が跳ね、金色の大きな瞳が詩織を見つめている。ゆらが近づくと、詩織の淫紋がかすかに反応した。小夜のときとは違う、もっとくすぐったいような疼き。詩織はその理由をまだ知らなかったが、ゆらは知っていた。自分の淫魔の血が、詩織の淫紋と微かに共鳴していることを。
「……皺になったら、ゆらのせいだ」
「あ、ひどーい。美影、詩織がいじめるー」
「……ゆら。主君は寝不足だ。あまり絡むな」
「はーい」
ゆらは軽く返事をして、トーストの最後の一片を口に放り込んだ。その仕草も、声も、いつも通りだ。でも詩織は知っている。ゆらが小夜を見る目が、ほんの一瞬だけ熱を帯びることを。詩織のカーディガンが小夜のものだと気づいたとき、ゆらが窓の外を向くことを。
──みんな、知っている。
詩織が変わったことを。何かを失ったことを。でも誰も、口に出さない。この四人でいるために、見ないふりをしている。
その優しさが、いまの詩織には、ありがたかった。ありがたいと、頭では思う。なのに、胸は動かない。
──あたしは、みんなの優しさに、何も返せない。
◆◆◆
朝食が終わる頃、美影の通信機が鳴った。
特務衛生省からの緊急任務。市街地の地下街に新種の《悦楽の使徒》が出現した。通常より大型で、穢れの放出量が桁違い。すでに一般人は避難済みだが、放置すれば地上への汚染も時間の問題だという。
「詩織と美影のペアで出動。小夜は別任務。ゆらは後方待機──だそうです」
美影が淡々と報告する。運転席の管理官が、ルームミラー越しに詩織たちを一瞥した。「次の任務は明朝に通達する。それまでに穢れを抜いておけ」。穢れを抜いておけ。まるで機械のメンテナンスのような言い草だった。でも詩織は、もう慣れていた。美影も、ゆらも、小夜も。誰も反論しない。反論したところで、何も変わらないのを知っているから。
詩織は立ち上がった。
「わかった。行こう、美影」
「はい」
「気をつけてね、二人とも」
小夜の声が背中にかかる。詩織は振り返らなかった。振り返ったら、小夜の顔を見てしまう。小夜の顔を見たら、何も感じない自分を、もう一度思い知らされる。
──ごめん、小夜。
心の中で呟く。でも、その謝罪にも、熱はなかった。
◆◆◆
地下街は、静寂に沈んでいた。
避難完了を示すランプが非常口の上で緑に点滅している。人気のない通路を、詩織と美影は並んで進んだ。美影はすでに鋼鉄化を発動している。全身が鈍い銀色に輝き、一歩踏み出すたびに床がかすかに震えた。
「主君。今回の任務は、私が前衛を務めます。主君は後方から紅鎖での支援を」
「……私が前衛でもいい」
「いいえ」
美影は立ち止まり、詩織の顔をまっすぐ見た。
「先日の戦闘で、主君はまだ本調子ではない。それに──」
言葉が切れる。美影は一瞬息を呑み、それから、決意を固めたように言った。
「主君は、いま、何かをお失いになっている。私は、それを承知の上で進言します。どうか、私に盾を務めさせてほしい」
詩織は驚いて美影を見返した。
美影は気づいていた。詩織の感情の欠落に。誰よりも言葉少なで、誰よりも詩織を観察しているこの騎士は、詩織の変化を正確に捉えていたのだ。
「……美影。あたしが何を失ったか、わかるのか」
「いいえ。でも、あなたが苦しんでいることはわかります。それだけで、私には十分です」
美影の声は、鋼鉄の身体に似合わず、ひどく優しかった。
「私は、あなたの盾です。あなたが何を失おうと、その事実は変わりません」
詩織はしばらく美影を見つめ、それから、小さく息を吐いた。
「……わかった。頼む、美影」
「はい」
美影は深く頷き、前を向いた。その目に、忠誠と、それとは別の熱が一瞬宿ったのを、詩織は気づかなかった。
通路の奥で、何かが動く気配がした。
「来ます」
美影が身構える。
闇の奥から、それは現れた。人型だった。けれど、全身が鏡の破片で覆われている。無数の破片が互いを反射し合い、歪んだ光を撒き散らしていた。頭部には顔がなく、代わりに大きな一枚の鏡が嵌め込まれている。その鏡が、ぎちり、と首を回して詩織を映した。詩織の顔が、無数の破片に分裂し、それぞれが別の表情で嗤う。笑っている詩織。泣いている詩織。小夜に口づけている詩織。感情を失った虚無の詩織。
──《侵蝕型》。後の報告書にそう記されることになる新種の使徒。
「──ッ!」
美影が踏み込んだ。鋼鉄の拳が使徒の胴を打ち抜く。鏡の破片が砕け散り、甲高い音が地下街に響く。使徒はよろめいたが、すぐに破片を再生させ、無数の触手を伸ばして反撃した。
美影は回避せず、全身で触手を受け止める。鋼鉄の身体を触手が叩き、火花が散る。美影は一歩も退かない。退かずに、触手を掴み、力任せに引きちぎった。
「主君、いまです!」
詩織は右手を掲げた。指先が裂け、血が鎖に変わる。
「──紅鎖緊縛」
鎖が跳んだ。使徒の胴に巻きつき、締め上げる。鎖に触れた鏡の破片が次々に砕け、使徒の輪郭が溶け始める。
その時だった。
使徒の頭部の鏡が、詩織を正面から映した。
瞬間、視界が歪んだ。
──映っているのは、自分じゃない。
鏡の中の詩織は、笑っていた。目を輝かせ、頬を紅潮させ、誰かを見つめて笑っていた。その視線の先には──小夜がいる。治療室で、詩織の穢れを吸いながら、小夜もまた微笑んでいる。二人は手を伸ばし、互いの指を絡め、淫紋が共鳴して──。そして、幻覚の中の小夜が、詩織の淫紋に指を這わせた。それは幻覚のはずなのに、詩織の身体は現実に反応した。淫紋が熱くなる。花弁が内側から震える。太腿の内側が濡れる。幻覚の小夜の指が、現実の詩織の身体を犯している。
──あたしは、あのとき、確かに小夜を好きだった。
なのに、いまは。身体だけが昂奮して、心は置き去りにされたまま。
鏡の中の詩織が、嗤う。
「お前はもう、何も感じないくせに。何のために戦っているんだ。守る価値も、守られる価値も、お前にはもう──」
「──うるさい」
詩織の手が震えた。鎖が緩み、使徒の触手が自由を取り戻す。
「主君──!」
美影が叫ぶ。
触手が美影の鋼鉄の身体を締め上げた。ギリ、と金属の悲鳴が地下街に響く。触手の先端が、美影の胸の中心──淫紋のある位置を正確に狙い、鋼鉄をこじ開けようと蠢く。鋼鉄の表面にひびが走り、そこから血が噴き出した。美影は歯を食いしばり、声を押し殺すが、ひびが広がるたびに身体が跳ね、抑えきれない呻きが漏れる。
詩織はその光景を見ていた。美影が傷ついている。自分のせいで。頭ではわかる。なのに、胸は痛まない。ただ、網膜に焼きつく映像だけが、やけに鮮明だった。鋼鉄のひび。噴き出す血。美影の苦痛に歪む顔。それらがスローモーションのように、詩織の中に蓄積していく。
──あたしは、いま、美影の痛みを、感じていない。
その事実が、詩織の胸に冷たく積もった。痛みを感じない自分が、敵よりも、幻覚よりも、何より怖かった。
でも。
──約束したから。
小夜を守ると。仲間を守ると。あの夜、感情を失ったあの夜に、確かに誓った。それは感情じゃない。記憶だ。意志だ。詩織が詩織であることを、かろうじて繋ぎ止めている、最後の柱。
「──紅鎖」
詩織は再び鎖を放った。今度は迷わない。幻覚を映す鏡の破片を正確に狙い、貫き、砕く。
「あたしは、まだ、あたしだ」
鎖が使徒の胴体を捉えた。核を砕く感触。使徒が断末魔の叫びを上げ、鏡の破片を撒き散らしながら消滅する。
地下街に、静寂が戻った。
「美影!」
詩織は駆け寄った。美影は膝をつき、鋼鉄化を解除していた。制服が裂け、露わになった身体には無数の裂傷が走っている。血が滴り、床に紅い水たまりを作っていた。鋼鉄化を解除した彼女の素肌は、戦闘の反動で異常なほど敏感になっているはずだった。空気に触れるだけで痛いのか、それとも──。
「……すみません、主君。私は、盾として、未熟でした」
「喋るな。いま治療を──」
「いいえ」
美影は詩織の手を、そっと握った。その手のひらは、鋼鉄化の反動で火傷しそうなほど熱かった。詩織の冷たい手が、その熱を奪っていく。
「私は、主君に守られて──嬉しかった」
その目は、涙で潤んでいた。苦痛の涙か、歓喜の涙か。詩織には判断がつかなかった。
「……なに言ってるんだ、お前は」
「本当のことです。主君の鎖が、主君の意志が、私を救った。私は、その事実だけで──十分です」
美影は微笑んだ。鋼鉄の騎士が初めて見せた、年相応の少女の笑顔だった。
詩織は美影を抱きかかえ、地下街を脱出した。腕の中の身体は驚くほど軽くて、熱くて、それでいてひどく脆く感じられた。さっきまで鋼鉄だった身体が、いまは詩織の腕の中で震えている。その震えが、詩織の身体に直接伝わってくる。
──あたしは、美影を守れた。
感情はない。でも、守れた。その事実だけが、詩織の胸に、静かに積もった。
◆◆◆
夜。
治療を終えた美影の部屋を、詩織は訪ねようと廊下を歩いていた。
小夜の部屋の前を通りかかったとき、詩織の足が止まった。
ドアが、わずかに開いている。隙間から、声が聞こえた。
──泣き声。
「……ごめんなさい、詩織。私の、せいで……」
小夜の声だった。濡れて、震えて、途切れ途切れの声。詩織の名前を、祈るように繰り返している。
詩織は立ち尽くした。ドアをノックしようとして、指が宙で止まる。──何を言うんだ。慰める言葉なんて、見つからない。見つからないだけじゃない。慰めたいとも、思わない。
でも、足が動かなかった。立ち去れない。小夜の涙を聞いていると、身体の奥が、かすかに疼いた。淫紋じゃない。もっと深い、感情があった場所が。そこが、空洞のまま、震えている。
──身体は、まだ、小夜の痛みを覚えている。
詩織は音を立てずに、その場を離れた。ドアを閉めることも、声をかけることもなく。背中に小夜の気配を感じながら、それでも振り返れないまま、美影の部屋へと向かう。その足取りは、静かな重みを帯びていた。
◆◆◆
自室に戻った詩織は、しばらくベッドの端に座っていた。
小夜の泣き声が、まだ耳の奥に残っている。──ごめんなさい、私のせいで。
(あなたのせいじゃない)
心で呟く。でも、その言葉には何の熱もなかった。ただの文字列だった。
胸の淫紋が、疼いている。小夜の泣き声を聞いてから、ずっとだ。心は凪いでいるのに、淫紋だけが熱を帯びて脈打っている。まるで、小夜の涙に呼応するみたいに。
詩織はパジャマの前を開いた。
暗がりの中で、淫紋が紅く輝いていた。四枚の花弁。五枚目はまだ蕾だ。それらが規則正しく、呼吸とは違うリズムで鼓動を繰り返している。
指を、淫紋に這わせた。
小夜がいつもそうするように。花弁を一枚ずつ、ゆっくりとなぞる。冷たい指先。熱い淫紋。温度差に背筋が震えた。指が勝手に動く。もっと、もっと奥まで──淫紋の中心を探して、指が沈み込む。
「……っ、ぁ」
声が漏れた。身体が昂奮する。心臓が早鐘を打ち、腰が浮き、淫紋が歓喜の疼きを上げる。花弁が内側から開こうとして、指を締めつける。自分の指なのに、他人の指みたいだった。感情のない詩織の指が、感情を求めて淫紋の奥を掻き回す。
小夜の指を思い出す。小夜の唇を思い出す。小夜の声を思い出す。
(──好きよ、詩織)
あの言葉を思い出しても、胸は凪いだままだった。
指が淫紋の中心を捉えた瞬間、身体が跳ねた。昂奮の波が全身を貫き、喉の奥から声が溢れ出る。背中が弓なりに反れて、太腿が震え、淫紋が一際強く輝いた。
でも──それだけだった。
身体は満たされた。心臓はまだ早鐘を打っている。淫紋も熱い。なのに、胸の空洞は、少しも埋まらない。昂奮の頂点で、頭のどこかは冷えきっていて、自分が何をしているのかを客観的に見つめている自分がいる。
詩織は指を離し、天井を見上げた。荒い息が、静寂に吸い込まれていく。
(あたしは──いま、自分で自分を犯したのに、それすら、感じない)
快楽はあった。身体は確かに昂奮した。でも、心はそこにいなかった。ただ身体だけが、記憶の中の小夜を再現して、一人で満たされて、一人で終わった。
──これが、あたしの「大人」なんだろうか。
誰もいない部屋で、詩織は一人、自分の淫紋を見下ろした。四枚の花弁は満足げに輝いているのに、胸の奥は、空洞のままだった。
詩織は濡れた指をシーツで拭い、パジャマの前を閉じた。部屋は静かで、自分の呼吸だけが聞こえる。さっきまで昂奮に震えていた身体が、うそみたいに冷めていた。この虚無を抱えたまま、あたしは美影に会いに行く。──そう思いながら、詩織は立ち上がった。
それが、何よりも怖かった。
◆◆◆
美影はベッドに横たわり、包帯に覆われた身体で詩織を見上げた。傷は魔法少女の治癒力ですでに塞がり始めているが、失った血はまだ戻らない。顔色は青白く、普段の鋭さは影を潜めていた。普段は鋼鉄のように引き締まった身体は、いまは無防備にシーツの上に横たわっている。
「……入ってもいいか」
「はい、主君」
詩織はベッドの脇の椅子に腰掛けた。窓の外には月が出ている。満月だった。第1話の夜と同じ月が、今日も二人を照らしている。
「美影。今日は、すまなかった。あたしが幻覚に惑われなければ、お前は傷つかずに済んだ」
「謝らないでください」
美影は首を振った。
「私は──私は、今日、主君に守られて」
声が震える。
「嬉しかった」
「……二度目だぞ、その台詞」
「はい。でも、本当のことですから」
美影は詩織の手を握った。包帯の上からでもわかるほど、その手は熱かった。鋼鉄化の解除後、彼女の身体はいつもこうだ。普段は冷たい鋼鉄の鎧に閉じ込められている熱が、変身を解いた後は、剥き出しの皮膚から溢れ出してくる。
「主君。私は、ずっと、誰かに壊されたいと願っていました」
詩織は黙って聞いていた。
「私が六歳のとき、剣術の稽古で転んで泣きました。父は私を蔵に閉じ込め、『泣かないと約束するまで出さない』と言った。私は三日間、暗闇の中で泣き続け、四日目に泣くのをやめました。それ以来、私は痛みも、寂しさも、ぜんぶ鋼鉄の中に閉じ込めてきました。壊したかったのは、その鋼鉄ごと、私自身だったのかもしれません」
美影は天井を見上げながら、静かに続ける。包帯に包まれた指が、詩織の指を探して、ぎこちなく絡みつく。
「魔法少女になったのも、家の期待に応えるため。鋼鉄の魔法は、そんな私にふさわしい力でした。でも、主君に出会ったとき──私は、この人なら、と思った」
「……なぜ」
「主君は、私に『壊さない』と言ったからです」
詩織は思い出した。初任務の後、美影が詩織の手当てをしながら、不器用に「主君は無茶をしすぎる」と言った日のことを。あのときの詩織は、美影に「お前も無茶をするな」と返した。壊さないと言ったのは、その後のことだ。
「私は、壊されたいと思っていた。でも、違った。私は──主君に、支配されたかった」
美影の手が、詩織の手を強く握った。その熱さが、詩織の冷たい手に染み込んでいく。鋼鉄の騎士の、剥き出しの体温。
「主君の鎖で縛られたい。主君の意志で、私を、あなただけのものにしてほしい。それが、私の願いです」
「……美影」
「おかしいですか。気持ち悪いですか。それでも、これが、私の──」
「美影」
詩織は美影の言葉を遮った。
「あたしは、いま、あなたの気持ちに応えられない」
美影の瞳が揺れる。でも、詩織は目を逸らさなかった。
「小夜に感じていたものも、今はもうない。あなたに感じていたものも、たぶん、失ってしまった。だから、あなたにも何も返せない」
「……それでも」
詩織は、美影の手を握り返した。自分の手がまだ人の体温を持っていることに、少しだけ驚いた。美影の熱が、詩織の手を温めていた。鋼鉄に閉じ込められた熱が、いま、詩織の指先を解かしている。
「それでも、あたしはあなたを守る。感情がなくても、あたしはあなたの盾になる。それが、あなたの望む答えじゃなくても。あたしがあなたにできるのは、それだけだ」
美影は、静かに涙をこぼした。
「……それだけで、十分です」
「美影」
「あなたが、私を守ると言ってくれた。それだけで、私は──もう、壊れてしまっても構わない」
「壊すな。お前は、まだ生きるんだ」
詩織は美影の手を握ったまま、立ち上がった。
「今日は休め。また明日、任務がある」
「……はい、主君」
詩織は美影の部屋を出た。扉を閉めるとき、美影がまだ泣いている気配がしたが、振り返らなかった。振り返らなかった。それが、詩織の優しさだった。美影を支配する者の、冷淡な優しさ。
◆◆◆
廊下を歩きながら、詩織は自分の右手を見つめた。さっきまで美影の手を握っていた手。守ると誓った手。
(あたしは、いま、美影を──支配したのかもしれない)
応えられないと言いながら、それでも「守る」と言うことは、美影の望みを永遠に叶えないまま、彼女を自分に縛りつけることだ。
さっき自室で、自分の指で淫紋をなぞったときのことを思い出す。身体は昂奮した。でも心は空虚だった。自分で自分を満たせないくせに、他人を支配しようとしている。
(──滑稽だ)
それでも、手を離せない。守ると言った以上、手を離すことは、美影を見捨てることだ。見捨てるほうが、支配よりも残酷だ。少なくとも、詩織はそう思った。それが正しいのかどうかは、感情のない詩織には、もう判断できなかった。
廊下の突き当たりで、誰かとすれ違った。
小夜だった。
「……詩織」
「小夜」
二人は立ち止まった。月明かりが窓から差し込み、小夜の銀髪を照らしている。髪が光を透かして、白く揺れるのを、詩織は目で追った。指先が、かすかに震える。小夜の髪に触れた記憶が、指に残っている。冷たくて、細くて、指の隙間をすり抜けていった感触。その感触を、指だけがまだ覚えている。
「美影の様子は?」
「大丈夫だ。傷は塞がり始めてる。明日には任務に戻れるだろう」
「そう。よかった」
小夜は微笑んだ。でも、その微笑みは、どこか張り裂けそうだった。
「詩織。あなた、最近──」
小夜は言葉を切り、首を振った。
「……いいえ。なんでもない。おやすみなさい」
「小夜」
詩織は小夜の背中に声をかけた。
小夜は立ち止まる。振り返らない。でも、肩が震えている。
「──あたしは、まだ、あたしだ」
詩織は言った。
「あなたを守る。その約束は、まだ覚えてる」
小夜は振り返らなかった。でも、小さく頷いた気がした。
「……おやすみ、詩織」
小夜の声は、涙で濡れていた。
小夜の背中を見送りながら、詩織は思い出した。──明日の夜、時間をもらえる? 全部、話すから。あの言葉のまま、小夜はまだ何も話していない。話す機会を逃しているのか、話す勇気が出ないのか。感情のない詩織には、どちらでもよかった。でも、小夜はまだ何かに怯えている。そのことだけは、詩織にもわかった。
詩織の胸は、何も動かなかった。
──ごめん、小夜。
心の中で呟く。その謝罪にも、やはり熱はなかった。
◆◆◆
深夜。
自室に戻った詩織は、ベッドに腰掛けたまま動けなかった。廊下ですれ違った小夜の顔が、瞼の裏に焼きついている。泣き腫らした目。震える肩。詩織の名前を呼ぶ、濡れた声。
それらを思い出しても、胸は凪いだままだ。
──あたしは、もう、小夜を愛せない。
その事実だけが、冷たく腹の底に横たわっている。
不意に、足元の影が、ゆらめいた。
窓は閉まっている。風はない。なのに、影が、詩織の足元から離れて、独りでに広がっていく。まるで、暗がりの中で何かが呼吸を始めたみたいに。
「──なに」
影の中から、手が伸びてきた。白く、細く、指先の整った女の手。その手が詩織の足首を掴み、ゆっくりと、影の中から這い出てくる。黒く長い髪。白いブラウス。知的な眼差し。陶器のように白い肌。そして、詩織の足首を掴む指先は、死人のように冷たかった。
「……先生」
「こんばんは、詩織」
黎は詩織の影から完全に身を起こし、詩織の前に立った。影が、黎の足元でゆらゆらと揺れている。
「驚いたか。君の影は、もう私の色だ。誰かを支配するたび、君は私に近づく。今日も、美影をしっかりと縛ったようだね」
「……違う。あたしは、支配なんて」
「そうか」
黎は微笑んだ。その微笑みは、家庭教師だった頃の黎と同じで、だからこそ、不気味だった。冷たい指が、詩織の足首から離れ、今度は詩織の頬に触れる。その冷たさを、まだ心地いいと思う自分がいる。認めたくなかったが。
「君は美影に、『守る』と言った。彼女の願いを永遠に叶えず、それでも彼女を手放さない。それは最も残酷で、最も甘美な支配だ。君はもう、私と同じだ。誰かを所有することでしか、愛せない」
黎の手が、詩織の胸に触れた。冷たい指が淫紋をなぞり、花弁が灼熱のように疼き始める。内臓のように脈打つ淫紋が、黎の指を歓迎するように、自ら花弁を開こうとする。
「や……め……っ」
「君は、私と同じ『支配者』になるんだ」
黎の指が、淫紋の中心を押した。冷たい指が、熱い淫紋の奥に沈み込む。詩織の身体は、その冷たさを拒絶するどころか、もっと深くまで引き込もうと蠢いた。
花弁が、一枚、開く。
五枚目。
「お゛……っ♡」
身体が跳ねた。今までのどの開花よりも、深く、重く、熱い。五枚目の花弁は他の花弁より一回り大きく、まるで淫紋そのものが成長したかのように、紅く、あざやかに咲き誇る。熱を持った蜜が溢れ出し、黎の指を伝って滴り落ちた。
ベッドに倒れ込む。身体が疼く。新しく開いた花弁が、全身に甘い痺れを送り込んでくる。頭の奥が痺れ、指先が震え、太腿の内側が熱い。それでも、心は動かない。身体だけが快楽に震えている。
さっき、自分の指で淫紋をなぞったときと同じだ。昂奮はある。絶頂もある。でも、そこには何もいない。自分で自分を満たしても、黎に花弁を開かれても──胸の空洞は、いっさい埋まらない。
「残り、二枚」
黎の声が、脳髄に響く。
「次は誰を喰らう? ゆらか? それとも、もう一度小夜を? それとも──美影を、本当の意味で喰らうか?」
床に膝をつき、荒い息を繰り返す詩織を見下ろしながら、黎は嗤う。
「楽しみだ。君が最後の花弁を咲かせるとき、君は私の最高の花嫁になる。そして──君は、私と同じ『支配者』になるんだ」
詩織は、自分の手を見つめた。さっきまで美影の手を握っていた手。その前には、淫紋をなぞっていた手。震えている。紅い鎖を放ち、敵を縛り、仲間を守ると誓い、自分を慰めることもできない手。
──支配者。
そうかもしれない。そうなのかもしれない。
「……そう、かもしれない」
自分の口から零れた言葉に、詩織自身が戦慄した。ぬめる唇が、その言葉の感触を味わうように震える。
「──ちがう。あたしは、まだ──」
否定の言葉は、震えていた。第1話の夜のような、強い意志ではなかった。自分でも、その否定を信じきれていない。
黎は詩織の耳元に唇を寄せた。冷たい吐息が、詩織のぬめる唇をかすめる。
「その『まだ』がいつまで保つか、楽しみだ」
影が揺らめき、黎の身体を包み込んで消える。
黎の声が消えた後、詩織の脳裏に浮かんだのは、ゆらの金色の瞳だった。ゆらが近づくたび、淫紋が感じるくすぐったいような疼き。あれは何なのか。詩織はまだ知らなかったが、その答えを知る日は近い気がした。
詩織は一人、床に膝をついたまま動けなかった。
胸の淫紋が、五枚の花弁を広げて紅く脈打っている。パジャマの胸元を開き、自分の淫紋を見下ろした。五枚目が、まるで心臓のように鼓動している。内臓のように、生々しく。
開花状況──5/7。
あと二枚。
詩織は立ち上がり、鏡の中の自分を見据えた。紅く輝く淫紋。汗に濡れた肌。涙がこぼれているのに、口元は嗤っている。ぬめる唇が、月明かりを反射して濡れている。
──あたしは、先生に近づいている。
認めたくない。でも、美影にしたことは、黎の言う「支配」と、どこが違うんだろう。守るという言葉で縛って、応えられないと言いながら手放さない。それは、黎が詩織にしていることと、同じではないのか。
自分で自分を慰めた行為も、結局は小夜の代わりを求めただけで。それすら空虚だったから、美影の告白に縋った。お前はもう誰かの支配なしでは、自分を保てないのか。
「……あたしは」
鏡に手をつく。冷たいガラスに、自分の吐息が白く曇る。
「あたしは、まだ──」
その先の言葉は、見つからなかった。
窓の外で、月が雲に隠れる。
詩織はベッドに戻り、天井を見上げた。淫紋はまだ熱い。五枚の花弁が、規則正しく脈打っている。美影の涙。小夜の震える背中。ゆらの逸らされた視線。黎の嗤い声。それらすべてが頭の中を巡っているのに、心は凪いだままだ。
──守りたい。
それだけが、感情のない詩織の、唯一の意志だった。
でも、その「守りたい」が、黎の言う「支配」と何が違うのか──詩織には、もうわからなかった。
開花状況、5/7。
あと二枚。