淫紋の魔法少女 〜お姫様は、お姫様に永遠を誓う〜 作:目玉焼きトースト
五枚目の花弁が開いてから、朝が来るのが怖くなった。
カーテンの隙間から射す光が、詩織の瞼を刺す。身体を起こすと、胸の淫紋がすでに脈打っていた。内臓のように、生々しく。昨夜の黎の訪問の後、ほとんど眠れなかった。
鏡を見る。寝乱れた髪。青ざめた肌。目の下の隈は昨日より濃くなっている。制服に着替え、リボンを結ぶ指は今日も正確だ。ボタンを嵌め、スカートの皺を伸ばし、カーディガンに袖を通す。小夜が貸してくれたものだ。袖を通した瞬間、胸の淫紋が──
動かなかった。
もう何日も前から、このカーディガンに小夜の匂いが残っているのかどうかさえ、わからなくなっていた。
──慣れてきている。
詩織は鏡の中の自分を見つめた。小夜の匂いにすら、身体が反応しなくなってきている。感情だけじゃない。身体の記憶さえも、少しずつ薄れていく。失ったことを悲しむ心はない。でも、失ったことに気づく頭はある。気づいても何も感じない自分が、鏡の向こうで無表情に立っている。
──あたしは、少しずつ、すべてを失っていく。
それでも、詩織はカーディガンを脱がなかった。小夜の匂いがしなくても、これを着ていることは、約束を覚えている証だった。
◆◆◆
リビングの扉を開けると、三人がすでに朝食をとっていた。
「おはよう、詩織」
小夜が微笑む。聖女の仮面。銀の長い髪が朝日に透けて輝いている。今日も目は赤く腫れていたが、その奥に、何か別の光が宿っていることに詩織は気づいた。昨夜、廊下ですれ違ったときの小夜とは違う。覚悟のような、決意のような──。
「……おはよう」
詩織は目を合わせずに席についた。小夜の声を聞いた耳の奥は、もう痺れなかった。
隣の美影が、無言で紅茶を差し出す。肩口で切り揃えた黒髪。切れ長の黒い瞳。引き締まった身体は、包帯の下でまだ癒えきっていない傷を隠している。詩織は紅茶を受け取り、一口含んだ。熱さに眉を寄せる。なにげない仕草だった。
美影の指が、かすかに震えた。詩織のぬめる唇が、紅茶の水面に触れる瞬間を、今日も見つめている。
「主君。昨夜も、あまり眠れなかったのでは」
「ちょっと寝つきが悪かっただけ。平気」
「そうですか」
美影はそれ以上何も言わない。けれどその目は、詩織のすべてを見逃さずにいた。詩織を守ると誓われた騎士は、今日も詩織を見つめている。応えられない主君を、それでも見つめ続けている。
──あたしは、美影に何も返せない。それなのに、美影はあたしから離れない。これが支配だとしたら、あたしは──。
「詩織ー、今日学校行く?」
ゆらがトーストを齧りながら言った。明るい茶色のボブカットの毛先が跳ね、金色の大きな瞳が詩織を見つめている。暗がりでは縦に細くなるその瞳孔は、朝の光の下では丸く開いていた。ゆらが近づくと、詩織の淫紋がかすかに反応する。小夜のときとは違う、もっとくすぐったいような疼き。詩織はその理由をまだ知らなかったが、ゆらは知っていた。自分の淫魔の血が、詩織の淫紋と微かに共鳴していることを。
「行く」
「じゃあ放課後、付き合ってよ。ちょっと行きたいところがあるんだ」
「どこに」
ゆらは笑った。その笑顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「秘密。大人の世界、見せてあげる」
その言葉に、小夜の手が一瞬止まった。美影の指がわずかに震える。詩織は二人の反応に気づかないまま、「わかった」と短く答えた。
◆◆◆
放課後。ゆらに連れられ、詩織は繁華街の裏路地へと足を踏み入れた。
表通りの喧騒が遠ざかり、ネオンの光が点滅する狭い路地を抜け、古いビルの地下へと降りていく。ゆらは慣れた足取りで進み、やがて重い鉄扉の前に立った。
「ここ」
扉を開けると、薄暗い照明に照らされた小さなバーが現れた。カウンターには数人の客。奥にはボックス席が並んでいる。バーテンダーが顔を上げ、ゆらを見て微笑んだ。
「ゆらちゃん、久しぶり」
「連れがいるから、静かな席にして」
ゆらは詩織を奥のボックス席に座らせ、自分は向かいに腰掛けた。薄暗い照明。グラスの中の氷が溶ける音。詩織はジュースを注文し、ゆらはカクテルを頼んだ。
「ここ、私の秘密の場所なんだ。誰にも教えてない。美影にも、小夜にも」
ゆらはカクテルを一口含み、詩織を見つめた。金色の瞳が、薄暗がりの中でかすかに輝いている。
「詩織。私ね、淫魔と人間のハーフなんだ」
詩織はグラスを見つめたまま、静かに聞いていた。
「知ってた? 淫魔って、人間と子供を作ることがあるんだよ。でも、そうやって生まれた子供は、どっちの世界にも属せない。人間の世界では『穢れ』って呼ばれて、淫魔の世界では『半端者』って呼ばれる。私は、ずっとそうやって生きてきた」
ゆらの声は、いつもの明るさとは違っていた。落ち着いていて、静かで、どこか遠くを見ているような声だった。
「魔法少女になれたのは、淫魔の血が契約を可能にしたから。でも、それは『人間として生きる』ことを捨てるのと同じだった。私は、人間でも淫魔でもなくなった。どこにも属せない、檻の中の小悪魔」
ゆらは微笑んだ。
「でもね、詩織。私、あなたたちと出会って、初めて思ったんだ。この檻も悪くないかもって。だって、あなたたちも──詩織も、小夜も、美影も──みんな、何かに縛られてる。契約に、過去に、欲望に。そういう檻の中で、もがいてる。私だけじゃなかったんだ」
ゆらは詩織の目をまっすぐ見つめた。その金色の瞳──淫魔の血の証──が、薄暗いバーの中で静かに輝いている。
「私さ、最初は詩織のこと、ただの新人だと思ってたんだよね。生意気で、無茶ばかりして、目が離せないから、世話が焼けるなあって。でも、いつのまにか──」
言葉が一瞬止まる。ゆらはカクテルグラスを指でなぞりながら、続けた。
「好きになってた」
詩織は、何も言えない。ぬめる唇が、かすかに震えた。
「小夜みたいに、特別にはなれない。美影みたいに、支配もされない。でもね、私は私のやり方で、詩織のことが好きなの。誰にも邪魔されない、私だけの気持ち。詩織が誰を好きでも、詩織が誰も好きになれなくても、私は詩織が好き。それだけは、変わらない」
詩織はゆらの目を見つめた。その金色の瞳に、自分の顔が映っている。感情のない顔。ぬめる唇。空虚な目。
「だから、詩織。教えて。詩織は、誰のことも愛せないのに、どうして戦うの?」
──どうして戦うのか。
詩織は答えを探した。感情がないから、言葉もすぐには出てこない。でも、意志だけはある。第1話の夜、感情を失ったあの夜に、確かに誓ったことがある。
「約束したから」
詩織は言った。
「小夜を守る。仲間を守る。あの夜、誓ったから」
ゆらは少し笑った。その笑顔は、どこか寂しげだった。
「義務で戦うお姫様かあ。それ、すごく寂しいね」
──寂しい。
その言葉が、詩織の胸の空洞に、静かに落ちていった。感情は動かない。でも、空洞の底で、何かがかすかに震えた気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいだと思いたくない自分がいた。
「……寂しい、かもな」
詩織は自分の口から零れた言葉に、少しだけ驚いた。ぬめる唇が、その言葉の感触を味わうように震える。感情はないのに、寂しさを認めた。それは矛盾だった。でも、その矛盾が、いまの詩織のすべてだった。
ゆらは詩織の言葉を聞いて、金色の瞳を細めた。
「そっか。寂しいって、言えるんだ。じゃあ、まだ大丈夫かもね。詩織は、まだ檻の中にいるけど、檻の鍵は自分で持ってるんだよ。気づいてないだけで」
「……檻の鍵」
「そう。詩織は、誰かを好きになれない。でも、好きだった記憶はある。守るって誓った意志もある。それは、誰にも奪えない。黎にも、奪えない。詩織が檻から出たいと思ったとき、その鍵になるのは、そういうやつだと思うよ」
ゆらはカクテルを飲み干し、立ち上がった。
「さ、行こ。そろそろ任務の時間でしょ」
◆◆◆
バーを出た直後、詩織の通信機が鳴った。
特務衛生省からの緊急任務。市街地に複数の使徒が出現。詩織とゆらがペアで出動。小夜と美影は別方面だという。
「行くぞ、ゆら」
「りょーかい。詩織の背中、守ってあげる」
廃ビル街の屋上。三体の使徒が待ち構えていた。いずれも小型だが、数が多い。ゆらが夢幻魔法で敵を翻弄し、詩織は紅鎖を放って使徒を拘束する。連携は悪くなかった。ゆらが一体を幻覚に閉じ込めている隙に、詩織がもう一体を鎖で砕く。三体目も、時間の問題だと思った。
その時だった。詩織は違和感に気づいた。使徒たちの動きが、妙に統率されている。個別の意思ではなく、何かに操られているような──。
使徒の一体が、ゆらの背後から触手を伸ばした。物理的な攻撃ではない。精神に直接干渉する──詩織は気づいた。これはただの遭遇戦じゃない。誰かが、ゆらを狙って仕向けた。
「ゆら──!」
詩織が叫ぶより早く、触手がゆらのこめかみに突き刺さった。
ゆらの身体が硬直する。金色の瞳が見開かれ、口からかすかな悲鳴が漏れた。使徒は詩織が紅鎖で粉砕したが、ゆらはその場に崩れ落ちる。
「ゆら!」
詩織は駆け寄り、ゆらを抱き起こした。ゆらは意識が朦朧としている。制服の胸元が、じわりと紅く染まっていた。穢れの汚染だ。精神攻撃を受けたことで、体内の穢れが暴走し始めている。金色の蔓草のような淫紋が、暴走のせいで不気味に脈打っていた。
「……詩織、ごめん。私、また、足引っ張った」
「喋るな。いま小夜を──」
「小夜は、別任務だよ。間に合わない」
ゆらは苦笑した。
「詩織。私の穢れ、吸ってくれる?」
詩織は息を呑んだ。
小夜がいつも詩織にしていること。詩織の穢れを吸い、浄化すること。それを、詩織がゆらにする。
「……やり方は、わかるか?」
「詩織のを見てたから。だいたい、ね」
詩織は決断した。ゆらの制服の前を開く。胸元に浮かぶ淫紋──詩織たちの薔薇とは違う、金色の蔓草のような模様──が、暴走のせいで不気味に脈打っている。
詩織は指を、ゆらの淫紋に這わせた。
「……っぁ」
ゆらの身体が震える。詩織の指は冷たい。小夜の指がそうだったように。冷たい指先で、蔓草の模様を一本ずつなぞる。中心に向かって、螺旋を描くように、ゆっくりと穢れを吸い取っていく。
自分の指が、他人の淫紋に触れている。他人の穢れが、自分の身体に流れ込んでくる。初めての感覚だった。小夜はいつも、この感覚を味わっていたのか。詩織の指が、ゆらの淫紋の奥に沈み込むたび、蔓草が指に絡みつく。詩織の淫紋が、ゆらの穢れを貪るように、紅く脈打ち始める。
「ん……っ、ぁ……っ」
ゆらが声を漏らす。身体が昂奮し、淫紋が熱を帯び、蔓草の模様が詩織の指に絡みつくように輝く。
「詩織の指……冷たくて、気持ちいい……」
「……黙ってろ」
「むり……だって、詩織が、触ってるから……」
詩織は無言で穢れを吸い続けた。指が淫紋の中心を捉えた瞬間、蔓草が詩織の指をぎゅうと締めつけ、ゆらの身体が跳ねた。
「あ……っ♡」
ゆらが詩織の手を握る。その手は熱くて、震えていた。まるで、美影の手のひらのように。
「詩織。私ね、やっぱり詩織が好きだ」
詩織は指を止めなかった。止められなかった。
「小夜みたいに、特別にはなれないけど。美影みたいに、支配もされないけど。それでも、好きなの。詩織のことが。詩織が誰を好きでも、詩織が誰も好きになれなくても、私は詩織が好き。それだけは、変わらない」
ゆらは微笑んだ。その笑顔は、バーで見せた寂しげなものではなく、ただ純粋に、詩織を見つめる光だった。
「詩織。私の気持ち、聞いてくれてありがと。それだけで、私は──檻から出られた気がする」
「……檻」
「そう。私、ずっと檻の中にいたんだ。誰にも愛されない檻。誰も愛せない檻。でもね、詩織。檻の中にいるのは、私だけじゃなかった。詩織も、檻の中にいる。誰も愛せない檻。感情のない檻。私は、その檻の外から、詩織に手を振ってる」
詩織の指が、ゆらの淫紋から離れた。穢れの吸収は終わった。ゆらの呼吸は落ち着き、蔓草の模様も静かに輝きを取り戻している。
「私は、詩織の檻の外にいるよ。いつでも、手を振ってる。詩織が檻から出たいと思ったときは、いつでも手を引いてあげる。それが、私の──詩織への、愛し方だから」
詩織はゆらを抱きかかえ、廃ビルを脱出した。腕の中の身体は軽くて、熱くて、美影を運んだときと同じように脆く感じられた。でも、あのときとは違う。あのときは、守れたという事実だけが胸に積もった。いまは、守られたゆらが「それでも好きだ」と言った。その言葉の無償さが、詩織の「守る」という意志を、少しだけ軽くした。
──あたしは、誰も愛せない。
それでも、誰かの「好き」を受け取ることくらいは、許されるんだろうか。
◆◆◆
寮に戻ると、詩織はゆらを治療室に預け、一人で廊下を歩いていた。
美影の部屋の前を通りかかる。ドアの下から、かすかに明かりが漏れている。まだ起きているのだろう。詩織は立ち止まった。ノックをしようとして、指が宙で止まる。今日、ゆらにしたことを、美影に話すべきだろうか。話したところで、詩織の「守る」という言葉が支配であることは変わらない。むしろ、ゆらにも同じことをしたと知れば、美影はさらに傷つくかもしれない。
詩織は何も言わず、ドアの向こうにいるはずの美影に向かって、心の中で呟いた。
──おやすみ、美影。あたしは、まだ、あなたを守るから。
それが支配だとしても、いまはまだ、その言葉しか持っていなかった。
詩織は足音を忍ばせて、その場を離れた。
◆◆◆
夜。
詩織は自室のベッドに腰掛け、自分の右手を見つめていた。
ゆらの淫紋に触れた指。ゆらの穢れを吸い取った指。小夜がいつも詩織にしていることを、詩織はゆらにした。それは治療だった。でも、それだけじゃない。詩織の指がゆらを昂奮させ、ゆらは詩織に「好きだ」と言った。詩織は応えられなかった。なのに、ゆらは「それでいい」と笑った。
(美影にしたのと同じだ。応えられないのに、手を離さない)
詩織は目を閉じた。ゆらの金色の瞳が、瞼の裏に焼きついている。檻の外から手を振る、金色の瞳。詩織の淫紋が、その瞳に反応して、かすかに疼く。
(拒否しなければ、相手は縛られる。拒否しないという優しさが、最も残酷な支配になる)
それを教えたのは、黎だった。詩織は黎の言葉を思い出し、自分の指を見つめた。この指は、紅鎖を放ち、敵を縛り、仲間を守ると誓い──そして、仲間を支配する。
不意に、足元の影が、ゆらめいた。
窓は閉まっている。風はない。なのに、影が、詩織の足元から離れて、独りでに広がっていく。まるで、暗がりの中で何かが呼吸を始めたみたいに。
「──またか」
影の中から、手が伸びてきた。白く、細く、指先の整った女の手。その手が詩織の足首を掴み、ゆっくりと、影の中から這い出てくる。黒く長い髪。白いブラウス。知的な眼差し。陶器のように白い肌。そして、詩織の足首を掴む指先は、死人のように冷たかった。
「こんばんは、詩織」
黎は詩織の影から完全に身を起こし、詩織の前に立った。影が、黎の足元でゆらゆらと揺れている。
「今日もまた、一人、糧にしたようだね」
「……ゆらは糧なんかじゃない」
「そうか」
黎は微笑んだ。その微笑みは、家庭教師だった頃の黎と同じで、だからこそ、不気味だった。
「君はゆらの穢れを吸い、ゆらは君に告白した。君はその告白に応えなかった。それでもゆらは君を責めない。その結果、ゆらは君に縛られた。応えられないと知りながら、それでも好きでいることを許された。それは最も優しい支配だ」
黎の手が、詩織の頬に触れる。冷たい指。
「拒絶しないことで相手を縛る。君は私よりもずっと残酷な支配者だよ」
詩織は反論できなかった。美影に「守る」と言った。ゆらの告白を「聞いた」。拒否しなかった。それが、二人を縛った。詩織が何もしなくても、詩織が優しいほど、二人は詩織から離れられなくなる。その構造を、黎は見抜いていた。
「……先生は、最初からこうなることを」
「知っていたよ。君は私と同じだ。誰かに愛されたくて、誰にも愛されなくて、それでも誰かを所有したいと願った。君は、私の鏡だ」
黎の手が、詩織の胸に触れた。冷たい指が淫紋をなぞり、花弁が灼熱のように疼き始める。内臓のように脈打つ淫紋が、黎の指を歓迎するように、自ら花弁を開こうとする。
「や……め……」
「残り、あと少しだ。最後の一枚が咲いたとき、君は私の花嫁になる」
黎の指が、淫紋の中心を押した。冷たい指が、熱い淫紋の奥に沈み込む。詩織の身体は、その冷たさを拒絶するどころか、もっと深くまで引き込もうと蠢いた。
花弁が、一枚、開く。
六枚目。
「あ゛……っ♡」
身体が跳ねた。五枚目のときよりも、深く、重く、熱い。六枚目の花弁は五枚目よりさらに大きく、淫紋はもはや胸の谷間からはみ出し、鎖骨の下まで紅く広がっている。まるで生き物のように、詩織の身体を侵食しながら成長している。熱を持った蜜が溢れ出し、黎の指を伝って滴り落ちた。
ベッドに倒れ込む。身体が疼く。新しく開いた花弁が、全身に甘い痺れを送り込んでくる。頭の奥が痺れ、指先が震え、太腿の内側が熱い。それでも、心は動かない。身体だけが快楽に震えている。自分で自分を慰めたときと同じだ。黎に花弁を開かれたときも同じだ。昂奮はある。絶頂もある。でも、そこには何もいない。
「残り、一枚」
黎の声が、脳髄に響く。
「次で最後だ。最後の一枚が咲いたとき、君は私の花嫁になる。そして君は、私と同じ支配者になる。楽しみだ。君が最後に誰を糧にするのか。小夜か、美影か、ゆらか──それとも、君自身か」
床に膝をつき、荒い息を繰り返す詩織を見下ろしながら、黎は嗤う。
「君が最後に選ぶ者こそ、君の最も愛する者だ。最も愛する者を糧にして、君は私の花嫁になる。それが、君の運命だ」
影が揺らめき、黎の身体を包み込んで消える。
詩織は一人、床に膝をついたまま動けなかった。
胸の淫紋が、六枚の花弁を広げて紅く脈打っている。パジャマの胸元を開き、自分の淫紋を見下ろした。六枚目が、まるで心臓のように鼓動している。内臓のように、生々しく。
開花状況──6/7。
あと一枚。
詩織は立ち上がり、鏡の中の自分を見据えた。紅く輝く淫紋。汗に濡れた肌。涙がこぼれているのに、口元は嗤っている。ぬめる唇が、月明かりを反射して濡れている。
──最後に誰を糧にするのか。最も愛する者を。
最も愛する者。感情のない詩織には、それが誰かわからない。でも、身体は覚えている。小夜の指。小夜の唇。小夜の声。それらに反応していたのは、身体だけじゃなかったはずだ。
(小夜。あたしは、あなたを──)
そこまで考えて、詩織は言葉を途切れさせた。考えるのが怖かった。最後の一枚が開くとき、詩織は小夜を糧にしてしまうかもしれない。そうなれば、詩織は完全に黎と同じになる。支配者になる。
それだけは、避けたかった。
それだけは。
ドアが、ノックされた。
詩織は顔を上げた。こんな時間に──深夜を回っている。時計を見ると、午前一時。
「詩織。起きてる?」
小夜の声だった。
詩織はパジャマの前を閉じ、ドアを開けた。
小夜が立っていた。白い部屋着姿。銀の長い髪が、月明かりに透けて輝いている。その顔は、もはや泣いていなかった。代わりに、何かを覚悟した光が宿っている。紫色の瞳が、まっすぐに詩織を見つめていた。
「詩織。あなたに、話さなければならないことがあるの」
小夜の声は、震えていなかった。
「私の淫紋の痕のことも。黎とのことも。あなたを──愛してしまった理由も」
詩織は小夜を見つめた。銀色の髪。白い肌。鎖骨に浮かぶ淫紋の痕。すべてが、月明かりに照らされている。
「明日の夜、時間をもらえる? 全部、話すから。もう、逃げない。あなたに、すべてを」
「……わかった」
小夜は、微笑んだ。それは聖女の仮面でも、泣き顔でもなく、ただ静かな覚悟の微笑みだった。
「おやすみなさい、詩織。いい夢を」
小夜は振り返らずに去っていった。その背中は、震えていなかった。
詩織はドアを閉め、ベッドに戻った。淫紋はまだ熱い。六枚の花弁が脈打っている。
小夜が話すという「全部」とは何なのか。黎との関係。淫紋の痕の秘密。そして──「愛してしまった理由」。
胸の奥の空洞が、かすかに震えた気がした。感情ではない。でも、何かが動こうとしている。六枚の花弁が咲き終わり、最後の一枚を残すだけになった詩織の身体が、初めて、小夜の存在に反応した。
──明日、小夜は何を語るのか。あたしはそれを聞いて、どうなるのか。
開花状況、6/7。
あと一枚。